二等辺三角形プラス

蒲公英

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三十八歳

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 そんな中、ユーキから帰国すると連絡があった。チヒロも十歳になったことだし、もう力ずくでどうこうするほど真下の家に勢いがないことがわかったから、と。もともとユーキの持つ資格は大きな企業なら必要なものだから、ポストさえ空いていれば行き来は難しいものでないらしい。今はインターネットもあるし、とユーキからのメールには記されていた。ビジネスに疎い俺には、そういうことはよくわからない。ただ懐かしい顔に会うのが楽しみで、ユーキの言う『マッシモの縮小コピー』がどれほどの大きさになったのか、日を数えながら待つだけだ。
 十歳かあ、と呟く。十歳のころの俺は、どうだったろう。野球が好きだったな、あとは用水路のザリガニ。毎週兄が買ってくる少年ジャンプが楽しみで、ネギの皮剥きを手伝って爪の間を真っ黒にして。そうか、畑仕事が好きなら兄弟で野良ができるように畑を増やすか。若いもんが都会に出たがるから、この辺はさびれる一方だわ。兄弟で働けば、小笠原の家は安泰だ。そんな父の言葉を、ふと思い出した。俺が同性愛者だと知るまでは、俺のでかい図体や農作業を厭わないことを、近所の人に自慢していた。失望したぶん、俺を憎む気持ちが大きくなったのは仕方のないことだったのだろう。
 成田まで迎えに行くと言ったら、要らないと言う。マンションは賃貸に出してしまって契約が切れていないから、ウイークリーマンションに滞在しながら住まいを決め、チヒロの転入手続きやら何やらと、忙しいらしい。その間に仕事上の引継ぎなんかもあるから、と。
 もうチヒロも小さな子供ではないから、気軽に預かろうとも言えない。それに俺は今、自分の部屋に誰かを迎えるよりも、リタさんといたい。リタさんのキッチンでコーヒーを淹れる甘やかな時間は、古い友達や初恋のひとの遺児よりも大切なものになっていた。

 帰国後十日もしてから、ユーキは店に顔を出した。
「お土産は船便で着くから、もう少し待ってて」
 チヒロはずいぶん少年らしい顔になっていた。俺は小学生の頃のマッシモを知らないが、おそらくこんなふうだったのだろう。けれどマッシモと違うのは、チヒロはよく日に焼けていた。聞けば言葉を覚えきらぬころから、近所の子供たちとストリートバスケットに興じていたらしい。
「文科系の両親からねえ。誰に似たんだか」
 ユーキは少し驚いた顔をした。
「知らなかった? マッシモは喘息だから運動系の部活に入らなかっただけだよ。まあ母親が過剰に言い立てたからで、本人は体育の授業にも出てたけどね」
「知らなかったわ。長いつきあいでも、知らないことってあるんだなあ」
 キョロキョロしていたチヒロが、リタさんの絵本に気づいて広げた。この年頃の男の子なのに、携帯ゲームは持って歩いていないらしい。
「これ、日本?」
「そうね、日本ね。東京じゃないけど」
 ユーキの顔が母親らしくなる。こんな顔をすることを、マッシモは知らずに逝ってしまった。いや、どこかで見ているような気もする。たとえばここに三人並んでいたら、と俺はその光景を頭に思い描いた。こんなときマッシモは、どんな顔をしていただろうと。

 そこにコンニチハと入ってきたのは、リタさんだった。
「おや、子供のお客さんがいるとは珍しいですね」
 リタさんはユーキに笑顔を向けた。
「昔馴染みの特例で、カフェオレにしてもらってます」
 ユーキも愛想良く答える。よく知らない人間になんて打ち解けてやるものかと構えていた、十代のユーキはもういない。
「ああ、何年か前にあなたを見たことがあります。そのときカッチャンのご家族だと勘違いして、それから雑談が多くなった」
 ユーキは微妙な顔をしてから、俺を見て笑い出した。
「そっか、カッチャンってオガサーラか。そうだよねえ、私だって結城姓じゃなくなってずいぶん経つのにね。十代の友達は十代のままだわ」
「そうだな。マッシモとユーキだって、ふたりのときは違う名で呼び合ってたもんな」
「そうそう」
 リタさんがチヒロの開いている絵本に目を留めて、嬉しそうに言う。
「その絵、おじさんが描いたんだよ」
 ユーキのほうがやけに喜んでしまい、カウンターは賑やかになった。
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