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第1部 第1章 喪服の少女

第2回

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 その夜。奈央はなかなか眠ることが出来ず、部屋を出て居間に座り、一人コーヒーを飲んでいた。ブラックは飲めないので、ミルクと砂糖を多めに入れている。元々コーヒー自体好きではないが、今日の夜は何となく飲んでみたくなったのだ。

 口の中に広がるコーヒーの香りはどこか優しくて、奈央はほっと一息吐いた。

 あの後、奈央はすぐに仕事に出掛けていた小母に連絡をとった。仕事中は携帯電話を持てない為、折り返しの電話があったのは夕方になってからだった。

 小母は奈央の話を聞き、優しく「大丈夫よ」と答えた。

「きっと友達の所にでも行ってるんじゃないかしら。あの子、昔からそうなのよね。中学校の頃なんて、お父さんと大喧嘩して飛び出して行ったきり、二、三日帰ってこなかったことがあったから。そのうち戻ってくるだろうから、そんなに心配しなくて大丈夫よ」

 奈央はその言葉に一度は納得したが、けれど夜になっても戻って来ない響紀を心配せずには居られなかった。

 ここ数日あんなに様子のおかしかった響紀を、本当に放っておいて大丈夫なのだろうか。探しに行った方が良かったのではないだろうかと考えれば考えるほど、眠れなかった。

 小母はすでに就寝しており、小父は仕事が忙しいらしく、今日は会社に泊まるという。

 ひっそりとした居間に聞こえてくるのは、外で鳴く蛙や虫の音くらいのものだ。どこかで時々犬が吠えているが、それもやがて聞こえなくなった。テレビを付けようかとも思ったけれど、その音で小母さんを起こしてしまっては申し訳ないと思いとどめた。

 小説でも読んでいれば、そのうち眠くなるだろうか。

 そう思い、奈央は自室から文学短編集を持ち出すと、いくつも収められている作品の中から坂口晏吾の『満開の桜の森の下』を読み始めた。

 それはこんな小説だった。

 ある山賊が都に住む美しい女を誘拐し、何人目かの妻にする。けれど彼女は我儘にして残酷であり、山賊に他の女房どもを皆殺しにするよう命じた。山賊はこれに抗うことが出来ず、女の言う通りに他の女房たちを皆殺しにする。

 それからも彼女の我儘は続いた。彼女が欲しいと言ったものを奪っては与え、殺してくれと言った奴は殺していった。

 彼女の言葉に翻弄される山賊。

 やがて満開の桜の森の下を、彼女を背負って歩いていると、突然彼女の姿が鬼に変化し、山賊はこれを斬り殺してしまう。

 しかし気が付いてみればそれはやはりただの女であり自分の妻で。

 その死体に降りかかる桜の花びらを取ってやろうと山賊が手を伸ばすと、不意に彼女の身体は桜の花びらの中に掻き消えていった。そしてその花びらに手を伸ばした山賊の手もまた同じく消えてしまうのだった――

 奈央はこれを読み終えた時、何故かこの山賊と響紀を重ね合わせていた。あの喪服の少女に翻弄されているのではないか、だからこそあんなに挙動不審になってしまったのではないか。あの響紀の様子なら、或いは本当に罪を犯してしまってもおかしくはないとまで考えた。

 その時だった。

 がさり、と草場を踏むような音が窓の向こうから聞こえてきたのだ。続いてカチャンッと門扉が開くような音。それを聞き、奈央は響紀が帰ってきたのだと思った。持っていた本を脇に置くと立ち上がり、そっと窓辺に寄ってカーテンの隙間から玄関扉の方を覗き見る。

 けれど、そこに人影など見えなくて。

 もしかしたら別の家から聞こえてきた音だったのだろうか?

 そう思いながら椅子に戻ろうとして――玄関扉ではなく、そのもっと手前、門扉の前に佇む黒い人影に奈央は気づいた。けれどその姿形は酷く不明瞭で捉えづらく、視線を僅かに逸らしただけで掻き消えてしまいそうなほど不確かだった。

 あれは何? 人なの?

 不安に思いながらも、もっとよく見て確かめてみようと眼を凝らし――

「……きゃぁっ!」

 突然背後から肩を掴まれ、奈央は思わず声を上げた。目を見開き、大きく後ろを振り向く。

 果たしてそこには、寝巻きにショールを巻いた小母が、驚いたように目を丸くして立っていた。

「ご、ごめんなさいね、驚かせちゃって……」

 謝る小母に対して、奈央は胸を撫で下ろしながら首を横に振る。

「あ、ううん…… 私も変な声だしちゃって、ごめんなさい……」

「ああ、気にしないでね」と小母も同じように首を振りつつ、「急に肩を叩いた私が悪かったのよ。それよりどうしたの? 窓の外に何かあった?」

 問われて奈央はこくりと頷いた。もう一度カーテンを僅かに開き、そこから見える門扉の方を指差しながら小母に顔を向ける。

「あそこに、人影が見えるの」

「人影?」

 小母は奈央の隣に並び、窓の外を覗き見た。けれどそこには人影など見えなくて。ただ見慣れた景色が街灯の薄暗い灯りに照らされているだけだった。

「あれ?」と奈央は首を傾げた。「おかしいな、さっきは確かに居たのに……」

「きっと響紀ね」言って小母は小さく笑った。「昔からそう。あの子はプライドが高いから、自分からはなかなか謝れなくて、遠くからこっちをじっと見てるの。で、こっちが目を合わせるとそそくさと逃げ出しちゃって」

「どこかに隠れてるってこと?」

「どうかな」小母はもう一度門扉に目を向けながら、「たぶん、また友達の家に戻っちゃったんじゃないかしら。前にも何度かこういうことあったし。まあ、何日かしたら、何事も無かったみたいに帰ってくるんじゃないかな」

 その言葉に奈央は頷き、ちらりと門扉に目をやった。だが当然のように、そこには誰の姿も見当たらなくて。

 奈央はカーテンを閉め直すと、ため息を一つ吐いてから胸を張って大きく伸びをした。何だかどっと疲れたような気がする。ずっと気を張っていたからだろうか。

「奈央ちゃんも、そろそろ寝ないと」小母は言って、奈央の頬に手をやった。「あんまり夜更かししたら、その綺麗な肌が荒れちゃうわよ?」

 その手は細かったけれど柔らかくて、暖かくて、奈央は小母にそうしてもらうのが幼い頃から大好きだった。たぶん、そこに『優しい母親』を見ているのだろうと奈央は自覚している。実の母親を思えばこそ、奈央にとって小母は唯一無二の存在だった。

「……うん。おやすみなさい、小母さん」

「おやすみ、奈央ちゃん」

 挨拶を交わすと、奈央は小さく欠伸を漏らしながら、自室へと戻るのだった。
 
 



 翌朝、やはり響紀の姿は家の中のどこにも見当たらなかった。結局あれっきり戻っては来なかったようだ。肩を落とす奈央に、小母は「大丈夫だから」と笑顔で言って頭を優しく撫でてくれた。

「そんなに気にしないで」

 奈央はそれに対し、なるべく精一杯の笑顔で「うん」と小さく頷いた。

 軽く朝食を摂り、いつものように慣れた手つきで制服に着替える。夏服で半袖とは言え、若干の蒸し暑さを感じた。それから忘れ物がない事を確認し、「行ってきます」と小母に挨拶をしてから奈央は家を出た。玄関先に止めた自転車を引きながら、門扉に向かう。その白く塗られた門に手を伸ばした時、奈央ははたと気が付いた。

「なに、これ……?」
 奈央は思わず独り言ちる。

 取っ手の部分が薄っすらと濡れており、何となく生臭いにおいが立ち籠めていたのだ。

 水自体もどこか緑の藻のようなものを含んでおり、何だか気持ちが悪い。何だろう、と水の滴る先、足元の方に目をやれば、乾き始めた足跡のようなものがそこにはあった。

 響紀の足跡? それにしても、どうして濡れてるの? 昨日、雨なんか降ったっけ……?

 奈央は不思議に思いながらも、なるべくその汚れた水に触れないよう門を開けると自転車に跨り、たっと勢いよく地面を蹴った。
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