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第1部 第1章 喪服の少女

第1回

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 父との不和、と言うほど重いものではなかった。

 男手一つで自分を育ててくれた父のことは大好きだったし、自分の為に仕事を頑張ってくれていることにも心から感謝していた。子育てに興味を示さなかった母と離婚してからというもの、その苦労を目にしてきた奈央にとって、父の背中はとても偉大だった。転勤の多い仕事であった為に幼い頃から各地を転々としてきたことに対し、父は常に奈央に「苦労かけてごめんな」と謝っていた。けれど、いざ高校を受験する時になって「独り暮らしがしたい」と打ち明けた時のその形相を、奈央はこれまで一度たりとも見たことがなかった。父は奈央の独り暮らしを猛反対し、決して認めようとはしなかったのだ。

 恐らくその話をしてからだろう、父との関係がぎくしゃくしだしたのは。

 小学生の頃に初潮を迎え、父との関係が微妙に悪くなったあの時と同じような気まずさを感じながらも、それとはまた異なる態度に奈央は戸惑った。少しでも父の負担を減らしたかったし、父娘の二人暮らしで培った家事の腕があればある程度は何でも出来るという自負があったからだ。

 けれど父はそれを口にしても奈央の独り暮らしを一切認めず、それならば仕事を転職するとまで言いだした。すでにそれなりの実績を積んできた仕事を辞めるだなんて、と奈央は困惑した。それでは意味がないと思った。自分の為に、父がこれ以上犠牲になるのがどうしても耐えられなかったのだ。

 そんな二人の間に割って入ってきたのが、昔から付き合いのあった遠縁の相原家の小母だった。父の話によれば曾祖父の分家筋の家系らしく、父が母と離婚して以降、奈央には母親代わりの存在だった。年に数回しか顔を合わせることはなかったけれど、父親には相談しづらい事を、奈央はいつも小母に電話で相談していたのだ。

 父、奈央、小母、小父の四人で話し合いの場を設けた結果、独り暮らしはやはり危ないだろうし心配だろうからと、相原家に居候させてもらうことになった。これには父も(不承不承ながら)納得し、晴れて奈央は父から離れて暮らすようになった。それが奈央の通う鯉城高校に入学した、去年の春の事である。

 ところが一つだけ問題があった。

 相原家の一人息子、響紀との関係である。

 奈央が相原家で暮らし始める前から、響紀とはあまりそりが合わなかった。常に不機嫌そうな顔でぶっきらぼうなあの態度がどうにも苦手で、奈央はあまり響紀には関わらないようにしてきたのだ。

 幼い頃から何度も父と共に相原家を訪れていたが、響紀と顔を合わせる度にどこか所在の無さを感じていた。恐らく、響紀の両親――小父や小母が自分をまるで本当の娘のように可愛がってくれている事に対する、何らかの後ろめたさからくるものだろう。小父や小母の事は父と同じくらいに大好きだったし、一緒に暮らし始めてからはより親密になっていったけれど、逆に響紀との溝はどんどん深まっていくばかりだった。

 奈央だって、別に響紀のことを嫌っているわけではない。昨年の梅雨ごろに奈央が不審者に狙われた際にも身を張って助けてくれたし、その事には感謝もしている。ただ、どうしてもあの睨みつけるような眼が奈央を素直にさせないのだ。

 小母もその事をいつも心配しており、申し訳無さそうに「ごめんなさいね」と言うのが口癖になっていた。その言葉を聞く度に奈央は心苦しくなり、いっそのこと独り暮らしが出来れば良かったのにと思うほどだった。

 せめて一緒に暮らしている以上はこの気まずさを何とかしなければ。

 そうは思うものの、何をどうすれば良いのかまるで解らず、この一年、ずっと響紀との距離を模索し続けてきた。けれど幼い頃からの苦手意識はなかなか振り払えなくて、例え響紀の方から話し掛けられても、奈央は思わずつっけんどんな態度で返してしまうのだった。

 このままじゃダメだ。小母さんや小父さんの為にも早く何とかしないと。これ以上変な心配をかけさせたくない――

 そんなことを思い悩んでいた、ある日のことだった。

 学校から帰宅した奈央が台所でお茶を飲もうとしていたところに、数日前から仕事を休み、ずっと自室に引きこもっていた響紀と偶然、出くわしたのだ。

 奈央は「あっ……」と小さく口にしたけれど、次にどう声を掛ければいいのか判らず、戸惑った。響紀も驚いたような表情を見せ、しげしげと奈央の全身を見つめてくる。

「……なに?」

 その明らかに挙動不審な様子に、奈央は思わず棘のある言い方をしてしまっていた。

 しまった、と思いすぐに謝ろうとしたけれど時すでに遅く、響紀は顔を顰め奈央をじっと睨み返すと、そのまま居間へと抜けて行くのだった。

 そのさまを見て、奈央はどうしても響紀を放っておく事が出来なかった。それは最近様子のおかしい響紀を心配しての行動であったのと同時に、一緒に過ごす家族として、少しでも距離を縮めておきたかったからだ。

 奈央は電気ケトルに水を入れるとスイッチを入れ、コーヒーの準備をする。甘い物があった方が良いだろうかと思い、戸棚を漁ってみたが、生憎コーヒーの請けになりそうなものは何一つ見当たらなかった。その間、ちらちらと響紀の様子を窺ってみたが、彼はテレビのバラエティ番組を付けたまま、ただぼうっとしているだけだった。

 本当にどうしてしまったのだろうか? 数日前に喪服の女の子の話をして以来、どうにも言動がおかしくなってしまったような気がする。今の響紀を見ていると、奈央は何故か心がざわついて仕方がなかった。

 やがてお湯が沸き、奈央はマグカップに熱々のお湯を注いだ。自分はコーヒーが苦手なのでお茶を自分のマグカップに注ぎ、それらを両手に持って居間へ向かう。

 これをきっかけに少しでも距離が縮まれば、或いは何か話をする事が出来るかもしれない。笑顔、笑顔、と心のうちで念じながら、精一杯の笑顔で響紀にコーヒーを差し出した。

「――はい。何イライラしてるの? ちょっと落ち着いたら?」

 けれど、それに対する響紀の行動は、奈央を狼狽させるには十分過ぎるほどだった。

 彼は奈央の顔を見た途端、気持ちの悪い笑みを浮かべたかと思うと、突然奈央の肩に手をやり、抱き寄せようとしてきたのである。

 奈央は咄嗟に身を揺すってそれを拒み、眼を見張った。

「ちょ、ちょっと、なにっ! は、離して……!」いったい、どういうつもりなのだろうか、と焦りながら、「いま、私に、何を……」

 しようとしたの、と問おうとして、響紀もまた同じように狼狽している事に気がついた。

 なに? その顔は。どうしてそんなに驚いたような顔をしているの? もしかして、誰かと私を見間違えた? でも、誰と?

 そう考えた時、奈央の脳裏に浮かんだのは、あの、喪服の少女の事だった。

 もしかして、最近よく話をしていた、あの喪服の女の子と……?

 でも、どうして私と見間違えたの――?

 様々な疑問が頭を過ぎり、けれどその疑問をうまく口に出す事は出来なかった。

 じっと響紀と視線を合わせたまま、沈黙を続ける。

 互いに一定の距離を保ったまま、一言も口を交わせず、けれどその場から去ることすらできなくて。

 やがてその沈黙に耐えられなくなったのか、響紀は突然奈央に背を向けると、脱兎の如く駆け出した。

 奈央は思わず響紀の背に向かって叫ぶ。

「あ、待って……!」

 けれど、その言葉に対して響紀は決して立ち止まることなく、そのまま派手な音を立てながら家から飛び出していく。

「待って、響紀――!」

 一瞬の戸惑いを経て奈央も慌てて響紀を追って外へ駆けだしたけれど、しかし玄関から外に出た時にはすでに、響紀の姿はどこにもなかった。

 そしてこれが彼に対し、『響紀』とその名を呼んだ、最初で最後となったのだった。
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