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第1部 第3章 訪問者の影

第10回

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 やがて木村はほぅっと小さく溜息を吐くと、すっと奈央の両肩に手をやり、二人は向き合った。

 たぶん、今の私は随分酷い顔をしているんだろうな、と奈央は俯く。

 一昨日から風呂に入っておらず、あの異形に身体を蹂躙されたことで心身はともに穢れ、一刻も早くそれを洗い清めたかった。ぼさぼさの髪は艶を失い、見るからに見すぼらしかった。

「……もう、大丈夫かな」

 木村は独り言ちるように口にすると、そっと奈央から離れようと立ち上がった。奈央は思わずその腕を掴み、眼を見張る。ぱくぱくと口が空を吐き、やっとの思いで喉の奥から音を発した。

「嫌……離れないで……」

 誰かに触れていたかった。このまま放置されるのが堪らなく恐ろしかった。とにかく今は、木村と一緒に居たくて仕方がなかった。不安で頭がどうかしてしまいそうだった。腰が抜けて思うように動けず、奈央は縋るように木村の顔を見つめる。

 木村は小さく頷くと、「掴まって」と言って奈央の腕を首に巻いた。腰に手を回し、ふらつく足取りの奈央を何とか立ち上がらせ、階段へと向かう。

「い、嫌……! 下に居たらどうするの?」

 目を見張り恐怖を口にする奈央に、しかし木村は至って冷静に口を開いた。

「……でも、このままここに居るわけにはいかないよ。もし何かあったとして、逃げようと思ったら窓から飛び降りるしかないじゃないか。それより、下に降りるべきだよ。少なくとも、二階よりは簡単に外に逃げ出せるかもしれないだろう?」

 奈央は木村の眼を見つめ、どうしてこんなに冷静に話が出来るんだろうと訝しんだ。もしかして、木村くんは異形の仲間なんじゃないか、と根拠のない疑念を浮かべる。それを察してだろうか、木村は優しく微笑むと、「大丈夫だよ」と声を掛けてくる。

「ちゃんと様子を見ながら降りよう。多分、もうあいつはこの家には居ないと思うけど……」

「……どういうこと?」

 奈央は眉間に皺を寄せた。あいつ、とはあの異形の事で間違いない。けど、それがもうこの家にはいないだろうなんて、どうしてそんなことが言えるのか。

「あの時、家鳴りとラップ音がしたでしょ? その後何かが吼えるような声がして、あいつは散り散りに吹き飛ばされた。あれが何によるものなのかは知らないけど、たぶん、そいつがあいつを追っ払ってくれたんだと僕は思うんだ」

 奈央は木村の言っていることがまるで理解できず、首を傾げた。

 家鳴り? ラップ音? あいつ? あれ? そいつ?

 それらの単語がどういう意味なのか、何を指しているのか、奈央の頭はまるで追いつけていなかった。ただ何となく、何かがあの異形を家の外に追い出したのだ、という事だけは理解できた。

 でも、いったい何が? 

 ぼんやりと思案する奈央を支え担いだまま、木村は階段へと足を向けた。覗き込むようにして階下を見下ろし、そこに異形の影のないことを確認しながら慎重に階段を下りていく。奈央も恐る恐る、一歩一歩、ゆっくりと段を踏みしめながら下へ向かった。

 やがて階段を降り切り周囲を見回せば、そこには先程までとまるで変わらない風景が広がっていた。玄関、廊下、居間、台所は電気がつけっぱなしで全体的に明るく、どこを見ても深い闇は落ちていなかった。廊下の最奥に見える洗面所は僅かに影を落としていたが、それでも不安になるほど暗いわけではない。

 二人はほっと胸を撫でおろし、けれど決して離れたりはしなかった。何とか自力で立てるようになった奈央は木村の首から腕を戻し、代わりにその手を強く握り締め、肩を寄せた。玄関扉に向かい、ふと足元に目を向ける。

「……これ」

 思わず指差したそこには小さな水溜りが出来ていて、チロチロと玄関扉下の細い隙間から外へ向かって流れていった。二人は強く手を握り合い、その様子をじっと見つめていたが、しばらくするとその水溜りは家の外へと完全に姿を消した。あとにはやはり、普段と変わらぬ玄関の様子がそこにはあった。

「――もう、大丈夫だよ」

 静かにそう言う木村に、奈央も「うん」と小さく頷いた。本当に大丈夫だろうか、と不安に思ったけれど、ふと顔を向けた木村に頭を撫でられ、何となく心が落ち着いた。全ての不安が払拭されたわけではないのだけれど、今の奈央にとって、その優しさは十分すぎるほどに自分を癒した。

 けれど次の瞬間、ガチャリ、という玄関の鍵が開く音に奈央は飛び上がった。目を見張り、動揺し、脳裏に浮かんだのは母とあのサングラスをかけた男の姿だった。先程窓の外に見た黒い車を思い出し、母が自分を連れ去りに来たのだと恐怖した。思わず「ひっ」と息を吸うような悲鳴を漏らし、木村の身体に抱き付く。瞼を固く閉じて、玄関扉に背を向けるように身体を縮こまらせながら、木村の服を破かんばかりに握り締めて。

 木村もそんな奈央に驚きながら、奈央の背中に両腕を回し、守るような態勢を取ったところで――

「……うぉっ!」

 野太い声がして、奈央はビクリと身体を震わせた。より一層木村の身体を強く抱き、連れ去られまいと床に全体重を委ねて。

「――な、奈央! 奈央……!」

 木村に背を叩かれたが、決して奈央は振り返らなかった。何が何でも木村から離れたくなかった。いっそこの場で舌を噛み切って――

「――あぁ、いや……ちょっと早く帰り過ぎたかな?」

 困惑したように発せられたその声に、奈央は聞き覚えがあった。

 木村にしがみついたまま、恐る恐る後ろを振り向けば。

「た、ただいま……」

 居心地悪そうに笑う、小父の姿がそこにはあった。
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