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序章・奈央
第9回
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6
放課後。奈央はいつものように一人、帰宅の途に就いていた。空は再びどんよりと重く町の上にのしかかり、今にも雨が降り出しそうな様相を呈している。このまま昨日のようにまた雨には打たれたくはない。なるべく雨が降り始める前に家に帰りつかなければ。そう思うと自然ペダルを漕ぐ足が速まった。歩行者の間を縫うように駆け抜け、点滅する信号の横断歩道を全力疾走する。駅前を通過し、やがて奈央は件の峠道に差し掛かった。
ふと脳裏をよぎる喪服の少女の姿、そして、石上の語った彼女の話。
両親を亡くし、一人廃屋に暮らすという女の子。
昨日の雨の中で見た少女の微笑みがよみがえり、どうしてあの時、あの子は私に微笑んだのだろうと思いを巡らせた。あの微笑みは何だったのか、どういう意味がそこにはあったのか。或いは実は微笑んでいるように見えただけで、ただの私の勘違いだっただけなんじゃ……
そんな取り留めもないことを考えていた、その時だった。
不意にすぐ脇に立つアパートの一室から一人の男が出てきたかと思うと、左右も確認することなく奈央の自転車の前に足を踏み出してきたのである。
「――きゃぁっ!」
奈央は叫び、慌ててブレーキをかけた。
相手の男も驚いたのだろう、目を真丸くして奈央の方に顔を向け立ち止まる。
このままでは確実に接触してしまう。そう思った奈央は、反射的にハンドルを左に切っていた。その途端、自転車は一気にバランスを崩し、ガシャンっと大きな音を立てて転倒、奈央は受け身をとる間もなく歩道の上に投げ出された。車道に体がはみ出さなかったのは奇跡的だったというべきだろう。倒れ伏した奈央の髪が走り抜けていった大型トラックの風に煽られ、ぶわっと激しく宙を舞った。
「――大丈夫?」
その男――二十代前半くらいだろうか――は奈央に声をかけながら右手を差し出してきた。髪は染めているのだろう明るいブラウン。身体は細身だが、半袖のシャツから覗く二の腕はその割にはとても太く逞しく見えた。心配そうな表情、ではなく、微笑みを湛えたその顔に若干の違和感を覚えるのは何故だろうか。
「だ、大丈夫です……」
奈央はそんな男の手を掴むことなく、よろよろと自力で立ち上がると倒れた自転車を起こした。ずきずき痛む脚に目を向ければ、擦りむいた膝頭が赤く染まっている。
「あぁ、擦りむいちゃってるね。ごめんね、ちゃんと確認せずに飛び出しちゃったから――」
取ってつけたような(少なくとも奈央にはそう見えた)申し訳なさげな表情を浮かべて男は言った。均整の取れた顔立ち。眉は細く整えられており、僅かながら香水のような匂いがする。
男は「あぁ、そうだ」と笑顔を浮かべると、
「うちにおいでよ、手当てしてあげる。消毒と絆創膏くらいならあるからさ」
言って背後のアパートを指し示し、奈央の腕を取ろうと手を伸ばしてきた。
奈央はそんな男を警戒し、咄嗟に腕を引っ込めてそれを躱すと首を横に振る。
「だ、大丈夫です。これくらい、平気ですから」
そう言って再び自転車に跨った奈央に、男はなおも追い縋るように口を開いた。
「本当に? でも、このままじゃぁ、俺の気持ちが収まらない」
その瞬間、奈央の背にぞわりと悪寒が走った。ニヤリと怪しげな笑みを浮かべる男の腕が動くのを感じ取り、奈央は痛む膝頭の事も忘れ、寸でのところでペダルを漕いで一気に峠を駆け上る。
後ろに、何とも言えない、重たい視線を感じながら。
放課後。奈央はいつものように一人、帰宅の途に就いていた。空は再びどんよりと重く町の上にのしかかり、今にも雨が降り出しそうな様相を呈している。このまま昨日のようにまた雨には打たれたくはない。なるべく雨が降り始める前に家に帰りつかなければ。そう思うと自然ペダルを漕ぐ足が速まった。歩行者の間を縫うように駆け抜け、点滅する信号の横断歩道を全力疾走する。駅前を通過し、やがて奈央は件の峠道に差し掛かった。
ふと脳裏をよぎる喪服の少女の姿、そして、石上の語った彼女の話。
両親を亡くし、一人廃屋に暮らすという女の子。
昨日の雨の中で見た少女の微笑みがよみがえり、どうしてあの時、あの子は私に微笑んだのだろうと思いを巡らせた。あの微笑みは何だったのか、どういう意味がそこにはあったのか。或いは実は微笑んでいるように見えただけで、ただの私の勘違いだっただけなんじゃ……
そんな取り留めもないことを考えていた、その時だった。
不意にすぐ脇に立つアパートの一室から一人の男が出てきたかと思うと、左右も確認することなく奈央の自転車の前に足を踏み出してきたのである。
「――きゃぁっ!」
奈央は叫び、慌ててブレーキをかけた。
相手の男も驚いたのだろう、目を真丸くして奈央の方に顔を向け立ち止まる。
このままでは確実に接触してしまう。そう思った奈央は、反射的にハンドルを左に切っていた。その途端、自転車は一気にバランスを崩し、ガシャンっと大きな音を立てて転倒、奈央は受け身をとる間もなく歩道の上に投げ出された。車道に体がはみ出さなかったのは奇跡的だったというべきだろう。倒れ伏した奈央の髪が走り抜けていった大型トラックの風に煽られ、ぶわっと激しく宙を舞った。
「――大丈夫?」
その男――二十代前半くらいだろうか――は奈央に声をかけながら右手を差し出してきた。髪は染めているのだろう明るいブラウン。身体は細身だが、半袖のシャツから覗く二の腕はその割にはとても太く逞しく見えた。心配そうな表情、ではなく、微笑みを湛えたその顔に若干の違和感を覚えるのは何故だろうか。
「だ、大丈夫です……」
奈央はそんな男の手を掴むことなく、よろよろと自力で立ち上がると倒れた自転車を起こした。ずきずき痛む脚に目を向ければ、擦りむいた膝頭が赤く染まっている。
「あぁ、擦りむいちゃってるね。ごめんね、ちゃんと確認せずに飛び出しちゃったから――」
取ってつけたような(少なくとも奈央にはそう見えた)申し訳なさげな表情を浮かべて男は言った。均整の取れた顔立ち。眉は細く整えられており、僅かながら香水のような匂いがする。
男は「あぁ、そうだ」と笑顔を浮かべると、
「うちにおいでよ、手当てしてあげる。消毒と絆創膏くらいならあるからさ」
言って背後のアパートを指し示し、奈央の腕を取ろうと手を伸ばしてきた。
奈央はそんな男を警戒し、咄嗟に腕を引っ込めてそれを躱すと首を横に振る。
「だ、大丈夫です。これくらい、平気ですから」
そう言って再び自転車に跨った奈央に、男はなおも追い縋るように口を開いた。
「本当に? でも、このままじゃぁ、俺の気持ちが収まらない」
その瞬間、奈央の背にぞわりと悪寒が走った。ニヤリと怪しげな笑みを浮かべる男の腕が動くのを感じ取り、奈央は痛む膝頭の事も忘れ、寸でのところでペダルを漕いで一気に峠を駆け上る。
後ろに、何とも言えない、重たい視線を感じながら。
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