闇に蠢く

野村勇輔(ノムラユーリ)

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第1部 第1章 喪服の少女

第7回

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 奈央が図書室をあとにする頃には辺りはすでに夜の帳に覆われており、思った以上に図書室に長居していたことに我ながら驚いた。物思いに耽り過ぎたのか、雨が降り始めたことにも気が付かなかった。レインコートは持ってきていないし、このまま濡れながら自転車で帰るか、それともバスで帰るか。

 しばらく悩んで、奈央は自転車で帰ることを選んだ。

 そんなに強く降っているわけでは無いし、滑って転けないよう気を付ければ大丈夫だろう。

 奈央が駐輪場まで行くと、自分の自転車の隣にはまだ木村の自転車が停められていた。まだ校内に居るのか、若しくは自転車を置いて帰ったのか、どちらだろう。まあ、どちらでも良いか。

 そんな事を考えながら鍵を外し、濡れる服をそのままにペダルに足を掛け、踏み込んだ。傘を差して歩く生徒の間を慎重に抜け、門の外に出る。そのまま走り慣れた道を、一路廣嶋駅に向かって奈央は進んだ。そこからは件の峠を越えれば家はもうすぐだ。

 だが喪服少女の件もあり、その道を行く事にあまり良い気はしなかった。

 実は敢えてその峠を越えないという選択肢もある。

 単純に、峠のある山を迂回すれば良いのだ。但しその分距離が倍以上になり雨の中そちらを選ぶのはとても辛く、奈央はいつも通りに峠方面へ向かった。

 帰宅ラッシュで渋滞する自動車の列横を滑らないように慎重に自転車を漕いでいると、やがて峠の中腹辺りで例の廃墟のような家前に差し掛かった。

 窓から漏れる灯など当然のようになく、全体的に苔生していたり蔦が張っていたりと生活感はまるでない。

 およそ人が住んでいるなどとは思えず、事実矢野の言によれば誰も住んでいないことになっているという話だった。

 ならば、喪服少女はどこに住んでいるのか?

 喪服少女は多くの者に目撃されているし、何より奈央自身もすれ違ったことが何度もある。彼女が実在すること自体は疑いようのない事実だ。ならば、この近辺のどこかに住んでいることは間違いないだろう。

 問題は、それに付随する噂が真実か否か。また、響紀が会った(魅せられたと言うべきかも知れない)女性と同一人物か否かである。

 そこまで考えて、奈央は頭を振った。また、自分の悪い癖が出てしまった。ついつい考え込んでしまうこの癖を、奈央はどうにかしたかった。もっと気楽に気にせず生きていけたら良かったのに。そうすれば、或いは響紀とももう少し仲良くなれただろうか?

 奈央は雨に打たれながら、ゆっくりと自転車を漕いでその家の前を通過する。衣服が肌に張り付いて気持ちが悪かった。やはり自転車を置いてバスで帰るべきだった。後悔先に立たずだ。

 奈央はすっと廃屋の方に視線を向けた。暗がりの中、ぼんやりと浮かび上がるその家にはやはりどこにも生気はなくて。ただその空間だけ何もない、空っぽのようだ、と奈央は感じた。確かに家はそこにある。にも関わらず、そこには"何もない"ように思えてならなかったのだ。

 いったい、この感覚の正体は何なんだろう。

 首を傾げた、その時だった。

「えっ……?」

 突然右腕を誰かにぐっと掴まれた感覚がして、奈央は思わずブレーキを掛け、自転車を停めた。

「な、なに、今の?」

 振り返ってみても、そこには人影などなく、ただ暗がりの中に廃屋が佇んでいるだけだった。車道側には相変わらず多くの車が列を成して並んでおり、ヘッドライトが地を明るく照らし出している。どこにも変わった所などなく、普段の光景がそこにはあった。

 気のせいだったのだろうか、と奈央はほっと息を吐き出し、右腕に眼を向け、そして再び息を飲んだ。

 そこにははっきりと、人の手形が残されていたのである。

 奈央は眼を見開き、戦慄した。その瞬間、世界から全ての音が消え去る。雨の音も、風の音も、すぐ脇を走っているはずの自動車の走行音すらも聞こえなくなり、視界が次第にボヤけていった。あまりの事に恐怖以外の感情を脳が理解できず、まるで全てが闇に閉ざされていくようだった。

 静寂に満たされ身動きもならないまま、奈央はただ立ち尽くす。雨に打たれながら、しかしその感覚すら徐々に奪われつつあった。

 荒くなる呼吸、早鐘を打つ心臓、震える手足、その全てに奈央の身体は支配されていく。

 そんなはずはない、と奈央は僅かに首を横に振った。誰も居なかったはずなのに、腕を掴まれるなんて事、あるはずがない。そもそも私は自転車で走っている最中だったのだ。どうすればこんなに痕が残るほど腕を強く掴めるというのか。

 動揺する奈央を嘲笑うかのように、山の木々が騒めき始めた。その音は無音に包まれた耳に一際大きく響き、奈央は顔を強張らせた。思わず山の方に顔を向け……その先の闇の中に、蠢く何かを奈央は目にした。

 それらは一つや二つではなく、数え切れないほどの何かの影に奈央には見えた。人のようでもあり、獣のようでもあり、しかしその影は曖昧で定まらず、ゆらゆらと揺らめいているようだった。

 それらが闇の中でじっと奈央を見据えているのが解り、それから逃れるように、奈央は視線を前に戻した。耳に入る木々の騒めきはやがて下卑た人の嗤い声に変わり、奈央は堪らずペダルに足を掛け、逃げるようにして駆け出した。

 何が起きているのかは解らない。けれど、一刻も早く、奈央はこの場から立ち去りたかった。

 一気に峠を登り切り、そのままの勢いで下る頃には奈央を包んでいた静寂はすっかり拭い払われていた。

 顔や身体に当たる雨音、自転車や自動車の走行音、そして風を切る音。普段の音を取り戻したが、しかしそれでも奈央は自転車を走らせ続けた。

 立ち止まれば先程の闇が追いかけて来そうな気がして、奈央は気が気ではなかったのだ。

 奈央は必死に自転車を漕いで家に帰り着くと、投げ捨てるようにして自転車を玄関先に立て掛け、家の中に飛び込み鍵を掛けた。

 肩で息をしながら、大きく溜息を吐く。

 その音に気付いてか、小母が台所から顔を覗かせながら、
「お帰りなさい、奈央ちゃん。随分遅かったのね。雨は大丈夫だった……?」とそこでびしょ濡れになった奈央の姿に驚きの表情を浮かべた。「どうしたの、そんなに濡れて! 風邪ひいちゃうわよ! 今、タオル持ってくるから、ちょっと待ってなさい!」
 そう言って、慌てたように小母は風呂場へ駆け込んで行った。

 その間、奈央は滴る水をそのままに、呆然と玄関に立ち尽くしていた。荒い息を整えながら、何とかして気を落ち着かせようと努力する。今だ続く恐怖という感情が拭い切れず、ややもすれば闇が背後の扉を叩きそうな気がしてならなかった。

 身体の震えが止まらないのはその為か、それとも雨に打たれて冷えたからか。何れにせよ、奈央の心は今にも壊れてしまいそうだった。

「……はい、タオル。とりあえずそれで髪とか身体を拭いて、早くシャワー浴びて着替えちゃいなさい」

 そう言って小母がタオルを持って玄関まで戻って来た時、奈央は思わず濡れたままの身体で小母に抱き付いていた。

「え、なに、どうしたの奈央ちゃん?」

 驚く小母のその問いに、しかし奈央は答えられなかった。今はとにかく、小母の温もりを感じたくて仕方がなかったのだ。

 小母もそれ以上は何も言わなかった。まるで何かを悟ったかのように、奈央の身体をぎゅっと強く抱きしめ、その濡れた頭を撫でてくれる。

 奈央はそんな小母の優しさに、雨と不安に冷えた心が温まっていくのを感じるのだった。
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