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三十八歳
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「そういえば、ご家族で一緒に歩いているのを見たよ」
「あれは古くからの友人です。あのふたりは今日、成田から飛行機に乗りました。転勤でね」
「おや、旦那さんが先に行って待っているのかな」
「いや、彼女はシングルです。旦那が亡くなったあとに妊娠がわかりましてね。ひとりで子供を育てて、仕事をして」
「それはとても、勇敢なひとだね」
そうだ、ユーキは勇敢だ。思えば高校生のころから、自分の力で道を開いてきた。ぐれて流されてもおかしくない状況から、今は子供を育てながら部下を何人も持つワーキングウーマンだ。あの細い身体から迸る圧倒的なパワーを、当時のマッシモは見抜いていたろうか。
「高校三年間を、一緒に過ごしたんです。俺と彼女と、彼女の旦那と。死んじゃいましたけどね」
リタさんは微笑んで、ゆっくり頷いた。
「楽しい高校生活を思い出せる関係は、いいね。ふたりで彼女の気を引きあったり?」
そこで何故その言葉が出てしまったのか、自分でもわからない。リタさんの雰囲気と、薄暗い店内のせいだろうか。
「いえ、俺はゲイなので」
リタさんは一瞬目を見開いたが、すぐに同じ表情に戻った。
「ああ、そうなの。じゃ、戸籍上は独身ってわけだ」
「リタさんにはご家族が?」
「私も独身。コーヒー、もう一杯もらっていい?」
豆をミルに流し込みながら、リタさんともう少し話したいと思う。何かとても不思議な安心感があって、まだ帰って欲しくないと思った。
「私はね、性別がないんですよ」
俺がゲイだと打ち明けたからだろうか、リタさんはカップを片手にそんな話をはじめた。
「戸籍上は男性だし、性自認もかろうじて男性なのですが、意識が薄いんです。性器もないし、男性ホルモンの分泌も少ない」
「性器がない?」
「子供のころ、事故で下半身を潰したのですよ。足はどうにか残っていますが、片足はあまり機能しない」
リタさんはふっと息を吐いた。
「あまり他人にこんな話はしませんね。マスターに、ちょっと話したくなってしまった」
カウンターの中と外から、俺とリタさんは互いに顔を見て、それから同じような笑いを浮かべた。秘密を共有したような、共闘者になったような。
それからしばらくは、別に何もなかった。リタさんは変わらずに常連だったし、俺はコーヒーを淹れ続け、菓子を焼き続けた。もう長いこと、二丁目には行っていなかった。仲間を求めたところで俺がマイノリティなのは変わらないし、恋愛するために相手探しする情熱も薄れてしまっていたから。ときどきユーキから送られてくるメールを読み、マッシモを思い出す。写真のチヒロにマッシモの面影を探し、高校生のころの神社の境内を思い描く。マッシモとユーキと俺、三角形は三点がないと出来上がらない。
ある日本屋の店先に、めずらしく絵本が平積みになっていた。この本屋は店員おすすめの本に手製のポップをつけて並べるので、否が応でも目に入る。
日本の原風景、子供に戻って駆けだしたくなります。そんなフレーズだった。タイトルは『ここにいるよ』で、こどもたちがザリガニを釣ったり花冠を編んだりしている様子で、懐かしい遊びを紹介しているだけだ。光の射しかたが美しく、緑豊かな田舎の風景を思い起こさせる。作者の名前で目が釘づけになった。
利田航平、これはあのリタさんだろうか? イラストレーターだという話は聞いたことがあるけれど、業界紙の表紙や雑誌のカットみたいな仕事だと言っていた気がする。
子供向けではなさそうな絵本を、もう一度はじめからめくる。最初の白いページの真ん中に、一行だけ文字があった。『ちいさなわたしはどこにいる?』そして見開きの絵がはじまる。虫籠を提げて歩く子供、あやとりをする子供、かくれんぼする子供。子供は必ず複数人で、楽しそうな顔をしている。美しい空と、高い建物の見当たらない土地は、もう何年も見ていない。そして最後のページには、夕焼けの中で影法師を長く引いた子供が、ひとりで歩いている。『ちいさなわたし、またあおうね』
表情の見えないその子供が、寂しい顔をしているのか満足な顔をしているのか、そんなことが気になって絵本を買ってしまい、店のカウンターの隅に立てかけた。もしもこれがリタさんの描いたものなら、話のタネにしようと思いながら。
カウンターに座ったリタさんが絵本を手に取るのを、他の客と会話しながら見ていた。少しだけ面映ゆそうな顔で表紙を眺め、またカウンターの隅に立てかけた。やはり彼の作品なのだ。
「航平さんとおっしゃるんですね」
「フルネームが知れてしまった。私はマスターの苗字すら知らないのに」
ペンネームではなく、本名で活動しているのだと笑う。
「小笠原勝己といいます。己に勝つ、という勇ましい名前です」
「ふうん、カッチャンか」
その後リタさんは俺をカッチャンと呼び続け、それに倣った数人の常連が俺をカッチャンと呼ぶようになった。お返しにリタさんをコウヘイさんと呼ぶようになり、親密度は上がっていく。数冊出版されているリタさんの絵本を店に置くと、飾ってくれるのならばと水彩画を一枚譲り受けた。電車の車窓から見る風景が、花一面になっている。
「夢みたいでしょう? 実際にある風景なのですよ」
「どこなんですか」
「あんまり有名になっちゃうと、楽しみがなくなるからなあ」
リタさんは含み笑いをして、どこを走る電車か教えてくれた。
「誰かと一緒に乗ったことはないのです。私ひとりの小旅行で」
電車の窓に寄りかかって、満足げに外を眺めるリタさんが浮かんだ。
「俺、リタさんと行ってみたいです」
何の気なしに口から出た言葉だ。
「春先にならなければ、こんな風景にはなりません。いずれね」
いずれという言葉は、大抵断るために使われるものだ。次の春にと約束できなかったことが、やけに寂しく感じた。
「あれは古くからの友人です。あのふたりは今日、成田から飛行機に乗りました。転勤でね」
「おや、旦那さんが先に行って待っているのかな」
「いや、彼女はシングルです。旦那が亡くなったあとに妊娠がわかりましてね。ひとりで子供を育てて、仕事をして」
「それはとても、勇敢なひとだね」
そうだ、ユーキは勇敢だ。思えば高校生のころから、自分の力で道を開いてきた。ぐれて流されてもおかしくない状況から、今は子供を育てながら部下を何人も持つワーキングウーマンだ。あの細い身体から迸る圧倒的なパワーを、当時のマッシモは見抜いていたろうか。
「高校三年間を、一緒に過ごしたんです。俺と彼女と、彼女の旦那と。死んじゃいましたけどね」
リタさんは微笑んで、ゆっくり頷いた。
「楽しい高校生活を思い出せる関係は、いいね。ふたりで彼女の気を引きあったり?」
そこで何故その言葉が出てしまったのか、自分でもわからない。リタさんの雰囲気と、薄暗い店内のせいだろうか。
「いえ、俺はゲイなので」
リタさんは一瞬目を見開いたが、すぐに同じ表情に戻った。
「ああ、そうなの。じゃ、戸籍上は独身ってわけだ」
「リタさんにはご家族が?」
「私も独身。コーヒー、もう一杯もらっていい?」
豆をミルに流し込みながら、リタさんともう少し話したいと思う。何かとても不思議な安心感があって、まだ帰って欲しくないと思った。
「私はね、性別がないんですよ」
俺がゲイだと打ち明けたからだろうか、リタさんはカップを片手にそんな話をはじめた。
「戸籍上は男性だし、性自認もかろうじて男性なのですが、意識が薄いんです。性器もないし、男性ホルモンの分泌も少ない」
「性器がない?」
「子供のころ、事故で下半身を潰したのですよ。足はどうにか残っていますが、片足はあまり機能しない」
リタさんはふっと息を吐いた。
「あまり他人にこんな話はしませんね。マスターに、ちょっと話したくなってしまった」
カウンターの中と外から、俺とリタさんは互いに顔を見て、それから同じような笑いを浮かべた。秘密を共有したような、共闘者になったような。
それからしばらくは、別に何もなかった。リタさんは変わらずに常連だったし、俺はコーヒーを淹れ続け、菓子を焼き続けた。もう長いこと、二丁目には行っていなかった。仲間を求めたところで俺がマイノリティなのは変わらないし、恋愛するために相手探しする情熱も薄れてしまっていたから。ときどきユーキから送られてくるメールを読み、マッシモを思い出す。写真のチヒロにマッシモの面影を探し、高校生のころの神社の境内を思い描く。マッシモとユーキと俺、三角形は三点がないと出来上がらない。
ある日本屋の店先に、めずらしく絵本が平積みになっていた。この本屋は店員おすすめの本に手製のポップをつけて並べるので、否が応でも目に入る。
日本の原風景、子供に戻って駆けだしたくなります。そんなフレーズだった。タイトルは『ここにいるよ』で、こどもたちがザリガニを釣ったり花冠を編んだりしている様子で、懐かしい遊びを紹介しているだけだ。光の射しかたが美しく、緑豊かな田舎の風景を思い起こさせる。作者の名前で目が釘づけになった。
利田航平、これはあのリタさんだろうか? イラストレーターだという話は聞いたことがあるけれど、業界紙の表紙や雑誌のカットみたいな仕事だと言っていた気がする。
子供向けではなさそうな絵本を、もう一度はじめからめくる。最初の白いページの真ん中に、一行だけ文字があった。『ちいさなわたしはどこにいる?』そして見開きの絵がはじまる。虫籠を提げて歩く子供、あやとりをする子供、かくれんぼする子供。子供は必ず複数人で、楽しそうな顔をしている。美しい空と、高い建物の見当たらない土地は、もう何年も見ていない。そして最後のページには、夕焼けの中で影法師を長く引いた子供が、ひとりで歩いている。『ちいさなわたし、またあおうね』
表情の見えないその子供が、寂しい顔をしているのか満足な顔をしているのか、そんなことが気になって絵本を買ってしまい、店のカウンターの隅に立てかけた。もしもこれがリタさんの描いたものなら、話のタネにしようと思いながら。
カウンターに座ったリタさんが絵本を手に取るのを、他の客と会話しながら見ていた。少しだけ面映ゆそうな顔で表紙を眺め、またカウンターの隅に立てかけた。やはり彼の作品なのだ。
「航平さんとおっしゃるんですね」
「フルネームが知れてしまった。私はマスターの苗字すら知らないのに」
ペンネームではなく、本名で活動しているのだと笑う。
「小笠原勝己といいます。己に勝つ、という勇ましい名前です」
「ふうん、カッチャンか」
その後リタさんは俺をカッチャンと呼び続け、それに倣った数人の常連が俺をカッチャンと呼ぶようになった。お返しにリタさんをコウヘイさんと呼ぶようになり、親密度は上がっていく。数冊出版されているリタさんの絵本を店に置くと、飾ってくれるのならばと水彩画を一枚譲り受けた。電車の車窓から見る風景が、花一面になっている。
「夢みたいでしょう? 実際にある風景なのですよ」
「どこなんですか」
「あんまり有名になっちゃうと、楽しみがなくなるからなあ」
リタさんは含み笑いをして、どこを走る電車か教えてくれた。
「誰かと一緒に乗ったことはないのです。私ひとりの小旅行で」
電車の窓に寄りかかって、満足げに外を眺めるリタさんが浮かんだ。
「俺、リタさんと行ってみたいです」
何の気なしに口から出た言葉だ。
「春先にならなければ、こんな風景にはなりません。いずれね」
いずれという言葉は、大抵断るために使われるものだ。次の春にと約束できなかったことが、やけに寂しく感じた。
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