21 / 247
序章・奈央
第20回
しおりを挟む
いや、そんなはずはない。奈央は思い、首を激しく横に振った。こちらは自転車だったのだ。もしあの時私を追いかけてきていたとしても、この家まで追いつけていたなんて到底思えない。あの音は別の何かだ。それが何かなんてわからない。けれど、あの男がここまで追いかけてきて窓の外から覗き込もうとしているなんて思いたくもなかった。
奈央は溜まりゆく湯船に身を沈めたままぎゅっと身体を抱き寄せ、じっと窓の方を注視する。先ほどの影はもはや見えず、物音ひとつ聞こえてはこない。ただ湯船に湯の溜まる音だけがジョバジョバと浴室に響いている。いつの間にか息を止めていた自分に気づいた奈央は、ゆっくりと、浅く息を吸い、吐いた。それを何度か繰り返したとき、不意にまたガタガタっと物音が外から聞こえ、思わず身を震わせて驚き「ひゃっ」と声を上げた。
次いで聞こえてきたカーッカーッという鳴き声と、翼をはためかせてバサバサと飛び立っていくような音。
――カラス? なんだ、あの音はカラスの立てる音だったんだ。
奈央はほっと安堵の溜息を吐き、緊張で強張っていた身体から力が抜けていくのを感じた。抱きしめていた自分の体から手を放し、もう一度窓の外に目を向け聞き耳を立てる。
うん、聞こえない。大丈夫。
それから奈央は思い出したように蛇口のハンドルに手を伸ばし、湯を止めた。窓の外ばかり気にして危うく溢れるところだった。
たぶん、もう、平気。
奈央は自分に言い聞かせるように胸に手を当て、心の中でそう何度も呟いた。
あれ以来随分神経質になっちゃったな、と奈央はふっと自嘲すると、大きく息を吸いつつ腕を高く上げて身体を伸ばした。それから深い溜息とともに身体をすっと戻す。
――トントン
「っ!」
突然、脱衣所のドアを叩く音が聞こえ、奈央は口から心臓が飛び出さんばかりに驚いた。体が跳ね上がり、ばしゃんっと湯が音を立てて揺れ、縁から零れる。
「……奈央ちゃん、お風呂?」
それは小母の声だった。どうやら帰宅したらしい。案外さっきの音も、カラスだけではなく小母の帰宅した音だったのかもしれない。
奈央は安堵するとともに「あ、うん」と返事して口を開いた。
「ご、ごめんなさい、汗が気になって――」
「ううん、それはいいのよ。そうじゃなくて……」
そこで小母は一旦口ごもった。何だろう、と奈央が思っていると、
「ううん、なんでもないわ。ごめんなさいね、邪魔して。ゆっくりしてて良いからね」
「あ、はい――」
パタパタと去っていく小母の足音が聞こえ、奈央は小首を傾げた。
小母はいったい、何を言わんとしていたのだろうか――?
奈央は溜まりゆく湯船に身を沈めたままぎゅっと身体を抱き寄せ、じっと窓の方を注視する。先ほどの影はもはや見えず、物音ひとつ聞こえてはこない。ただ湯船に湯の溜まる音だけがジョバジョバと浴室に響いている。いつの間にか息を止めていた自分に気づいた奈央は、ゆっくりと、浅く息を吸い、吐いた。それを何度か繰り返したとき、不意にまたガタガタっと物音が外から聞こえ、思わず身を震わせて驚き「ひゃっ」と声を上げた。
次いで聞こえてきたカーッカーッという鳴き声と、翼をはためかせてバサバサと飛び立っていくような音。
――カラス? なんだ、あの音はカラスの立てる音だったんだ。
奈央はほっと安堵の溜息を吐き、緊張で強張っていた身体から力が抜けていくのを感じた。抱きしめていた自分の体から手を放し、もう一度窓の外に目を向け聞き耳を立てる。
うん、聞こえない。大丈夫。
それから奈央は思い出したように蛇口のハンドルに手を伸ばし、湯を止めた。窓の外ばかり気にして危うく溢れるところだった。
たぶん、もう、平気。
奈央は自分に言い聞かせるように胸に手を当て、心の中でそう何度も呟いた。
あれ以来随分神経質になっちゃったな、と奈央はふっと自嘲すると、大きく息を吸いつつ腕を高く上げて身体を伸ばした。それから深い溜息とともに身体をすっと戻す。
――トントン
「っ!」
突然、脱衣所のドアを叩く音が聞こえ、奈央は口から心臓が飛び出さんばかりに驚いた。体が跳ね上がり、ばしゃんっと湯が音を立てて揺れ、縁から零れる。
「……奈央ちゃん、お風呂?」
それは小母の声だった。どうやら帰宅したらしい。案外さっきの音も、カラスだけではなく小母の帰宅した音だったのかもしれない。
奈央は安堵するとともに「あ、うん」と返事して口を開いた。
「ご、ごめんなさい、汗が気になって――」
「ううん、それはいいのよ。そうじゃなくて……」
そこで小母は一旦口ごもった。何だろう、と奈央が思っていると、
「ううん、なんでもないわ。ごめんなさいね、邪魔して。ゆっくりしてて良いからね」
「あ、はい――」
パタパタと去っていく小母の足音が聞こえ、奈央は小首を傾げた。
小母はいったい、何を言わんとしていたのだろうか――?
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説



サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる