闇に蠢く

野村勇輔(ノムラユーリ)

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第1部 第3章 訪問者の影

第1回

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 小母の入院から一夜明け、奈央は眠れない夜に大半の体力を使い果たしながら、それでも制服に着替えて学校へ向かった。薬のおかげで風邪の方は楽になったが、代わりに寝不足の所為で身体が重たい。

 昨夜は恐怖に怯えた覚束ない足取りで、何とか自室には戻れたものの、いつまたあの男が現れるとも知れず、警戒するあまり安心して横になる事ができなかった。

 小父はあの後、二時間もしないうちに帰ってきて、灯りの付きっぱなしだった奈央の部屋までやってくると「早く寝なさい」と注意して灯りを消したが、しかし奈央はすぐに起き出して、また灯りを付けた。

 とにかく暗闇が怖かった。どこにあの男が潜んでいるとも知れないのに、少しでもその不安を払拭したかった。その行動に意味があるかなんて関係ない。ただただ奈央は安心を求めていたのだ。

 けれど瞼を閉じる度に何かの気配を感じ、奈央は気が気ではなかった。何度小父に助けを求めようとしたか知れない。それなのに助けを求めなかったのは、自分の身は自分で守らなければならない、という固い意志からだった。その意志が頑なに小父に助けを求めるという選択肢を拒み続けたのである。

 空には暗雲立ち込め、ねっとりとした重たい空気が漂っていた。しとしと降る雨は奈央の傘をリズミカルに叩き、濡れた足元では複数の水溜りがあちらこちらに点在していた。

 奈央はそれらを避けるようにして歩いていたが、けれど寝不足により朦朧とした意識の中にあって、それはとても困難な事だった。何度も水溜りに足を踏み入れ、その度に跳ねた水で足下を濡らした。靴の中にまで浸透した水が歩く度に足裏に張り付いて気持ちが悪かったが、最早奈央にはどうすることもできなかった。ただそれに耐えながら学校へ向かって歩みを進めるだけだ。

 こうしてただ歩いているだけですら奈央には辛かった。僅かに目を閉じるだけで眠気が奈央を襲い、足取りが覚束なくなる。ここまでは家からバスに乗って来たが、そのバスの中でも奈央はウトウトしながら立っていた。もしバス停が終点でなければ、今頃はどこか知らない別の場所に着いていたかも知れない。何れにせよ、奈央の眠気はすでに限界に達しているに等しかった。

 心身の疲れの癒えぬまま登校する事にしたのは、偏に家に一人で居たくなかったからである。小父からは「もう一日休んだらどうか」と言われたけれど、「期末テストが来週からだから、少しでも勉強しておきたいの」と言ってそれを断った。あながち嘘ではないし、何より少しでも人のいる場所に身を置きたかったのだ。

 鯉城のお堀に沿って設けられた歩道を歩きながら、奈央は大きく溜息を吐いた。この先どうすれば良いのか考えがまとまらず、ただただ時間を浪費していく。今でもどこかにあの男が隠れ潜んでいるのではないかという不安を拭い切れず、気が張り詰めていた。

 だからこそ、奈央はその足元の縁石に気が付かなかった。

「あっ……!」と奈央は口に出しながら何とかバランスを取ろうと藻がいたが、けれどふらつく身体のどこに重心を置けば解らず、そのまま前倒しに転げそうになり、
「危ないっ!」
 寸でのところで誰かが叫び、奈央の左腕を強く掴んで引っ張った。

 その瞬間、奈央は思わず恐怖に叫び声を上げ、左腕を掴むその手を振り解いていた。目を見開き、その手の主に顔を向ければ、
「……ごめん。……大丈夫?」
 そこに立っていたのは、狼狽した様子の木村だった。

 奈央は右手で左腕を庇うように胸に寄せていた事に気付き、誤魔化すようにさっとそれを解いた。

 自分が思っている以上に右腕の手形の痕を意識しているらしく、左腕を誰かに触れられたくらいで叫び声を上げてしまった自分を恥じる。

「あ、その……」と奈央は木村を直視することが出来ず、斜め下に視線を逸らしながら、「ごめん……ありがとう」と小さく頭を下げた。

 木村はどことなくばつが悪そうにしながら、「ああ、いや……」と口を開く。

「僕こそ、力の加減が判らなくて。痛かったよね、ごめんね」

 ううん、と奈央は首を横に振って、木村に精一杯、微笑んだ。助けてくれた木村の手を振り払ってしまった事を悪く思い、もう一度「ありがと」と口にした。

 木村も同じように笑い、どちらからともなく二人は並んで歩き始めた。互いの傘が触れ合わない微妙な距離を保ちつつ、もうすぐ目の前の昇降口へ向かった。

「もう、風邪は大丈夫なの?」

 問われ、奈央は「あ、うん」と頷いた。
「一応、薬を飲んでるから大丈夫」

「そう? 何かふらふら歩いてたから、まだ調子悪いんじゃない? 無理しないで休んだら?」

「でも、来週から期末テストだもの。ちゃんと勉強しておかないと」

「真面目だね」と木村は笑い、「僕も頑張らなくちゃな。全然、授業についていけてないし」

「……そうなの?」

「まあ、元々頭は良い方じゃないからね」と木村は肩を竦めた。「何でこの高校に入れたのか解らないくらいには頭が悪いよ」

「何か意外だね」奈央は言ってニヤリと笑んだ。「勉強くらいしか取り柄がないのかと思ってたのにな」

 一見、木村は真面目を体現したような男子学生だ。校則違反は絶対にしないし、悪い友達と連んでいるという話も聞かない。委員会の時に掛けている眼鏡姿は明らかに勉強が出来そうで、事実色々な事を知っているというイメージがあった。

 特に宇宙や神話、文学の話を振ると訊いていない事まで返ってきて、どんどん話が違う方向へ飛んでいくのだ。

 先日の委員会では月毎テーマのオススメ書棚を決める際、物理学をテーマに選んだはずが、「この物理学者はこの小説からイマジネーションを得たらしいからこれも置こう」、「でもこの小説は元々古典であるこの作品を基にしているからこれも置こう」、「この古典の作者は実はあの歴史上の人物と関係があって云々」と次から次へと話が飛んでいき、結果的にノンジャンル化してしまった為に彼の提案は全部却下された事があった。

「……好きなことだけだよ、勉強が出来てるのは。それ以外はてんで駄目。テストの度に赤点で補習ばっかり。もう嫌になる。相原さんはどう?」

 突然訊かれ、奈央は「私?」と口にする。

「私は、勉強で困った事はないかな。むしろ、勉強しかやることなかったし。お父さんの転勤が毎年のようにあって、友達なんて全然居なかったから、一緒にどこかへ出かけるってこともなかったし。まあ、それは今も変わらないんだけどね」

 言って奈央は自嘲気味に笑った。

 その途端、木村が突然歩みを止める。どうしたんだろう、と奈央も立ち止まり振り向くと、木村は顔を伏せながら、意を決したようにゆっくりと口を開いた。

「じ、じゃあ、さ…… 今度、僕と、その…… どこか、遊びに行こう! 二人でさ……!」

 顔を上げた木村の顔は真っ赤に染まり、額には薄っすらと汗が滲み出していた。

 奈央はその言葉の真意をすぐに理解し、けれどどう返事すれば良いのか解らなかった。

 胸がどきどきして止まらない。うまく息が出来ず、呼吸が荒くなる。自身の顔も木村と同じく紅潮していくのを感じながら、思わず傘を取り落とし、両手で口元を覆った。

 しばらくの間、二人の間を沈黙が満たした。木村の表情はいつも以上に真面目で、真摯で、そこには他意を感じさせなくて。

 だからこそ、奈央はその気持ちにどう答えるべきか解らず、取り乱した。

「えっと…… その……」
 と、しどろもどろになりながら言葉を探し、けれど適切な言葉が見つからなくて。

 そんな奈央に、木村は奈央の傘を拾うと手渡しながら言った。

「へ、返事は、また、今度でもいいからさ。予定もあるだろうし……! そそ、そんなことより、遅刻しちゃうし、早く行こう!」

「あ、うん……」
 奈央はこくりと頷き、傘を受け取ると再び二人並んで歩き始めた。

 昇降口を抜け、階を上がる。その間、二人は一言も会話をしなかった。いや、出来なかったと言うべきか。互いに互いを意識し過ぎて、どちらも言葉が見つからなかったのだ。

 やがて奈央のクラスが近づき、扉の前でようやく奈央は口を開いた。

「……じゃあ、またね」

「ああ、うん……」木村は言って、頬を染めながら笑顔で手を振る。「その…… あまり無理しないようにね。風邪なんだから、疲れたら、保健室に行きなよ?」

「うん…… ありがと……」

 奈央も同じく木村に手を振り、二人はそれぞれ自分たちのクラスに足を向けた。

 と、そこではたと奈央は気付く。

 ……どうして木村くんは、私が風邪を引いてるって知ってたの?

 隣とは言えクラスが違うし、接点と言えば駐輪場で朝に会うか、委員会の時くらいだ。毎日顔を合わせている訳ではない。

 ならいったい、誰からその話を聞いたのだろうか?

 奈央は気になり、木村の去った方に顔を向けながら、
「ねぇ、木村くん……?」
 そう声を掛けたけれど、そこにはすでに、木村の姿はどこにもなかった。
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