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第1部 第2章 虚ろな家
第3回
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2
帰宅後、奈央は自室のベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。どっと疲れが押し寄せ、風邪で奪われた体力と相まって最早立っているのもやっとだった。お腹は空いているけれども何も食べる気になれず、ただ重たい身体を柔らかい布団の中に埋めることしかできなかった。
母は常に私の事を何らかの方法で監視している。
そのことに気付いたのは、小学校も高学年になってからだっただろうか。父と共にどこへ引っ越そうとも必ず現れる母を疑問に思ったのがきっかけだった。それからは幾度となく誰かに見られているような感覚があり、色々と調べた結果、恐らく探偵か何かに父と自分の動向を随時調べさせているのであろうという結論に至った。
実際のところはどうか知らない。けれど、何らかの方法を用いているのは間違いない。それくらい、母は奈央の身の回りの出来事をよく把握していたからだ。
この事を、奈央は父をはじめ、小父や小母にも話したことはなかった。変な心配をかけさせたくなかったし、何よりそんな話をすることによって母がどんな行動に出るか、それが解らなかったからだ。
確かに母はこれまで奈央を無理矢理どうこうしようとはしてこなかった。本当はちゃんと相談するべきだったのだろう。ただ実害がない以上、そのことが余計に相談するべきかどうかを奈央に悩ませたのだ。
しかし今回は違った。母は明確に「近いうちに迎えに来る」と口にした。このままではあの母親にどうかされるんじゃないか、手足を縛ってでも私を連れて行くつもりなんじゃないか、そう思うだけで怖かった。今まで何もされなかったからと言って、これからも何もされないという保証はどこにもないのだから。さっきなんて、突然胸を鷲掴みにされたり、腕を掴み上げられたりしたのだ。もしかしたら、と思うと父や小父小母に今からでも相談すべきなのではないかと思えてならなかった。
けれど――と奈央は深い溜息を吐いた。今は響紀の件がある。どんなに見た目平気そうにしていようとも、小母も小父も響紀の行方を案じているはずだ。そこへ更に自分の母親の話を振るなんて、出来るはずもない。これ以上迷惑をかけるなんてこと、できればしたくなかった。
なら、自分で何とかするしかない。自分の身は、自分で守るしかないのだ。
思いながら奈央は寝返りをうち、もう一度深い溜息を吐く。ぼんやりとした視界に白い天井が映る。電気は付けていない。カーテンを閉め切った室内は程良い位に薄暗く、奈央の眠気を誘った。
少しだけ寝よう。母の件をどうするかは、後で考えればいい。
奈央は目を閉じ、静かな寝息を立てはじめるのだった。
コン、という軽い音で奈央は目を覚ました。
いったいどれくらい眠っていたのだろう、部屋の中はすっかり暗くなっていた。スマホを取り出し、画面を点灯させると夜の九時を回ったところだった。
ちょっと寝過ぎちゃったかな、と思いながら上半身を起こすと、コンッと再び音が聞こえた。どこから、と思っているうちに、またコンッと音がする。どうやら窓の方だ。
奈央の部屋には窓が一つあって、その向こう側から音は聞こえた。何かが窓ガラスを叩くような音だ。何だろうと訝しんでいると、窓の向こうから声が聞こえた。
「……奈央? ……奈央?」
それは聞き覚えのある、響紀の声だった。
奈央は目を見開き、窓辺に寄る。
まさか、と思っている間も声は続く。
「ここを開けてくれないか? 鍵、無くて開けられないんだ」
「あ、うん、わかった」と奈央はカーテンに手を伸ばす。「ちょっと待って……」
と、そこで伸ばした手を急に止めた。
……響紀はいったい、どこから声を掛けてきたの?
奈央の部屋は二階にある。その窓は玄関側に向いており、窓の外には転落防止の僅かな柵が設けられているだけで、足場になるようなものは他に無い。わざわざ危険を冒してまで無理に登ってくるとは思えないし、何より通りに面している分、誰かの目について大騒ぎになるだろう。いくら響紀でも、そんなことするはずがない。
それに、わざわざ奈央の部屋の窓を叩く理由も解らない。玄関にはチャイムがあるし、それを鳴らせば良いだけだ。
なら、いったい外に居るのは、誰?
どうやってここまで登ってきたの?
「どうした、奈央。早く開けてくれよ……」
途端、ドンドンッと窓が荒々しく叩かれ壁が大きく揺れた。奈央は身体を戦慄かせ、その異様さに怯え後退った。
これは本当に響紀なの?
「開けてくれよ、奈央…… 帰りたいんだ、俺。怒ってるのか? ……解ってるよ、奈央。俺が間違ってたんだ…… だから、頼むから、ここを開けてくれよ…… 俺を中に入れてくれよ……」
その弱々しい声とは裏腹に、今にも割れんばかりにドンドンッ、ドンドンッと叩かれる窓ガラス。まるで地震か何かのように家全体が大きく揺れ、奈央は思わず屈みこんで耳を塞ぎ身体を丸めた。カーテンの向こう側はまるで見えなかったが、間違いなく、そこには見てはならない何かが居るような気がして、気が動転する。
「嫌……! やめて……! やめてよぉ……!」
目に涙を浮かべながら、奈央は懇願した。それが響紀であるかどうかなんて、最早どうでも良かった。一刻も早くこの恐怖が終わる事を望みながら、じっと耐えることしかできない。
「開けてくれよ…… なぁ、奈央……」
耳を塞いでいるというのに、その声ははっきりと奈央の耳の中に響いた。窓を叩く音、揺れる壁や床。そればかりか本棚や机、椅子も軋み音を上げ始める。
どこかでパキンッと何かが弾けるような音がして、奈央は身体を震え上がらせた。瞼を開けておくことが出来ず、ぎゅっと目を閉じ、頭を横に振ってその全てを拒絶する。
響紀の声は尚も続き、今にも窓ガラスは割れて砕けてしまいそうな音を発していた。奈央はただ歯を食いしばり、必死に耐え続けた。
やがてしばらくして、唐突に響紀の声も窓ガラスを叩く音も聞こえなくなった。それまで揺れていた壁や床、机や椅子の軋みも静まり返り、何事も無かったかのような静寂に包まれる。
「……?」
奈央は恐る恐る頭をもたげ、周囲を見回した。
先程までの恐怖はそこにはなく、辺りはただ、暗闇に満たされているだけだった。
「……なに? 何だったの、今の……?」
独り言ちる奈央はゆっくりと立ち上がり――
「すまなかった、奈央……」
突然背後から聞こえてきた響紀の声に、張り裂けんばかりに絶叫した。
帰宅後、奈央は自室のベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。どっと疲れが押し寄せ、風邪で奪われた体力と相まって最早立っているのもやっとだった。お腹は空いているけれども何も食べる気になれず、ただ重たい身体を柔らかい布団の中に埋めることしかできなかった。
母は常に私の事を何らかの方法で監視している。
そのことに気付いたのは、小学校も高学年になってからだっただろうか。父と共にどこへ引っ越そうとも必ず現れる母を疑問に思ったのがきっかけだった。それからは幾度となく誰かに見られているような感覚があり、色々と調べた結果、恐らく探偵か何かに父と自分の動向を随時調べさせているのであろうという結論に至った。
実際のところはどうか知らない。けれど、何らかの方法を用いているのは間違いない。それくらい、母は奈央の身の回りの出来事をよく把握していたからだ。
この事を、奈央は父をはじめ、小父や小母にも話したことはなかった。変な心配をかけさせたくなかったし、何よりそんな話をすることによって母がどんな行動に出るか、それが解らなかったからだ。
確かに母はこれまで奈央を無理矢理どうこうしようとはしてこなかった。本当はちゃんと相談するべきだったのだろう。ただ実害がない以上、そのことが余計に相談するべきかどうかを奈央に悩ませたのだ。
しかし今回は違った。母は明確に「近いうちに迎えに来る」と口にした。このままではあの母親にどうかされるんじゃないか、手足を縛ってでも私を連れて行くつもりなんじゃないか、そう思うだけで怖かった。今まで何もされなかったからと言って、これからも何もされないという保証はどこにもないのだから。さっきなんて、突然胸を鷲掴みにされたり、腕を掴み上げられたりしたのだ。もしかしたら、と思うと父や小父小母に今からでも相談すべきなのではないかと思えてならなかった。
けれど――と奈央は深い溜息を吐いた。今は響紀の件がある。どんなに見た目平気そうにしていようとも、小母も小父も響紀の行方を案じているはずだ。そこへ更に自分の母親の話を振るなんて、出来るはずもない。これ以上迷惑をかけるなんてこと、できればしたくなかった。
なら、自分で何とかするしかない。自分の身は、自分で守るしかないのだ。
思いながら奈央は寝返りをうち、もう一度深い溜息を吐く。ぼんやりとした視界に白い天井が映る。電気は付けていない。カーテンを閉め切った室内は程良い位に薄暗く、奈央の眠気を誘った。
少しだけ寝よう。母の件をどうするかは、後で考えればいい。
奈央は目を閉じ、静かな寝息を立てはじめるのだった。
コン、という軽い音で奈央は目を覚ました。
いったいどれくらい眠っていたのだろう、部屋の中はすっかり暗くなっていた。スマホを取り出し、画面を点灯させると夜の九時を回ったところだった。
ちょっと寝過ぎちゃったかな、と思いながら上半身を起こすと、コンッと再び音が聞こえた。どこから、と思っているうちに、またコンッと音がする。どうやら窓の方だ。
奈央の部屋には窓が一つあって、その向こう側から音は聞こえた。何かが窓ガラスを叩くような音だ。何だろうと訝しんでいると、窓の向こうから声が聞こえた。
「……奈央? ……奈央?」
それは聞き覚えのある、響紀の声だった。
奈央は目を見開き、窓辺に寄る。
まさか、と思っている間も声は続く。
「ここを開けてくれないか? 鍵、無くて開けられないんだ」
「あ、うん、わかった」と奈央はカーテンに手を伸ばす。「ちょっと待って……」
と、そこで伸ばした手を急に止めた。
……響紀はいったい、どこから声を掛けてきたの?
奈央の部屋は二階にある。その窓は玄関側に向いており、窓の外には転落防止の僅かな柵が設けられているだけで、足場になるようなものは他に無い。わざわざ危険を冒してまで無理に登ってくるとは思えないし、何より通りに面している分、誰かの目について大騒ぎになるだろう。いくら響紀でも、そんなことするはずがない。
それに、わざわざ奈央の部屋の窓を叩く理由も解らない。玄関にはチャイムがあるし、それを鳴らせば良いだけだ。
なら、いったい外に居るのは、誰?
どうやってここまで登ってきたの?
「どうした、奈央。早く開けてくれよ……」
途端、ドンドンッと窓が荒々しく叩かれ壁が大きく揺れた。奈央は身体を戦慄かせ、その異様さに怯え後退った。
これは本当に響紀なの?
「開けてくれよ、奈央…… 帰りたいんだ、俺。怒ってるのか? ……解ってるよ、奈央。俺が間違ってたんだ…… だから、頼むから、ここを開けてくれよ…… 俺を中に入れてくれよ……」
その弱々しい声とは裏腹に、今にも割れんばかりにドンドンッ、ドンドンッと叩かれる窓ガラス。まるで地震か何かのように家全体が大きく揺れ、奈央は思わず屈みこんで耳を塞ぎ身体を丸めた。カーテンの向こう側はまるで見えなかったが、間違いなく、そこには見てはならない何かが居るような気がして、気が動転する。
「嫌……! やめて……! やめてよぉ……!」
目に涙を浮かべながら、奈央は懇願した。それが響紀であるかどうかなんて、最早どうでも良かった。一刻も早くこの恐怖が終わる事を望みながら、じっと耐えることしかできない。
「開けてくれよ…… なぁ、奈央……」
耳を塞いでいるというのに、その声ははっきりと奈央の耳の中に響いた。窓を叩く音、揺れる壁や床。そればかりか本棚や机、椅子も軋み音を上げ始める。
どこかでパキンッと何かが弾けるような音がして、奈央は身体を震え上がらせた。瞼を開けておくことが出来ず、ぎゅっと目を閉じ、頭を横に振ってその全てを拒絶する。
響紀の声は尚も続き、今にも窓ガラスは割れて砕けてしまいそうな音を発していた。奈央はただ歯を食いしばり、必死に耐え続けた。
やがてしばらくして、唐突に響紀の声も窓ガラスを叩く音も聞こえなくなった。それまで揺れていた壁や床、机や椅子の軋みも静まり返り、何事も無かったかのような静寂に包まれる。
「……?」
奈央は恐る恐る頭をもたげ、周囲を見回した。
先程までの恐怖はそこにはなく、辺りはただ、暗闇に満たされているだけだった。
「……なに? 何だったの、今の……?」
独り言ちる奈央はゆっくりと立ち上がり――
「すまなかった、奈央……」
突然背後から聞こえてきた響紀の声に、張り裂けんばかりに絶叫した。
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