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五十歳
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到着した寺では坊さんが既に待機しており、お経をあげてもらうだけの法事は、あっさりと終わった。実家と同じ寺だったので、マサナオさんが支払いをしている間に祖母に線香をあげてきた、それだけだ。
「遠くからお呼びたてしたのに、大したおもてなしもできなくて申し訳ないのですが、寿司屋を予約してあります」
マサナオさんが案内してくれた店は、二階がいくつかの個室になっており、この地域にもこういう小さな集まりが増えてきたことを物語っている。かつてこの地域の祝儀不祝儀は、すべて家で行われていた。家の者は喜ぶことも悲しむことも後回しで、てんてこまいになりながら客を迎える支度をし、台所は近所の奥さんたち総動員の戦場だった。田舎も世代交代で、旧い形式だけを継いでいくことは、できなくなってきている。
店から出て車を待っていると、小さな老婆が近づいてきた。ユーキの前に立ち、曲がった背を伸ばすように言う。
「舞子ちゃんじゃない? 結城舞子ちゃん」
ユーキは一瞬身構えたあと、その老婆が誰なのか思い当たったらしい。
「おばさん!」
ユーキが高校生のころにアルバイトしていた、中華屋のおかみさんだった。
「良かったよ、元気そうで。ひとりで東京に出て行ったから、心配してたんだよ。こんな綺麗な奥様になって」
「お店が閉まっちゃってから、連絡先がわからなかったものだから。みなさま、お元気ですか」
ユーキの声が潤んでいる。
「うちのひとの糖尿がひどくなったから、店が続けられなくてね。今は私ひとり、仕送りと年金でようよう生きてるのよ。子どもたちにも家庭があるから」
ユーキとおばさんが手を握り合っているうちに、呼んだタクシーが入ってきた。
「おばさん、手紙書くわ。住所を教えて」
メモを書く時間を急かすように、タクシーの運転手がマサナオさんに行き先を訊ねている。何駅か先のビジネスホテルの名で、少々態度が変わったのは、距離を稼げるからだろう。
「敵ばっかりじゃなかったんだなあ」
タクシーの後部座席で、ユーキは言った。
「よく、お料理をいただいたの。残ったものって言ってたけど、唐揚げでも春巻きでも、一皿の数量は決まってるじゃない。あれは私に持たせるために、わざわざ余計に作ってくれてたんだな。それに気がついたのが、自分で外食するようになってから。でもそのころには店は閉まっちゃってて、お礼の連絡先がわからなくてね」
マサナオさんが前の席で、耳を立てている様子が見える。彼はユーキの癒しになるだろうか。
「見逃したり忘れたりしてるだけで、たくさんのひとに助けられてきたんだな。自分の力でっていうのは、思い上がりだね」
ひとりごとみたいなユーキの言葉が、直接俺にも当てはまるみたいだ。兄の知り合いだからと空き店舗を紹介してくれた、コウヘイさんの弟の日に焼けた顔が浮かんだ。自宅の梅がたくさん実をつけたからもらってくれと言ってくれた、隣の家のひと。ジャムにしてお返ししたら、数年物の塩がやわらかくなった梅干をいただいた。
コウヘイさんの家の庭に小屋を建てて住み着いている得体の知れない男を、余所者だとはねのけるのは容易いだろうに、俺の存在をどうにか理解しようとしているひとは、確かにいるのだ。もちろん有名な画家の金目当てでオベッカを使っているのだと噂しているひとがいるのも知っているが、そうじゃないひともたくさんいる。
逃げるように出たここも、そうなんだろうか。卒業式の前の日、みんな少し驚いただけで、一瞬で嫌われたわけじゃないんだろうか。
送ってくれたマサナオさんが帰ったあと、ロビーの自動販売機で紙コップのコーヒーを買った。一口飲んでユーキが顔を顰める。
「何コレまずい」
「自販機に何を期待してんだ」
「あーあ。目の前に腕のいい職人がいるっていうのに」
「チヒロに仕込んどくよ。夏休みにキッチンカーの手伝いに来るから」
俺は当然チヒロから相談がいっているものだと思っていたから、ユーキの驚いた顔に逆に驚いた。
「やだ、あの子そんなこと言ってるの? インターンシップに行かないつもりかしら」
「聞いてなかったのか、そりゃ悪かったな。ヤツはヤツなりの考えがあるみたいだぞ。決まったらおまえさんにも話すと思うけど」
ユーキは母親の顔になって、少々俺に恨みがましいことを言ったが、小さく溜息を吐いた。
「仕方ないねえ、あの子の人生だから。一生懸命就活したって、その会社に一生いるとも限らないしね」
「そうそう。ユーキだって、自分で決めて歩いてきたんだろ。軽はずみなところはあるけど、チヒロはバカじゃない。心配しなくても、人の道から外れたりしないよ」
もしも外れたら、力ずくででも引き戻してやる。口には出さなくとも、俺がマッシモのためにできる最後のことだとは、それしかないと思っている。
「心配したいんだよ、親としては。ねえオガサーラ、私はチヒロを生むまで、心から誰かを心配したりしたことがなかったんだと思う。そりゃあ村井先生とか郷土史研究会とか、動向が気になるひとはいたけど、それは少し心に留めておく程度のものだった。だから自分以外の誰かを心配したり、逆に心配させたりっていうのが、幸福なことも知らなかったよ。チヒロがいなければ、知らないままで死んでいくところだった」
ユーキはそう言って、粉っぽいコーヒーを飲み干した。そして懐かしそうに、言葉を続けた。
「マッシモは、本気で他人の心配ができるひとだった。私が東京に出てくる前の日に、海に行った話を聞いたこと、ある?」
「ないね」
「ないだろうね。弱ってた私にただ黙って付き添って、それを当たり前だと思っているような男だった。だから結婚したのかも知れない」
それから空の紙コップを潰して、立ち上がった。
実は結婚するって話を聞いたとき、マッシモが言っていた言葉がある。ユーキは僕のことを、男として好きなわけじゃないんだよ。でも僕は、それでもいいと思ってるんだ。友情だって恋情だって、情は情だよ。それが深まっていくのなら、どちらにしろ離れられなくなるだろう?
ユーキは今でも、マッシモの中の真っ当なやさしさを見ている。人嫌いのマッシモが俺とユーキに気を許したのは、踏み込まれたくないとバリアを張っているのが見えたからだと、今なら理解できる。対等だった三角形は、お互いの領分を譲り合ってできていたのだ。
「遠くからお呼びたてしたのに、大したおもてなしもできなくて申し訳ないのですが、寿司屋を予約してあります」
マサナオさんが案内してくれた店は、二階がいくつかの個室になっており、この地域にもこういう小さな集まりが増えてきたことを物語っている。かつてこの地域の祝儀不祝儀は、すべて家で行われていた。家の者は喜ぶことも悲しむことも後回しで、てんてこまいになりながら客を迎える支度をし、台所は近所の奥さんたち総動員の戦場だった。田舎も世代交代で、旧い形式だけを継いでいくことは、できなくなってきている。
店から出て車を待っていると、小さな老婆が近づいてきた。ユーキの前に立ち、曲がった背を伸ばすように言う。
「舞子ちゃんじゃない? 結城舞子ちゃん」
ユーキは一瞬身構えたあと、その老婆が誰なのか思い当たったらしい。
「おばさん!」
ユーキが高校生のころにアルバイトしていた、中華屋のおかみさんだった。
「良かったよ、元気そうで。ひとりで東京に出て行ったから、心配してたんだよ。こんな綺麗な奥様になって」
「お店が閉まっちゃってから、連絡先がわからなかったものだから。みなさま、お元気ですか」
ユーキの声が潤んでいる。
「うちのひとの糖尿がひどくなったから、店が続けられなくてね。今は私ひとり、仕送りと年金でようよう生きてるのよ。子どもたちにも家庭があるから」
ユーキとおばさんが手を握り合っているうちに、呼んだタクシーが入ってきた。
「おばさん、手紙書くわ。住所を教えて」
メモを書く時間を急かすように、タクシーの運転手がマサナオさんに行き先を訊ねている。何駅か先のビジネスホテルの名で、少々態度が変わったのは、距離を稼げるからだろう。
「敵ばっかりじゃなかったんだなあ」
タクシーの後部座席で、ユーキは言った。
「よく、お料理をいただいたの。残ったものって言ってたけど、唐揚げでも春巻きでも、一皿の数量は決まってるじゃない。あれは私に持たせるために、わざわざ余計に作ってくれてたんだな。それに気がついたのが、自分で外食するようになってから。でもそのころには店は閉まっちゃってて、お礼の連絡先がわからなくてね」
マサナオさんが前の席で、耳を立てている様子が見える。彼はユーキの癒しになるだろうか。
「見逃したり忘れたりしてるだけで、たくさんのひとに助けられてきたんだな。自分の力でっていうのは、思い上がりだね」
ひとりごとみたいなユーキの言葉が、直接俺にも当てはまるみたいだ。兄の知り合いだからと空き店舗を紹介してくれた、コウヘイさんの弟の日に焼けた顔が浮かんだ。自宅の梅がたくさん実をつけたからもらってくれと言ってくれた、隣の家のひと。ジャムにしてお返ししたら、数年物の塩がやわらかくなった梅干をいただいた。
コウヘイさんの家の庭に小屋を建てて住み着いている得体の知れない男を、余所者だとはねのけるのは容易いだろうに、俺の存在をどうにか理解しようとしているひとは、確かにいるのだ。もちろん有名な画家の金目当てでオベッカを使っているのだと噂しているひとがいるのも知っているが、そうじゃないひともたくさんいる。
逃げるように出たここも、そうなんだろうか。卒業式の前の日、みんな少し驚いただけで、一瞬で嫌われたわけじゃないんだろうか。
送ってくれたマサナオさんが帰ったあと、ロビーの自動販売機で紙コップのコーヒーを買った。一口飲んでユーキが顔を顰める。
「何コレまずい」
「自販機に何を期待してんだ」
「あーあ。目の前に腕のいい職人がいるっていうのに」
「チヒロに仕込んどくよ。夏休みにキッチンカーの手伝いに来るから」
俺は当然チヒロから相談がいっているものだと思っていたから、ユーキの驚いた顔に逆に驚いた。
「やだ、あの子そんなこと言ってるの? インターンシップに行かないつもりかしら」
「聞いてなかったのか、そりゃ悪かったな。ヤツはヤツなりの考えがあるみたいだぞ。決まったらおまえさんにも話すと思うけど」
ユーキは母親の顔になって、少々俺に恨みがましいことを言ったが、小さく溜息を吐いた。
「仕方ないねえ、あの子の人生だから。一生懸命就活したって、その会社に一生いるとも限らないしね」
「そうそう。ユーキだって、自分で決めて歩いてきたんだろ。軽はずみなところはあるけど、チヒロはバカじゃない。心配しなくても、人の道から外れたりしないよ」
もしも外れたら、力ずくででも引き戻してやる。口には出さなくとも、俺がマッシモのためにできる最後のことだとは、それしかないと思っている。
「心配したいんだよ、親としては。ねえオガサーラ、私はチヒロを生むまで、心から誰かを心配したりしたことがなかったんだと思う。そりゃあ村井先生とか郷土史研究会とか、動向が気になるひとはいたけど、それは少し心に留めておく程度のものだった。だから自分以外の誰かを心配したり、逆に心配させたりっていうのが、幸福なことも知らなかったよ。チヒロがいなければ、知らないままで死んでいくところだった」
ユーキはそう言って、粉っぽいコーヒーを飲み干した。そして懐かしそうに、言葉を続けた。
「マッシモは、本気で他人の心配ができるひとだった。私が東京に出てくる前の日に、海に行った話を聞いたこと、ある?」
「ないね」
「ないだろうね。弱ってた私にただ黙って付き添って、それを当たり前だと思っているような男だった。だから結婚したのかも知れない」
それから空の紙コップを潰して、立ち上がった。
実は結婚するって話を聞いたとき、マッシモが言っていた言葉がある。ユーキは僕のことを、男として好きなわけじゃないんだよ。でも僕は、それでもいいと思ってるんだ。友情だって恋情だって、情は情だよ。それが深まっていくのなら、どちらにしろ離れられなくなるだろう?
ユーキは今でも、マッシモの中の真っ当なやさしさを見ている。人嫌いのマッシモが俺とユーキに気を許したのは、踏み込まれたくないとバリアを張っているのが見えたからだと、今なら理解できる。対等だった三角形は、お互いの領分を譲り合ってできていたのだ。
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