芙蓉の宴

蒲公英

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萌え出る緑の芽 3

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 もう少しもう少しと、結局彼女の暮らす場所まで来てしまった。まるで学生のような行動だ。
「先生、家に着いてしまいます」
「もうどうせだから、家まで送ります。時間がかかって、申し訳ない」
「いいえ、私は座っているだけですから。それよりも先生が、お疲れになりませんか」
 言われてからはじめて、自分の身体が疲れていることに気がつくような、彼女が隣に座っている満足感がある。
「大丈夫です。明日も休みですから」

 彼女のアパートに向かう道を曲がると、彼女は小さく声を上げた。
「先生、ここで車を止めないで、行き過ぎてください。申し訳ありませんが、降りられません」
 狭い道に、白っぽい車が停まっていた。
「もしかして、別れた旦那さんですか」
「はっきり車を覚えていないのですが、似ている気がします。いやだ、アパートは知らないはずなのに」
 広い通りまで出て車を路肩に寄せて停めた。確認してみると、彼女はスマートフォンを出して電話をはじめる。どうも相手は、大家らしい。
「ああ、そうですか……良かった……はい、安心して帰ります。ありがとうございました」
 ほっとしたように通話を終えて、こちらを向く。
「他の部屋に来ているお客様みたいです。お騒がせしました」
 小さく頭を下げる仕草が、妙に愛おしく感じた。ここまで、どれだけ傷ついて辛い思いをしてきたのだろう。そして今、同じ原因の違う理由で怯えている。彼女の生活に、何か救いはあるのだろうか。

 ハザードランプを点滅させたまま、しばらくハンドルを握らずにいた。
「先生?」
 彼女が私の表情を見る。
「北岡さん。あなたは幸せですか」
 自分の口から、こんな言葉が出るとは思わなかった。彼女が幸福でも不幸でも、自分ができることなど何もないのに。彼女は軽く下唇を噛んで、ゆっくりと目を閉じた。
「私を気遣ってくれる家族がいて、仕事を持っています。習い事をする楽しみもあります」
「それは幸福だと言っているのですか」
 彼女の肩が、ぶるっと震えた気がした。
「いいえ……いいえ、いいえ! ずっと、笑っている実感がないのです。楽しいと感じるのが頭の表面だけで、芯の部分が固まっているんです」
 手で顔を覆い、荒い呼吸を隠している。泣かせてしまったのかと思ったが、そうではないらしい。
「芯から怒ることすら、忘れていたんです。いつになったら、私は私に戻れるんでしょう」
 シートベルトを締め直し、彼女のアパートに向かった。

「先生、帰る前に少し休憩して行ってください。運転しっぱなしで、身体が痛くなりませんか。どうせ私ひとりの部屋ですから、遠慮なさらずに」
 二度目ではあっても、女性の部屋に上がり込むことに、抵抗がなかったわけではない。けれど彼女の表情は、労いよりも懇願に見えた。こんな目をした人に、逆らえるはずもなく、私は彼女のアパートの上がり口に靴を脱いだ。
 彼女は私を椅子に座らせると、お湯を沸かして丁寧にコーヒーを淹れた。そして前回と同じように丸椅子を運んできて、私の横に置く。
「無理に家に誘ったみたいで、すみません。存分に伸びをして、背中をほぐしてください」
「いや、無理に送ってきてしまったのは僕です。若い女性との行動なのだから、少し弁えなくてはいけないのに」
「弁えていないのは、私のほうだと思います」
 横に置いた丸椅子に座って、彼女は両手で抱えるようにマグカップを持った。

「心細かったんでしょう?」
 私の言葉に、彼女の表情が動く。
「気がかりなことが多くて、ひとりで心細かったんでしょう」
 コーヒーを一口飲んでカップをテーブルの上に置いた彼女は、何か納得したような顔になった。
「そうかも知れません。家族にはこれ以上心配させたくないし、打ち明けるような友達もいなくて」
 視線をふっと逸らし、ひどく頼りなげに唇を噛んだ。
「私の状況を誰かに説明しても、励まされたり発破をかけられたりするでしょう。だってもう、終わったことなんですから。そして別れた夫の理不尽さを、警察にでも訴えれば解決すると言うでしょう。でも私は、そんなことは欲していないんです」
 揺れる視線は、彼女の心そのままだ。
「先生、ごめんなさい。休憩していただこうと思ったのに、こんな話を」
「はじめたのは僕です。あなたの考えていることを、聞いてみたい」
 彼女の抱えているものを、受け止めたいと思った。同情でも憐憫でもなく、吐き出すことが何かの救いになるのならば、喜んでいくらでも聞いていたい。
「まだ、ここにいていただけますか」
「いや、今日中に家に到着できる時間には帰ります。女の人の部屋に、遅くまでいてはいけない」
 分別臭くても、そう答えるしかない。彼女の両親の知り合いが管理しているアパートに、怪しげな男が出入りしているなんて噂を立ててはいけない。

 私が部屋を出るときに、彼女は車まで一緒に来て見送ってくれた。
「今日はありがとうございました。今度は私が先生のお住いのほうに出向いても、かまわないでしょうか」
「電車だと乗り換えが億劫ですよ。どこかで落ち合いましょう。また連絡します」
 車を発進させてバックミラーを確認すると、彼女はまだ手を振っていた。
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