芙蓉の宴

蒲公英

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北岡芙由の記憶 3

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 少し目を離しただけで、ふらふらとどこかに出てしまう義母は、その時だけやけにしっかりした足取りになる。迷子になった挙句途方に暮れて座り込み、警官に連れ帰ってもらったことも数度ある。だから普段から胸に姓を縫いつけ、外に出るときには迷子札をつけていた。
 けれども、それで車の前に出てしまったらとか、他人の家に上がり込んでパニックを起こさないかとか、悪い予感ばかりが先行してしまい、姿が見えなくなると気ばかり焦って近所を走り回った。彼の家の前で見つかったのも、その中の一度だ。あのときは、しっかり礼が言えなかった。
 ドラッグストアで会ったことも本当に偶然で、四日も続けて顔を合わせれば、知っている人のような気分になる。

 もう帰ってしまったろうと思って家の前を通った日、彼は縁台で胡坐を掻いて庭を見ていた。通りから少しだけ見えた姿は、どことなく辛そうに見えた。私は私が誰よりも辛い場所にいると思っていたのだが、そうではなくて外から見えないだけで、もっとずっと深い場所に辛さを隠している人もたくさんいるのかも知れない。何故か、そう思った。
 私が手を振ったのに気がつくと、彼は笑顔になった。その表情の変化が鮮やかで、言葉を交わしたくなる。お邪魔だろうかと思いつつ、誘われるままに腰掛けて雑談を楽しんだ。

 人間が他人を好ましいと感じるのは、どの部分なのだろう。声や表情や仕草、言葉の端々に見える人柄、そんなものだろうか。彼の後ろには不思議なくらい生活が見えず、会話のうちに私は焦れを感じた。もっとこの人のことを聞きたい、そしてできれば私のことも知って欲しいと。
 私の何気ない質問で彼の部屋に導かれたときに、何かを考えていたわけじゃない。私が彼に興味を持ったことすら彼は知らないはずだし、彼の身体からは性的な気配は感じなかった。部屋の隅に畳まれた布団を見ても、学生めいているなと思っただけで、微笑ましくさえ思った。それよりも知りたかったのは、彼が何で組成されていて、どんな人物かということだった。本棚を眺めて質問しながらも、私が本当に知りたいのは彼が誰かということだった気がする。小説家であり既婚者であるということのほかに、彼を形作っているものについて話して欲しかった。

 突然、窓の外で強い風の音がした。そして続いた雨音に、私が直接打たれているような気がする。逃げたいという思いを見透かしたように、この家から出られない状況にしてくれたような。言葉をいくつか交わし、彼の顔を見上げた。その表情は、私を気遣うものだったと思う。

 一歩前に出たのは、おそらく私だ。彼の瞳の奥に何があるのか、その身体はどれほど熱いのか。ただ知りたくて私の唇は動き、手が彼の素肌を求めた。そして彼が同じように、私の肌に触れてくれるのが純粋に嬉しかった。夫への罪悪感など欠片も感じず、私は彼を迎え入れた。
 私に打ち込まれた楔は、記憶にある何よりも熱かった。目の前の身体にしがみつきながら、ここで死ねれば良いと思った。今この瞬間に、屋根を突き破って隕石でも落ちて来ればいい。この男と繋がったまま、ここで死んでいきたい。心も身体もこの男に委ねて、何もかもが満たされたまま死にたい。
 彼を離すまいと私の身体は蠢き、彼の全てを搾り取ろうとするかのように強く締め付けた。自分の意思ではなく、何かに命じられているみたいだ。性的な興奮の更に奥で、私から見えない触手が伸び、彼を捉えようとする。見えない触手がそのまま糸になり、私たちをこの形のまま繭にしてしまう幻想を見た。

 けれど当然、終わりは訪れる。果てた彼の体重を受け止めながら、一時の夢だったのだと自分に言い聞かせた。目を覚ませばすぐに忘れる夢。だから少しでも早く、覚醒しなくてはならない。これを覚えていたとて、私の生活は何も変わらないのだから。
「ご主人がいることは知っている」
 彼がそう言うまで、夫のことは念頭になかった。そして彼の左手に指輪があったことを思い出した。
「また会えないだろうか」
 それは隠れた関係を築きたいということか? そんな時間も余裕も、私は持ち合わせていなかった。まして倫理に悖ることなどを。
「僕と一緒に来ませんか。あなたは幸福そうに見えない」
 知らない男が、真摯な顔でこんなことを言う。その差し出された手に、一瞬縋りそうになってから我に返る。自分がこんなに追い詰められていたことを、はじめて知った。
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