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第2部 第2章 常闇の水
第9回
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宮野首の祖母に連れられて向かった先は、病院一階、総合受付の待合所だった。
二人並んで腰掛ける中、数人の警備員や病院職員、はたまた患者と思しき姿の男女が二人の横を通り過ぎて行ったが、二人の姿は当然のように彼らには見えていないようだった。
照明の減った薄暗い待合室には、しかし急患や夜間診療に訪れた人々の姿がちらほらと見受けられる。
そんな中、宮野首の祖母は「さぁ、どこから話しましょうか」と天井を仰ぎ見た。
響紀は老婆が話し始める前に、自らその根本的な疑問を口にする。
「――あの女は、いったい何者なんだ?」
それはこれまでに、何度も口にしてきた疑問だった。
宮野首は、祖母からあれのことを、『蜘蛛』だと聞いたという。
男を誑かして自身の巣まで持ち込み、喰らう。そして喰われた男たちは彼女の下僕として付き従う。確か、そんなことを言っていたはずだ。
宮野首の祖母は「そうねぇ」としばらく考えるふうに首を傾げ、
「かつて人だった何か、と言えばいいのかしら」
「それじゃぁ、解らない。なんだよ、何かって。あんたの孫といい、あんた自身といい、そんな曖昧な言葉で説明されたって解るわけないだろ!」
感情的になり、僅かに声を荒らげる響紀だったが、それを気にするでもなく、宮野首の祖母は小さく笑った。
「そんなに怒らないで、落ち着いて話をしましょうよ」
ね? と首を傾げる老婆に、響紀は腕を組みながら、深く椅子に腰掛ける。
宮野首によく似たその老女の顔は、いやに落ち着き払った様子で、何だか気に食わなかった。だが、それをどうにかしろ、なんて理不尽なことを言うほど、響紀も馬鹿ではない。固く口を閉ざし、けれど老婆を睨みつけるように黙って先を促す。
「どこまで聞いたの? あの子――ユウナからは」
「ユウナ?」
そう言えば、宮野首の名前をちゃんと聞いていなかった。知っているのは苗字だけ。それで困らなかったから一切気にならなかったけれど、そうか、ユウナという名前だったのか。
「漢字で書くと」老婆は左掌に右の人差し指で漢字を書き示しながら、「結奈ね。可愛らしい、良い名前でしょう?」
そう言って微笑む老婆に、けれど響紀はどう答えたものか解らず、当り障りなく「そうだな」と素っ気なく答えた。
別段老婆もそれに気を悪くする様子もなく、「あ、ちなみに私はカスミっていうの、名前」と同じく左掌に香澄と書いてにっこり笑った。
響紀はその老婆――香澄に顔を向けることなく、白い床をぼんやりと見つめながら、
「結奈からは、詳しい話はあまり聞いていないんだ。あんたが――香澄さんがあの喪服の女のことを蜘蛛だと言っていたこととか、怪物に近い何かだって感じの、漠然とした話をしただけだ。あいつも詳しくは知らないみたいだったから、あとはあいつの婆さん――あぁ、ごめん。香澄さんのことを、ちょっと聞いたくらいだ。四十八願って元刑事に頼まれて喪服の女を調べている最中に、その……」
そこまで口にして、響紀はちらりと香澄の方に視線をやった。心なし血色の悪い顔がそこには浮かび上がっていて、響紀は今の話は口にすべきではなかったと後悔しつつ、
「そ、それだけだ。俺が聞いたのは」
と再び視線を床の上に戻した。
それに対して、香澄は小さく「そう」と答えると、ゆっくりと天井を見上げ、やおら響紀に顔を戻した。
「あの子は――あの娘は、元は普通の人間だった。ただ、彼女がこの世に存在したという証拠や記録はどこにも残ってはいない。彼女の戸籍は存在しなかった。どこにも彼女の存在を証明できるものはなかったの。ただ地元の、この周辺に住む者の間にだけ語られる、半ば怪談や都市伝説に近い存在、それが彼女だった。彼女は生まれてこのかた、あの廃屋周辺から外へ出たことがなかったから、余計にその存在は謎に包まれていた。彼女の両親が、彼女が外へ出ることを許さなかったから。彼女の両親は酷い人たちだった。彼女の身体を、性を売ってそのお金で生活していたのよ。それがどれだけ辛く苦しいことだったか、私には想像もつかない。きっと、その感情が積もり積もっていったのね」
香澄はそこで一旦、言葉を切った。感情を抑えるかのように、深いため息を一つ吐く。
響紀は思わずごくりと唾を飲み込み、香澄の顔を凝視した。続きを促すのも躊躇われて、けれどそれとは関係なしに、香澄はゆっくりと口を開く。
「……そしてある日、彼女は自分の両親を、自分の身体を求めた男たちを、次々に殺していった。けれど、それは全て、あの廃屋で行われた凶行だった。どこにもそれを目撃した者はいなかった。彼女はその遺体を燃やし、灰を井戸の底に投げ入れた。そんなことを繰り返すうちに、彼女はアレに深く飲み込まれていったのよ」
ほうっと小さく溜息を漏らし、香澄はゆっくり瞼を閉じた。その目尻には涙が浮かんでいるのか、僅かにきらりと光って見える。手と口がわなわな震え、今にも感情が溢れ出ようとしているのが響紀にも見てすぐにわかった。
そんな香澄に、響紀は恐る恐る尋ねる。
「……飲み込まれたって、何に」
香澄は軽く鼻をすするような音を立てると、吐き出すように、その言葉を口にした。
「――トコヤミよ」
宮野首の祖母に連れられて向かった先は、病院一階、総合受付の待合所だった。
二人並んで腰掛ける中、数人の警備員や病院職員、はたまた患者と思しき姿の男女が二人の横を通り過ぎて行ったが、二人の姿は当然のように彼らには見えていないようだった。
照明の減った薄暗い待合室には、しかし急患や夜間診療に訪れた人々の姿がちらほらと見受けられる。
そんな中、宮野首の祖母は「さぁ、どこから話しましょうか」と天井を仰ぎ見た。
響紀は老婆が話し始める前に、自らその根本的な疑問を口にする。
「――あの女は、いったい何者なんだ?」
それはこれまでに、何度も口にしてきた疑問だった。
宮野首は、祖母からあれのことを、『蜘蛛』だと聞いたという。
男を誑かして自身の巣まで持ち込み、喰らう。そして喰われた男たちは彼女の下僕として付き従う。確か、そんなことを言っていたはずだ。
宮野首の祖母は「そうねぇ」としばらく考えるふうに首を傾げ、
「かつて人だった何か、と言えばいいのかしら」
「それじゃぁ、解らない。なんだよ、何かって。あんたの孫といい、あんた自身といい、そんな曖昧な言葉で説明されたって解るわけないだろ!」
感情的になり、僅かに声を荒らげる響紀だったが、それを気にするでもなく、宮野首の祖母は小さく笑った。
「そんなに怒らないで、落ち着いて話をしましょうよ」
ね? と首を傾げる老婆に、響紀は腕を組みながら、深く椅子に腰掛ける。
宮野首によく似たその老女の顔は、いやに落ち着き払った様子で、何だか気に食わなかった。だが、それをどうにかしろ、なんて理不尽なことを言うほど、響紀も馬鹿ではない。固く口を閉ざし、けれど老婆を睨みつけるように黙って先を促す。
「どこまで聞いたの? あの子――ユウナからは」
「ユウナ?」
そう言えば、宮野首の名前をちゃんと聞いていなかった。知っているのは苗字だけ。それで困らなかったから一切気にならなかったけれど、そうか、ユウナという名前だったのか。
「漢字で書くと」老婆は左掌に右の人差し指で漢字を書き示しながら、「結奈ね。可愛らしい、良い名前でしょう?」
そう言って微笑む老婆に、けれど響紀はどう答えたものか解らず、当り障りなく「そうだな」と素っ気なく答えた。
別段老婆もそれに気を悪くする様子もなく、「あ、ちなみに私はカスミっていうの、名前」と同じく左掌に香澄と書いてにっこり笑った。
響紀はその老婆――香澄に顔を向けることなく、白い床をぼんやりと見つめながら、
「結奈からは、詳しい話はあまり聞いていないんだ。あんたが――香澄さんがあの喪服の女のことを蜘蛛だと言っていたこととか、怪物に近い何かだって感じの、漠然とした話をしただけだ。あいつも詳しくは知らないみたいだったから、あとはあいつの婆さん――あぁ、ごめん。香澄さんのことを、ちょっと聞いたくらいだ。四十八願って元刑事に頼まれて喪服の女を調べている最中に、その……」
そこまで口にして、響紀はちらりと香澄の方に視線をやった。心なし血色の悪い顔がそこには浮かび上がっていて、響紀は今の話は口にすべきではなかったと後悔しつつ、
「そ、それだけだ。俺が聞いたのは」
と再び視線を床の上に戻した。
それに対して、香澄は小さく「そう」と答えると、ゆっくりと天井を見上げ、やおら響紀に顔を戻した。
「あの子は――あの娘は、元は普通の人間だった。ただ、彼女がこの世に存在したという証拠や記録はどこにも残ってはいない。彼女の戸籍は存在しなかった。どこにも彼女の存在を証明できるものはなかったの。ただ地元の、この周辺に住む者の間にだけ語られる、半ば怪談や都市伝説に近い存在、それが彼女だった。彼女は生まれてこのかた、あの廃屋周辺から外へ出たことがなかったから、余計にその存在は謎に包まれていた。彼女の両親が、彼女が外へ出ることを許さなかったから。彼女の両親は酷い人たちだった。彼女の身体を、性を売ってそのお金で生活していたのよ。それがどれだけ辛く苦しいことだったか、私には想像もつかない。きっと、その感情が積もり積もっていったのね」
香澄はそこで一旦、言葉を切った。感情を抑えるかのように、深いため息を一つ吐く。
響紀は思わずごくりと唾を飲み込み、香澄の顔を凝視した。続きを促すのも躊躇われて、けれどそれとは関係なしに、香澄はゆっくりと口を開く。
「……そしてある日、彼女は自分の両親を、自分の身体を求めた男たちを、次々に殺していった。けれど、それは全て、あの廃屋で行われた凶行だった。どこにもそれを目撃した者はいなかった。彼女はその遺体を燃やし、灰を井戸の底に投げ入れた。そんなことを繰り返すうちに、彼女はアレに深く飲み込まれていったのよ」
ほうっと小さく溜息を漏らし、香澄はゆっくり瞼を閉じた。その目尻には涙が浮かんでいるのか、僅かにきらりと光って見える。手と口がわなわな震え、今にも感情が溢れ出ようとしているのが響紀にも見てすぐにわかった。
そんな香澄に、響紀は恐る恐る尋ねる。
「……飲み込まれたって、何に」
香澄は軽く鼻をすするような音を立てると、吐き出すように、その言葉を口にした。
「――トコヤミよ」
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