芙蓉の宴

蒲公英

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北岡芙由の記憶 4

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 雨上がりの道には水溜りが残り、私は梨を入れた袋を提げて帰路を急いだ。後悔はしていなかったし、罪悪感も感じなかった。無性に涙が零れて、自分でもその感情についての説明はできなかった。何かとても大切なものを諦めたようで、ここ数日の彼との会話ばかり思い出した。もう二度と会うことはない人が、自分に向けて発した言葉は、ただの衝動に違いないのに。
 あの手に縋ったとて、幸福が待っているとは限らない。彼の言葉を信じて指輪が外れるとしても、それが私にとって何になろう。義母の介護に関心を示さない夫に、義母を委ねるのか。介護義務がないことなんて、知っているのだ。知っていたって何の役にも立ちはしない。私がいなくなることで、生活の立ち行かなくなる人間をふたり生み出すだけだ。歌と花が好きで、流産したときに一緒に泣いてくれた義母が、私はとても好きだった。一緒には住んでいなくても、私が風邪で寝込んだときには家のことを引き受けてくれた。

 義父が亡くなったとき、夫は私に頭を下げた。仕事を辞めて義母を看てくれと。三年前の義母はまだ、断片的に不自由がある程度で、家に誰かがいれば普通に生活できていた。年齢から考えても進行は遅いだろうと言われ、私はとても楽観的に同居を受け入れた。ところが義父が交通事故で急逝したショックからか、義母は僅か二か月で急激に悪化した。そこに夫の転勤の辞令があり、バタバタしているうちに義母の人格は変わっていった。夫が転勤していくころには被害妄想と他人への攻撃がはじまっており、引継ぎで帰りのますます遅い夫は、眠れないとイライラしていた。
 考えてみれば、眠れないのは私も同じだったのだ。それどころか昼の間も四六時中目を離せずにいるのに、家事労働はすべて私の仕事だった。それでも最初のころは、まだ報告を聞いたり相談に乗ってくれるだけのことはあった。義母も夫が戻ってくれば多少はしっかりし、私が見ていれば風呂も排泄もどうにかなっていた。

 坂道を転がりはじめたボールが加速度をつけるように、義母は悪化していった。そして身体が弱るのと比例して精神が退化をはじめ、自分の年齢を忘れた代わりに、とても素直な童女になった。
「おにいさん、だあれ」
 義母にそう問いかけられて嫌悪の表情を浮かべた夫を、私は黙って見ていた。そこにいるのはあなたの母親で、助けを必要としている人なの。嫌悪すべき人ではなく、あなたが助けなくてはならない人なのよ。夫も大変なのだと自分に言い聞かせ、短い帰宅の夫を送り出すことを、自分の愛情だと勘違いしていたのかも知れない。
 ケアマネさんと相談してデイケアを週五日に設定してもらうころには、夫は帰宅しなくなっていたが、私も夫がどれくらい帰宅していないのか、数えられなくなっていた。ただ連絡しても話を先延ばしにするだけの夫を、当てにすることはできないと絶望しただけだ。老健に入ってもらうことや高齢者施設に住まいを移してもらうことは、後見人である夫からの申し込みが必要で、何度かケアマネさんからも連絡してくれていたはずだが、何も起こらなかった。

 義母が肺炎で入院した時、それが生命に関わるものだと知っていたのに、私は大きく安堵した。入院さえしてくれれば、夜に起こされることもなく眠ることができる。あのときの私が非情だったとは、今でも思えない。
 いよいよとなって帰ってきた夫は、自宅ではなくビジネスホテルに部屋を取った。あんな臭い家で落ち着けるかと言い放った夫は、私の顔も見なかった。その臭い家で私が生活することを余儀なくしていたのが他でもない夫であることは、彼の頭の隅にすらなかったのだろう。
 すべて済ませてから連絡するだけで良いと、まだ存命である義母の父親や兄弟を呼ばないで、ささやかな葬儀を行ったあと、夫はさっさと赴任地に戻って行った。家にクリーニングサービスを入れて、客を呼べるようにしておけと言い置いたのみだ。まだ相談したいことは山のようにあるのに。
 家のあちらこちらに義母が生活するための補助具があり、彼女を喜ばせるための飾りや、飲み残した薬や、気に入っていた服、そんなものを片付けながら、自分は何をしているのだと思う。そうすると立っていることすら億劫になり、居間の真ん中で何時間も尻をついて座る。翌週末に帰ってくる予定の夫が、今度は家で眠れるようにしなくてはならないのに、どうしても動くことができなかった。

 その間私が脳裏に浮かべていたのは、湿度の高い畳の部屋だった。もう一度あの部屋からはじめたら、違う今日があるかも知れない。彼と一緒に行くことはなくとも、自分には責任は無いのだと認めることができたら、夫に対してもっと強く出ることができたのかも。
 あのときの私は、私がすべてを引き受けて収めなければ、義母と夫と私の全員が破綻すると考えていた。本当にそうだったのだろうか。頑なに自分が意地になってはいなかったろうか。
 浮かんでは消えるイメージと、繰り返す自分への問いかけに圧し潰されて、ふと気がついてはノロノロと腰を上げる繰り返しだった。
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