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二十八歳
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少し前から、仕事には復帰していた。一か月近く休んだのでデスクの上にたくさんのメモが残されており、それを捌くことに時間を費やせたのは却って有難かった。四十九日の法要が終わったので、本格的に仕事が割り振られるようになり、私の日常は戻ったかに見えた。マッシモと暮らしていた部屋はそのままで、彼のシャツもカップも片づけてはいない。
ある日、ふとロッカーの中の生理用品が目に入った。これを先月使っていないと思ったが、いろいろあったのでホルモンのバランスが崩れたのだろうと勝手に納得した。だからそれに気がついたときには、もうつわりが始まっていたのだ。
マッシモの残したお金は義両親が手切れ金だと放棄したし、私に親類と呼べる親類はいないのだから、私の決意がすべてだった。産まないなんていう選択肢はなかった。マッシモが遺したものが、ただ私の変化だけでないことがひたすらに嬉しくて、何度も平たい腹に手を当てた。大切な大切なものを、託されたのだ。
マッシモに恋したことなんて、なかったというのに。彼になりたいと願ったことは数知れずあったけれども、会えるというだけで心を浮き立たせたことなんてなかった。私はマッシモを頼り、共にする生活の中に安心を見出していたけれど、あれは恋じゃなかった。それなのに。
「家族を作ってくれようとしたんだね。でも、数が足りなくない?」
写真の前にコーヒーを置きながら、話しかけてみる。まともな家庭に育たなかった私が、ちゃんと育てられるだろうか。不安になりながらも、他に道はないのだ。
マッシモの実家には知らせなかった。彼の忘れ形見があると知れば、きっと会いたがるだろうとは思う。実際の問題はそこから先で、会わせたら手離さなくなる可能性が高いと思った。評判の悪い女の娘は必要ない、子供だけを寄越せ。そう主張する義母が浮かんで見えるようだ。これはひねくれた見方で、ただ喜んで歓迎するかも知れないけれど、そう好意的に考えるには、私は綺麗でない生活に触れて育ちすぎた。
私の妊娠出産については、オガサーラの協力なしでは語れない。もちろん使える手段はすべて使い、民間のヘルパーさんにも世話になったが、私の心を支え続け励まし続けてくれたのは、オガサーラだった。
「一人目の甥っ子が生まれたとき、俺は中学生だったんだぜ。風呂にも入れたし、おむつ代えだってやったさ。任せとけ」
オガサーラはもう店を開店させており、週に何度も店を閉じてから顔を出した。半年間の育児休暇を終えて職場復帰するときに、保育園の緊急連絡先の登録にオガサーラの名を書いた。実際、どうしても外せない会議で遅くなったときに、オガサーラが迎えに行ってくれたことがある。狭いコーヒーショップのカウンターで、オガサーラは息子をおぶったままコーヒーを淹れていた。客にからかわれたそうだが、背中が暖かくて嬉しかったと。
息子は千浩と名付けた。マッシモの名から一文字もらい、それが会えなかった父子のよすがにしたいと思ったからだけれど、それを提案したのはオガサーラだ。真下浩紀の子、真下千浩。保育園と二次保育者とときどきオガサーラ、そして他でもない私の手の中で、小さなチヒロは育っていく。
けれど夜中に目が覚めて布団の上で起き上がると、これが現実か夢か区別のできない瞬間がある。もしかしたらここは公営住宅の立て付けの悪い部屋で、私は帰らない母の気配を探している高校生なのではないか、と。そんなとき隣にチヒロの寝息があれば、私は母になった私に戻ることができた。
「オガサーラ、良いパパになりそうだね」
はじまったばかりの離乳食を食べ終えたチヒロの口許を、オガサーラが拭っていた。
「なれそうでも、なりたくても、なれない」
オガサーラの口調はフラットだったけれども、彼が同性愛者であることを思い出すには充分だった。そう、私は忘れていたのだ。オガサーラは女と恋をしない。形にならないまでも、私はなんとなく夢を見ていた。このままオガサーラを頼り続け、いずれ彼も私を必要としてくれるのではないかと。マッシモの喪が明けてもいないのに、高校生のころの淡い恋心が私の中に浮いてきていた。オガサーラの広い胸は、私たち親子のために開いているような気さえしていたのだ。無口になった私をオガサーラは気遣い、気にしないでくれと言った。
「同性愛者でも、女と家庭を持つ人はいるんだ。俺がそうじゃないだけ」
淡い初恋が淡いまま自分の中で生きていたことに、私自身が驚いていた。きっと、ずっと消えていなかったのだ。
馬鹿だなあと心の中で呟く。本人が打ち明ける前から知っていて、それで自分の気持ちにケリをつけていたのに。こちらは結婚も出産も経験して、オガサーラの性のベクトルを理解して受け入れて、友情だけを育んでいるつもりだったのに、どうして心だけが勝手な夢を見るんだろう。そして今更になって、オガサーラから一方的に庇護と友情を与えられているけれども、自分はオガサーラに何もしていないことに気がついた。
自分が何を差し出したら良いのかわからない、定休日に嬉々としてチヒロの世話を焼きに来るオガサーラは、どうしてここまで……
何故それに思い至らなかったのか、産後の生活は忙しすぎた。私とオガサーラを結んでいるものは直線ではなく、お互いにもう一本の線がある。実存としては見えなくとも、同じだけの質感を持つ点があるのだ。
「マッシモの子供だから、可愛がってくれるんだね」
チヒロを膝に抱いたオガサーラが、ぽかんとこっちを見る。
「マッシモの子供を育てたかったんでしょう? マッシモが好きだったから」
慌てた顔で否定しようとしたオガサーラは、そのまま言葉を出すことに失敗した。まず鼻を赤くし、それから膨れ上がってくる涙を堪えようとしたけれど、その代わりに膝の中のチヒロを愛しむように抱いた。
「そうだよ、高校生のころからマッシモが好きだったんだ」
声を上げない慟哭で、オガサーラがマッシモの死を受け入れたことを知った。マッシモへの好意を過去形で表し、もういないのだと確認したように、オガサーラはやっと自分の悲しみに正面から向き合ったのだ。
ある日、ふとロッカーの中の生理用品が目に入った。これを先月使っていないと思ったが、いろいろあったのでホルモンのバランスが崩れたのだろうと勝手に納得した。だからそれに気がついたときには、もうつわりが始まっていたのだ。
マッシモの残したお金は義両親が手切れ金だと放棄したし、私に親類と呼べる親類はいないのだから、私の決意がすべてだった。産まないなんていう選択肢はなかった。マッシモが遺したものが、ただ私の変化だけでないことがひたすらに嬉しくて、何度も平たい腹に手を当てた。大切な大切なものを、託されたのだ。
マッシモに恋したことなんて、なかったというのに。彼になりたいと願ったことは数知れずあったけれども、会えるというだけで心を浮き立たせたことなんてなかった。私はマッシモを頼り、共にする生活の中に安心を見出していたけれど、あれは恋じゃなかった。それなのに。
「家族を作ってくれようとしたんだね。でも、数が足りなくない?」
写真の前にコーヒーを置きながら、話しかけてみる。まともな家庭に育たなかった私が、ちゃんと育てられるだろうか。不安になりながらも、他に道はないのだ。
マッシモの実家には知らせなかった。彼の忘れ形見があると知れば、きっと会いたがるだろうとは思う。実際の問題はそこから先で、会わせたら手離さなくなる可能性が高いと思った。評判の悪い女の娘は必要ない、子供だけを寄越せ。そう主張する義母が浮かんで見えるようだ。これはひねくれた見方で、ただ喜んで歓迎するかも知れないけれど、そう好意的に考えるには、私は綺麗でない生活に触れて育ちすぎた。
私の妊娠出産については、オガサーラの協力なしでは語れない。もちろん使える手段はすべて使い、民間のヘルパーさんにも世話になったが、私の心を支え続け励まし続けてくれたのは、オガサーラだった。
「一人目の甥っ子が生まれたとき、俺は中学生だったんだぜ。風呂にも入れたし、おむつ代えだってやったさ。任せとけ」
オガサーラはもう店を開店させており、週に何度も店を閉じてから顔を出した。半年間の育児休暇を終えて職場復帰するときに、保育園の緊急連絡先の登録にオガサーラの名を書いた。実際、どうしても外せない会議で遅くなったときに、オガサーラが迎えに行ってくれたことがある。狭いコーヒーショップのカウンターで、オガサーラは息子をおぶったままコーヒーを淹れていた。客にからかわれたそうだが、背中が暖かくて嬉しかったと。
息子は千浩と名付けた。マッシモの名から一文字もらい、それが会えなかった父子のよすがにしたいと思ったからだけれど、それを提案したのはオガサーラだ。真下浩紀の子、真下千浩。保育園と二次保育者とときどきオガサーラ、そして他でもない私の手の中で、小さなチヒロは育っていく。
けれど夜中に目が覚めて布団の上で起き上がると、これが現実か夢か区別のできない瞬間がある。もしかしたらここは公営住宅の立て付けの悪い部屋で、私は帰らない母の気配を探している高校生なのではないか、と。そんなとき隣にチヒロの寝息があれば、私は母になった私に戻ることができた。
「オガサーラ、良いパパになりそうだね」
はじまったばかりの離乳食を食べ終えたチヒロの口許を、オガサーラが拭っていた。
「なれそうでも、なりたくても、なれない」
オガサーラの口調はフラットだったけれども、彼が同性愛者であることを思い出すには充分だった。そう、私は忘れていたのだ。オガサーラは女と恋をしない。形にならないまでも、私はなんとなく夢を見ていた。このままオガサーラを頼り続け、いずれ彼も私を必要としてくれるのではないかと。マッシモの喪が明けてもいないのに、高校生のころの淡い恋心が私の中に浮いてきていた。オガサーラの広い胸は、私たち親子のために開いているような気さえしていたのだ。無口になった私をオガサーラは気遣い、気にしないでくれと言った。
「同性愛者でも、女と家庭を持つ人はいるんだ。俺がそうじゃないだけ」
淡い初恋が淡いまま自分の中で生きていたことに、私自身が驚いていた。きっと、ずっと消えていなかったのだ。
馬鹿だなあと心の中で呟く。本人が打ち明ける前から知っていて、それで自分の気持ちにケリをつけていたのに。こちらは結婚も出産も経験して、オガサーラの性のベクトルを理解して受け入れて、友情だけを育んでいるつもりだったのに、どうして心だけが勝手な夢を見るんだろう。そして今更になって、オガサーラから一方的に庇護と友情を与えられているけれども、自分はオガサーラに何もしていないことに気がついた。
自分が何を差し出したら良いのかわからない、定休日に嬉々としてチヒロの世話を焼きに来るオガサーラは、どうしてここまで……
何故それに思い至らなかったのか、産後の生活は忙しすぎた。私とオガサーラを結んでいるものは直線ではなく、お互いにもう一本の線がある。実存としては見えなくとも、同じだけの質感を持つ点があるのだ。
「マッシモの子供だから、可愛がってくれるんだね」
チヒロを膝に抱いたオガサーラが、ぽかんとこっちを見る。
「マッシモの子供を育てたかったんでしょう? マッシモが好きだったから」
慌てた顔で否定しようとしたオガサーラは、そのまま言葉を出すことに失敗した。まず鼻を赤くし、それから膨れ上がってくる涙を堪えようとしたけれど、その代わりに膝の中のチヒロを愛しむように抱いた。
「そうだよ、高校生のころからマッシモが好きだったんだ」
声を上げない慟哭で、オガサーラがマッシモの死を受け入れたことを知った。マッシモへの好意を過去形で表し、もういないのだと確認したように、オガサーラはやっと自分の悲しみに正面から向き合ったのだ。
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