芙蓉の宴

蒲公英

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萎みて落つる名残の紅 4

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 盆の休暇中に実家に帰り、母にも転移のあったことを告げた。めっきり老いた母の目尻に、小さく涙が見えた。
「今は治療も多様化してるから、すぐにどうこうってわけでもないんだ。ただ給料保証が少ないからさ、ちょっと勤めが遠くなるけどしばらく住ませてよ」
「浩ちゃんがいれば、電球とか変えてもらうのに便利よ。母さんだって話し相手ができるじゃないの」
 姉が一緒に座っていた。
「もっと早くに戻ってくれば良かったのに。母さんだって、まだ洗濯や炊事くらいはできるんだから」
 腰が悪いくせに、母はまだ私の身の回りを整えようとしている。申し訳なくて、手を合わせたいくらいだ。いつ引っ越してくるのかと訊かれ、実はもう手配をしてしまっているのだと答えたら、溜息を吐かれた。できれば入院前に、すべて済ませておきたい。
 彼女とは小旅行を最後に、会わない覚悟を決めた。そのためにもあの部屋は、早々に引き払わなくてはならない。荷物は多くないので、引っ越し用のパックで十分間に合う。その後の不動産屋への引き渡しは、姉に面倒をかけることになる。

 出掛けたのは、近県の小さな観光地だ。静かな古い道と、点在する古い寺以外は何もない。ハイキングか何かのルートになっているらしく、スニーカーにリュックサックの人たちが駅で地図をもらっている。宿に荷物を置かせてもらい、陽射しの強い道を歩く。照り付ける太陽は容赦ないが、木々を抜けた風は爽やかだ。
「先生、疲れませんか」
「年寄扱いしないでください。普段はちゃんと会社員をしているのですよ」
「そんなことは言っていません」
「切った個所のリハビリも終わりました。身体も慣れてきています。健常者に近いんです」
 転移のことは、言わないと決めた。私は私の都合で実家に戻り、執筆活動の都合で彼女と連絡し難くなる予定だ。突き放して嫌われる覚悟ができないのは、私の弱さだ。
 静かな神社の鎮守の森で、木に寄りかかって空を見上げる彼女の白い顔に、ぼんやりと見蕩れた。この顔が疲労に窶れていたことも、悲しみと憤りで歪んでいたことも知っている。そして今の優しい表情が、本来の彼女であることも。
 抱き寄せて離したくない衝動が、背筋を走る。それを押しとどめるのは、自分の現状を把握しているからに他ならない。

 もしも一緒にいるのが元の妻であったなら、私は立場に甘えて、最後まで看取ってくれることを望んだろう。不安定になっていく精神を、宥めてくれることが当たり前だと思ったかも知れない。元の妻は私にとって、常に強い人だった。そうでないことを知ったのは、離婚の話し合いが終盤になったころだ。あのとき私は、一緒に暮らしてきた人を知ろうともしなかった自分の薄情さに、はじめて気がついたのだった。
 私の現在の貧しさや、これからの生活の寂しさは、言うなれば自業自得だ。こんな年齢になってもなお、母や姉の手を煩わせなくてはならず、私は一体意味のある人生を送っているのかと自問するしかない。

「こちらで座りませんか」
 訪れる人のない神社の石段に並んで腰かけると、彼女は私の肩に頭を乗せた。
「風が気持ち良いです。こんな場所に座っていると、ふたりだけ世界から隔離されているみたい」
 木々を抜ける風の音と、蝉の声しか聞こえない。
「こうしているときに、たとえば大木が倒れてきて、先生と一緒に潰されるとか」
「物騒な人だね、あなたは。僕はまだ、書いていない小説があるんです。そうそう死にませんよ」
「あら」
 彼女の不満そうな顔がおかしくて、声を出して笑った。芙由さん、僕はあなたにクォリティオブライフの高い生活をして欲しいんです。それを口に出すことは、ないだろうけれど。

 静かな宿の小さに部屋で、彼女の浴衣の衿を開いた。しっとりと汗ばんで、深い呼吸にあわせて上下する白い胸が、ただただ愛おしく懐かしく、何度も何度も頬をつけた。
 もしも願うことが叶うならば、彼女の胸に抱かれる赤子になり、その優しい眼差しと声に慰められたい。そうしている彼女を見るだけでもいい。胸に抱いている赤子が、自分の子供ではなくとも。彼女が満ち足りた顔で何かを愛おしむ様子が見たかった。
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