11 / 247
序章・奈央
第10回
しおりを挟む
全力で峠を駆け上り、やがて頂上付近の廃屋の前を通り過ぎたところで奈央はようやく自転車を止めた。激しく上下する胸を抑えながら、ぜぇぜぇひゅうひゅう鳴る息を整える。後ろを振り向き、先ほどの男が追いかけて来てはいないことを確認してから、大きな安堵の溜息を吐いた。
逃げるようにしてここまで一気に駆け上がってきたけれど、本当に良かったんだろうか。確証もないまま人を疑ってしまったことに僅かばかり後ろめたさを感じながら、しかしあの後ろ暗い影を背負う笑みを思い浮かべるだけで戦慄が走った。用心するに越したことはない、奈央はそう自分に言い聞かせる。
やがて呼吸が落ち着いたところで、身体が膝頭の痛みを思い出した。ズキズキする傷口には茶色い土埃。せめて汚れだけでも拭いておこうとポケットに手を入れたところで、
「――あれ?」
奈央はハンカチがないことに気が付いた。そんなはずはない。朝、家を出るときに確かに入れたし、何より学校を出る前に入ったトイレで使ったのだから、少なくともその時点まではあったはずだ。なら、いったいどこで落としてしまったのだろうか。
奈央は焦りを覚えた。何故ならばそのハンカチは、奈央が高校に入学した際に父親からプレゼントされた祝いの品だったからだ。隅に薄紅色の朝顔の花が一輪刺繍された、真っ白なハンカチ。どことなく年寄り臭さを感じさせたが、父親が迷いに迷って普段使いできるようにと選んだであろう、今となっては唯一父親との繋がりと思っていたあのハンカチを落としてしまったことに、奈央の顔は青ざめた。
まさか、あの時? 自転車が倒れてこけた時に落とした? 解らない。そう簡単に落ちるとは思えないけれど、その可能性が全く無いわけじゃない。もし学校で落としたのであれば、もしかしたら職員室に誰かが届けてくれているかもしれない。そうであってくれたなら、どれだけいいだろう。でも、もしそうじゃなかったら? さっきこけた時にポケットから落ちたのだとしたら? そのうえで、あの男に拾われていたりでもしたら――
どうしよう、引き返そうか。引き返して、さっきの場所に落ちていないか確かめようか。
けど――怖い。
もしあの怪しげな男が拾っていたりしたら。そしてそれを返してほしいと頼んだ時に、何かを要求されでもしたら。いや、それは疑い過ぎというものだろう。きっと「よかった、どうやってこれを返そうか悩んでいたんだ」と笑顔で返してくれるはずだ。
――本当に?
どうしてそんなことが言いきれる? あの怪しげな笑いを見たでしょう? 本当にあの人が善人だって言える? もし家の中に無理やり引きずり込まれて、犯されたりでもしたら? そんな目に合わないっていう保証でもあるの? もしそうなってしまったら、私には到底太刀打ちできない。だって、あの腕を見たでしょう? 体は細身だったけれど、あの腕の太さはそれなりに鍛えられたもののはずだ。あの腕で羽交い絞めにでもされたら、私には何もできない。あの手で口を押えられたら、首を絞められたら、私なんて叫び声を上げることすらできないだろう。そしてそのまま押し倒されて、身包みを剥がされて――その先は、ただ想像するだけでもとても恐ろしかった。
奈央は頭を振ると、深い溜息を一つ吐いた。
明日の朝、職員室に行ってみよう。もしそれであのハンカチが見つからなければ、諦めよう。わざわざ危険を冒してでも取り戻したいほどのものでもないし、そんなことで父親との繋がりが絶たれるわけじゃない。
でも、と奈央は名残惜しそうにもう一度来た道を振り向き再び深い溜息を一つ吐くと、ペダルを強く踏み込んだ。
逃げるようにしてここまで一気に駆け上がってきたけれど、本当に良かったんだろうか。確証もないまま人を疑ってしまったことに僅かばかり後ろめたさを感じながら、しかしあの後ろ暗い影を背負う笑みを思い浮かべるだけで戦慄が走った。用心するに越したことはない、奈央はそう自分に言い聞かせる。
やがて呼吸が落ち着いたところで、身体が膝頭の痛みを思い出した。ズキズキする傷口には茶色い土埃。せめて汚れだけでも拭いておこうとポケットに手を入れたところで、
「――あれ?」
奈央はハンカチがないことに気が付いた。そんなはずはない。朝、家を出るときに確かに入れたし、何より学校を出る前に入ったトイレで使ったのだから、少なくともその時点まではあったはずだ。なら、いったいどこで落としてしまったのだろうか。
奈央は焦りを覚えた。何故ならばそのハンカチは、奈央が高校に入学した際に父親からプレゼントされた祝いの品だったからだ。隅に薄紅色の朝顔の花が一輪刺繍された、真っ白なハンカチ。どことなく年寄り臭さを感じさせたが、父親が迷いに迷って普段使いできるようにと選んだであろう、今となっては唯一父親との繋がりと思っていたあのハンカチを落としてしまったことに、奈央の顔は青ざめた。
まさか、あの時? 自転車が倒れてこけた時に落とした? 解らない。そう簡単に落ちるとは思えないけれど、その可能性が全く無いわけじゃない。もし学校で落としたのであれば、もしかしたら職員室に誰かが届けてくれているかもしれない。そうであってくれたなら、どれだけいいだろう。でも、もしそうじゃなかったら? さっきこけた時にポケットから落ちたのだとしたら? そのうえで、あの男に拾われていたりでもしたら――
どうしよう、引き返そうか。引き返して、さっきの場所に落ちていないか確かめようか。
けど――怖い。
もしあの怪しげな男が拾っていたりしたら。そしてそれを返してほしいと頼んだ時に、何かを要求されでもしたら。いや、それは疑い過ぎというものだろう。きっと「よかった、どうやってこれを返そうか悩んでいたんだ」と笑顔で返してくれるはずだ。
――本当に?
どうしてそんなことが言いきれる? あの怪しげな笑いを見たでしょう? 本当にあの人が善人だって言える? もし家の中に無理やり引きずり込まれて、犯されたりでもしたら? そんな目に合わないっていう保証でもあるの? もしそうなってしまったら、私には到底太刀打ちできない。だって、あの腕を見たでしょう? 体は細身だったけれど、あの腕の太さはそれなりに鍛えられたもののはずだ。あの腕で羽交い絞めにでもされたら、私には何もできない。あの手で口を押えられたら、首を絞められたら、私なんて叫び声を上げることすらできないだろう。そしてそのまま押し倒されて、身包みを剥がされて――その先は、ただ想像するだけでもとても恐ろしかった。
奈央は頭を振ると、深い溜息を一つ吐いた。
明日の朝、職員室に行ってみよう。もしそれであのハンカチが見つからなければ、諦めよう。わざわざ危険を冒してでも取り戻したいほどのものでもないし、そんなことで父親との繋がりが絶たれるわけじゃない。
でも、と奈央は名残惜しそうにもう一度来た道を振り向き再び深い溜息を一つ吐くと、ペダルを強く踏み込んだ。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる