二等辺三角形プラス

蒲公英

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三十八歳

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 葬儀の連絡があったのは、兄からだった。
「ちゃんと男の格好をして来いよ。オカマが来たなんて、近所中に恥晒しだ」
 兄はゲイとトランスジェンダーと女装趣味の区別がつかない。メディアには女装した男が何人も出ているし、その中にはゲイを公言している者も確かにいる。だから兄は、ゲイがすべてそうだと思っているのだ。それを考えただけでも、俺は都会に出て良かったと思う。俺は生まれてからずっと男だし、女になりたいと思ったことはない。ただ性の志向性が男に向いているだけだ。それについてはかなり苦しんだし、今でも女に恋をできればと思う。せめて身体だけでも、女を愛することができれば良かったのに。そうすれば気の合った女と子供を生し、ごくごく一般的な家庭を築けたかも知れない。心の中に同性への憧れを秘め、社会に溶け込んでいたほうが、生きていく上でははるかに楽な気がした。
 けれども、と自分の中で声がする。もし出会ってしまったらどうするのだ。何もかも捨てて良いと思える相手に出会ってしまったら。そうして駆けていった俺のあとに残るのは、夫が同性愛者であったと嘆く妻と子供だ。きっとそれは、異性同士の浮気よりも質が悪い。そもそも俺は、女とセックスできない。かといって男という欲求も薄くて、もともと性行為に対する欲が小さいらしい。
 黒いスーツを身に着けて出席した葬儀の席は、居心地の良いものではなかった。父と兄は俺の顔を見もしないし、幾人かの親戚は表面上の挨拶をしたけれども、小さいときに遊んでやった甥たちですら遠巻きだ。義姉は何故か気を惹くように話しかけてきて、それがまた気持ち悪かった。
「ねえねえ。オネエって言われてる人たちって、やっぱりセンス良いの? みんな女より綺麗だよね」
「悪いけど、知りません」
「だって、そういう人がいるところに行ったりするんでしょ?」
「見ただけじゃ性別なんてわかりませんし、他人の前で服を脱いだりしませんから」
「だってテレビに出てる人たちは……」
「それをアピールする人もいれば、隠したい人もいるんですよ」
 途中から相手するのが面倒になって、生返事になった。そしてお開きを待たずに、母にだけ断って会場を出た。母は追いかけてきて、俺の手を握った。
「よその国では、あんたたちみたいなのが結婚できる法律があるんだってねえ。日本もそうなるといいね」
 老後にひとりでは寂しいからと、母はいつも通り俺を心配するようなことを言ったが、手洗いに行っていたらしい兄が通りかかると、口を噤んだ。昔風の教育を受けた母は、この時世でも父と兄に正面から意見できない。
「ありがとう。またね」
 母さん。普通の結婚ができない息子で、本当に申し訳なかった。育て方のせいだと父さんに責められていたこと、知ってるんだ。でもどちらにしろ、嘘を吐きとおすことなんてできなかったに違いない。だってこの地域はまだ、他人の生活を暴きたがるひとたちがたくさんいるから。

 新幹線の時間まではまだあったので、懐かしい駅前を歩いた。ユーキがアルバイトしていた中華料理店はなくなっていて、知らない新しい建物が増えていた。少し足を延ばせば、自転車で通った道がある。そして左に折れると田畑が広がり、真ん中のこんもりした鎮守の杜で、俺はマッシモに自分が同性愛者であることを告げたんだ。
 俺はおまえに、欲情なんてしたことないよ。高校生の自分の声が聞こえる。あれは嘘だよと言ったら、マッシモは怒るだろうか。いや、あの男は怒らない。気がつかなくてごめんな、だけど俺はヘテロだよ。そう言って申し訳なさそうな顔をするだろう。だから恋心を告げなかったことは正解だったのだ。おかげで二十年後の今でも親友面していられる。まあ、そのうちの十年は本人がいないわけだが。

 チヒロも大きくなった。とはいっても、知っているのはメールに添付されている写真だけだ。俺から会いに行けば良いのだろうが、ヤツらは今、海の向こうだ。ほんの数年、とユーキは言っていた。海外転勤の希望を出して希望が通ったとき、ユーキは小学校に入る年だった。
 その数か月前に、チヒロはマッシモの両親に誘拐未遂を起こされている。孫がいることを知った両親が、マンションから一緒に出てきた親子から子供だけを攫い、車に押し込もうとした。通行人によって阻止された両親の言い分は、孫が虐待されているから助けに来たということだ。祖父母に存在を知らせないのは虐待、母子家庭でお金に不自由させているに違いないことも虐待、素行不良の女が育てた娘に子育てができるはずがない、と騒ぎ立てたそうだが、そんな言い分が通るはずがない。けれど警察官は、孫と暮らしたい祖父母が暴走しただけだからと、穏便に収めるようユーキを説得した。
 両親は何度かユーキのマンションの前に現れ、チヒロを抱えて怯えるユーキを、出国までしばらくの間俺の部屋に住ませた。あれは窮屈ではあったけれども、幸福な時間だった。帰ればチヒロが迎えてくれ、チヒロの未来についてユーキと話すことができた。子供がいるということは、こんなことなのかと思った。身体には何の異常もないのに子供を持てない俺には、一生味わえない幸福なのだ。
「私はマッシモが死んでから、彼に恋した。それでも一緒にいた時間を思い返せるのが幸せなんだって、ようやっと思えるようになった」
 ユーキの表情は、若いときの想像もできないほど暖かく柔らかい。
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