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第1部 第4章 廃屋の少女

第1回

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 翌日、奈央が目を覚ますと、その左隣には木村が寄り添うように肩を預け、すやすやと寝息を立てて眠っていた。窓の外からは明るい陽光が差し込み、久しぶりの晴れ空に陰鬱とした部屋の空気は綺麗さっぱり消え去っている。左手は木村と固く結ばれたままで、机の上には開かれたままの教科書やノート、参考書が広げられていた。

 結局、あまり勉強は出来なかったな、と思いながら、奈央は天井を仰ぎ見た。煌々と光る灯りは一晩中二人を照らし続け、部屋全体の明るさに対して、あまりその役目を果たしていなかった。

 小父はもう家を出て行ったのだろうか。ふと流しに目を向ければ、朝食に使用したのであろう食器類がそのまま残っていた。台所の机の前で肩を並べて眠る二人を見て、小父は果たして何を思っただろうか。

 昨夜はあの後、小父は終始居心地が悪そうだった。小母から早めに帰るよう電話があったらしく、粗方のことは事前に知らされていたようだったが、木村の存在にやたらそわそわした様子だった。木村も木村で体を縮こまらせ、小父と何を話したらいいのか酷く困惑していた。三人で夕食を摂っている間も会話はなく、何とも言えない空気が漂っていた。

 ちょっとしたいざこざが起こったのは、そのすぐ後だった。

 お風呂を沸かし、その間に夕食の片付けを済ませようと、奈央は小父に先に入るよう促した。それに対して小父は木村に「お客様からお先にどうぞ」とすすめたが、けれどそれを断ったのは奈央だった。

「木村くんは私と一緒に入るから大丈夫」

 その瞬間、場の空気が凍り付いたのは言うまでもない。

「馬鹿な事を言うんじゃない!」
 と小父は怒り、
「好きな人と一緒に入って何が悪いのよっ?」
 奈央は理由にならない返しをして小父と木村の二人を困惑させた。

 結局のところ、奈央は独りで風呂に入るのが怖くて仕方が無かったのだ。もしまたあの異形が現れたらと考えると、独りで風呂に入ろうだなんて決して思えなかったのである。

 別に一緒に入る必要はないかも知れない。洗面所に控えておいて貰えばそれで良いだけかも知れない。けれど、もし助けを呼ぶ声さえ上げられなかったら? 口を塞がれたりしたら? また、金縛りにあったとしたら?

 そう思うと、一緒に入るのが一番安心できるという結論に至ったのだ。そして小父と木村、どちらと一緒に入るかを天秤に掛けた時、答えはすぐに出た。そこからは小父と初めての大喧嘩である。

「お父さんに合わせる顔が無くなるだろう!」
「お父さんに言わなければ良いだけでしょっ?」
「何か間違いがあったら、どうするんだ!」
「間違えたら責任とって貰えば良いでしょ? とってくれるよね?」

 顔を向けた先の木村を本気で困惑させたりと只管に押し問答を続けた結果、遂に根負けしたのは小父の方だった。

「もういい! 勝手にしなさい!」

 小父はそう叫ぶと足早に自身の寝室に引きこもってしまった。その姿はまるで響紀を彷彿とさせ、やはり親子なんだな、と改めて思うのと同時に、出て行った響紀のことを申し訳なく思うのだった。

 あとは強引に木村を風呂場に連行するという簡単な作業だけだった。木村はその恥ずかしさと欲望と動揺に激しく目を回したが、奈央の誘いを結局断りはしなかった。見られて減るもんじゃなし、とばかりに全てをおっ広げたのは、さすがにやり過ぎたと奈央は反省している。

 木村の身体の正直な反応はなかなかに興味深く、ついつい直視し観察してしまったけれど、木村が本気で嫌がったので仕方なくそれから目を逸らした。

 あとは手早く交代で身体を洗い、風呂に浸かり、外に出てからはテスト勉強に励む……つもりだった。

 それなのに、気付けば互いを意識するあまり、頭がぼうっとして全く頭に入ってこない。たった一日のあまりに密度の濃い出来事に、奈央は自身がおかしくなってしまったのだという自覚を持ちつつ、けれどそれに抗わなかった。

 本当かどうかは知らないけれど、生物は命の危険を感じた場合、子孫を残そうと行動する、という話を聞いた事がある。まさに今の自分はそれに等しい状態にあるのだろうと奈央は思った。或いはあの憎い母親から受け継いだ、淫靡な性格というものか。

 幾度となくキスを交わし、互いに気持ちを確かめ合った。もし木村に理性がなければ、今頃どうなっていたか知れない。小父や父には申し訳ないけれど、そんな事お構いなしに奈央は木村を求めていたのだ。

 例えそれが、不安から安寧を欲していただけであったとしても。

 こうして朝を迎えられた事に奈央は人心地付き、ほっと溜息を吐いた。辺りを見回し、特に昨夜と変わりないことに安堵する。どうやらあの怪物はもう現れなかったらしい。木村の言った通り、何かがあの怪物を退けてくれたからなのかどうかまでは判らなかったけれど、何事も無い夜を過ごせた事に感謝する。木村がそばに居てくれたお陰か、今、奈央の気持ちはとても落ち着いており、繋いだ手を強く握りしめながら感謝した。ふと顔を向ければ、うっすらと瞼を開いた木村がぼんやりと天井を眺めている。どうやら眼を覚ましたらしい。その口元からは涎が垂れており、奈央はふっと微笑みを浮かべながら、その涎を右手で拭った。

「――おはよう、大樹くん」

 それは奈央が初めて口にした、木村の下の名前だった。

「お、おはよう、相原さん……」

 照れくさそうに頬を染めながら言う木村。

 それに対して、奈央は僅かばかり気に入らないといった表情を浮かべながら木村の――大樹の頬を力いっぱい抓り上げる。

「――奈央、でしょ?」

 その口元は意地悪を愉しむようにニヤリと笑んでいた。昨夜、あれだけ何度も「奈央」と下の名前で呼んでくれたのだ。ここへきてまた「相原さん」では、何だか他人行儀みたいじゃないの、と奈央は不満に思う。

 昨日一日だけで私たちの間に何があった? 朝一で遠回しにだけど(たぶん)告白されて、その放課後には二人して手を繋いで小母さんのお見舞いに行って、そのままこの家まで帰ってしたことは? 二人であの異形を相手にして、そのあと私たちは何度キスを交わした? 互いの身体を曝け出し、一緒にお風呂にも入ったじゃない。こんなこと、普通、有り得る?

「――奈央。はい、もう一度」

「わ、わかった、わかったから離して、痛い……!」

 その返事に、奈央は微笑みを湛えたまま大樹の頬から指を離す。

「もう……痛いよ……」と大樹は頬を擦りながら、「えっと……おはよう、奈央」

 恥ずかしそうに、言い直す。

 そんな大樹に、しかし奈央は満足できなかった。

 ――何かが足りない。折角こうして二人とも無事に一夜を明かしたというのに、この物足りなさは何だろう、と考えた時、その答えは比較的すぐに思い浮かんだ。

 奈央は恥ずかし気に顔を背ける大樹に、すっと目を閉じ、「んっ」と顔を差し出す。何を求めているかなど、これだけで十分伝わるだろう。いちいち説明する必要などない。

 大樹はそんな奈央の様子に、すぐに言わんとすることを察したようだった。そっと奈央の唇に自分の唇を重ね、しかしすぐにその身を引く。

「……え、これだけ?」

 奈央は思わず目を開き、口を尖らせ不満を口にした。一晩中何度も熱い口づけを交わしたというのに、今の幼稚園児みたいなキスは何よ、と頬を膨らませる。

「だって、ほら」大樹は視線を逸らせながら、「やっぱり恥ずかしいじゃないか。まだ、そんな、付き合い始めたばかりだってのにさ……」

「……何、その理由」と奈央は眉間に皺を寄せる。昨日あれだけ何度もキスをしておきながら、いまさら何を気にしているんだか。「良いから、キスして」

「――奈央は気にならないの?」

 大樹のその問いに、奈央は「全然?」と答えるや否や、ぐいっと更に顔を近づけた。

 さぁ、さぁ、と急かす奈央に、大樹も観念したのだろう、小さく肩を落とすと奈央の肩に手をやり、そっと唇を重ねた。

 昨夜何度も奈央の中に入ってきた大樹の舌が、くねくねと蠢きながら奈央の舌と絡まり、互いの唾液が混じり合う。大樹の全てを受け入れたい、大樹の全てが欲しい、大樹の全てを共有したい。そんな感情が奈央の中にあって、そしてその感情に奈央は正直だった。

 やがて朝の口付けに満足した奈央はそっと唇を離し、身を引いた。ほっと溜息を吐き、心が満たされたのを感じる。

 一方の大樹は酷く恥ずかし気な表情を浮かべながら、わざとらしく奈央から視線を逸らせる。そのさまがあまりに可愛らしくて、奈央は思わず小さく笑ってしまうのだった。

 それから軽く朝食を済ませた二人は小母の着替えをいくらか準備し(特に必要なものはないとのことではあったが、念のために用意することにした)それらを鞄に詰めると、病院に向かうべく家をあとにした。

 バスを待つ間、二人は昨日同様、どちらからともなく手を繋ぐ。その繋がりが、奈央をより安心させた。

 空には多くの雲が漂っていたが、しかし連日の雨や曇り空を思えば、そこに見える僅かな青空や陽光はそれだけで気分を明るくさせてくれる。隣に立つ大樹の何気ない仕草を横目で見つつ、奈央は目立たないよう小さく溜息を吐いた。緊張していた心が徐々に徐々に緩和していくのを感じながら、けれどその奥底にはやはり一抹の不安を覚える。

 あの化け物は何だったのか、何があの化け物を追い払ったのか、二階に消えた響紀はどこへ行ってしまったのか。すべてが謎のままだ。加えてあれらが現れる前――家の前に現れた母とその連れの男。あの二人の乗る車も小父が帰ってのち覗き見たカーテンの隙間からはその姿は見えず、どこへ行ってしまったのかまるで知れない。奈央の周囲で何かが起きている、それは間違いない。響紀が消えたこと、その後の怪異、母の訪れ、そしてバスから見えた喪服の少女と思しき姿。すべては偶然なのだろうか? それとも、実はすべてが一つに繋がっているのではないのか――?

 そんな考えが奈央の中を波のように行き来しては心を乱そうとする。そのたびに奈央は大樹の手のぬくもりに意識を集中させその考えを払拭しようと試みるのだけれど、しかしなかなか拭い去ることはできなかった。

 やがてやってきたバスに乗り、二人は空いた席を探した。峠を下る際になるべく件の廃屋を眼にしないよう、通路を挟んだ反対側の二人席に腰を下ろす。窓際に座った奈央は連なる民家を眺めつつ、隣の通路側に座る大樹の手を強く握りしめた。これから通るであろう峠の廃屋のことを思えば自然、心臓が早鐘を打つ。またあの女の姿を目にしてしまうのではないかと思うと、心がざわざわして仕方がなかった。

「奈央……大丈夫?」

 大樹の心配そうな声に、けれど奈央は顔を向けることなく「うん」と小さく答え、さらに強くその手を握り締めた。

 大丈夫か、と問われれば、恐らく、大丈夫ではない。けれど、今は大樹が居てくれる。それだけで、何とかなるような気がした。

 大樹もそんな奈央の気持ちを理解したのだろう、「そう」と呟くように口にすると、奈央の気持ちに応えるように、力強く、奈央の手を握り返した。

 しばらくバスに揺られること十数分。二人は駅前でバスを降り、病院へ足を向ける。ここからは五分ほどの距離だ。その間、二人は取り留めもない話を交わした。自分のクラスのこと、今後委員会でやりたい事、家族の事――響紀の話はなるべく話題にはしなかった。昨夜のうちに簡単な経緯は話していたが、大樹もそれ以上は首を突っ込もうとはしなかった。ただ、「心配だね、早く帰ってくるといいね」とだけ言ってくれた。
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