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第1部 第3章 訪問者の影

第6回

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 二人はバスに揺られながら、一路奈央の自宅へと向かっていた。相変わらずの雨に窓ガラスは濡れ、結露で曇った向こう側にはぼんやりとした薄闇が広がっている。対向車のヘッドライトが窓に反射して、時折酷く眩しかった。

 予期せぬ事態に奈央は当たり前のように狼狽していた。小母の言葉により木村が家まで送ってくれる事になったが、そればかりか、もしかしたら家に泊まるかも知れないというこの状況の、あまりの非現実さに目眩さえ覚えた。

 けれど、それを一切拒まなかった自分にも、驚きを禁じ得なかった。

 勿論、あの家に独りぼっちで居ることとどちらが良いか、と問われれば、間違いなく奈央は誰かと一緒に居る方を選ぶ。

 しかし、それにしてもこの展開には、奈央も戸惑いを隠せなかった。

 隣に立つ木村も同じく、先程からどこかそわそわした様子でバスの外の風景に目をやっている。彼が今、何を思い、何を期待しているのか、想像するのは容易そうではあったが、なるべくその事は考えないように奈央は務めた。けれど先日の、『男が若い女に対して抱く感情なんて決まってるじゃない』という母の言葉が思い起こされ、何とも居心地が悪い。考えないようにしようとすればする程にそれは意識され、もし木村くんから求められたら……という迷いに行き着く。

 まだ付き合い始めた訳じゃない。お互いの事を深く知っている仲という訳でもない。ただこの一年、朝に駐輪場で話をしたり、図書委員で一緒に仕事をしていただけの、それだけの関係だ。それ以上でも、それ以下でもない関係だった。

 それなのに、この気持ちはいったい何なんだろう、と奈央は戸惑う。

 こうして一緒にいるだけでドキドキする。そしてそれと同時に、安心感を与えてくれる。よく知らないからこそ、もっと彼の事を知りたい、もっと深く繋がりたいと奈央は思った。

 そう言えば、木村くんはいつから私のことを好きだったのだろう。

 奈央はふと木村の横顔を見つめた。その顔は特に端正ということもなく、至って普通と評して良いくらいだろう。これと言って顔に特徴があるわけでもなければ、印象に残るほど明るいわけでもない。僅かに低い背は、けれどそれでも平均的で。

 そもそも木村くんが話しかけてくるようになったのは、いつからだっけ。

 記憶を辿って見ても、はっきりとした記憶がない。一年の頃から図書委員を務めてきたが、その頃からすでに木村は奈央に親し気に話しかけてきていたような覚えがある。何でだっけ、と思い返してもその記憶はぼんやりとしていて、まるではっきりしなかった。

 或いは一年生の時から、すでに木村くんは私のことを意識していたのかも知れない。

 ずっと私の傍に居て、色々と助けてくれていたのは覚えている。各クラスに貼って回る月一の『図書だより』、返却された図書の整理や整頓、未返却になっている図書の督促など、気が付くとそこには何故か木村が居た。そこには確かに好意があって、けれど奈央は今日までそれに気が付かなかった。

 ――本当にそうなの?

 奈央は自問自答する。

 いつしか自分は、そこに木村が居るのが当たり前のように思っていた気がする。

 朝、駐輪場に着く度にふと木村の姿を探している自分がいる、その姿を見かけたときにほっとする自分がいる。図書室に行く度にも木村がやってくることを期待し、事実顔を覗かせるだけで何となく心が落ち着いた。

 そして一日会わなかった日には、ふとこう思うのだ。

 今日は木村くんに会わなかったな――と。

 思えばその時から、もしかしたら私は木村くんの事を意識していたのかもしれない。だとすると、私はそこに木村くんが居るのが当たり前だと思っていたのではなくて、いつしかそこに居てほしいと願うようになっていたのだ。

 奈央はその一見して頼りなさげな少年の手をそっと握り締めた。

「えっ」と木村が驚いたように、奈央に顔を向ける。

 奈央はそんな木村に微笑むと、僅かばかり木村の肩に身体を寄せた。

「……ありがと」

 ふと奈央の口から、そんな言葉が漏れて出た。

 何に対する感謝の言葉だったのか、それは奈央自身にも解らなかった。

 でも、それでも構わなかった。

 木村は「うん」と答えると、恥ずかしそうに微笑み返した。

 それを見て、奈央の心がほっこりと温まる。それまで感じてた不安が融解し、狼狽は安心へと変わった。木村くんとなら、私は――と思いながらふと窓の外に目をやり、その途端、奈央は身体を震え上がらせた。

 思わず木村の手を強く握り締め、それに気づいた木村は「どうしたの?」と訊いてくる。

 けれどその時には、もう奈央はそのことを木村に説明する事が出来なかった。

 今しがた自分が目にした人物の姿を思い起こし、もう一度木村の手を強く握り締める。

「……相原さん?」

 奈央が見たもの、それはあの廃屋のような家の前に佇みニヤリと嗤う、喪服少女その人だった。
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