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幕間・春
蝌蚪の水
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冷たかった。
痛かった。
汚かった。
水が、流れていた。
その水はどこからか続いている灰色の筒から、庭の小さな緑色の池に流れ込んでいた。
池の中には黒い小さなお魚がたくさん泳いでいて、私はぼんやりとそれを見ていた。
時々庭を囲む高い木々の向こう側から車の走る音や人の声が聞こえてくるけれど、庭の中はこの水の音より他は、いつも静かだった。
下着姿に裸足でいると、まだ少し寒かった。
だけど、雪が降らなくなっただけマシだった。
私は赤くなった手を擦りながら、小さく、長く、ため息を吐いた。
もしお父さんやお母さんの前でこんな息を吐いていたら、すぐに叩かれたり蹴られたりしていただろう。
この庭にいる時だけ、私はため息を吐くことができた。
庭の小石が足の裏に刺さって痛かったけれど、そんな小さな痛みなんて気にはならなかった。
誰も気にしなければ、私さえ気にしなければ、そんな痛みなんて無いのとおんなじことだから。
「おい、そこで何しよんや」
突然後ろから声をかけられて、私は驚きながら振り向いた。
そこにはお父さんが裸で立っていた。
いつもの怒ったような顔じゃなくて、にやにやと笑って。
私は池のお魚を指差しながら答えた。
「……黒いお魚、見てた」
「魚ぁ?」
お父さんは大きな身体を揺らしながら私のすぐ後ろまでやってきて、肩越しに池の中を覗き込んだ。
「なんだ、オタマジャクシか」
「オタマジャクシ?」
「カエルの子どもだ」
「……カエルの、子ども」
呟いた私はもう一度オタマジャクシに目を向けた。
ちょろちょろと泳ぐオタマジャクシの姿は、私の知る緑色のカエルとは全然似ていなくて、お父さんの言っていることが、まるでわからなかった。
そんな私の体に、お父さんは手を伸ばしながら言った。
「……実はな、白いオタマジャクシってぇのもいるんだが」
楽しそうに、私の顔を覗き込む。
「……見てみたいか?」
私はその言葉に、少しだけ考えて、小さく、頷いた。
もし本当に白いオタマジャクシがいるのなら、一度でいいから、見てみたかった。
ただ、それだけだった。
「よし。なら、着いて来い」
そう言ってお父さんは私の右腕を掴むと、お家の中へ引っ張っていった。
連れて行かれたのは、いつものお部屋だった。
どこにも水なんてなくて。
オタマジャクシなんていなくて。
あるのは私の仕事道具ばかりで。
お母さんが裸のまま、畳の上で大きなイビキをかいて寝ていた。
「どこにいるの? 白いオタマジャクシ……」
私がきくと、
「今から、出してやっからよ――」
そう言ってお父さんは私の体を突き飛ばすと、私の上に覆いかぶさってきた。
その顔は、いつもの怒ったお父さんの顔だった。
……それからのことを、私はよく覚えていない。
多分、いつものように怒られていたんだと思う。
何か悪いことをしただろうか?
何か怒られるようなことをしただろうか?
何かしなければならないことをやらなかっただろうか?
……わからなかった。
どうして怒られているのか、まるでわからなかった。
喉の奥から何かが出てくる嫌な感じで、私は気が付いた。
大きく咳き込み、思わず両手で喉の奥から吐き出されたものを受け止めていた。
苦しかった。
涙が流れていた。
体中が汗やドロドロした何かで汚れていた。
ふと手の平に目をやると、そこには白いドロドロとした水が溜まっていた。
私はまた咳き込みながら、その見慣れた水を吐き出す。
「ほら、見えるだろう、その中に」
汗だくのお父さんがにやにやと笑いながら、私の手の平に溜まった水を指差した。
何を言っているのか、わからなかった。
見える? 何が?
そこに見えるのは、汚い水だけだった。
毎日のようにやってくる男の人たちが残していく、白く汚い、ドロドロとした汚い水。
ただ、それだけなのに。
「その中に、お前が見たがってた白いオタマジャクシがたくさんいるのさ」
そう言って、お父さんは大きな声でおかしそうに笑った。
白いオタマジャクシ……?
この中に……?
だけど、どんなに目を近づけてみても、そんなものは見えなくて。
「お前だって、昔はその中の一匹だっただろうが」
私が、この汚い水の中の、オタマジャクシの一匹……?
意味がわからなかった。
お父さんが何を言っているのか、まるでわからなかった。
私が、オタマジャクシ……?
カエルの、こども……?
首を傾げる私を見て、お父さんは大笑いした。
私はただぼんやりと、それを見ていることしかできなかった。
しばらくして、私はまた庭に出て小さな池の前に立っていた。
ひんやりとした風が吹いて、空は黒くなり始めていた。
足の裏に、小さな小石が突き刺さって痛かった。
見下ろした汚い池には、さっき見た時と同じように、沢山のオタマジャクシが泳いでいる。
私はその池の中に、そっと右手を差し入れ、逃げ惑うオタマジャクシを一匹、掬い上げた。
手の平の中で、黒いオタマジャクシはぬらぬらと苦しそうに踊っている。
私はそんなオタマジャクシをぼんやりと見つめて……
冷たかった。
痛かった。
汚かった。
水が、流れていた。
私はその手の平を、力いっぱい、握りしめた。
『蝌蚪の水』 了
痛かった。
汚かった。
水が、流れていた。
その水はどこからか続いている灰色の筒から、庭の小さな緑色の池に流れ込んでいた。
池の中には黒い小さなお魚がたくさん泳いでいて、私はぼんやりとそれを見ていた。
時々庭を囲む高い木々の向こう側から車の走る音や人の声が聞こえてくるけれど、庭の中はこの水の音より他は、いつも静かだった。
下着姿に裸足でいると、まだ少し寒かった。
だけど、雪が降らなくなっただけマシだった。
私は赤くなった手を擦りながら、小さく、長く、ため息を吐いた。
もしお父さんやお母さんの前でこんな息を吐いていたら、すぐに叩かれたり蹴られたりしていただろう。
この庭にいる時だけ、私はため息を吐くことができた。
庭の小石が足の裏に刺さって痛かったけれど、そんな小さな痛みなんて気にはならなかった。
誰も気にしなければ、私さえ気にしなければ、そんな痛みなんて無いのとおんなじことだから。
「おい、そこで何しよんや」
突然後ろから声をかけられて、私は驚きながら振り向いた。
そこにはお父さんが裸で立っていた。
いつもの怒ったような顔じゃなくて、にやにやと笑って。
私は池のお魚を指差しながら答えた。
「……黒いお魚、見てた」
「魚ぁ?」
お父さんは大きな身体を揺らしながら私のすぐ後ろまでやってきて、肩越しに池の中を覗き込んだ。
「なんだ、オタマジャクシか」
「オタマジャクシ?」
「カエルの子どもだ」
「……カエルの、子ども」
呟いた私はもう一度オタマジャクシに目を向けた。
ちょろちょろと泳ぐオタマジャクシの姿は、私の知る緑色のカエルとは全然似ていなくて、お父さんの言っていることが、まるでわからなかった。
そんな私の体に、お父さんは手を伸ばしながら言った。
「……実はな、白いオタマジャクシってぇのもいるんだが」
楽しそうに、私の顔を覗き込む。
「……見てみたいか?」
私はその言葉に、少しだけ考えて、小さく、頷いた。
もし本当に白いオタマジャクシがいるのなら、一度でいいから、見てみたかった。
ただ、それだけだった。
「よし。なら、着いて来い」
そう言ってお父さんは私の右腕を掴むと、お家の中へ引っ張っていった。
連れて行かれたのは、いつものお部屋だった。
どこにも水なんてなくて。
オタマジャクシなんていなくて。
あるのは私の仕事道具ばかりで。
お母さんが裸のまま、畳の上で大きなイビキをかいて寝ていた。
「どこにいるの? 白いオタマジャクシ……」
私がきくと、
「今から、出してやっからよ――」
そう言ってお父さんは私の体を突き飛ばすと、私の上に覆いかぶさってきた。
その顔は、いつもの怒ったお父さんの顔だった。
……それからのことを、私はよく覚えていない。
多分、いつものように怒られていたんだと思う。
何か悪いことをしただろうか?
何か怒られるようなことをしただろうか?
何かしなければならないことをやらなかっただろうか?
……わからなかった。
どうして怒られているのか、まるでわからなかった。
喉の奥から何かが出てくる嫌な感じで、私は気が付いた。
大きく咳き込み、思わず両手で喉の奥から吐き出されたものを受け止めていた。
苦しかった。
涙が流れていた。
体中が汗やドロドロした何かで汚れていた。
ふと手の平に目をやると、そこには白いドロドロとした水が溜まっていた。
私はまた咳き込みながら、その見慣れた水を吐き出す。
「ほら、見えるだろう、その中に」
汗だくのお父さんがにやにやと笑いながら、私の手の平に溜まった水を指差した。
何を言っているのか、わからなかった。
見える? 何が?
そこに見えるのは、汚い水だけだった。
毎日のようにやってくる男の人たちが残していく、白く汚い、ドロドロとした汚い水。
ただ、それだけなのに。
「その中に、お前が見たがってた白いオタマジャクシがたくさんいるのさ」
そう言って、お父さんは大きな声でおかしそうに笑った。
白いオタマジャクシ……?
この中に……?
だけど、どんなに目を近づけてみても、そんなものは見えなくて。
「お前だって、昔はその中の一匹だっただろうが」
私が、この汚い水の中の、オタマジャクシの一匹……?
意味がわからなかった。
お父さんが何を言っているのか、まるでわからなかった。
私が、オタマジャクシ……?
カエルの、こども……?
首を傾げる私を見て、お父さんは大笑いした。
私はただぼんやりと、それを見ていることしかできなかった。
しばらくして、私はまた庭に出て小さな池の前に立っていた。
ひんやりとした風が吹いて、空は黒くなり始めていた。
足の裏に、小さな小石が突き刺さって痛かった。
見下ろした汚い池には、さっき見た時と同じように、沢山のオタマジャクシが泳いでいる。
私はその池の中に、そっと右手を差し入れ、逃げ惑うオタマジャクシを一匹、掬い上げた。
手の平の中で、黒いオタマジャクシはぬらぬらと苦しそうに踊っている。
私はそんなオタマジャクシをぼんやりと見つめて……
冷たかった。
痛かった。
汚かった。
水が、流れていた。
私はその手の平を、力いっぱい、握りしめた。
『蝌蚪の水』 了
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