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第2部 第2章 常闇の水
第4回
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響紀は何度も咳き込みながら、胃の中の異物を全て出しきるのに努めた。
あんなものが自身の中で蠢いていたのかと思うだけで、気持ちが悪かった。
口の中が、とにかく生臭くてしかたがない。その臭いは生ゴミや排泄物、はたまた腐った野菜や肉が入り混じったような、強烈なものだった。
目眩がするようなその汚物に意識が朦朧とする響紀だったが、
「……はい、これで口をすすぎなよ」
と目の前に先程口にした御神井の桶が差し出されて、響紀は救いとばかりにがっつくようにその水を口に含んだ。
何度か咳き込み、その度に赤黒いものの混じる水を吐き出してしまったけれど、その水もやがては無色透明に澄んでいった。
響紀は肩で息をしながら、ふうっと大きく溜息を吐き、胸を撫で下ろす。
何だか身体が軽くなったような気がする。気持ちも僅かではあるが晴れやかだ。
いったい何だったんだ、アレは……
いまだ砂利に広がる赤黒い液体の残骸を眺めながら、響紀はぼんやりと考える。
いや、心当たりならあるじゃないか。あの黒衣の女と口付けを交わした時、あの女は確かに俺の中へと何かを流し込んできた。たぶん、今のナメクジのようなアレは、その時に俺の身体に流し込まれたものに違いない。
しかし、何の為に……?
そんな事を考えていた響紀の目の前に、すっと、白い手が差し出された。
「……えっ?」と思わず口にして顔を上げると、そこにはミヤノクビの姿があって。
「大丈夫? 落ち着いた?」
曖昧な微笑みを浮かべるミヤノクビの手を取りながら、響紀は「あ、あぁ……」と小さく頷き、ミヤノクビに支えられながら、ゆっくりと立ち上がった。
僅かな目眩に足取りが覚束なかったが、しばらく息を整えていると、やがてそれらも収まっていった。
「今の、何だったの? 気持ち悪い」
そう聞いてくるミヤノクビに、響紀は「知らん」と短く返答し、
「お前の方が詳しいんじゃないか? 俺の姿が見えるくらいだし」
「私もあんなものは知らない。初めて見た。心当たりはないの?」
その問い掛けに、響紀はじっとミヤノクビの顔を見つめる。
それは救いを求める期待の眼差しだった。
「な、何よ……」
眉間に皺を寄せるミヤノクビに、響紀は尋ねた。
「話せば、助けてくれるのか?」
あ、とミヤノクビは僅かに目を見張り、一つ溜息を吐くと、やれやれといったふうに口を開いた。
「……考えてあげなくもないわ」
響紀はそれを聞き、こくりとひとつ頷くと、ゆっくりと、頭の中で整理しながら、これまでの流れをミヤノクビに話して聞かせた。
数週間前に黒衣の――喪服の女に出会ったこと。その女を廃屋まで送り、その際にかつての友人が喪服少女と関わり、行方不明になったのを思い出したこと。それから徐々に女に心奪われていったばかりか、同居している奈央に喪服の女の姿を重ねていったこと……
響紀はとにかく、思い出せること全てをミヤノクビに話し続けた。その間、ミヤノクビは相槌を打ちこそすれ、一言も口を挟んだりはしなかった。
やがて響紀は白狐に誘われてこの神社に足を踏み入れたことまで語り、静かに口を閉ざした。
一気に話し続けた為か少し疲労を感じる。
自然と深いため息が漏れ、ぼんやりと足元を見つめた。
ミヤノクビは腕組みをしながら「ふぅん」と唸るようにして何度も頷き、顎に手をやってしばらく目を閉じていたが、それからやおら響紀に顔を向けると、
「関わっちゃったんだ、あの女に」
溜息を漏らすように、そう口にした。
「……やっぱり、お前も知ってるのか?」
響紀のその質問に、ミヤノクビは「まぁね」と頷いた。
「ここらに住んでる子は、みんな知ってるんじゃない?」
「あの女、いったい何者なんだ? あいつが引き連れてる化け物みたいな奴らも」
「そうね」とミヤノクビはしばし思案するふうに間を置き、ゆっくりと口を開いた。「……おばあちゃんは、あの女のことを蜘蛛だって言ってたわ」
「蜘蛛?」
ミヤノクビは小さく頷く。
「男を誑かして、自身の巣まで持ち込み、喰らう。そして喰べられた男たちは、彼女の下僕となって付き従い、彼女に変わって獲物を探す。確か、そんなふうに言っていたと思う」
「あいつ、虫なのか?」
響紀は思わず身震いする。
俺はなんてやつと交わってしまったんだと後悔し、その気持ち悪さに思わず吐き気を催してしまいそうだった。けれど、吐き出せるものなどすでに胃には残ってなどいなかった。
それに対して、ミヤノクビは「まさか!」と言って苦笑し、首を横に振った。
「あくまでモノの例えよ。実際にあの女が蜘蛛ってことじゃなくて」
なんだ、と響紀は少しばかり安堵し、
「なら、あいつも俺と同じ死人ってことか? ……ん? でも、あいつの姿は生きてる人間にもちゃんと見えているよな? どういうことだ?」
首を傾げる響紀に、ミヤノクビは「そうね……」と口にした。
「あれは少なくとも、人ではないわ。もっと別の存在、物怪に近い別の何かよ」
「何って、何だよ」眉間に皺を寄せる響紀に、
「何かは、何かよ」とミヤノクビも眉間に皺を寄せた。
そのあまりにも曖昧な答えに、響紀は何だか納得がいかなかった。そんなワケの分からない返答なんかじゃなくて、ちゃんとした答えが欲しかったのだ。意識せずともあからさまにその気持ちが表情に出ていたのか、響紀のその顔にミヤノクビも不満そうに、
「なによ、その顔は。何でもかんでも解るなんて思ったら大間違いだからね? あっちの世界のことなんて、解らないことの方が圧倒的に多いんだから。そんな簡単に正体やら何やらが判ったら苦労しないわよ」
「でも、お前の婆さんは、少なくともあの女の事を蜘蛛って呼ぶくらいには、何かしらしってるんじゃないのか?」
「それは、そうかも知れないけど……」
「じゃぁ、婆さんのこと紹介してくれよ。俺が直接聞いてみるから」
その響紀の言葉に、ミヤノクビは渋面を作った。
なんでそんな顔をするんだ、と訊こうとする前に、ミヤノクビの方から口を開く。
「それは難しいかなぁ…… わたしも、おばあちゃんが今どこで何してるのかわからないし」
「どういうことだ、それ」
もしかして、家庭の事情か何かで絶縁状態にあるとか?
首を傾げる響紀に、ミヤノクビは溜息を一つ吐き、「あんたと一緒」とぼそりと答えた。
「うちのおばあちゃんも、もう死んでるの」
あんなものが自身の中で蠢いていたのかと思うだけで、気持ちが悪かった。
口の中が、とにかく生臭くてしかたがない。その臭いは生ゴミや排泄物、はたまた腐った野菜や肉が入り混じったような、強烈なものだった。
目眩がするようなその汚物に意識が朦朧とする響紀だったが、
「……はい、これで口をすすぎなよ」
と目の前に先程口にした御神井の桶が差し出されて、響紀は救いとばかりにがっつくようにその水を口に含んだ。
何度か咳き込み、その度に赤黒いものの混じる水を吐き出してしまったけれど、その水もやがては無色透明に澄んでいった。
響紀は肩で息をしながら、ふうっと大きく溜息を吐き、胸を撫で下ろす。
何だか身体が軽くなったような気がする。気持ちも僅かではあるが晴れやかだ。
いったい何だったんだ、アレは……
いまだ砂利に広がる赤黒い液体の残骸を眺めながら、響紀はぼんやりと考える。
いや、心当たりならあるじゃないか。あの黒衣の女と口付けを交わした時、あの女は確かに俺の中へと何かを流し込んできた。たぶん、今のナメクジのようなアレは、その時に俺の身体に流し込まれたものに違いない。
しかし、何の為に……?
そんな事を考えていた響紀の目の前に、すっと、白い手が差し出された。
「……えっ?」と思わず口にして顔を上げると、そこにはミヤノクビの姿があって。
「大丈夫? 落ち着いた?」
曖昧な微笑みを浮かべるミヤノクビの手を取りながら、響紀は「あ、あぁ……」と小さく頷き、ミヤノクビに支えられながら、ゆっくりと立ち上がった。
僅かな目眩に足取りが覚束なかったが、しばらく息を整えていると、やがてそれらも収まっていった。
「今の、何だったの? 気持ち悪い」
そう聞いてくるミヤノクビに、響紀は「知らん」と短く返答し、
「お前の方が詳しいんじゃないか? 俺の姿が見えるくらいだし」
「私もあんなものは知らない。初めて見た。心当たりはないの?」
その問い掛けに、響紀はじっとミヤノクビの顔を見つめる。
それは救いを求める期待の眼差しだった。
「な、何よ……」
眉間に皺を寄せるミヤノクビに、響紀は尋ねた。
「話せば、助けてくれるのか?」
あ、とミヤノクビは僅かに目を見張り、一つ溜息を吐くと、やれやれといったふうに口を開いた。
「……考えてあげなくもないわ」
響紀はそれを聞き、こくりとひとつ頷くと、ゆっくりと、頭の中で整理しながら、これまでの流れをミヤノクビに話して聞かせた。
数週間前に黒衣の――喪服の女に出会ったこと。その女を廃屋まで送り、その際にかつての友人が喪服少女と関わり、行方不明になったのを思い出したこと。それから徐々に女に心奪われていったばかりか、同居している奈央に喪服の女の姿を重ねていったこと……
響紀はとにかく、思い出せること全てをミヤノクビに話し続けた。その間、ミヤノクビは相槌を打ちこそすれ、一言も口を挟んだりはしなかった。
やがて響紀は白狐に誘われてこの神社に足を踏み入れたことまで語り、静かに口を閉ざした。
一気に話し続けた為か少し疲労を感じる。
自然と深いため息が漏れ、ぼんやりと足元を見つめた。
ミヤノクビは腕組みをしながら「ふぅん」と唸るようにして何度も頷き、顎に手をやってしばらく目を閉じていたが、それからやおら響紀に顔を向けると、
「関わっちゃったんだ、あの女に」
溜息を漏らすように、そう口にした。
「……やっぱり、お前も知ってるのか?」
響紀のその質問に、ミヤノクビは「まぁね」と頷いた。
「ここらに住んでる子は、みんな知ってるんじゃない?」
「あの女、いったい何者なんだ? あいつが引き連れてる化け物みたいな奴らも」
「そうね」とミヤノクビはしばし思案するふうに間を置き、ゆっくりと口を開いた。「……おばあちゃんは、あの女のことを蜘蛛だって言ってたわ」
「蜘蛛?」
ミヤノクビは小さく頷く。
「男を誑かして、自身の巣まで持ち込み、喰らう。そして喰べられた男たちは、彼女の下僕となって付き従い、彼女に変わって獲物を探す。確か、そんなふうに言っていたと思う」
「あいつ、虫なのか?」
響紀は思わず身震いする。
俺はなんてやつと交わってしまったんだと後悔し、その気持ち悪さに思わず吐き気を催してしまいそうだった。けれど、吐き出せるものなどすでに胃には残ってなどいなかった。
それに対して、ミヤノクビは「まさか!」と言って苦笑し、首を横に振った。
「あくまでモノの例えよ。実際にあの女が蜘蛛ってことじゃなくて」
なんだ、と響紀は少しばかり安堵し、
「なら、あいつも俺と同じ死人ってことか? ……ん? でも、あいつの姿は生きてる人間にもちゃんと見えているよな? どういうことだ?」
首を傾げる響紀に、ミヤノクビは「そうね……」と口にした。
「あれは少なくとも、人ではないわ。もっと別の存在、物怪に近い別の何かよ」
「何って、何だよ」眉間に皺を寄せる響紀に、
「何かは、何かよ」とミヤノクビも眉間に皺を寄せた。
そのあまりにも曖昧な答えに、響紀は何だか納得がいかなかった。そんなワケの分からない返答なんかじゃなくて、ちゃんとした答えが欲しかったのだ。意識せずともあからさまにその気持ちが表情に出ていたのか、響紀のその顔にミヤノクビも不満そうに、
「なによ、その顔は。何でもかんでも解るなんて思ったら大間違いだからね? あっちの世界のことなんて、解らないことの方が圧倒的に多いんだから。そんな簡単に正体やら何やらが判ったら苦労しないわよ」
「でも、お前の婆さんは、少なくともあの女の事を蜘蛛って呼ぶくらいには、何かしらしってるんじゃないのか?」
「それは、そうかも知れないけど……」
「じゃぁ、婆さんのこと紹介してくれよ。俺が直接聞いてみるから」
その響紀の言葉に、ミヤノクビは渋面を作った。
なんでそんな顔をするんだ、と訊こうとする前に、ミヤノクビの方から口を開く。
「それは難しいかなぁ…… わたしも、おばあちゃんが今どこで何してるのかわからないし」
「どういうことだ、それ」
もしかして、家庭の事情か何かで絶縁状態にあるとか?
首を傾げる響紀に、ミヤノクビは溜息を一つ吐き、「あんたと一緒」とぼそりと答えた。
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