二等辺三角形プラス

蒲公英

文字の大きさ
上 下
38 / 54
五十歳

3

しおりを挟む
 到着した寺では坊さんが既に待機しており、お経をあげてもらうだけの法事は、あっさりと終わった。実家と同じ寺だったので、マサナオさんが支払いをしている間に祖母に線香をあげてきた、それだけだ。
「遠くからお呼びたてしたのに、大したおもてなしもできなくて申し訳ないのですが、寿司屋を予約してあります」
 マサナオさんが案内してくれた店は、二階がいくつかの個室になっており、この地域にもこういう小さな集まりが増えてきたことを物語っている。かつてこの地域の祝儀不祝儀は、すべて家で行われていた。家の者は喜ぶことも悲しむことも後回しで、てんてこまいになりながら客を迎える支度をし、台所は近所の奥さんたち総動員の戦場だった。田舎も世代交代で、旧い形式だけを継いでいくことは、できなくなってきている。

 店から出て車を待っていると、小さな老婆が近づいてきた。ユーキの前に立ち、曲がった背を伸ばすように言う。
「舞子ちゃんじゃない? 結城舞子ちゃん」
 ユーキは一瞬身構えたあと、その老婆が誰なのか思い当たったらしい。
「おばさん!」
 ユーキが高校生のころにアルバイトしていた、中華屋のおかみさんだった。
「良かったよ、元気そうで。ひとりで東京に出て行ったから、心配してたんだよ。こんな綺麗な奥様になって」
「お店が閉まっちゃってから、連絡先がわからなかったものだから。みなさま、お元気ですか」
 ユーキの声が潤んでいる。
「うちのひとの糖尿がひどくなったから、店が続けられなくてね。今は私ひとり、仕送りと年金でようよう生きてるのよ。子どもたちにも家庭があるから」
 ユーキとおばさんが手を握り合っているうちに、呼んだタクシーが入ってきた。
「おばさん、手紙書くわ。住所を教えて」
 メモを書く時間を急かすように、タクシーの運転手がマサナオさんに行き先を訊ねている。何駅か先のビジネスホテルの名で、少々態度が変わったのは、距離を稼げるからだろう。

「敵ばっかりじゃなかったんだなあ」
 タクシーの後部座席で、ユーキは言った。
「よく、お料理をいただいたの。残ったものって言ってたけど、唐揚げでも春巻きでも、一皿の数量は決まってるじゃない。あれは私に持たせるために、わざわざ余計に作ってくれてたんだな。それに気がついたのが、自分で外食するようになってから。でもそのころには店は閉まっちゃってて、お礼の連絡先がわからなくてね」
 マサナオさんが前の席で、耳を立てている様子が見える。彼はユーキの癒しになるだろうか。
「見逃したり忘れたりしてるだけで、たくさんのひとに助けられてきたんだな。自分の力でっていうのは、思い上がりだね」
 ひとりごとみたいなユーキの言葉が、直接俺にも当てはまるみたいだ。兄の知り合いだからと空き店舗を紹介してくれた、コウヘイさんの弟の日に焼けた顔が浮かんだ。自宅の梅がたくさん実をつけたからもらってくれと言ってくれた、隣の家のひと。ジャムにしてお返ししたら、数年物の塩がやわらかくなった梅干をいただいた。
 コウヘイさんの家の庭に小屋を建てて住み着いている得体の知れない男を、余所者だとはねのけるのは容易いだろうに、俺の存在をどうにか理解しようとしているひとは、確かにいるのだ。もちろん有名な画家の金目当てでオベッカを使っているのだと噂しているひとがいるのも知っているが、そうじゃないひともたくさんいる。
 逃げるように出たここも、そうなんだろうか。卒業式の前の日、みんな少し驚いただけで、一瞬で嫌われたわけじゃないんだろうか。

 送ってくれたマサナオさんが帰ったあと、ロビーの自動販売機で紙コップのコーヒーを買った。一口飲んでユーキが顔を顰める。
「何コレまずい」
「自販機に何を期待してんだ」
「あーあ。目の前に腕のいい職人がいるっていうのに」
「チヒロに仕込んどくよ。夏休みにキッチンカーの手伝いに来るから」
 俺は当然チヒロから相談がいっているものだと思っていたから、ユーキの驚いた顔に逆に驚いた。
「やだ、あの子そんなこと言ってるの? インターンシップに行かないつもりかしら」
「聞いてなかったのか、そりゃ悪かったな。ヤツはヤツなりの考えがあるみたいだぞ。決まったらおまえさんにも話すと思うけど」
 ユーキは母親の顔になって、少々俺に恨みがましいことを言ったが、小さく溜息を吐いた。
「仕方ないねえ、あの子の人生だから。一生懸命就活したって、その会社に一生いるとも限らないしね」
「そうそう。ユーキだって、自分で決めて歩いてきたんだろ。軽はずみなところはあるけど、チヒロはバカじゃない。心配しなくても、人の道から外れたりしないよ」
 もしも外れたら、力ずくででも引き戻してやる。口には出さなくとも、俺がマッシモのためにできる最後のことだとは、それしかないと思っている。
「心配したいんだよ、親としては。ねえオガサーラ、私はチヒロを生むまで、心から誰かを心配したりしたことがなかったんだと思う。そりゃあ村井先生とか郷土史研究会とか、動向が気になるひとはいたけど、それは少し心に留めておく程度のものだった。だから自分以外の誰かを心配したり、逆に心配させたりっていうのが、幸福なことも知らなかったよ。チヒロがいなければ、知らないままで死んでいくところだった」
 ユーキはそう言って、粉っぽいコーヒーを飲み干した。そして懐かしそうに、言葉を続けた。
「マッシモは、本気で他人の心配ができるひとだった。私が東京に出てくる前の日に、海に行った話を聞いたこと、ある?」
「ないね」
「ないだろうね。弱ってた私にただ黙って付き添って、それを当たり前だと思っているような男だった。だから結婚したのかも知れない」
 それから空の紙コップを潰して、立ち上がった。

 実は結婚するって話を聞いたとき、マッシモが言っていた言葉がある。ユーキは僕のことを、男として好きなわけじゃないんだよ。でも僕は、それでもいいと思ってるんだ。友情だって恋情だって、情は情だよ。それが深まっていくのなら、どちらにしろ離れられなくなるだろう?
 ユーキは今でも、マッシモの中の真っ当なやさしさを見ている。人嫌いのマッシモが俺とユーキに気を許したのは、踏み込まれたくないとバリアを張っているのが見えたからだと、今なら理解できる。対等だった三角形は、お互いの領分を譲り合ってできていたのだ。
しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

今更気付いてももう遅い。

ユウキ
恋愛
ある晴れた日、卒業の季節に集まる面々は、一様に暗く。 今更真相に気付いても、後悔してももう遅い。何もかも、取り戻せないのです。

ガラスの森

菊池昭仁
現代文学
自由奔放な女、木ノ葉(このは)と死の淵を彷徨う絵描き、伊吹雅彦は那須の別荘で静かに暮らしていた。 死を待ちながら生きることの矛盾と苦悩。愛することの不条理。 明日が不確実な男は女を愛してもいいのだろうか? 愛と死の物語です。

立派な王太子妃~妃の幸せは誰が考えるのか~

矢野りと
恋愛
ある日王太子妃は夫である王太子の不貞の現場を目撃してしまう。愛している夫の裏切りに傷つきながらも、やり直したいと周りに助言を求めるが‥‥。 隠れて不貞を続ける夫を見続けていくうちに壊れていく妻。 周りが気づいた時は何もかも手遅れだった…。 ※設定はゆるいです。

処理中です...