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二十歳
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シーズン中ではあっても、平日の房総の道は、俺みたいな初心者マークにもやさしい。昨年、友達たちと九十九里に海水浴に出たときには、出遅れた分だけ道が混み、大変な目にあったのに。
オガサーラの店には行ったことがある。高校受験が終わり、母とふたりでの短い旅行だった。海鮮を食べて展望台から海を眺めるような旅は、思春期の俺にはちっとも面白くなくて、母との会話も刺激なんかなくて、どうせなら宿代分現金でもらいたかったなんて、口に出したような気がする。そうだねえ、チヒロは友達と行動したほうが楽しいもんねえ、と母が溜息交じりに笑ったときは、少しだけ申し訳ない気になった。考えてみればあのあと母と歩いたのは、大学の説明会だけだ。
手元のスマートフォンで道を確認しながら辿り着いたのは、昼前だった。なんだか緊張して、軽く深呼吸をしてから自動ドアの前に立った。
「いらっしゃいませ」
聞き覚えのある声にほっとしてカウンターの中を見ると、あちらからも俺を見ていた。おまえチヒロか、久しぶりだなと陽気に迎えてくれるはずのひとは、皿を持ったまま俺を凝視していた。
「突然来ちゃって」
俺が声を発すると、やっとオガサーラの身体が動いた。
「チヒロか……?」
確かめるように俺の顔を覗き込む。
「そうです。お久しぶりです、小笠原さん」
数年ぶりに見たオガサーラは、俺の記憶より堂々として迫力のあるおとなの男で、とてもじゃないけどオガサーラなんて呼べなかった。
「最近は写真も見てなかったものだから、おとなになってるなんて想像外だったっていうか。親父とそっくりになったな」
視線はこちらに当たっているのに、視点が素通りしているみたいだ。俺の後ろに立つ誰かを、俺を透かして見ているような。
「小笠原さんはお元気そうで」
「やめてくれよ、気持ち悪い。甲高い声でシャーラって呼んでくれていいんだぞ」
「何それ?」
「オガサーラが言えなくてなあ。こっち向いてシャーラって呼ばれたとき、何のことかと思ったわ」
「いつの話だよ」
オガサーラは記憶にあるオガサーラで、変化したのは俺のほうみたいだ。少なくとも五年前は、もっと身近なひとだった。もっと前、シンガポールから公立の小学校へ転校したばかりのとき、学校に馴染めなかった俺を受け入れ、短期間のうちに同調圧力に屈しないコツを身に着けさせたひとだ。おかげで俺は個性的な友達を増やして、自然体で学生生活を享受できている。
「誰かと一緒か?」
「ひとりだよ。おっさんになったオガサーラの顔を見ようと思って」
「おにいさんだ、俺は」
そう言いあっているうちに客が幾人か入ってきて、店の中が急に騒がしくなった。よく日に焼けて筋肉質の男たちの職業は、見ただけでわかる。コーヒーと一口に言っても、ストレートかブレンドかローストの具合はどうかと、それぞれに好みは違い、舌が覚えてしまったものを注文したがる。だからカウンターの後ろには焙煎機の横にはびっしりと豆を入れた引き出しがあり、オガサーラはオーダーを受けてからミルで挽く。その一連の動作は、何の無駄もなく美しい。その姿に思わず見入ってしまうような色気があり、カウンターに向かうひとたちは、一様にオガサーラの手の動きを追う。男に色気を感じるなんておかしな表現だけど、それ以外の言い方が考えつかない。女に感じるみたいな性欲と結びついたものじゃなくて、なんていうか視線が勝手にオガサーラに持っていかれる感じなのだ。
俺が年上の男と生活した記憶はオガサーラとでしかなく、母の外向けじゃない顔とも相俟って、父親のイメージが直結する。シンガポールに行く前にはオガサーラと生活していた記憶があり、帰国したらまたオガサーラと住むつもりでもあった。けれどオガサーラは、俺たちの帰国後半年ほどで都内の店を畳んでしまった。
尤も、そのあとすぐに俺は登校前に蕁麻疹を出すようになり、リタさんの客間に仮住まい中のオガサーラのところに、送りこまれたことがある。あのときはまだ店舗がなくて、キッチンカーを海水浴場の駐車場に運んでいた。
「売り上げはこっちのほうがいい。でもやっぱり紙コップじゃなくて、唇に当たりのいい陶器のカップで出したいんだよ。まあ、チヒロに言っても仕方ないな」
顔を海に向けて言ったオガサーラを覚えている。
何故このひとは妻子を持たず、客数の少ないこの場所に店を構えたんだろう。
見せてもらった動画で、父と母とオガサーラの仲の良さは垣間見えたけれど、それは数十年前の話だ。進路の違う三人は、故郷を出ても同じようにつきあっていたんだろうか。父と母が結婚した時点で二対一の価値観にはならなかったのか? 二のうちの一が無くなったとき、一対一の位置関係になって向き合ったら、改めて発見があり恋愛に発展する可能性だってあったはずなのに。
母は何度か小さな転勤があったけれど、すべて家から通える範囲で調整していたみたいだった。もしもオガサーラが一緒に暮らしていたなら、母は俺のことにもう少し気を回さず、仕事の上の実績を積めたんじゃないだろうか。
何故ふたりはそうならなかったのだろう。亡くなった父に遠慮していた? けれど俺が生まれてから二十年、母とオガサーラは変わらずに仲が良い。人づきあいの得意でない母が、プライベートで自分から連絡するのは、オガサーラだけかも知れない。
「キッシュ食うか、チヒロ」
「俺、甘いもの苦手なんだよね」
「甘くないよ、地場野菜のパイだ。おまえの父ちゃんは甘いもの食ったけどな」
俺の前に皿を出しながら、オガサーラはまた俺を透かして誰かを見る。その誰かっていうのは、先日母に動画で見せてもらったひとなのだ。
「俺、そんなに父親に似てるの?」
客たちが勝手におしゃべりをしている横で、オガサーラに訊いてみる。
「あ、ああ。口を開くと別人だけど。マッシモの一人称は、僕だった」
オガサーラはうっすらと寂しそうな口調になり、小さく笑った。
オガサーラの店には行ったことがある。高校受験が終わり、母とふたりでの短い旅行だった。海鮮を食べて展望台から海を眺めるような旅は、思春期の俺にはちっとも面白くなくて、母との会話も刺激なんかなくて、どうせなら宿代分現金でもらいたかったなんて、口に出したような気がする。そうだねえ、チヒロは友達と行動したほうが楽しいもんねえ、と母が溜息交じりに笑ったときは、少しだけ申し訳ない気になった。考えてみればあのあと母と歩いたのは、大学の説明会だけだ。
手元のスマートフォンで道を確認しながら辿り着いたのは、昼前だった。なんだか緊張して、軽く深呼吸をしてから自動ドアの前に立った。
「いらっしゃいませ」
聞き覚えのある声にほっとしてカウンターの中を見ると、あちらからも俺を見ていた。おまえチヒロか、久しぶりだなと陽気に迎えてくれるはずのひとは、皿を持ったまま俺を凝視していた。
「突然来ちゃって」
俺が声を発すると、やっとオガサーラの身体が動いた。
「チヒロか……?」
確かめるように俺の顔を覗き込む。
「そうです。お久しぶりです、小笠原さん」
数年ぶりに見たオガサーラは、俺の記憶より堂々として迫力のあるおとなの男で、とてもじゃないけどオガサーラなんて呼べなかった。
「最近は写真も見てなかったものだから、おとなになってるなんて想像外だったっていうか。親父とそっくりになったな」
視線はこちらに当たっているのに、視点が素通りしているみたいだ。俺の後ろに立つ誰かを、俺を透かして見ているような。
「小笠原さんはお元気そうで」
「やめてくれよ、気持ち悪い。甲高い声でシャーラって呼んでくれていいんだぞ」
「何それ?」
「オガサーラが言えなくてなあ。こっち向いてシャーラって呼ばれたとき、何のことかと思ったわ」
「いつの話だよ」
オガサーラは記憶にあるオガサーラで、変化したのは俺のほうみたいだ。少なくとも五年前は、もっと身近なひとだった。もっと前、シンガポールから公立の小学校へ転校したばかりのとき、学校に馴染めなかった俺を受け入れ、短期間のうちに同調圧力に屈しないコツを身に着けさせたひとだ。おかげで俺は個性的な友達を増やして、自然体で学生生活を享受できている。
「誰かと一緒か?」
「ひとりだよ。おっさんになったオガサーラの顔を見ようと思って」
「おにいさんだ、俺は」
そう言いあっているうちに客が幾人か入ってきて、店の中が急に騒がしくなった。よく日に焼けて筋肉質の男たちの職業は、見ただけでわかる。コーヒーと一口に言っても、ストレートかブレンドかローストの具合はどうかと、それぞれに好みは違い、舌が覚えてしまったものを注文したがる。だからカウンターの後ろには焙煎機の横にはびっしりと豆を入れた引き出しがあり、オガサーラはオーダーを受けてからミルで挽く。その一連の動作は、何の無駄もなく美しい。その姿に思わず見入ってしまうような色気があり、カウンターに向かうひとたちは、一様にオガサーラの手の動きを追う。男に色気を感じるなんておかしな表現だけど、それ以外の言い方が考えつかない。女に感じるみたいな性欲と結びついたものじゃなくて、なんていうか視線が勝手にオガサーラに持っていかれる感じなのだ。
俺が年上の男と生活した記憶はオガサーラとでしかなく、母の外向けじゃない顔とも相俟って、父親のイメージが直結する。シンガポールに行く前にはオガサーラと生活していた記憶があり、帰国したらまたオガサーラと住むつもりでもあった。けれどオガサーラは、俺たちの帰国後半年ほどで都内の店を畳んでしまった。
尤も、そのあとすぐに俺は登校前に蕁麻疹を出すようになり、リタさんの客間に仮住まい中のオガサーラのところに、送りこまれたことがある。あのときはまだ店舗がなくて、キッチンカーを海水浴場の駐車場に運んでいた。
「売り上げはこっちのほうがいい。でもやっぱり紙コップじゃなくて、唇に当たりのいい陶器のカップで出したいんだよ。まあ、チヒロに言っても仕方ないな」
顔を海に向けて言ったオガサーラを覚えている。
何故このひとは妻子を持たず、客数の少ないこの場所に店を構えたんだろう。
見せてもらった動画で、父と母とオガサーラの仲の良さは垣間見えたけれど、それは数十年前の話だ。進路の違う三人は、故郷を出ても同じようにつきあっていたんだろうか。父と母が結婚した時点で二対一の価値観にはならなかったのか? 二のうちの一が無くなったとき、一対一の位置関係になって向き合ったら、改めて発見があり恋愛に発展する可能性だってあったはずなのに。
母は何度か小さな転勤があったけれど、すべて家から通える範囲で調整していたみたいだった。もしもオガサーラが一緒に暮らしていたなら、母は俺のことにもう少し気を回さず、仕事の上の実績を積めたんじゃないだろうか。
何故ふたりはそうならなかったのだろう。亡くなった父に遠慮していた? けれど俺が生まれてから二十年、母とオガサーラは変わらずに仲が良い。人づきあいの得意でない母が、プライベートで自分から連絡するのは、オガサーラだけかも知れない。
「キッシュ食うか、チヒロ」
「俺、甘いもの苦手なんだよね」
「甘くないよ、地場野菜のパイだ。おまえの父ちゃんは甘いもの食ったけどな」
俺の前に皿を出しながら、オガサーラはまた俺を透かして誰かを見る。その誰かっていうのは、先日母に動画で見せてもらったひとなのだ。
「俺、そんなに父親に似てるの?」
客たちが勝手におしゃべりをしている横で、オガサーラに訊いてみる。
「あ、ああ。口を開くと別人だけど。マッシモの一人称は、僕だった」
オガサーラはうっすらと寂しそうな口調になり、小さく笑った。
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