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結実した種は芽吹けど 4
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ビジネスホテルの部屋で駄々をこねながら、私もまた終わりなのだと感じていた。寄り添った彼の身体からは、知らない匂いがした。おそらく病気と薬の影響で、彼の持つ身体の匂いが変わったのだ。
どんなに一緒にいたいと叫んでも、彼は私を突き放すだろう。彼はもう決心してしまっていて、覆すことなど到底できないのだ。私が駄々をこねればこねるほど、彼は傷ついていく。あれ以上彼の心を煩わせたくなかった。彼を部屋に残して駅まで歩いた道で、涙は出なかった。その代わりにどうしようもない寂寞と虚脱感が、私の身体を重くした。
恋が終わらない。言葉や物理的な距離だけでは、私の恋が終わらない。終わったのはこれ以上の関係を築こうとする部分だけで、それ以外の彼を恋しく思う気持ちが止まないのだ。
もう私を腕に抱いた彼の息遣いを聞くことはできない。狭い部屋の中で、寝転ぶ彼の横に座ってお喋りすることもない。そんなことはとうにわかっていたはずなのに、まだいつか再び訪れる日だと思っていた。
今が欲しいだけのはずが、本当は未来を欲しがっていた。いつか、いずれ。彼の身体が回復し、ふたりで散歩をしたり一緒に昼寝したり、彼の新しい小説のプランを話してもらったり。ああそうか、夢見ていたのは未来だったのか。
それでも僅かな繋がりを求めて、彼の絶版になった本を古本屋で取り寄せてみたり、夜に電話をしてみたりする。声の調子が良ければ、少し長話もした。外に出ませんかという誘いに乗ってくれたのは、たった一度だけだ。昼食を一緒に摂り、短い時間の散歩をした。
「このごろ、いろいろなものが綺麗に見えてしかたないんですよ。何を見ても綺麗でね、この銀杏並木なんて眩しいくらいだ」
そんなふうに言い、通りを眺めていた。以前と顔色は変わらず、あれ以上痩せた様子もなかったのだが、この言葉が彼の病状を物語っていた。快方に向かっているのではないと。
しばらく戸惑っていた長尾君の店の手伝いは、慣れてくると楽しいものになった。自分が玄関やリビングに飾りたいとカタログから選んでディスプレイしたものを、客が楽し気に買っていく。インテリアに溶け込む花瓶やバスケット、庭仕事あとに庭に置きっぱなしでも目障りでない道具類。
「やっぱり女の視点だよなあ」
そう言って褒めてくれる長尾君は結構忙しくて、彼が配達などに出なくてはならないときは、お母さんが店にいるらしい。ふたつの店舗を家族で回すのは、思ったよりも大変だとぼやく。空いた時間に小物を選んだりディスプレイを手伝ったりするだけの予定だった私は、わりと早い時期に、日曜祝日の朝の開店準備まで手伝うようになっていた。もう少し売り上げが上がってアルバイトを雇えるようになるまで、と長尾君は私に頭を下げた。新しい住民たちが求めるものの少ない場所で、長尾君の目論見は当たり、早くも固定客を掴みはじめた。世間話の中で情報を仕入れる手腕は、彼が都会で有能なビジネスマンだったのではないかと感じる。
「なんかさ、隠れ家カフェっていうの? そんなのができたんだって。店閉めたら行かない?」
「そんな小洒落た店、この辺で需要があるのかな」
「結構流行ってるらしいよ。オジサンひとりで、そんなとこ行けないし」
「やめてよ、長尾君がオジサンってことは、私はオバサンじゃないの」
「三十路過ぎよ、俺たち。まあ田舎にもニューウェーブが来たってことだよ」
同級生同士の気楽さで、ときどき一緒に行動する。個人的な話をするような人間関係は、今まで彼以外と築きたいとも思わなかったものだ。
彼が電話を受けてくれる回数はますます減り、その代わりのように文芸誌に連載がはじまった。それを何度も読み、感想をメールにしてみたりしたが、とても短い礼の返事があるだけだった。冬の間に彼について知ったことは、体重は変わっていないということと、庭の椿の木の花の色くらいだ。仕事には行っていると言うけれど、体調については一切話してもらえない。
何度も会いに行こうと靴を履き、そのたびに彼の決意の深さを思った。彼は、これからの僕を見せたくないと言ったではないか。見せたくないものを無理に見に行って、どうしようというのか。
どんなに一緒にいたいと叫んでも、彼は私を突き放すだろう。彼はもう決心してしまっていて、覆すことなど到底できないのだ。私が駄々をこねればこねるほど、彼は傷ついていく。あれ以上彼の心を煩わせたくなかった。彼を部屋に残して駅まで歩いた道で、涙は出なかった。その代わりにどうしようもない寂寞と虚脱感が、私の身体を重くした。
恋が終わらない。言葉や物理的な距離だけでは、私の恋が終わらない。終わったのはこれ以上の関係を築こうとする部分だけで、それ以外の彼を恋しく思う気持ちが止まないのだ。
もう私を腕に抱いた彼の息遣いを聞くことはできない。狭い部屋の中で、寝転ぶ彼の横に座ってお喋りすることもない。そんなことはとうにわかっていたはずなのに、まだいつか再び訪れる日だと思っていた。
今が欲しいだけのはずが、本当は未来を欲しがっていた。いつか、いずれ。彼の身体が回復し、ふたりで散歩をしたり一緒に昼寝したり、彼の新しい小説のプランを話してもらったり。ああそうか、夢見ていたのは未来だったのか。
それでも僅かな繋がりを求めて、彼の絶版になった本を古本屋で取り寄せてみたり、夜に電話をしてみたりする。声の調子が良ければ、少し長話もした。外に出ませんかという誘いに乗ってくれたのは、たった一度だけだ。昼食を一緒に摂り、短い時間の散歩をした。
「このごろ、いろいろなものが綺麗に見えてしかたないんですよ。何を見ても綺麗でね、この銀杏並木なんて眩しいくらいだ」
そんなふうに言い、通りを眺めていた。以前と顔色は変わらず、あれ以上痩せた様子もなかったのだが、この言葉が彼の病状を物語っていた。快方に向かっているのではないと。
しばらく戸惑っていた長尾君の店の手伝いは、慣れてくると楽しいものになった。自分が玄関やリビングに飾りたいとカタログから選んでディスプレイしたものを、客が楽し気に買っていく。インテリアに溶け込む花瓶やバスケット、庭仕事あとに庭に置きっぱなしでも目障りでない道具類。
「やっぱり女の視点だよなあ」
そう言って褒めてくれる長尾君は結構忙しくて、彼が配達などに出なくてはならないときは、お母さんが店にいるらしい。ふたつの店舗を家族で回すのは、思ったよりも大変だとぼやく。空いた時間に小物を選んだりディスプレイを手伝ったりするだけの予定だった私は、わりと早い時期に、日曜祝日の朝の開店準備まで手伝うようになっていた。もう少し売り上げが上がってアルバイトを雇えるようになるまで、と長尾君は私に頭を下げた。新しい住民たちが求めるものの少ない場所で、長尾君の目論見は当たり、早くも固定客を掴みはじめた。世間話の中で情報を仕入れる手腕は、彼が都会で有能なビジネスマンだったのではないかと感じる。
「なんかさ、隠れ家カフェっていうの? そんなのができたんだって。店閉めたら行かない?」
「そんな小洒落た店、この辺で需要があるのかな」
「結構流行ってるらしいよ。オジサンひとりで、そんなとこ行けないし」
「やめてよ、長尾君がオジサンってことは、私はオバサンじゃないの」
「三十路過ぎよ、俺たち。まあ田舎にもニューウェーブが来たってことだよ」
同級生同士の気楽さで、ときどき一緒に行動する。個人的な話をするような人間関係は、今まで彼以外と築きたいとも思わなかったものだ。
彼が電話を受けてくれる回数はますます減り、その代わりのように文芸誌に連載がはじまった。それを何度も読み、感想をメールにしてみたりしたが、とても短い礼の返事があるだけだった。冬の間に彼について知ったことは、体重は変わっていないということと、庭の椿の木の花の色くらいだ。仕事には行っていると言うけれど、体調については一切話してもらえない。
何度も会いに行こうと靴を履き、そのたびに彼の決意の深さを思った。彼は、これからの僕を見せたくないと言ったではないか。見せたくないものを無理に見に行って、どうしようというのか。
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