二等辺三角形プラス

蒲公英

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三十八歳

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 実はユーキに、結婚を提案したことがある。俺の家に避難してきてからしばらく経ったころだ。チヒロは可愛かったし、ユーキとならお互い遠慮も余計な干渉もなく、上手く生活していけると思ったし、そうすればマッシモの両親は諦めるだろうとも思った。そして、俺の両親も安心させてやれるかも知れない。
「イヤです」
 ユーキはにべにもなく言った。
「確かにチヒロはオガサーラに懐いてるし、男と一緒に生活すれば真下の両親には牽制になるかも知れない。だけどね、そんな偽装結婚めいたことはしたくない。マッシモががっかりする。オガサーラが孤独を感じなきゃいいなって、いつか言ってた」
「おまえらが一緒に暮らせば、孤独じゃなくなるだろうが」
 あのとき、はもうチヒロ眠っていた。
「こんなふうに部屋にまで置いてもらって、迷惑を掛けておいて言うのもなんだけど、一緒に生活する人がいるから孤独じゃない、なんてことはないんだよ。高校時代を思い出してごらん、オガサーラ。あんたは大家族の中で暮らしていて、どうだったのさ。それにね、チヒロを物理的に守らなくてはならない期間は、せいぜい残り五年くらい。それ以上になれば、自分の判断で動くようになる。そのあと、あんたと私はどうする? マッシモを間に挟んだままの友情で、一生を過ごせると思ってるの?」
 一気に言ったあと、ユーキはマッシモみたいな顔で微笑んだ。
「ありがとう。本当は嬉しいんだ。私もオガサーラと一緒にチヒロを育てたいと思ったことがあってね、そのときの結論なんだ。私とオガサーラは友達だけど、それはマッシモが間にいてのこと、だよね。今はマッシモの姿が見えないけど、それでも私たちはずっと彼を間に挟んでる。おそらくチヒロが生まれなければ、私たちはもっと前に互いに無関心になっていたと思う。でも、チヒロはマッシモの代わりにはならないんだ。彼はやっぱり彼自身になっていくんだし、いつまでも親の私を必要とするわけじゃない。そのときに、手を離してやらないわけにいかないの」
 ユーキはずいぶん前から、親になっていたのだ。初恋をずっと引きずって、俺はまだジタバタしてるっていうのに。
「ユーキ、マッシモに似てきたな」
「似せてるんだよーん。有難いことに、ヤツの思考パターンはまだ覚えてる。私の中身は、頑なで融通の利かないユーキのままだよ」
「さすが、夫婦やってただけある」
「その前からだよ。私は高校生のころからずっと、マッシモになりたかったんだ。私の欲しいものを全部持ってたから。普通の家庭も頭の回転の早さも、あんたの恋心も」
 ユーキはベロっと舌を出した。
「今、何気に何か言ったか」
「前に言ったでしょうが。私の初恋の相手は、あんただったんだよ。初恋を引きずってんのは、私も同じかもよ」
 苦笑いして、ユーキは洗面所に入っていった。化粧しないでいられる人間関係ブラボー、なんて言葉が聞こえた。

 ユーキとチヒロを成田で見送ったあと、マンションには帰らずに店に向かった。休業にしてはあったけれど、たまには自分のために豆を挽いてもいい。避難していただけだった親子が、避難の必要ない場所に移ることははじめからわかっていたのだけれど、なんだか生活に穴が開いたようだ。ユーキが生活し続けていたマッシモの気配の残る部屋は、綺麗にクリーニングして管理会社に託された。片づけ終わったあとの部屋に入ったとき、ユーキは涙ぐんでいたように思う。
「ここで生活しはじめたとき、オガサーラが引っ越し荷物を運んでくれたんだよね。冷蔵庫だけが新しくて、あとは結婚した当時の。頭金で全部使っちゃった」
「早々に買ったからなあ」
「マッシモは早く、生活基盤を築きたがってた。おそらく私を安定させるために」
 田舎の家は自営業や農家でなくとも、親戚や近所とのつきあいが濃い。はみ出すと裏でコソコソ言われるのが、怖いのだ。俺の祖母はそれを嫌って、ずいぶん面倒な人間関係を整理したようだが、祖母が亡くなって親父の代になってから、少しずつ復活しているらしい。密で排他的な人間関係を好むひとはいて、親父もその中のひとりらしく、母から愚痴交じりの電話が多くなった。
「家財道具、全部捨てちゃった」
「安心しろ。マッシモの作ったカウンターテーブルと棚は、俺が使ってやる」
「あんたんちのダイニング、狭いのにねえ」
「ひとりしか住んでないんだぞ。どこにでも置ける」
 そうだ、帰って部屋のレイアウトを考えなくてはと思うが、腰が持ち上がらない。二か月かそこらの期間だったが、俺以外の誰かの気配のある鬱陶しさと同じくらいの暖かさに、すっかり慣れてしまって、それを失った寒々しさを思う。そうして自分の店のカウンターで、ぼんやりと肘をついた。

 表のガラス戸が叩かれたのに気がついて、振り返った。慌てて鍵を開けると、常連のひとりがニコニコしていた。中年に差し掛かったひとだ。
「休業の札が出てるけど、姿が見えたものだから」
「ああ、すみません。出先から帰ってきたところで。コーヒー、飲んで行かれますか」
「休みなのに申し訳ない。今日は足の調子が良くなくてね、どこかで座りたかったんだ」
 常連、リタさんは杖で地面を叩いてみせた。休業なので表の灯りは点けず、カウンターの上の電灯だけスイッチを入れる。そんな中で見るいつもの顔は、普段と少し違って見える。
 リタさんはとても不思議な人で、はじめて店に来たときは性別すらわからなかった。今日も桜色のセーターに、淡いグレーのパンツを合わせている。杖を使っているので足が悪いのは一目でわかる。男にしては柔らかい声、筋張ったところがどこにもない手、薄い肩。確かイラストレーターだと言っていた気がする。
「ああ、やはりここのコーヒーが一番だ。東京は何年経っても住むのには馴染めないが、唯一気に入っているのは美味いコーヒーが飲めることだよ」
「リタさんはどこのご出身です?」
「千葉だよ。近いと言えば近いけど、仕事をするには不便な場所でね。海が近くて、父親は漁師だった。春の海は、そりゃもう驚くほど綺麗で」
 リタさんは少し遠くを見るような顔になった。こうやって、故郷を美しく思い出せるひとが羨ましい。
「マスターは東京のひと?」
「違います。うんざりするほど田舎で、三軒先の奥さんが買った着物の値段まで知っているような、クソみたいな人間関係の中で育ったんですよ。もう二度と戻りませんけど」
「生まれ故郷に、ひどい言い方をするなあ」
 リタさんは笑ったが、その目はまっすぐ俺を見ていた。
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