芙蓉の宴

蒲公英

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北岡芙由の記憶 5

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 実際のところ、断片しか覚えていないのだ。忘れようとして忘れたのではなく、おそらく私自身が記憶に留めておくことを拒否した。ぼちぼちと連絡した親類が家を訪ねてくるようになったころ、私の父がやって来た。私を労うつもりで、好きだった菓子を携えていた。
「おまえ、どうしたんだ。夫くんは何も言わないのか」
 父が驚くほど、私は痩せて背が曲がっていたらしい。見えていないような目を瞠いて、と父は言った。介護の痕跡が残る部屋の中で、一番小さく見えるものが私だったと。
 夫が葬儀の翌日に赴任地に戻ったと言ったとき、父は私に身支度を整えて身の回りのものを鞄に詰めるように言った。
「弔問客を迎えるのは、夫くんに任せなさい。おまえには療養が必要だ」
「疲れているだけで、どこも悪くないのに」
「どこも悪くないと言っても、誰も信じないような状態なんだよ、おまえは」
 しばらく帰れなかった実家に行きたいのも事実で、二日やそこら留守にしても問題はないと、私は父の車の助手席に乗った。自分以外の誰かに行動を任せてしまうのは、とても楽だった。父に言われるがまま、夫にはメールで実家に行くことを知らせた。返信はなかった。

 実家に到着すると、母と祖母が私を見て驚いていた。祖父が老健に入ったことは知っていたが、それ以外は家の中の様子は変わっていなかった。実家にいたころ私にあてがわれていた部屋は父の書斎のようになっており、私のために和室に布団が敷かれた。
「そんなふうになるまで頑張ってるなんて、知らなかった。迎えに行ってあげれば良かった」
 泣く母を見ても、薄紙の向こうの出来事にしか感じなかった。それなのに敷かれた布団に入ったら、意識を失ったように眠ったらしい。その夜、両親は遅くまで話をしたということだ。

 父の怒鳴り声で目が覚めた。理性的な父が声を荒らげていることが珍しく、居間に入ろうとして足が止まった。父が持っているのは、私の携帯電話だった。後から聞けば、私の荷物の中で鳴り続けていたそれの、発信者の名前を見てから受けたらしい。相手が夫だったのは、言うまでもない。
 祖母がお茶を淹れて、こちらに座れという。
「芙由ちゃんは、何も考えなくていいんだよ。ゆっくり身体を休めて」
 そう言われている傍から、父が私の携帯原話を握り、しばらくこれを借りると言う。もう何年も夫との連絡にしか使っていなかったし、父が悪用するとも思えなかった。
 定年を延長して仕事を続けている父が、ネクタイを締めて外出するのは珍しくもなく、ぼうっとそれを見送った。そしてその日は、祖母とテレビを眺めていた気がする。その日のうちに父があれこれ動いていたことを知ったのは、すべてが終わってからだった。

 夫は赴任先に妻を呼び寄せたことになっていた。義母はひとりで施設に入り、ひとりで亡くなったことになっていた。会社にはそう説明していたらしい。では夫名義の家で、義母の介護をしていた私はいなかったのか。
「おまえは夫婦を続ける気があるか」
 父の言葉は覚えていても、私がどう答えたのかは覚えていない。半年ほどの記憶がすっぽり抜けて、気がついたときには私の口座に大金が入っていた。すべて父と、父に雇われた弁護士がしたことだ。私がその間に何をしていたのか、よくわからない。母と祖母に守られ、ただ座っていただけかも知れない。

 これもしばらくしてから知った話だが、夫と生活していた人は、相手が既婚者だと知らなかったらしいが、騒ぎの最中に妊娠が発覚したそうだ。そして私たちの結婚の仲人は夫の上司だったことを、夫は甘く考えていた。離婚の経緯を知った上司が夫を叱り、もともと本社から年数を決めての転勤だったはずが、本社に戻る道を断たれた。プライドの高い夫には針の筵で、会社を辞めて持ち家で生活することになったらしい。もちろん私が確認したことではないので、すべて伝聞の形だ。これを聞いたのは、父が私を実家に連れ帰ってから一年も経ったころだった。つまり私は、義母の葬儀が夫を見た最後だったということになる。
 夫の顔を思い出すことができないのに、新婚旅行で見た風景を覚えている不思議。ひとつひとつ家具を相談して、買い揃えた部屋の晴れがましさを懐かしく思い出す不思議。私が仕事から帰ると、慣れない手つきで洗濯物を干していた後姿は微かに記憶している。
 それに較べて、義母との記憶はクリアだった。自分の名前以外のすべてを忘れてしまい、立つこともできなくなった義母の世話は大変だったが、車椅子の上から花を見上げるとき、よく熟れた果物を一口食べたとき、私はその表情に癒されていた。話し相手のいない家の中で、どうせ忘れてしまうのだからと私が盛大に罵ったとき、義母は意味もわからず涙を流して、ごめんねと繰り返した。ごめんね、おかあさん、ごめんね。
 私たちは、夫に捨てられた者同士だったのだ。

 やっと自分の身体が自分の精神と折り合いをつけはじめたころ、ふと駅前の本屋に立ち寄った。平積みの新刊の上の棚に、薄い文庫本を見つけた。それを見た瞬間、私の耳の奥でガラスを打つ雨の音が鳴り、身体が湿気た部屋に運び込まれた気がした。
 あの人に、もう一度会いたい。私の身体がどんな人を記憶しているのか、知りたい。本名を姓しか知らず、住んでいる場所も知らない。芙蓉の咲く門のある家、あの土地にはもう近づくことすらないだろう。隣県とはいえ車で移動しても三時間以上かかる場所では、偶然に会うことだって考えられない。
 出版社に手紙を送ることは? 本人に渡る前に、出版社の人が読んだりしないだろうか。それに自分をどう説明する? 彼も、私の名前を知らないのだ。
 忘れてしまったかも知れない。疲れた女と一度きり肌を合わせたことなんて、記憶に留まっていると考えるほうが傲慢だ。
 私が、会いたい。自分の中で自分を主語にすることは、とても新鮮な感覚だった。夫が、義母が、父が。主語を自分に持ってくることができるのだ、今は。
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