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第2部 第1章 闇に犇く
第8回
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――キーンと甲高い不快な音が耳を貫く。見開かれた眼には大粒の雨が容赦なく叩きつけられ視界をボヤけさせたが、けれどそこに痛みなど全くなかった。仰向けに倒れた響紀の視線の先に見えるのは黒一色、それはあの喪服の女を想起させ、地を叩く雨音は低く、あの肉塊らの怒号のようだった。ぼんやりと夜空を見上げる響紀の側の車道を、列をなした車がゆっくりと走り去っていく。
響紀は上半身をゆっくりと起こすと、眩しすぎるほどの光を放つ車のヘッドライトから逃れるように、歩道の隅へと這って動いた。すぐ側の法面に背を預け、大きなため息を一つ吐く。
その時、歩道を塞ぐように投げ出していた両足の上を、学生が漕ぐ複数の自転車が駆け抜けていった。そこに痛みはなかった。痛むわけもなかった。学生らは響紀の足を轢いたことはおろか、その感触すら感じないまま、あっとう間に去って行った。それを目の当たりにして、響紀は「あぁ」と呻き、両手で顔を覆った。涙が溢れて止まらなかった。けれど、その涙が本当に本物なのか、それすら響紀には判らなかった。
今ここにいる自分は“何”なのか、“何者”なのか、本当に“存在”しているのか。
認めたくない現実を前に、響紀はただただ絶望した。最早自分に居場所は無かった。あるはずもなかった。そもそも自分はもう人としての“存在”を失ってしまっているのだから。
どうして、何故、俺が。そんな疑問が頭をよぎり、次いで女の言葉を思い出す。
『貴方の家に、若い女の子が一人、居るわよね? その娘を、連れてきてくれない?』
『この体もそろそろ限界なのよ』
『私は、あの娘の身体が欲しいの。あの娘を私にする為に、私があの娘になる為に……』
『貴方が、あの娘を、連れてきて?』
あの女は、奈央を手に入れる為に、俺を利用しようとしていたと言う事か。その為に、俺を誑かしたと言うのか。でも、何故俺を巻き込む必要があった? 直接奈央に接触すればよかったんじゃないのか? まして、俺を殺す必要なんて、どこにも……!
そこで初めて響紀は憤った。その理不尽な殺人に巻き込まれた自身を憐れみ、次いで本来の標的であろう奈央と、自分を巻き込んだ喪服の女を恨んだ。拳を握りしめ、ガンガンと力一杯地面を殴りつける。けれどそこにも痛みはまるで無くて。
しばらく感情に任せて泣きじゃくり、気の済むまで地面を殴り続けていた響紀だったが、やがて深いため息と共に立ち上がった。
どのみち俺にはもう、あの女のところ以外に居場所はないのだ。あの喪服の女が奈央を必要としていると言うのであれば、その望み、叶えてやれば良いじゃないか。かつての友人やあの肉塊どものように、俺もあの女に付き従えば良い。俺だけがこんな目に合うのは不公平だ。理不尽だ。なら、奈央にも同じ目にあって貰わなければ、この気持ちが晴れることはないだろう。
響紀はくつくつと嗤い、顔を上げた。その先には峠の頂、そこを過ぎればあの女の住まう廃屋がある。響紀は一歩、また一歩、地を踏みしめるように歩き始めた。雨に濡れながら歩き、或いは走る帰宅途中の学生らの間を縫うように進むうち、数メートル先に見覚えのある人影を見つけ、思わず苦笑した。
そこには今まさにこちらに向かって自転車を漕ぐ、びしょ濡れになった奈央の姿があったのである。
なんてタイミングの良い。まるで図ったようじゃないか、と響紀はほくそ笑み、足早に歩みを進めた。道が下りに転じ、件の黒衣の女らが住まう廃屋の前に差し掛かったところで、奈央とすれ違い様にその右腕をぐっと掴んだ。力の加減などしていない。例え嫌がっても、引き摺ってでも女の下へ連れて行くつもりだった。
けれど。
「えっ……?」と奈央は声をあげ、自転車を止めた。「な、なに、今の?」
振り返った奈央には、やはり響紀の姿など見えてはいなくて。
響紀はその当たり前のような事実に少なからず衝撃を受け、「あぁっ……」と嘆息と共に思わず腕を掴んでいたその手を離した。
びしょ濡れになった奈央を見つめながら、僅かばかりに動揺し、一歩あと退る。
あの女と同じ黒く美しい髪は雨に濡れて頰や肩に張り付き、水を含んだ白いシャツにはうっすらと下着の線が浮かぶ。同じく濡れそぼったスカートから伸びる足には降り注ぐ雨が滴っていた。
そんな奈央の姿に、響紀は胸の高鳴りを覚えた。あの女の言葉が再び脳裏に浮かぶ。
『貴方も、あの娘を抱きたくて仕方がないんでしょう? 知ってるのよ、私。私の子達がずっとあの娘と貴方を見ていたから。貴方はあの娘を犯したいと思ってる。あの娘の身体を欲望の赴くままに弄びたいと願ってる。私があの娘の身体を手に入れたなら、貴方はその願いを叶える事ができるのよ? 好きなだけ愛する事ができるのよ? ねぇ? 素敵でしょう?』
そうして思い出される、あの女を抱いたその感触。それが今目の前にいる奈央の姿と徐々に置き変わっていき、やがて奈央と肌を重ねる自身の姿が――
その瞬間、奈央の眼が大きく見開かれた。明らかに動揺しながら向けた視線の先には、先程響紀が掴んだ右腕があって。
その右腕を目にした瞬間、響紀も思わず目を見張る。
そこにはくっきりと、響紀の手形が残されていたのである。
奈央と共に立ち尽くし、更なる動揺に響紀は身動き一つできなかった。
奈央の身体に付けられた自身の手によるその痕に、響紀は何てことをしてしまったのだろう、と首を横に振った。こんなことするつもりはなかった。いや、こんなことになるとも思ってはいなかった。ではどういうつもりだった? そもそも俺は奈央を捕まえて、あの女のところまで連れて行くつもりだったじゃないか。死者が生者に触れられるかどうかすら判らないまま無策に、偶然を利用して、何も考えず、捕らえて同じ目に合わせてやろうと手を伸ばしたのだ。
そうして出来た手の痕とそれを見て驚愕する奈央の姿が、昨日奈央を抱き寄せようとした時のあの表情と重なり、黒衣の女と重なり、黒衣の女を抱いた時と重なり……
響紀はただただ首を横に振った。自分がしたこと、しようとしたこと、これからすることが頭の中を駆け巡り、何が何だか解らなくなってただイヤイヤをするように首を横に振るだけだ。
その時、周囲の山が激しくざわめいた。それはまるで人の笑い声のようで、思わず周囲を見回し、そして戦慄した。
そこにはかつての友人や肉塊をはじめとした沢山の影が、木々の合間から奈央と響紀を見つめており、その口元には下卑た笑みが浮かべられていた。彼らは今まさに響紀が奈央をあの女の下へ連れて行くことを心待ちにしているのだ。
どうする、どうすればいい?
俺は、本当に奈央をあの女の下へ連れて行きたいのか? 奈央を恨んでいるのか? 理不尽に思っているのか? 奈央のことを抱きたいなどと思っているのか? あのクソ生意気で、魅力的な、愛想のない、すらりとした肢体の、いけ好かない、肌のきめ細やかな、怖気を感じてしまうほどに、美しい女を……
逡巡する響紀だったが、一方の奈央はペダルに足を掛け、逃げるように駆け出していた。
「あっ」と響紀が口にした時にはすでにその背中は数十メートル先まで遠のいており、やがてその背中すら見えなくなってしまうのだった。
一人取り残された響紀はしばらく呆然としていたが、不意に周囲から再び騒めきが聞こえ出し、我を取り戻した。
辺りを見回せば、其処彼処の闇に犇くように異形が蠢き、怒号し、或いは嘲笑し、そして響紀に向かってその手を恨めしそうに伸ばしていて。
「……なんで逃した?」
唐突に背後から声をかけられ、振り向くとそこにはかつての友人の姿があった。彼は血走った目を見開き、歯を剥き出しにして響紀に詰め寄る。闇に犇めく異形らが、彼に同調するように這い出てきて――響紀はそれらから逃れるように、駆け出した。
――キーンと甲高い不快な音が耳を貫く。見開かれた眼には大粒の雨が容赦なく叩きつけられ視界をボヤけさせたが、けれどそこに痛みなど全くなかった。仰向けに倒れた響紀の視線の先に見えるのは黒一色、それはあの喪服の女を想起させ、地を叩く雨音は低く、あの肉塊らの怒号のようだった。ぼんやりと夜空を見上げる響紀の側の車道を、列をなした車がゆっくりと走り去っていく。
響紀は上半身をゆっくりと起こすと、眩しすぎるほどの光を放つ車のヘッドライトから逃れるように、歩道の隅へと這って動いた。すぐ側の法面に背を預け、大きなため息を一つ吐く。
その時、歩道を塞ぐように投げ出していた両足の上を、学生が漕ぐ複数の自転車が駆け抜けていった。そこに痛みはなかった。痛むわけもなかった。学生らは響紀の足を轢いたことはおろか、その感触すら感じないまま、あっとう間に去って行った。それを目の当たりにして、響紀は「あぁ」と呻き、両手で顔を覆った。涙が溢れて止まらなかった。けれど、その涙が本当に本物なのか、それすら響紀には判らなかった。
今ここにいる自分は“何”なのか、“何者”なのか、本当に“存在”しているのか。
認めたくない現実を前に、響紀はただただ絶望した。最早自分に居場所は無かった。あるはずもなかった。そもそも自分はもう人としての“存在”を失ってしまっているのだから。
どうして、何故、俺が。そんな疑問が頭をよぎり、次いで女の言葉を思い出す。
『貴方の家に、若い女の子が一人、居るわよね? その娘を、連れてきてくれない?』
『この体もそろそろ限界なのよ』
『私は、あの娘の身体が欲しいの。あの娘を私にする為に、私があの娘になる為に……』
『貴方が、あの娘を、連れてきて?』
あの女は、奈央を手に入れる為に、俺を利用しようとしていたと言う事か。その為に、俺を誑かしたと言うのか。でも、何故俺を巻き込む必要があった? 直接奈央に接触すればよかったんじゃないのか? まして、俺を殺す必要なんて、どこにも……!
そこで初めて響紀は憤った。その理不尽な殺人に巻き込まれた自身を憐れみ、次いで本来の標的であろう奈央と、自分を巻き込んだ喪服の女を恨んだ。拳を握りしめ、ガンガンと力一杯地面を殴りつける。けれどそこにも痛みはまるで無くて。
しばらく感情に任せて泣きじゃくり、気の済むまで地面を殴り続けていた響紀だったが、やがて深いため息と共に立ち上がった。
どのみち俺にはもう、あの女のところ以外に居場所はないのだ。あの喪服の女が奈央を必要としていると言うのであれば、その望み、叶えてやれば良いじゃないか。かつての友人やあの肉塊どものように、俺もあの女に付き従えば良い。俺だけがこんな目に合うのは不公平だ。理不尽だ。なら、奈央にも同じ目にあって貰わなければ、この気持ちが晴れることはないだろう。
響紀はくつくつと嗤い、顔を上げた。その先には峠の頂、そこを過ぎればあの女の住まう廃屋がある。響紀は一歩、また一歩、地を踏みしめるように歩き始めた。雨に濡れながら歩き、或いは走る帰宅途中の学生らの間を縫うように進むうち、数メートル先に見覚えのある人影を見つけ、思わず苦笑した。
そこには今まさにこちらに向かって自転車を漕ぐ、びしょ濡れになった奈央の姿があったのである。
なんてタイミングの良い。まるで図ったようじゃないか、と響紀はほくそ笑み、足早に歩みを進めた。道が下りに転じ、件の黒衣の女らが住まう廃屋の前に差し掛かったところで、奈央とすれ違い様にその右腕をぐっと掴んだ。力の加減などしていない。例え嫌がっても、引き摺ってでも女の下へ連れて行くつもりだった。
けれど。
「えっ……?」と奈央は声をあげ、自転車を止めた。「な、なに、今の?」
振り返った奈央には、やはり響紀の姿など見えてはいなくて。
響紀はその当たり前のような事実に少なからず衝撃を受け、「あぁっ……」と嘆息と共に思わず腕を掴んでいたその手を離した。
びしょ濡れになった奈央を見つめながら、僅かばかりに動揺し、一歩あと退る。
あの女と同じ黒く美しい髪は雨に濡れて頰や肩に張り付き、水を含んだ白いシャツにはうっすらと下着の線が浮かぶ。同じく濡れそぼったスカートから伸びる足には降り注ぐ雨が滴っていた。
そんな奈央の姿に、響紀は胸の高鳴りを覚えた。あの女の言葉が再び脳裏に浮かぶ。
『貴方も、あの娘を抱きたくて仕方がないんでしょう? 知ってるのよ、私。私の子達がずっとあの娘と貴方を見ていたから。貴方はあの娘を犯したいと思ってる。あの娘の身体を欲望の赴くままに弄びたいと願ってる。私があの娘の身体を手に入れたなら、貴方はその願いを叶える事ができるのよ? 好きなだけ愛する事ができるのよ? ねぇ? 素敵でしょう?』
そうして思い出される、あの女を抱いたその感触。それが今目の前にいる奈央の姿と徐々に置き変わっていき、やがて奈央と肌を重ねる自身の姿が――
その瞬間、奈央の眼が大きく見開かれた。明らかに動揺しながら向けた視線の先には、先程響紀が掴んだ右腕があって。
その右腕を目にした瞬間、響紀も思わず目を見張る。
そこにはくっきりと、響紀の手形が残されていたのである。
奈央と共に立ち尽くし、更なる動揺に響紀は身動き一つできなかった。
奈央の身体に付けられた自身の手によるその痕に、響紀は何てことをしてしまったのだろう、と首を横に振った。こんなことするつもりはなかった。いや、こんなことになるとも思ってはいなかった。ではどういうつもりだった? そもそも俺は奈央を捕まえて、あの女のところまで連れて行くつもりだったじゃないか。死者が生者に触れられるかどうかすら判らないまま無策に、偶然を利用して、何も考えず、捕らえて同じ目に合わせてやろうと手を伸ばしたのだ。
そうして出来た手の痕とそれを見て驚愕する奈央の姿が、昨日奈央を抱き寄せようとした時のあの表情と重なり、黒衣の女と重なり、黒衣の女を抱いた時と重なり……
響紀はただただ首を横に振った。自分がしたこと、しようとしたこと、これからすることが頭の中を駆け巡り、何が何だか解らなくなってただイヤイヤをするように首を横に振るだけだ。
その時、周囲の山が激しくざわめいた。それはまるで人の笑い声のようで、思わず周囲を見回し、そして戦慄した。
そこにはかつての友人や肉塊をはじめとした沢山の影が、木々の合間から奈央と響紀を見つめており、その口元には下卑た笑みが浮かべられていた。彼らは今まさに響紀が奈央をあの女の下へ連れて行くことを心待ちにしているのだ。
どうする、どうすればいい?
俺は、本当に奈央をあの女の下へ連れて行きたいのか? 奈央を恨んでいるのか? 理不尽に思っているのか? 奈央のことを抱きたいなどと思っているのか? あのクソ生意気で、魅力的な、愛想のない、すらりとした肢体の、いけ好かない、肌のきめ細やかな、怖気を感じてしまうほどに、美しい女を……
逡巡する響紀だったが、一方の奈央はペダルに足を掛け、逃げるように駆け出していた。
「あっ」と響紀が口にした時にはすでにその背中は数十メートル先まで遠のいており、やがてその背中すら見えなくなってしまうのだった。
一人取り残された響紀はしばらく呆然としていたが、不意に周囲から再び騒めきが聞こえ出し、我を取り戻した。
辺りを見回せば、其処彼処の闇に犇くように異形が蠢き、怒号し、或いは嘲笑し、そして響紀に向かってその手を恨めしそうに伸ばしていて。
「……なんで逃した?」
唐突に背後から声をかけられ、振り向くとそこにはかつての友人の姿があった。彼は血走った目を見開き、歯を剥き出しにして響紀に詰め寄る。闇に犇めく異形らが、彼に同調するように這い出てきて――響紀はそれらから逃れるように、駆け出した。
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