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序章・奈央
第35回
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***
何とかしなくちゃ。もっと自分から積極的に関わって、響紀に家族として見てもらわなくちゃ。あの日からの数日間、奈央はそんなことばかりを考えていた。せめて一緒に暮らしている以上は、この気まずさを何とかしなければ。
あの日の翌日、一晩寝て頭を冷やした奈央は、響紀に謝ろうと努めた。必ずしも自分が悪いなどとは思っていない。けれど、響紀と真正面から会話をする為には、まずこちらが折れる必要があると思ったのだ。響紀は頑固だ。決して自分の考えを曲げるようなタイプではない。ならば同じ土俵に立つには、まずこちらが譲歩した方がいい。
それなのに、奈央はやはり、なかなか響紀に話しかけることができなかった。響紀自身が話しかけるなと無言の圧を掛けているような気がして、どうやってもそのタイミングを見計らえなかったのだ。
そして、気が付けば二週間が経過していた。
その間、響紀の様子は日に日におかしくなっていった。茫然自失としていることが多くなり、もともと少なかった口数がさらに減っていった。夜に階下に降りるたびにその姿を目にしてきた奈央にとって、響紀の様子はあまりに異様だった。あのハンカチを机の上に置いて見つめたまま、にやにやとしまらない笑みを浮かべているのだ。そのあまりの気味悪さに、奈央はどうしても声を掛けることができなかった。
なんだろう、いったい響紀に何が起きているんだろう。まるであの喪服の少女に――響紀の言うところでは喪服の女に――完全に心を奪われてしまったようだった。
そんなある日のことだった。
学校から帰宅した奈央が台所でお茶を飲もうとしていたところに、数日前から仕事を休み、ずっと自室に引きこもっていた響紀が現れたのだ。
ただでさえ様子のおかしい響紀との遭遇に、奈央は一瞬「あっ……」と小さく口にする。
仕事で揉めた、とだけ言って以来、響紀はこの数日間、ずっと鬱々とした様子で家にいた。
バイトすらしたことのない奈央にとって、働くということの大変さは解らない。何をどうして揉めたのか、小父も小母も何度も訊ねたけれど、響紀の答えは「色々あるんだよ」「上司とちょっとな」と曖昧な言葉ばかりだった。奈央の居ないところで何度も三人は話し合いをしていたようだけれど、結局どうなったのか奈央は知らない。或いはこのまま仕事を辞めてしまうのだろうか。
そんな響紀にいったい何をどう話せばいいのだろうか、と考えている間、響紀の方もまた驚いたような表情でしげしげと奈央の全身を見つめてくる。そしてやおら眉間に皺を寄せると、じっと奈央を睨みつけてきた。
「……なに?」
その明らかに挙動不審な様子に、奈央は思わず棘のある言い方をしてしまっていた。
しまった、と思いすぐに謝ろうとしたけれど、時すでに遅く、響紀はそのまま居間へと抜けてテレビをつけ、胡坐をかいてこちらに背を向けてしまった。
その様を見て、奈央はどうしても響紀を放っておく事が出来なかった。何があったのか詳しく知らないけれど、今こそ話を聞いてあげることはできないだろうか、とそう思った。
電気ケトルに水を入れるとスイッチを入れ、湯を沸かしている間に奈央は響紀のマグカップを用意し、そこに粉末コーヒーとミルクを入れた。甘い物があった方が良いだろうかと思い、戸棚を漁ってみたが、生憎コーヒーの請けになりそうなものは何一つ見当たらなかった。その間、ちらちらと響紀の様子を窺ってみたが、彼はテレビのバラエティ番組を付けたまま、ただぼうっとしているだけだった。
本当にどうしてしまったのだろうか? 二週間前に喪服の女の子の話をして以来、どんどん様子がおかしくなっていっている。そんな響紀を見ていると、奈央は何故か心がざわついて仕方がなかった。
やがてお湯が沸き、響紀のマグカップに熱々のお湯を注ぐと、スプーンで十分に掻き混ぜる。自分はコーヒーが苦手なので、代わりにお茶を自分のマグカップに注ぎ、それらを両手に持って居間に向かった。
これをきっかけに、少しでも距離が縮まれば――
奈央は思いながら、笑顔、笑顔、と心の中で念じつつ、精一杯の笑顔で響紀にコーヒーを差し出した。
「――はい。何イライラしてるの? ちょっと落ち着いたら?」
けれど、それに対する響紀の行動は、奈央を狼狽させるには十分過ぎるものだった。
響紀は奈央の顔を見た途端、気持ちの悪い笑みを浮かべたかと思うと、突然その手を奈央の肩に伸ばし、抱き寄せようとしてきたのである。
「ちょ、ちょっと、何っ? は、離して……!」
奈央は咄嗟に身を揺すってそれを拒み、眼を見張った。
「……え」
と奈央から手を放し、あと退る響紀。
そんな響紀に奈央は、
「いま、私に、何を……」
しようとしたの、と問おうとして、響紀もまた同じように狼狽している事に気がついた。
なに? その顔は。どうしてそんなに驚いたような顔をしているの? もしかして、誰かと私を見間違えた? でも、誰と?
その瞬間、奈央の脳裏に喪服少女の姿が思い浮かんだ。
もしかして、最近よく話をしていた、あの喪服の女の子と……? でも、どうして私と見間違えたの?
そして同時に浮かび上がる、一年前に言葉を交わした一人の少女――石上麻衣。あの子もやはり、私のことを喪服の女の子と勘違いして――
どういうこと? 私、そんなにあの子と似てるの?
奈央は動揺しながらじっと響紀と視線を合わせ、沈黙を続ける。互いに一定の距離を保ったまま、その場から去ることすらできなくて。
やがてその沈黙に耐えられなくなったのか、響紀は突然奈央に背を向けると、脱兎の如く駆け出した。
「あ、待って……!」
奈央は思わず響紀の背に向かって叫んだ。
けれど響紀は決して立ち止まることなく、そのまま派手な音を立てて玄関から外へ飛び出していった。
「待って、響紀――!」
一瞬の戸惑いを経て奈央も慌てて響紀を追って駆けだしたけれど、しかし玄関から外に出た時にはすでに、響紀の姿はどこにもなかった。
そしてこれが彼に対して『響紀』とその名を呼んだ、最後となったのだった。
何とかしなくちゃ。もっと自分から積極的に関わって、響紀に家族として見てもらわなくちゃ。あの日からの数日間、奈央はそんなことばかりを考えていた。せめて一緒に暮らしている以上は、この気まずさを何とかしなければ。
あの日の翌日、一晩寝て頭を冷やした奈央は、響紀に謝ろうと努めた。必ずしも自分が悪いなどとは思っていない。けれど、響紀と真正面から会話をする為には、まずこちらが折れる必要があると思ったのだ。響紀は頑固だ。決して自分の考えを曲げるようなタイプではない。ならば同じ土俵に立つには、まずこちらが譲歩した方がいい。
それなのに、奈央はやはり、なかなか響紀に話しかけることができなかった。響紀自身が話しかけるなと無言の圧を掛けているような気がして、どうやってもそのタイミングを見計らえなかったのだ。
そして、気が付けば二週間が経過していた。
その間、響紀の様子は日に日におかしくなっていった。茫然自失としていることが多くなり、もともと少なかった口数がさらに減っていった。夜に階下に降りるたびにその姿を目にしてきた奈央にとって、響紀の様子はあまりに異様だった。あのハンカチを机の上に置いて見つめたまま、にやにやとしまらない笑みを浮かべているのだ。そのあまりの気味悪さに、奈央はどうしても声を掛けることができなかった。
なんだろう、いったい響紀に何が起きているんだろう。まるであの喪服の少女に――響紀の言うところでは喪服の女に――完全に心を奪われてしまったようだった。
そんなある日のことだった。
学校から帰宅した奈央が台所でお茶を飲もうとしていたところに、数日前から仕事を休み、ずっと自室に引きこもっていた響紀が現れたのだ。
ただでさえ様子のおかしい響紀との遭遇に、奈央は一瞬「あっ……」と小さく口にする。
仕事で揉めた、とだけ言って以来、響紀はこの数日間、ずっと鬱々とした様子で家にいた。
バイトすらしたことのない奈央にとって、働くということの大変さは解らない。何をどうして揉めたのか、小父も小母も何度も訊ねたけれど、響紀の答えは「色々あるんだよ」「上司とちょっとな」と曖昧な言葉ばかりだった。奈央の居ないところで何度も三人は話し合いをしていたようだけれど、結局どうなったのか奈央は知らない。或いはこのまま仕事を辞めてしまうのだろうか。
そんな響紀にいったい何をどう話せばいいのだろうか、と考えている間、響紀の方もまた驚いたような表情でしげしげと奈央の全身を見つめてくる。そしてやおら眉間に皺を寄せると、じっと奈央を睨みつけてきた。
「……なに?」
その明らかに挙動不審な様子に、奈央は思わず棘のある言い方をしてしまっていた。
しまった、と思いすぐに謝ろうとしたけれど、時すでに遅く、響紀はそのまま居間へと抜けてテレビをつけ、胡坐をかいてこちらに背を向けてしまった。
その様を見て、奈央はどうしても響紀を放っておく事が出来なかった。何があったのか詳しく知らないけれど、今こそ話を聞いてあげることはできないだろうか、とそう思った。
電気ケトルに水を入れるとスイッチを入れ、湯を沸かしている間に奈央は響紀のマグカップを用意し、そこに粉末コーヒーとミルクを入れた。甘い物があった方が良いだろうかと思い、戸棚を漁ってみたが、生憎コーヒーの請けになりそうなものは何一つ見当たらなかった。その間、ちらちらと響紀の様子を窺ってみたが、彼はテレビのバラエティ番組を付けたまま、ただぼうっとしているだけだった。
本当にどうしてしまったのだろうか? 二週間前に喪服の女の子の話をして以来、どんどん様子がおかしくなっていっている。そんな響紀を見ていると、奈央は何故か心がざわついて仕方がなかった。
やがてお湯が沸き、響紀のマグカップに熱々のお湯を注ぐと、スプーンで十分に掻き混ぜる。自分はコーヒーが苦手なので、代わりにお茶を自分のマグカップに注ぎ、それらを両手に持って居間に向かった。
これをきっかけに、少しでも距離が縮まれば――
奈央は思いながら、笑顔、笑顔、と心の中で念じつつ、精一杯の笑顔で響紀にコーヒーを差し出した。
「――はい。何イライラしてるの? ちょっと落ち着いたら?」
けれど、それに対する響紀の行動は、奈央を狼狽させるには十分過ぎるものだった。
響紀は奈央の顔を見た途端、気持ちの悪い笑みを浮かべたかと思うと、突然その手を奈央の肩に伸ばし、抱き寄せようとしてきたのである。
「ちょ、ちょっと、何っ? は、離して……!」
奈央は咄嗟に身を揺すってそれを拒み、眼を見張った。
「……え」
と奈央から手を放し、あと退る響紀。
そんな響紀に奈央は、
「いま、私に、何を……」
しようとしたの、と問おうとして、響紀もまた同じように狼狽している事に気がついた。
なに? その顔は。どうしてそんなに驚いたような顔をしているの? もしかして、誰かと私を見間違えた? でも、誰と?
その瞬間、奈央の脳裏に喪服少女の姿が思い浮かんだ。
もしかして、最近よく話をしていた、あの喪服の女の子と……? でも、どうして私と見間違えたの?
そして同時に浮かび上がる、一年前に言葉を交わした一人の少女――石上麻衣。あの子もやはり、私のことを喪服の女の子と勘違いして――
どういうこと? 私、そんなにあの子と似てるの?
奈央は動揺しながらじっと響紀と視線を合わせ、沈黙を続ける。互いに一定の距離を保ったまま、その場から去ることすらできなくて。
やがてその沈黙に耐えられなくなったのか、響紀は突然奈央に背を向けると、脱兎の如く駆け出した。
「あ、待って……!」
奈央は思わず響紀の背に向かって叫んだ。
けれど響紀は決して立ち止まることなく、そのまま派手な音を立てて玄関から外へ飛び出していった。
「待って、響紀――!」
一瞬の戸惑いを経て奈央も慌てて響紀を追って駆けだしたけれど、しかし玄関から外に出た時にはすでに、響紀の姿はどこにもなかった。
そしてこれが彼に対して『響紀』とその名を呼んだ、最後となったのだった。
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