85 / 247
第1部 第4章 廃屋の少女
第14回
しおりを挟む
「は……な、せ……わた……しの………から……だあぁっ!」
だらだらと崩れゆく身体で呻く女を、響紀はしっかりと抱き締めるようにして井戸の方へとじりじり押しやっていく。
これは、いったい――なんで、響紀が……?
先ほど母と口づけを交わしていたあの雰囲気とはまるで異なり、その顔は奈央の知るあの不機嫌そうな表情そのものだった。けれどその身体は酷く頼りなく揺らめき、今にも消え去ってしまいそうなほど心許ない。
どういうこと? なんで? どうして?
戸惑う奈央に、響紀は視線を寄越しながら「奈央! 」と大きく叫んだ。
「俺がこいつを井戸の中に引きずり下ろす! お前はすぐに蓋を閉じろ!」
その言葉に、奈央は更に戸惑いを隠せなかった。
井戸? 引きずり下ろす? 蓋?
あたふたと視点を彷徨わせる奈央に、
「井戸の下だ! そこに見えるだろうが!」
その怒号に、しかし奈央はどこか懐かしさを感じていた。あれは間違いなく私の良く知る響紀だと思うのと同時に、だが今はそれどころじゃないとばかりに、井戸の下に視線を向ける。
目を凝らせば、草葉の影に如何にも蓋として使用していたのであろう、大きさのトタン板が転がっているのが見えた。
奈央は響紀に返答しようとしたが声が出ず、代わりにコクコクと頷いてみせる。
響紀はそれを見て頷き返すと、女の方に向き直り、
「――帰ろう、一緒に」
その瞬間、女の目が響紀の顔に向けられた。呻き声を漏らしていた口がぽかんと開かれ、その勢いが僅かに衰える。
それを見計らったかのように、響紀は女の身体を一気に井戸へと押しやった。
女ははっと我に返り、
「あぁぁ――あぁあ! ああああぁぁぁぁああぁぁああぁぁ――――――――!」
絶叫し、激しく暴れだしたが、けれどその時にはすでにすぐ後ろに井戸の口が迫っていた。
「俺の家族に、手を出すなぁああぁ―――!」
叫び声と共に、響紀と女の身体が井戸の中へと落ちていく。
遠ざかる叫びを聞きながら奈央はしばらく荒い息を繰り返していたが、
「ふ、蓋を……!」
響紀に言われたことを思い出し、精一杯の力を込めて立ち上がった。
嘲るように笑う膝を必死に叱咤しながら、奈央はふらふらと井戸へと進む。
草葉の間から古びたトタン板を持ち上げ、井戸の口に蓋をしようとしたところで。
「………っ!」
ずるりと女がその上半身を覗かせ、視線が交わった。
女は嬉しそうに口を歪ませ、大きく見開かれた目玉をギョロギョロさせながら、驚愕のあまり動けなくなった奈央に崩れかけた腕を伸ばした。
「から、だ……わた、し……の……!」
勝ち誇ったように、女はにたりと笑む。
奈央は咄嗟の事に身動きが取れず、ただその不気味な顔を見つめることしか出来なかった。
全身が総毛立ち、絶望を極める。
原型を留めないドロドロとした女の手がすぐ目の前に差し迫り、今まさに奈央の左腕を掴もうとする。
ひ、ひひっと女は小さく嗤い、
「わた……し、の……か、ら、だ……!」
がっしりと奈央の左手首を掴み、井戸の中へ引き摺り込もうと強引にその腕を引っぱった。
「い、いやぁっ……!」
奈央は恐怖に青ざめ、左腕を無茶苦茶に振り回した。その衝撃でトタン板がかつんと、地に落ちる。
女の不気味な嗤い声が辺りに響き渡り、ぐいっと手繰り寄せられた、その時だった。
女の手の肉がずるりと溶け落ち、滑るようにしてブレスレットに指が掛かったのだ。
その瞬間、ブレスレットが強い光を放ったかと思うと、ばちんっと大きな音がしてぶつりと結び目が解けた。
「あっ……!」
と奈央が声を上げた時には女の手は泥が崩れ落ちるようにダラダラとその形を無くし、
「あぁぁっ! ああぁぁ……っ!」
再び井戸の闇へと落ちていった。
奈央は一瞬呆然としたが、すぐにトタン板を拾い上げ、井戸の口を急いで塞いだ。
しばらくの間隙間から女の声が漏れ聞こえてきたが、けれどそれもやがては遠のき聞こえなくなり、次第に辺りに静寂が戻っていった。
ざわざわと木の葉のざわめく音が聞こえ、すっと周囲に彩りが戻っていく。
奈央は肩で息をしながら、どさりと地面に崩折れた。
耳を澄ませば遠くから車の走行音が近付き、やがて前の道路を走り去っていく気配を感じた。
空を見上げれば雲間からは青空が覗き、陽の光が庭に差し込みはじめる。そこにはただ、荒れた庭があるだけだった。先程まで転がっていた異形の肉片すら、すでにそこには見受けられない。
「……お! ……奈央!」
どこからか聞こえてくる声に、奈央は頭を上げた。
この声は、大樹だ。大樹が私を探してる……!
しかし、返事をしようにも何故か声が出せない。喉の奥に何かが詰まっているような感覚に、奈央はぺっと唾を吐き出した。
「……っ!」
吐き出されたのは、赤黒い小さな塊だった。
奈央は思わず目を見張り、しかしその塊もまた陽の光に当たるとじゅっと音を立てて蒸発するように消えてしまう。
「奈央!」
すぐ近くから大樹の声が聞こえ、奈央は顔を向けた。見れば廃屋の影、玄関の方から姿を現した大樹が奈央の姿に気付き、慌てたようにこちらに掛けてくるところだった。
大樹は奈央の身体を抱き起こしながら、
「大丈夫? 痛いところとかない? 何があったの?」
大樹の温もりが伝わってきて、奈央は堰を切ったように嗚咽と涙を溢れさせた。
大声で泣きじゃくりながら、大樹の身体にしがみつく。
そんな奈央の様子に大樹は戸惑いつつも、けれどそれ以上は何も聞かず、ただしっかり受け止めるように、ぎゅっと奈央の身体を抱きしめてくれるのだった。
だらだらと崩れゆく身体で呻く女を、響紀はしっかりと抱き締めるようにして井戸の方へとじりじり押しやっていく。
これは、いったい――なんで、響紀が……?
先ほど母と口づけを交わしていたあの雰囲気とはまるで異なり、その顔は奈央の知るあの不機嫌そうな表情そのものだった。けれどその身体は酷く頼りなく揺らめき、今にも消え去ってしまいそうなほど心許ない。
どういうこと? なんで? どうして?
戸惑う奈央に、響紀は視線を寄越しながら「奈央! 」と大きく叫んだ。
「俺がこいつを井戸の中に引きずり下ろす! お前はすぐに蓋を閉じろ!」
その言葉に、奈央は更に戸惑いを隠せなかった。
井戸? 引きずり下ろす? 蓋?
あたふたと視点を彷徨わせる奈央に、
「井戸の下だ! そこに見えるだろうが!」
その怒号に、しかし奈央はどこか懐かしさを感じていた。あれは間違いなく私の良く知る響紀だと思うのと同時に、だが今はそれどころじゃないとばかりに、井戸の下に視線を向ける。
目を凝らせば、草葉の影に如何にも蓋として使用していたのであろう、大きさのトタン板が転がっているのが見えた。
奈央は響紀に返答しようとしたが声が出ず、代わりにコクコクと頷いてみせる。
響紀はそれを見て頷き返すと、女の方に向き直り、
「――帰ろう、一緒に」
その瞬間、女の目が響紀の顔に向けられた。呻き声を漏らしていた口がぽかんと開かれ、その勢いが僅かに衰える。
それを見計らったかのように、響紀は女の身体を一気に井戸へと押しやった。
女ははっと我に返り、
「あぁぁ――あぁあ! ああああぁぁぁぁああぁぁああぁぁ――――――――!」
絶叫し、激しく暴れだしたが、けれどその時にはすでにすぐ後ろに井戸の口が迫っていた。
「俺の家族に、手を出すなぁああぁ―――!」
叫び声と共に、響紀と女の身体が井戸の中へと落ちていく。
遠ざかる叫びを聞きながら奈央はしばらく荒い息を繰り返していたが、
「ふ、蓋を……!」
響紀に言われたことを思い出し、精一杯の力を込めて立ち上がった。
嘲るように笑う膝を必死に叱咤しながら、奈央はふらふらと井戸へと進む。
草葉の間から古びたトタン板を持ち上げ、井戸の口に蓋をしようとしたところで。
「………っ!」
ずるりと女がその上半身を覗かせ、視線が交わった。
女は嬉しそうに口を歪ませ、大きく見開かれた目玉をギョロギョロさせながら、驚愕のあまり動けなくなった奈央に崩れかけた腕を伸ばした。
「から、だ……わた、し……の……!」
勝ち誇ったように、女はにたりと笑む。
奈央は咄嗟の事に身動きが取れず、ただその不気味な顔を見つめることしか出来なかった。
全身が総毛立ち、絶望を極める。
原型を留めないドロドロとした女の手がすぐ目の前に差し迫り、今まさに奈央の左腕を掴もうとする。
ひ、ひひっと女は小さく嗤い、
「わた……し、の……か、ら、だ……!」
がっしりと奈央の左手首を掴み、井戸の中へ引き摺り込もうと強引にその腕を引っぱった。
「い、いやぁっ……!」
奈央は恐怖に青ざめ、左腕を無茶苦茶に振り回した。その衝撃でトタン板がかつんと、地に落ちる。
女の不気味な嗤い声が辺りに響き渡り、ぐいっと手繰り寄せられた、その時だった。
女の手の肉がずるりと溶け落ち、滑るようにしてブレスレットに指が掛かったのだ。
その瞬間、ブレスレットが強い光を放ったかと思うと、ばちんっと大きな音がしてぶつりと結び目が解けた。
「あっ……!」
と奈央が声を上げた時には女の手は泥が崩れ落ちるようにダラダラとその形を無くし、
「あぁぁっ! ああぁぁ……っ!」
再び井戸の闇へと落ちていった。
奈央は一瞬呆然としたが、すぐにトタン板を拾い上げ、井戸の口を急いで塞いだ。
しばらくの間隙間から女の声が漏れ聞こえてきたが、けれどそれもやがては遠のき聞こえなくなり、次第に辺りに静寂が戻っていった。
ざわざわと木の葉のざわめく音が聞こえ、すっと周囲に彩りが戻っていく。
奈央は肩で息をしながら、どさりと地面に崩折れた。
耳を澄ませば遠くから車の走行音が近付き、やがて前の道路を走り去っていく気配を感じた。
空を見上げれば雲間からは青空が覗き、陽の光が庭に差し込みはじめる。そこにはただ、荒れた庭があるだけだった。先程まで転がっていた異形の肉片すら、すでにそこには見受けられない。
「……お! ……奈央!」
どこからか聞こえてくる声に、奈央は頭を上げた。
この声は、大樹だ。大樹が私を探してる……!
しかし、返事をしようにも何故か声が出せない。喉の奥に何かが詰まっているような感覚に、奈央はぺっと唾を吐き出した。
「……っ!」
吐き出されたのは、赤黒い小さな塊だった。
奈央は思わず目を見張り、しかしその塊もまた陽の光に当たるとじゅっと音を立てて蒸発するように消えてしまう。
「奈央!」
すぐ近くから大樹の声が聞こえ、奈央は顔を向けた。見れば廃屋の影、玄関の方から姿を現した大樹が奈央の姿に気付き、慌てたようにこちらに掛けてくるところだった。
大樹は奈央の身体を抱き起こしながら、
「大丈夫? 痛いところとかない? 何があったの?」
大樹の温もりが伝わってきて、奈央は堰を切ったように嗚咽と涙を溢れさせた。
大声で泣きじゃくりながら、大樹の身体にしがみつく。
そんな奈央の様子に大樹は戸惑いつつも、けれどそれ以上は何も聞かず、ただしっかり受け止めるように、ぎゅっと奈央の身体を抱きしめてくれるのだった。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
みえる彼らと浄化係
橘しづき
ホラー
井上遥は、勤めていた会社が倒産し、現在失職中。生まれつき幸運体質だったので、人生で初めて躓いている。
そんな遥の隣の部屋には男性が住んでいるようだが、ある日見かけた彼を、真っ黒なモヤが包んでいるのに気がついた。遥は幸運体質だけではなく、不思議なものを見る力もあったのだ。
驚き見て見ぬふりをしてしまった遥だが、後日、お隣さんが友人に抱えられ帰宅するのを発見し、ついに声をかけてしまう。
そこで「手を握って欲しい」とわけのわからないお願いをされて…?
氷の貴婦人
羊
恋愛
ソフィは幸せな結婚を目の前に控えていた。弾んでいた心を打ち砕かれたのは、結婚相手のアトレーと姉がベッドに居る姿を見た時だった。
呆然としたまま結婚式の日を迎え、その日から彼女の心は壊れていく。
感情が麻痺してしまい、すべてがかすみ越しの出来事に思える。そして、あんなに好きだったアトレーを見ると吐き気をもよおすようになった。
毒の強めなお話で、大人向けテイストです。
【完結】完成させてはならないパズル
nanahi
ホラー
廃校の美術部の備品室に呪いのパズルがあるという噂があった。しかも、そのパズルを完成させると何かが起こるという。春休みに浮かれていた僕は友人と噂を確かめに廃校に侵入することになったが。
※人物に名前をつけました。
迷宮攻略企業シュメール
秋葉夕雲
ファンタジー
今は中東と呼ばれるティグリス川とユーフラテス川、数千年前に栄えたメソポタミア文明、その現実とは異なる神話のただなか。
その都市の一つ、ウルクで生まれ育った少年エタリッツは家族のために迷宮に挑むこととなる。
非才の身でも、神に愛されずとも、もがけ。
【完結】勤労令嬢、街へ行く〜令嬢なのに下働きさせられていた私を養女にしてくれた侯爵様が溺愛してくれるので、国いちばんのレディを目指します〜
鈴木 桜
恋愛
貧乏男爵の妾の子である8歳のジリアンは、使用人ゼロの家で勤労の日々を送っていた。
誰よりも早く起きて畑を耕し、家族の食事を準備し、屋敷を隅々まで掃除し……。
幸いジリアンは【魔法】が使えたので、一人でも仕事をこなすことができていた。
ある夏の日、彼女の運命を大きく変える出来事が起こる。
一人の客人をもてなしたのだ。
その客人は戦争の英雄クリフォード・マクリーン侯爵の使いであり、ジリアンが【魔法の天才】であることに気づくのだった。
【魔法】が『武器』ではなく『生活』のために使われるようになる時代の転換期に、ジリアンは戦争の英雄の養女として迎えられることになる。
彼女は「働かせてください」と訴え続けた。そうしなければ、追い出されると思ったから。
そんな彼女に、周囲の大人たちは目一杯の愛情を注ぎ続けた。
そして、ジリアンは少しずつ子供らしさを取り戻していく。
やがてジリアンは17歳に成長し、新しく設立された王立魔法学院に入学することに。
ところが、マクリーン侯爵は渋い顔で、
「男子生徒と目を合わせるな。微笑みかけるな」と言うのだった。
学院には幼馴染の謎の少年アレンや、かつてジリアンをこき使っていた腹違いの姉もいて──。
☆第2部完結しました☆
怪奇短篇書架 〜呟怖〜
縁代まと
ホラー
137文字以内の手乗り怪奇小話群。
Twitterで呟いた『呟怖』のまとめです。
ホラーから幻想系、不思議な話など。
貴方の心に引っ掛かる、お気に入りの一篇が見つかると大変嬉しいです。
※纏めるにあたり一部改行を足している部分があります
呟怖の都合上、文頭の字下げは意図的に省いたり普段は避ける変換をしたり、三点リーダを一個奇数にしていることがあります
※カクヨムにも掲載しています(あちらとは話の順番を組み替えてあります)
※それぞれ独立した話ですが、関西弁の先輩と敬語の後輩の組み合わせの時は同一人物です
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる