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宴にて静寂を歌う 1
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彼女の話に『同級生の花屋さん』が増えたのは、喜ばしいことなのだろうか。住まいが近所であるとか習い事が一緒だとか、今まで会社の人間関係や習い事の知り合いの話など滅多にしなかったのに、その男のことにだけ私は詳しくなった。父親のわからぬ子供を産んだ姉が精神を病んで死んだこと、両親と共にその子供を育てるために実家に戻ったこと、店舗を広げて扱い品を増やしたがっていること。知らぬはずの男の顔が、自分の中に出来上がってしまう。それは健康で生命力に溢れた、働き盛りの男の姿だ。自分の境遇にウンザリしつつも何も諦めず、新たな道を模索して進む意力のある男。彼女の同級生ならば十分に若く、これから家庭を築くことも考えているはずだ。その相手に彼女を選んでも、不思議でも何でもない。
彼女が幸福な新しい恋を得るのだとすれば、喜んで手を振ってやらなくてはならない。理性だけが、私に向かって囁く。何もない男に望めるものは、何もないのだと。
私が何か残せるものがあるとすれば、それはこの頭の中にある物語かも知れない。狭い世間の中で生きてきた私だが、文字によって他人と触れ合えた実績がある。
せめて、一作。三文文士と読み捨てられず、誰かの中に残せる何かを、本棚の中でボロボロになっても手放せない何かを。良くも善くもなくとも、好い作品だと記憶に留めてもらえる何かを。
このタイミングで、私のそんな欲は目覚めた。そうして体力のなさに苛つきながら、夜毎にパソコンに向かう。売れっ子作家の急病の穴埋めに、三万字程度の原稿を隠していないかと打診されたことが追い風になり、提出するあてもなくストックになっていたプロットが通ったと同時に、私の欲は加速した。穴埋めであるからスピードが求められ、すでに書き上がったものの手直しだけのつもりが納得がいかず、夢中になっているうちに窓の外がすっかり明るくなっていることに気がついたのが、日曜日の朝だった。彼女が来るまで休もうと布団に入ったが、頭の中に文章が渦巻いて興奮し、熟睡できなかった気がする。
インターフォンで彼女に起こされ、夜中の勢いで書いたものを下読みしてもらうつもりでパソコンを開けた。
彼女が集中して読んでいることに満足して、淹れてもらったお茶を啜った途端、目の前が暗くなった。睡眠不足による貧血かと失礼して横になると、冷や汗が出た。まあ横になっていれば回復するだろう、せっかく読んでくれているのだから、集中を乱すよりも濃い感想が聞きたい。これも欲の為せる感情だろう。そうこうしているうちに身体の末端に痺れが来て、これはまずいと思っていると彼女の声が聞こえた。水の中から聞こえてくるような問いかけに返事をしたつもりだったが、彼女には意味を成した言葉に聞こえなかったらしい。
口の中に甘いものを放り込まれ、背を起されて温くて甘いものを流し込まれた。それが白砂糖と砂糖湯だと知ったのは、頭がはっきりしてからだ。この状態が低血糖だというのも、この年になってはじめて経験した。
「命にかかわるんです」
彼女は泣きそうに怒りながら、私の冷たくなった足をさすった。
「私、休みの前日の晩から来てはいけませんか」
そんなことを願うのは、自分に禁じている。この優しい人は、もう十分に他人を気遣って生活してきたのだ。これ以上私のために、時間も神経も使わせてはならない。
「離れているのが不安なんです」
彼女の瞳が燃えているような気がした。この炎が私に燃え移れば、待っているのは彼女の人生の破綻だと思う。美しくなった彼女は、もう欲しいだけ幸福な生活を望めるのだ。
もう来てはいけないと言い出せないのは、私の弱さだ。私自身が彼女の佇まいや息遣いを求めて、姿を思い描くだけで眠れぬ日があることを、彼女は知らない。手の中に封じ込めないでいることが精一杯で、本当に彼女に必要だと思われることを、実行してやれない情けない男が窓ガラスに映る。それは痩せこけて貧相な、整わない白髪頭の姿だ。
彼女が幸福な新しい恋を得るのだとすれば、喜んで手を振ってやらなくてはならない。理性だけが、私に向かって囁く。何もない男に望めるものは、何もないのだと。
私が何か残せるものがあるとすれば、それはこの頭の中にある物語かも知れない。狭い世間の中で生きてきた私だが、文字によって他人と触れ合えた実績がある。
せめて、一作。三文文士と読み捨てられず、誰かの中に残せる何かを、本棚の中でボロボロになっても手放せない何かを。良くも善くもなくとも、好い作品だと記憶に留めてもらえる何かを。
このタイミングで、私のそんな欲は目覚めた。そうして体力のなさに苛つきながら、夜毎にパソコンに向かう。売れっ子作家の急病の穴埋めに、三万字程度の原稿を隠していないかと打診されたことが追い風になり、提出するあてもなくストックになっていたプロットが通ったと同時に、私の欲は加速した。穴埋めであるからスピードが求められ、すでに書き上がったものの手直しだけのつもりが納得がいかず、夢中になっているうちに窓の外がすっかり明るくなっていることに気がついたのが、日曜日の朝だった。彼女が来るまで休もうと布団に入ったが、頭の中に文章が渦巻いて興奮し、熟睡できなかった気がする。
インターフォンで彼女に起こされ、夜中の勢いで書いたものを下読みしてもらうつもりでパソコンを開けた。
彼女が集中して読んでいることに満足して、淹れてもらったお茶を啜った途端、目の前が暗くなった。睡眠不足による貧血かと失礼して横になると、冷や汗が出た。まあ横になっていれば回復するだろう、せっかく読んでくれているのだから、集中を乱すよりも濃い感想が聞きたい。これも欲の為せる感情だろう。そうこうしているうちに身体の末端に痺れが来て、これはまずいと思っていると彼女の声が聞こえた。水の中から聞こえてくるような問いかけに返事をしたつもりだったが、彼女には意味を成した言葉に聞こえなかったらしい。
口の中に甘いものを放り込まれ、背を起されて温くて甘いものを流し込まれた。それが白砂糖と砂糖湯だと知ったのは、頭がはっきりしてからだ。この状態が低血糖だというのも、この年になってはじめて経験した。
「命にかかわるんです」
彼女は泣きそうに怒りながら、私の冷たくなった足をさすった。
「私、休みの前日の晩から来てはいけませんか」
そんなことを願うのは、自分に禁じている。この優しい人は、もう十分に他人を気遣って生活してきたのだ。これ以上私のために、時間も神経も使わせてはならない。
「離れているのが不安なんです」
彼女の瞳が燃えているような気がした。この炎が私に燃え移れば、待っているのは彼女の人生の破綻だと思う。美しくなった彼女は、もう欲しいだけ幸福な生活を望めるのだ。
もう来てはいけないと言い出せないのは、私の弱さだ。私自身が彼女の佇まいや息遣いを求めて、姿を思い描くだけで眠れぬ日があることを、彼女は知らない。手の中に封じ込めないでいることが精一杯で、本当に彼女に必要だと思われることを、実行してやれない情けない男が窓ガラスに映る。それは痩せこけて貧相な、整わない白髪頭の姿だ。
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