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第1部 第4章 廃屋の少女

第11回

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 奈央は大きく目を見張り、力なく頽れた。背中に当たる襖が音を立てて揺れる。心臓が激しく脈打ち、次第に呼吸が荒くなっていった。息をする方法すら忘れてしまったかのように酸素が不足し、頭が痺れていくのを感じる。思考がまとまらず、今目の前に立つ母のその顔をただ茫然と見つめることしかできなかった。

 嘘、嘘よ……! と奈央はゆっくりと頭を振り、その事実を決して認めることができなかった。いや、できるはずもなかった。つい今しがたまで少女の顔をしていた女が、次の瞬間には母の顔をしているのだ。これは何かの見間違いに違いない。この女が、私の母であるはずがない!

「……どうしたの、奈央」にやりと嗤う母の口が、先日耳にしたそれと同じ声を発する。「そんなに怖がることなんてないじゃない。だって、ちゃんと言ったでしょう? また、改めて迎えに来るって」

 その瞬間、奈央は息を飲み込んだ。

 あの時、あの場所に居たのは確かに私と母だけだった。近くに母の連れていた男は居たが、彼は離れた場所に停めた車の中だった。他には誰の姿もなかったはずだ。

 つまり、あの時の会話を知り得るのは。

「なん、で、お、母さん、が――」

 声を震わせながら、奈央は母の顔を見つめる。

 少女はお母さんで、お母さんは少女で、響紀は少女の事を大人の女だと言ってて、だとしたらその女は少女ではなくてお母さんで、つまり響紀が私を通してみていた女は間違いなくお母さんで、お母さんは私のお母さんだから顔が似ていて、だから響紀は私をお母さんと見間違えて家を飛び出して行って、だから、つまり、私は、お母さんは、響紀は――――

「そんなに怖そうな顔しなくてもいいんじゃない? 私はあんたの母親よ? 何を怖がる必要があるというの?」

 不敵な笑みを浮かべながら、母は奈央を見下ろすようにそう言った。人を小馬鹿にしたようなその表情が、先日会った時のまま、奈央の顔を覗き込んでくる。

「でも、本当に良い具合に育ってくれたわね。なんだか昔の自分を見てるみたい。不思議ね。あんたが産まれた時は猿みたいに鳴き喚いてばかりで、本気でただウザいだけだって思ってたのに――」

 言って母は奈央の胸に手を伸ばし、力一杯鷲掴みにする。

「い、痛い……!」
 奈央は小さく悲鳴を上げた。

「今じゃぁ、こんなんなっちゃってさ。ほんと、驚くわ。こうなるのが解ってたら、あんたを手放したりなんかしなかったのにね。ほんと、良い体に育ってくれたわ。これなら、いくら高値を付けても客が付きそうね」

「や、やめて!」

 奈央は母のその手を振り払い、胸元を両手で隠した。楽しげにくつくつと笑う母を睨みつけながら、歯をくいしばる。

 どうして、なんで、こんな……

 奈央は最早どうすれば良いのか全く解らなかった。手足は今だに激しく小刻みに震え、動悸も治らない。何とかして立ち上がり、この場から逃げ出したいというのに。

「安心しなさい」と母はにっと笑い、「彼らは貴方の身体を心から愛してくれるわ。きっと何でも言う事を聞いてくれる。欲しい物が何でも手に入るのよ?  何を怖がる必要があると言うのかしら?」

 違う、と奈央は首を横に激しく振った。違う。そんなもの、要らない。私が欲しいのは、普通の日常。小母さんが居て、小父さんが居て、大樹くんが居て、そして響紀が居た、あの日常を求めているのだ。

 だから、そんなもの、私は要らない……!

 目に涙が浮かび、それが頬を伝って胸元へと垂れていく。次から次へと止め処なく流れるそれを、奈央はどうすることもできなかった。嗚咽を漏らしながら、畳に目をやる。

 このままじゃ、駄目だ。何とか、何とかしないと……!

 その時だった。

 不意に奈央の背後の襖が開いたのだ。

 反射的に、奈央は振り向く。

 その瞬間、奈央は大きく目を見張り、息を飲んだ。

「あら、やっと来てくれたの?   待ちわびたわ」

 母が言って、それに応えるように、彼は口を開いた。

「すまん、ちょっと手が離せなかった」

 そんな彼に、奈央は小さく、その名を呼んだ。

「ひび……き……?」

 響紀は奈央に一瞥を寄越すと口元をニヤリと歪ませた。その笑みはかつて奈央が見た事がないほどに不気味で悍しく、くつくつと喉の奥から発せられた音はあの下卑た笑い声そのものだった。姿形は確かに奈央のよく知る響紀であるが、その中身は全くの別人と化してしまったかのような佇まいに奈央は戦慄した。

 ――コレは本当に、あの響紀なのか?

 奈央のよく知る響紀はいつも偉そうでプライドが高く、その反面打たれ弱く繊細な性格をしていた。文句を口にしながらも家族思いで、決して小母や小父を蔑ろにはしてこなかった。たぶん、それは奈央に対しても。ただ不器用で、それを上手く表に出せないだけ。決してこんな目で他人を見るような人ではなかったはずだ。

 それなのに、どうして、こんな……

 響紀はそんな奈央の身体を舐め回すように爪先から順に視線を移動させると、気味の悪い嗤い声を漏らしながらその手を伸ばしてきた。

 奈央は縮こまり、大きく目を見開いたまま響紀を見つめ、身構える。依然身体は小刻みに震え、息は荒い。進退極まった状態の中で、響紀の指先が奈央の足首を掴もうとしたところで、
「まだ、ダメよ」
 母が言って、響紀の手をそっと握りしめ奈央から引き離した。

 響紀は「でも、」と口惜しそうに表情を歪ませたが、母はそんな響紀の首にその両腕を絡めながら口付けを交わした。それから慰めるように微笑み、

「まだ彼女は私たちを受け入れていないの。だから、もう少し待ってあげて。この娘はきっと、私たちを受け入れてくれるはずだから。それまでは、ね? 私が貴方を愛してあげる……」

 言って、母は吸い付くように響紀の唇を貪った。響紀も素直にそれを受け入れ、目を瞑り激しく舌を絡ませる。

 二人の荒々しい息遣いが室内に響き、ぴちゃぴちゃずるずると唾液を啜るような音がこだまする。その互いを求めあうだけの欲に塗れた光景に奈央は嫌悪を感じ、吐き気さえ催した。それは奈央のこれまで見聞きしてきたどのようなキスとも異なっており、己の母と響紀の禍々しいやりとりに動揺しつつ、しかし目をそらす事すらできなかった。ただ口元を手で覆いながら、じっと見つめることしかできない。

 やがて響紀の手が母の胸に触れた時、母はその手に自身の手を重ねながら、「ここではダメ」と響紀の耳元で囁き、チラリと奈央の顔に視線を寄越した。

「続きはあっちの部屋で、ね?」

 響紀はこくりと頷くと、奈央に顔を向けることもなく襖を開け、廊下に出ていく。

 母もそれに続き、部屋を出て行こうとしたその間際、ニヤリと不敵な笑みを浮かべながら、

「――絶対に、覗いちゃダメよ?」

 言って奈央を部屋に一人残して、スッと襖を閉じたのだった。
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