34 / 66
天に向かい広がる葉 2
しおりを挟む
「このあたりのことは、ご存知ですか」
まだ帰すのは惜しくて、そんなふうに切り出した。
「大して見るものもない地方都市ですが、大きな公園があります。まだ日も高い。散歩しましょう」
彼女も話の接ぎ穂に困っていたのだろう、すぐに賛成の返事が来た。
十分ほど歩いて公園に到着すると、思いの外風が強い。濃い色の早咲きの桜がもう終わっていて、花の季節の中継ぎのように辛夷が咲き、背の低い木瓜の木が華やかな色を添え始めている。彼女の髪が風に靡き、コートの裾がはためく。
「この公園、桜の木が多いのですね。来週末くらいでしょうか」
枝の先に一輪二輪と咲いている花を見上げて、彼女が言う。
「そうですね、咲きはじめるとぱあっと咲きますから。閉園になるまで、花見客がビニールシートで飲み食いしてますよ」
幹から直接出ているような花を、スマートフォンで撮影する。本当は彼女を撮影したいと思ったが、どう言い出して良いのかわからなかった。横を歩く彼女の体温が、風に遮られて感じられない。
この苦しさを抱えた人が、少しでも呼吸しやすくなるように。私は無力だが、祈ることはできるだろう。なんの救いにもなれなくとも、私は彼女を傷つけたり貶めたりしない。彼女を取り巻く事情の中に、こんな人間がひとりでも多くいることを、彼女が理解していればいい。
「その後、何か事件はありましたか」
「弁護士さんが頑張ってくれているようです。直接は何も」
「早く落ち着けると良いですね」
そんな話をしただけで、黙りがちに公園の中を歩いた。
風の冷える時間になった。
「そろそろ引き上げましょうか。駅のほうへ歩けば、軽い食事のできる店もあります」
私を見上げた彼女の表情から、目が離せなくなった。まだ帰したくない。
「駅まで行ったら、帰らなくてはならなくなります」
彼女の唇が、小さく動く。この言葉を、どう受け止めたら良いのだろう。
「あの閉じた部屋から、逃げ出してきたんです。どこにも行けなくて」
それきり唇を結んだ彼女を、ただ見ていることしかできなかった。せめて私が彼女の感情の受け皿になれる状況であれば、いつでも逃げて来いと言ってやれるのに、今はそれすら難しい。
しばらく合っていた視線を逸らし、彼女はやっと口を開いた。
「ごめんなさい、我儘を言いました。先生はお困りですね」
細い道で迷子になったように、彼女は行き先を見失っている。その姿は、あまりにも小さくて痛々しい。
「僕の部屋に戻りましょうか。しばらく留守する理由と、予定が立たない理由をお話します」
彼女の不安定さと自分の不安定さを天秤にかけて、結局は言い訳になってしまうような気がする。それでも私が彼女を疎んでいると誤解されるよりは、ずっと良いように思った。
部屋の中が暗くなるまで、私と彼女は話をした。そんなに長い時間ではないが、とても密度の濃い時間だった。病院を訪ねたいと彼女は言い、それが可能になれば必ず連絡すると私は約束した。
「おそらくね、そんなにひどい状態ではないと思いますよ。実際、気がつかなかったのだし」
「大変な病気です。そんなときに私は、自分のことばかり……」
「言わないようにしていたのですよ。ネガティブなイメージのあることなので」
彼女は心底申し訳なさそうに、向かい側に座っていた。そんな態度にさせた私も却って申し訳なくて、黙ってお茶を淹れ替えた。
「暗くなりましたね、カーテンを引かなくては」
そう言って立ち上がると、彼女ははっとしたように視線を上げた。
また絡まった視線を解くことができない。おそらく手を伸ばしたのは、私のほうが早かった。これを恋にはするまいと思っていたのに、私の腕は言うことを聞かず、それに委ねられる彼女の身体は柔らかかった。
そうして私たちは、ふたたび体温を分け合ったのだ。
まだ帰すのは惜しくて、そんなふうに切り出した。
「大して見るものもない地方都市ですが、大きな公園があります。まだ日も高い。散歩しましょう」
彼女も話の接ぎ穂に困っていたのだろう、すぐに賛成の返事が来た。
十分ほど歩いて公園に到着すると、思いの外風が強い。濃い色の早咲きの桜がもう終わっていて、花の季節の中継ぎのように辛夷が咲き、背の低い木瓜の木が華やかな色を添え始めている。彼女の髪が風に靡き、コートの裾がはためく。
「この公園、桜の木が多いのですね。来週末くらいでしょうか」
枝の先に一輪二輪と咲いている花を見上げて、彼女が言う。
「そうですね、咲きはじめるとぱあっと咲きますから。閉園になるまで、花見客がビニールシートで飲み食いしてますよ」
幹から直接出ているような花を、スマートフォンで撮影する。本当は彼女を撮影したいと思ったが、どう言い出して良いのかわからなかった。横を歩く彼女の体温が、風に遮られて感じられない。
この苦しさを抱えた人が、少しでも呼吸しやすくなるように。私は無力だが、祈ることはできるだろう。なんの救いにもなれなくとも、私は彼女を傷つけたり貶めたりしない。彼女を取り巻く事情の中に、こんな人間がひとりでも多くいることを、彼女が理解していればいい。
「その後、何か事件はありましたか」
「弁護士さんが頑張ってくれているようです。直接は何も」
「早く落ち着けると良いですね」
そんな話をしただけで、黙りがちに公園の中を歩いた。
風の冷える時間になった。
「そろそろ引き上げましょうか。駅のほうへ歩けば、軽い食事のできる店もあります」
私を見上げた彼女の表情から、目が離せなくなった。まだ帰したくない。
「駅まで行ったら、帰らなくてはならなくなります」
彼女の唇が、小さく動く。この言葉を、どう受け止めたら良いのだろう。
「あの閉じた部屋から、逃げ出してきたんです。どこにも行けなくて」
それきり唇を結んだ彼女を、ただ見ていることしかできなかった。せめて私が彼女の感情の受け皿になれる状況であれば、いつでも逃げて来いと言ってやれるのに、今はそれすら難しい。
しばらく合っていた視線を逸らし、彼女はやっと口を開いた。
「ごめんなさい、我儘を言いました。先生はお困りですね」
細い道で迷子になったように、彼女は行き先を見失っている。その姿は、あまりにも小さくて痛々しい。
「僕の部屋に戻りましょうか。しばらく留守する理由と、予定が立たない理由をお話します」
彼女の不安定さと自分の不安定さを天秤にかけて、結局は言い訳になってしまうような気がする。それでも私が彼女を疎んでいると誤解されるよりは、ずっと良いように思った。
部屋の中が暗くなるまで、私と彼女は話をした。そんなに長い時間ではないが、とても密度の濃い時間だった。病院を訪ねたいと彼女は言い、それが可能になれば必ず連絡すると私は約束した。
「おそらくね、そんなにひどい状態ではないと思いますよ。実際、気がつかなかったのだし」
「大変な病気です。そんなときに私は、自分のことばかり……」
「言わないようにしていたのですよ。ネガティブなイメージのあることなので」
彼女は心底申し訳なさそうに、向かい側に座っていた。そんな態度にさせた私も却って申し訳なくて、黙ってお茶を淹れ替えた。
「暗くなりましたね、カーテンを引かなくては」
そう言って立ち上がると、彼女ははっとしたように視線を上げた。
また絡まった視線を解くことができない。おそらく手を伸ばしたのは、私のほうが早かった。これを恋にはするまいと思っていたのに、私の腕は言うことを聞かず、それに委ねられる彼女の身体は柔らかかった。
そうして私たちは、ふたたび体温を分け合ったのだ。
0
お気に入りに追加
43
あなたにおすすめの小説
命を狙われたお飾り妃の最後の願い
幌あきら
恋愛
【異世界恋愛・ざまぁ系・ハピエン】
重要な式典の真っ最中、いきなりシャンデリアが落ちた――。狙われたのは王妃イベリナ。
イベリナ妃の命を狙ったのは、国王の愛人ジャスミンだった。
短め連載・完結まで予約済みです。設定ゆるいです。
『ベビ待ち』の女性の心情がでてきます。『逆マタハラ』などの表現もあります。苦手な方はお控えください、すみません。

断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり

彼女にも愛する人がいた
まるまる⭐️
恋愛
既に冷たくなった王妃を見つけたのは、彼女に食事を運んで来た侍女だった。
「宮廷医の見立てでは、王妃様の死因は餓死。然も彼が言うには、王妃様は亡くなってから既に2、3日は経過しているだろうとの事でした」
そう宰相から報告を受けた俺は、自分の耳を疑った。
餓死だと? この王宮で?
彼女は俺の従兄妹で隣国ジルハイムの王女だ。
俺の背中を嫌な汗が流れた。
では、亡くなってから今日まで、彼女がいない事に誰も気付きもしなかったと言うのか…?
そんな馬鹿な…。信じられなかった。
だがそんな俺を他所に宰相は更に告げる。
「亡くなった王妃様は陛下の子を懐妊されておりました」と…。
彼女がこの国へ嫁いで来て2年。漸く子が出来た事をこんな形で知るなんて…。
俺はその報告に愕然とした。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる