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蒲公英

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 コートの胸元から自分の体臭が上がってきた気がして、田代隼人はくんと鼻を鳴らした。そういえばしばらくシャワーもいいかげんで、浴槽に浸かってはいない。毛穴を開かせて汚れを潤びさせないと、湿度の多い日本では身体が綺麗にはならないのだと、実家にいたころ母が言っていた気がする。
 仕方ねえだろうがよ。メシ食ったらそのまま寝ちゃう疲れ方で、朝から風呂に湯を張る時間はない。休みの日は冷蔵庫のストックを作るのが精一杯で、現在はそれも尽きかけ……ってか、料理って頭の余裕の産物だよ。

 地場では古くからある小さな醤油醸造会社が、ドレッシングだの焼き肉のタレだのを出していることを知ったのは、蓄えもないのに勢いで前の会社を辞めてしまってからだ。フリーペーパーの求人情報を何冊ももらった中に、福利厚生有の文字が輝いて見えた。参考と書いてある給与は悪くないし、ずいぶん前だがその高価たかめな醤油が近所のスーパーマーケットに置いてあるのを見た。こんな会社があるのかと手に取った記憶はあるが、買ったことはない。

 母親が送ってくる野菜の消化と経費節減のために、料理のスキルだけは上がっている。それを褒めてくれたり消費を手伝ってくれたりする女は、いない。正確に言えば、先輩に寝取られた。
 それを見たくなくて会社を辞めたヘタレだ、悪いか。

 営業部には残業手当の代わりに報奨金インセンティブが支払われます。上手く顧客を掴めば、残業手当よりも割高な給与になるはずですよ。面接では確かにそう言われた。未経験でも可の営業の条件なんてそんなものだと納得し、口上のロールプレイングくらいはしてもらえるだろうと思っていたが、一週間の同行営業で意味も掴めないうちに外に放り出された。

「飛び込みで新規開拓してこい。既存客はもう担当と信頼関係ができているから、成績を分けてもらえると思うな」

 ノルマを特に定められているわけではなくとも、成績がなければインセンティブは入って来ない。基本給は最低賃金制度ギリギリで、そこから引かれる年金・保険。他に三人だけいる営業たちは、どうも全員地元の育ちで、知り合いの伝手から顧客を拾ったという。
 飛び込み営業なんて効率が悪い上に、冷たくあしらわれてプライドに障る。そんなことをしなくちゃならないんなら転職するなんて、交友関係の伝手だけで営業成績を上げている先輩が言う。結構な額の取引があるくせに、自分の所得が絡んでくるから絶対に伝手の紹介なんかしてくれない。他の人も、大体の事情は同じ。

 営業用の社用車は二台しかなくて、そうなると大きな商談を纏めた人間に優先権が行くのは当然。だから、ペーペーの移動手段は自転車か徒歩になる。ドレッシングのサンプルをバッグに入れ、肩から掛けると、液体の重さで肩が抜けそうだ。

 誰でもいいから、話を聞いてください。せめて荷物を降ろさせて。午前中に訪問した焼き肉店では、タレもドレッシングも自家製だと喧嘩を売られた。ここならイケそうだと思っていた蕎麦屋は、引っ張るだけ引っ張ってサンプルを何本も出させたのち、断られた。このままじゃ今月のインセンティブはゼロ近い。
 おまえのエリアだと渡された市の地図の、歩いた道路を線でなぞる。午前の仕込み時間と午後の仕込み時間を狙っての飛び込みは、小さな喫茶店から大きなレストランまでの絨毯爆撃カーペットボミングで当たるしかない。インターネットで俄仕込みの営業の口上を口の中で繰り返し、指導してももらえない商品知識の上っ面は丸暗記だ。

 こんなマイナーブランドなんて、口先だけで売り込むしかないだろ。夕べ夜中までかかって作らされたプレゼンボードだって、使うヤツなんていない。しかも残業手当はないときたもんだ。
 三ヶ月も基本給だけなら、楽に干物になれる程度の貯蓄しかない。もう一月も歩き続けて、まだ納入先は掴めない。どうして営業成績が出せないのか、一日中パチンコ屋にでもいたんじゃないのかと責められ、定時過ぎにいきなり営業会議だと呼ばれ、新しいラベルのデザイン案を出せと言う。休日に呼び出されて、自分が入社する前から積んであった商品の仕分けをしろと指示される。
 時間が読めないから、ダブルワークもできない。多忙なのに充実できない。これならば、保障がなくても日雇い派遣のほうが幾分マシかも知れない。

 そんなことを考えながらも、まだ辞表も出さずに重いバッグを背負って歩くのは、目の前のことをないがしろにできない性分のようなものだ。監視の目がない日報だけの報告なのだから、日中に違う会社の面接に行くことは可能なのに。

 ふてくされたまま歩いていると、揚げ物の匂いが鼻を掠めた。商店街からは少し離れ、住宅地とも商業地域とも言えない中途半端な場所に、控えめに出されている看板は『キッチンあずさ』なんて、古臭いネーミングである。小さな間口の新しいとは言えない建物に、なんだか不似合いな可愛らしいチョークアートでメニューが記されていて、その中のコロッケランチという言葉に心惹かれた。ランチ時間終了まで、残り三十分ある。今日の営業先は、ここでもいい。

 普段なら経費節減のためにコンビニエンスストアのおにぎりを齧るのだが、たまには暖かい場所で座る贅沢を許されるかも知れない。食事する場所を求めて移動しているのに、そこでするのは食事ではなく商談だけ。しかも報われていない。

 たかだか数百円で、何やってんだよ俺……

 客席が二十くらいの小さな店の中には、客は一人だけだった。水を持ってきた女の子に外に書いてあった通りのコロッケランチと告げて、荷物をどすんと床に降ろす。出された水を一気に飲んでしまい、もう一杯もらおうと店の中を見回すと、オーダーを取りに来た女の子はいない。一時を三十分も回った店の中にいるのは、立ち上がりかけた人だけ。水をくださいなんて声を出すのは、場違いな気がする。

「ゆうちゃん、お勘定」

 レジスターの前に立った中年の男が厨房の中に声をかけると、中から若い女の声がした。

「焦げちゃうから、ちょっと待っててぇ」

 ほどなく出てきたのは、先ほどテーブルに来たのと同じ顔だ。いや、正確に顔を覚えているのではなく、服装が同じだということなのだが。

 なんだ、あの女の子ひとりで店やってんの? アルバイトが料理もするような店じゃハズレかな、せっかく普段より贅沢しようと思ったのに。
 若い娘が飲食店にいるっていうだけでアルバイトだと思い込んでしまうなんて、ひどい石頭である。しかし石頭は大抵、自分が石頭だと自覚していない。責任者が留守しているようなら営業はできないな、食事が済んだらアポイントメントだけ取って次回に営業を掛けようなどと思いつつ、運ばれてくるのを待った。

 まったく期待していなかったトレーの上は、なんとも想像外だった。キャベツとコロッケと漬物、味噌汁とごはんはその通りだが、デザートなのだろう小さな菓子があり、同じトレーの上にコーヒーまで乗っている。

 これ、デザートとコーヒーは余計じゃねえ? ランチみたいにスピード勝負でこんなサービスがあったって、回転が悪くなるだけで店の利益にならないだろ。
 そう考えた後に、余計な合理化を口に出して雰囲気を台無しにするところがイヤだと言った女を思い出した。欠点がすぐに目につく分析力を自分では密かに自慢に思っていたので、惚れた女にひけらかしたかったのかも知れない。そこがイヤだと他の男に走るとは、想像もしなかったよなと小さくへこむ。自分で頭が良いと思い込んでいるバカだと、最後に言われた気がする。

 気を取り直して汁椀を取った。ありがちなインスタントにネギを足しただけの味噌汁ではなくて、ちゃんとここで調理したものらしい。手を抜いた味噌汁ではないなと思いながら、コロッケに箸を入れた。

 あ、マッシュポテトの冷凍品じゃない。ジャガイモを茹でて潰したやつだ。実家のコロッケみたい。

 少々頬を緩めながらソースをかけていると、女の子が水を注ぎ足しに来た。やはり接客も調理もレジもひとりらしい。店主は留守か。
 つけあわせのキャベツに、ドレッシングは添えられていない。キャベツにソースって好きじゃないんだよなと思いながら、残さずに食べた。惜しいな、これでつけあわせまで気を利かせてくれてれば満足度が上がるのに。

 お、ちょっと待てよ? 俺が今バッグの中に持っているものは何だ。これは営業チャンス!

 しかし、このデザートみたいなのとコーヒーは邪魔だ。できれば番茶のほうがありがたい。さっきの客も中年だったし、女の人がお喋りのためのランチに来るような場所じゃない。普段通り余計な分析をしつつ食事を終え、バッグを置いたまま清算のために席を立った。
 もう店の中はカラだ。もしも店主が呼べるような場所にいるのなら、声をかけてしまいたい。もしくは、この女の子でアポイントメントが取れるだろうか。

「ごちそうさまでした。おいしかったです」
「ありがとうございます! またどうぞお寄りになってください」

 嬉しそうに返事する女の子は、テーブルに目を向けた。

「お忘れ物ですか?」

 あんな大きな商材を忘れるわけがなかろうと、隼人は小さく笑う。

「あ、申し訳ありません。梅津醸造の田代と申します。お約束もなしに申し訳ないのですが、責任者様にお取次ぎいただけますか」

 名刺を出して渡すと、彼女はにっこりと返事をした。

「私がオーナーで責任者です。お話を伺いましょう」

 どう見ても二十代前半の、頼りなさそうな女の子だ。そしてこの店は、どう見ても今風なセンスじゃない古ぼけた定食屋だ。今のコロッケランチだって税込み五百円の、お財布に優しい価格。ワンコインにしてはずいぶんと手もコストもかかっていたと思えるほどの。
 隼人が頭の中で考えている間に彼女はテーブルの上をさっさと片付け、バッグを置きっぱなしたテーブルの対面に座った。
 疑問は後だ。とりあえず先刻頭の中で組み立てた営業トークを開始しなくては。

「突然の営業で、申し訳ありません。食事させていただいて気がついたんですが、こちらは生野菜に味をつけておられないようなので、もったいないなあと思いまして。たとえばキャベツにドレッシングが添えられていれば、最後まで食べられるのになんて感じました」

 対面の彼女は、小首を傾げて話を促した。それに勇気づけられて、持っているサンプルをいくつもテーブルの上に並べて説明した。納入は一リットル入りのボトルだが、サンプルは小さな容器にラベルを張ってある。全部そのまま味見はできないが、丸暗記した能書き通りの説明ならばとても上質な調味料のはずだ。
 もちろん当日に決定する店なんて、ないだろう。っていうか、今まで納入した実績がないからわからない。サンプルを渡して歩いているだけである。

「うん、じゃ、買ってみます」

 にこにこ言われて、熱の入った説明が止まった。聞き間違いじゃないだろうか。

「えっとね、その梅とゴマと、それからポン酢と和風。あ、白だしも」
「え?」
「三本セットだと、少し安くなるんでした? そしたら全部で十五本買います」

 ちょっと待て。知りもしないものをいきなり買うのか。

「ええっと、サンプル確認しなくていいんですか?」
「お話の通りなら、おいしいんでしょ? それでお客さんが増えれば」

 ちょっと待て。レシピを確認しなくていいのか。その言葉を、口の中で飲み込んだ。前言撤回されたくない。

 こんな不用心な経営があるか。五百円のランチを何人分売れば、この調味料の元がとれると言うのだ。売れれば確かに自分は嬉しいし、少ない報奨金も手に入る。けれど何か、すっごく違う気がする。

「素材手に入れてから、工夫します。おいしいものを考えるの、楽しい」

 罪悪感を感じながら、はじめての注文書をもらう。相手が若い女の子であるだけ、なんだか騙したような気になる。頭を下げてそそくさと店の扉を開けると、大きく溜息を吐いた。初受注の喜びより先に、戸惑いがある。本当にあの店に売って、良かったんだろうか。


 新装開店のビストロの前は、女性客が何人も並んでいた。平日の昼間に優雅なこっちゃと思いながら通り過ぎようとしたとき、見たことのある顔を見つけた。忘れられない初受注の相手である。納入に訪れたときは夜の仕込みをしていたようだが、外に書き出されたメニューはやはり千円程度の定食で、申し訳ないが大層に売り上げがあるようには見えない。それがこんな、ランチから三千円も取るような店の前に並んでいるのだ。しかも、連れもなしで。

「梅津醸造さん、偶然ですね。お昼ですか」
「営業中なんです。飲食業のかたも外食するんですね」
「ちょっと偵察です。女性客の好みって、うちとどれくらい違うんだろうって」

 自分の店のランチタイムが終わって、大急ぎで並んだのだろう。しかしながら、『キッチンあずさ』とここでは、呼び込み方も売り物も違うのではないだろうか。挨拶を交わしているうちに彼女の番になり、お連れ様とか言われると退く場所が見当たらなくなって、つい一緒に入店してしまった。彼女は隼人が昼食にここを選んだと思っているようだ。
 そんなこんなしている間に席に通されてしまったら、後に退けない。メニューを見れば、一番安価やすいコースが三千円だ。コンビニでおにぎりとお茶を買うことを思えば、一週間分の昼代である。
 えっと、勘定はどっちが持つ? いや、多くても割り勘だ。今日は商談じゃない。

 呑気に店を見回してメニューを凝視している対面の席の様子を窺い、自分の財布の中身を思い浮かべる。とりあえず自分だけの勘定なら、大丈夫だ。

「あ、この盛り付けキレイ。オーバルのプレートってどうかしら。お皿が良いと映えますよね」
「お野菜の彩りはこれくらいのほうが、女のひとは入りやすいかな」
「あ、お肉やわらかい……おいしい」

 おい。あんたの店はどう見ても街場の定食屋で、ここの店とは店構えからして違うだろう。綺麗にメイクした女じゃなくて、デニムパンツの学生が食欲を満たしに来るような。
 ツッコミたい部分は数々あれど、視察だと言うのだから頷くだけにしておく。なんだか感想が明後日だなあと思いつつ、自分の見込み客の店の事情を質問してみることにした。

「去年亡くなった祖母の店なんです。父が売るって言うのを待ってもらって、一年で私が収益出せるようにするって言っちゃって…… 祖母のごはん、おいしかったんです。私もああやって、お客さんに喜んでもらいたい」
「ふうん、飲食業ってしたことあるの?」
「チェーンのお店で、調理師してたの。本部から送られてくる食材って、なんか嫌で」
「じゃ、経営は未経験なんだ」
「うん、父もサラリーマンだし。おばあちゃんのお店は小さいころから大好きで、無くなっちゃうんなら私がって」

 そんな話まで聞いたときに、デザートが出た。

「やっぱりデザートとコーヒーって、ランチと一緒のトレーじゃダメですよね。うちも別々に……」
「ちょっと待て! なんかおかしい!」

 これまで何度か抑えていた言葉が、口からこぼれた。あの店のコロッケランチは確かに旨かったが、それに女性向けのサービスをつけても女性客が増えるのではないと、何故気がつかないのか。
 細かな分析なんて必要ない。これは大元から決定的に違う。考えてみれば、ワンコインであのクォリティだっておかしい。素人の隼人にすら感じるほどの違和感に、動いている本人は気がつかない。

「おかしいって、何がですか」
「ええっと、キッチンあずささん」
「伊東柚子ゆずです。発注書に書いたと思いますが」

 客先の店主の名前を覚えていないのは、営業としてどうなんだと責められるべきであろう。飛び込み営業を繰り返して顧客を掴むためには、名と顔を一致させることは重要であると何かに書いてあった。名前を頭の中に刻もうとして、改めて顔を見た。
 売り込むときに必死だったときは気がつかなかったけど、結構可愛い……ってか、めちゃ好みの顔。

 言いかけたことは何だと促されて、慌てて言葉を繋いだ。好みの顔だと気がついて頭がテンパってしまったので、言葉遣いを修正することを忘れた。

「俺、客商売はぜんぜんわかんないけど、あんたの言ってることはチグハグすぎる。市場調査とか食器以前の問題な気がする」
「どういうこと?」
「ぶっちゃけあの店、利益出てる?」

 柚子は一瞬言葉に詰まり、返事が尻すぼみになった。

「だからいろいろ研究して、お客さんを呼ぼうと……」

 つまり利益が出ていないということだ。これではせっかく開拓した一号客が、台無しになってしまう。大した報酬にはならなくとも、それはあまりに悲しい。
 別れるとき、柚子の表情は曇っていた。食事する前は元気だったのに。
 役に立たない分析を口に出して、顧客を困らせただけかも知れない。そう思うと、抱えていたバッグが、余計重くなった気がした。


 地図を見ながら自分のエリアの半分近くを歩いたと気がついたとき、もう一度同じコースを歩いてみようと思い立った。サンプルを置いてきた店からは何の連絡もないが、放置せずに試してみた人がいれば感想くらいは聞けるかも知れない。話も聞いてもらえない日が何日も続いて、消耗しきっていた。一度名刺を出したところなら、前ほど警戒されないのではないかとかすかな希望を抱いただけだ。

 無料のサンプルに、人間は真剣にならない。それが良いものだとしても、購入ルートを思い出すのは億劫だ。未経験の隼人はそれに気づくことができず、相手からの注文が無ければ気に入らないのだと単純に認識していた。

「こんにちは。以前窺った梅津醸造と申します」

 二度目に訪れたいくつかの店で、注文が来た。前回門前払いだった店では、名刺を渡すことに成功した。顔を覚えさせることが重要であるのだと、身をもって体験したのである。それを覚えてしまえば、飛び込み営業は格段に楽になる。
 そして動き出したとはいえ信頼関係の築けていない営業の成績は、やはり微々たるものだ。地を這う成績の営業の会社での立ち位置は、相変わらずの丁稚奉公である。保証給のみで夜の雑用を押しつけられ、余計な仕事を言い渡される。

 一度詫びに訪れてから、週に一度程度『キッチンあずさ』に顔を出す習慣ができた。詫びたときに、逆に指摘をありがとうと礼を言われたのだが、経営の危なっかしさが気になって仕方がない。相変わらず財布に優しい金額だから、食事がてらということにしておく。
 そのたびに懐かしく、旨い。人間の手が入っている食事だという気がする。気になるのは飾りにしかならないサラダと、別に欲しいと思わないデザートだけだ。
 くるくると忙しげに動き回る柚子に好意的な常連も多いらしいが、昼時にも満席にはなっていない。一度だけ夕食時に行ったことはあるが、三人程度の客数でしかなかった。


 さて、日曜の昼間のことだ。実家から送られてきた宅急便は、普段よりもずっしりと重かった。これは根菜だなとカッターを持ち出したところで、母親から連絡が入る。開きながら電話を受けると、新聞紙の中からぎっしり出てくるダイコンとニンジンだ。家庭菜園で採れたとはいえ、あまりの量にクラクラする。

「今年、すっごく上手にできちゃってねえ。気候のせいだろうと思うんだけど、ご近所もみんな同じような感じだから貰ってくれる人がいなくて。あんたのほうは買うだけだろうから、知り合いにでも配ってちょうだい。新鮮だから喜ばれると思うの」

 近所づきあいが当然で友人の家まですべて把握している地方の人間は、こんな風に他人が受け取ってくれることを前提で食料品を送ることがある。会社に大量のダイコンを持って行っても、持ち帰ることが億劫で拒否されるなんて考えもしない。
 腐らせないためには、まず自分で消費しなくてはならない。送料もかかっていることだし、常備菜の充実は隼人の食生活を助ける。何せ今は、金銭困窮中なのだ。贅沢は言えない。

 愛用の三徳包丁を取り出し、鍋やフライパンと格闘すること二時間で、宅配便の中身は半分程度に減った。あくまでも半分しか減っていないが。

 隣の部屋は、同じような独身男だ。逆隣は顔も知らない。学生時代の友人たちとは飲み会だけのつきあいで、疎遠になってしまっている。


 どうすんだ、このダイコンとニンジン。葉っぱもあるから、ボリュームありすぎ。
 白だしで煮てもいいし、すき焼き風の味付けで炒め煮するのもアリ、ポン酢を吸わせてナマス風にしてもいい。自分の備蓄用にサラダ以外で考えられるものを全部作ってしまったし、生のままでは取っておけない。
 備蓄用の調味料は、自社で賞味期限切れをもらったものだ。営業の口上を差し引いても、考えていた以上に旨かった。
 ん? ウチの調味料? あ、そうか。大量消費で、しかも喜ばれるところを知ってるじゃないか。

 休日の私用だから、スーツは着ない。ママチャリのうしろに段ボール箱をくくりつけ、迷彩柄のジャンパーのまま自分の営業エリアへ走った。さて、どうやって配ろうか。まず大口で注文をくれたところからだ。

 年配の和食店のオーナーは、大層喜んでくれた。慌てて追加発注をすると言うので、本日は業務外だからと断ると、お茶を出してもてなしてくれる。そこではじめて指摘された言葉を、隼人は感謝と共に聞く。

 同行営業のときは知らなかった。先輩たちは知り合いの店に気楽に顔を出していたので、表からの訪問だったのだ。

「あのね、お客様で来るのでなければ、今度から裏に回ってね。段ボール箱を店に置かれたって、そこから裏に持っていかなくてはならないし、お客様に材料を見せることになっちゃうから」

 飛び込み営業だと名乗ったときの、他の店の反応を思い出した。勝手口の意味さえ知らないド新人が、口先だけで滔々と商品を説明する小賢しさなんて、追い払われて当然だ。

「ありがとうございます。教えていただかなければ、気がつきませんでした」
「若い人は、覚えることがたくさんで大変だね。野菜ありがとうね。またおいで」

 次の店へと自転車を走らせながら、覚えるのは商品知識じゃなかったのかと反省する。次からは間違えずに、勝手口の扉を叩こう。

 二軒でほとんどの野菜を降ろし、最後に寄ったのは『キッチンあずさ』だ。夕方近くなっていたが、まだ夕食の時間にはならない。普段通りコンニチハーと入ろうとして、裏から裏からと勝手口を探した。
 店と塀の隙間だと見当をつけ、幅一メートルの通路をみつけた。女性なら荷物を持ったまま楽に通れる幅だろうが、段ボールを抱えた男には少々きつい。小さなドアを叩くと、聞こえなかったかと危惧したころに開錠された。普通よりも背の低い扉は、身を屈めないと歩けない。古い建物の古い勝手口のイメージそのままだ。

「どうしたの、こんなところから」
「え? 勝手口ってここじゃないの?」
「うちは間口が狭いから、ここに気がつく人ってあんまりいないよ。私の買い出し用出入り口にしか、なってない」

 そう言いながら招き入れられた先は、どうもストックヤードらしい。調味料類と干物の袋が棚に収められ、冷凍庫が置いてある。綺麗に片付いてはいるが、結構な量だ。

「実家から野菜送ってきたから、貰ってくれないかと思って」
「いいんですか? じゃ、遠慮なく受け取っちゃう」

 渡してしまえば何の用もなく帰るだけのはずが、少しだけ惜しくなる。キッチンから何か甘い匂いがして、多分今はディナータイム前の仕込み時間なのだ。
 自分では結構な量の備蓄を作り、今晩食べるものに不自由はしていないのに、他人から供される暖かいものが食べたくなった。今日のメニューは何かと聞くと、味見をしていけと誘ってくれる。

「まだデザートのケーキ、買いに行ってないの。自転車で五分もかからないから、ここで待っててもらっていい?」

 デザートのケーキ…… あれ、どう考えてもイラナイ。
 口に出したものか迷う間もなく、口を突いた。利益が出ていないのなら、必要のないものを省いて原価を抑えるほうが良いではないか。

「だって、評判店のメニューには必ず……」
「ここが評判店と同じにして、どうにかなるの? それより、原価率下げれば?」
「メニュー自体は赤字になってない。金額内で食材買ってるし」

 そこで思い出すメニュー金額の設定は、以前から疑問に思っていたものだ。自炊する隼人は、食材の市場金額を思い浮かべることができる。たとえば昼のロールキャベツは大量仕入れならともかく、せいぜい二十食程度ならばスーパーマーケットで買い出しだろう。素材を買い揃える以外に、調味料も必要になる。それにプラス必要経費。冷凍素材を使っているのではない限り、ワンコインじゃ赤字だろう。

「金額内に光熱費と設備費入ってんの? あと、あんたの技術料」
「えっ……!」

 驚いた顔をしたあたり、計算に入れていなかったと推測される。チェーンの店は、調理師が原価率の計算なんてしないだろう。多分マジで、単純に客を増やせば良いと思っていたらしい。

「悪いけど、そこ計算できない人が経営とかってアリエナイ」
「うっ……」

 柚子の返事は、母音ひとつで形成されている。何も考えずに祖母の店の流儀だけ引き継ごうと、勢いだけで店に入ったのが丸わかりだ。不要な野菜を持ってきただけで、えらい話になってしまった。

「どうすればいいのっ」

 柚子の真剣な眼に気おされて、隼人も無責任に話を広げて責めたことにやっと気がついた。
 自分だって素人なのに、何を偉そうに説教してんだ。

「とりあえず、ここに無料ただのダイコンとニンジンがある。これで一品小鉢増やせば、ケーキいらなくない? それで客の反応見ればいいじゃん。葉っぱも皮も全部使えば、何日か使えると思うよ」
「葉っぱと皮って、お店で出すようなもの?」
「手作りのごはんって言ってただろ。ここが旨いのは、家庭料理に近いからだ。俺はダイコン葉の味噌汁も皮のキンピラも好物だし、ニンジンの葉っぱの胡麻和えも好きだよ。外では食えないけどね」
「なんか貧乏臭くない?」
「好物だって言ったろ。捨てんなよ」

 帰れなくなってしまい、一緒に厨房までついていく。自分には使いこなせない業務用の厨房機器は、柚子の城のはずだ。少々勝手なことを言い過ぎたと反省し、今日は帰ると食事を辞退した。
 小さな勝手口をくぐりぬけ、自転車を走らせる。

 帰宅して米を研ぎだすと、柚子を思い出した。冷蔵庫を開けて、自社の醤油を取り出す。
 他人のこと言えないじゃないか、俺。営業とか製品とか考えないで、ただ売ることばっかり考えてた。この焼き肉のタレも醤油も、旨いのにね。自分で確かめる前に能書きとかマニュアルとか、そんなもので売ろうと思ってたじゃないか。

 その週のうちにランチタイムの『キッチンあずさ』に昼食を摂りに行くと、デザートはなかった。その代りにニンジンの炒め物が入っており、バターとレモン塩の香りが爽やかだ。
 トレーを運んできた柚子は、嬉しそうに笑った。

「梅津醸造さんの言う通りだった。なんかね、この店らしくなってきたねって褒めてもらったよ。ランチ終わるまで、ここで待っててもらっていい? お礼したい」

 その笑顔が、可愛いわけだ。後姿の柚子を目で追う。調理の手が空いたのか、客席を回って片づけたり、ピッチャーで水をサービスしている柚子の立ち姿から、目が離せない。
 おい、仕事中だぞ。そんな自分への言葉も聞こえない。やばいっ!

 最後の客が立ち上がり、店の中は隼人と柚子だけ。ランチのトレーを片付けた柚子が、マグのコーヒーを運んで隼人の向かいに座る。
 キラキラ輝いて見えちゃうのは、自覚してしまった気持ちのせい。何故、危なっかしいから放っておけないと思ったのか、一度きりの受注で通うようになってしまったのかとか。
 仕事から入って、胃袋から視線まで。なんてこった、全部掴まれてしまった。

 かあっと顔に血が上る。表情を気取られないようにするのが必死で、目を合わせられない。十代の恋愛じゃあるまいし、こんなことがあっていいのか。

「日曜日はありがとう。いろいろ勘違いしてたとこがわかって、吹っ切れた。お客さんが来ないのって、こっちの問題だったんだね」
「余計な口出ししただけだよ。軌道に乗るといいね」

 過剰な礼を言われる覚えはない。不要な野菜を貰ってもらったついでに、素人考えを口にしただけだ。それなのに柚子に丁寧に礼を言われ、恥ずかしくていたたまれない。

「実はね、父にも同じこと言われてたの」
「は?」
「でもね、ひとりでやってみせるって意地になっちゃってて、門外漢が口出さないでって怒ったのね、私」
「俺も門外漢だけど」

 柚子は照れくさそうにくすっと笑った。

「いい感じだなって思ってる人がアドバイスくれたんだから、無駄にしないで試してみようって思った。そうしたら、本当に好転しそうなの。こんな嬉しいこと、ないでしょ」

 意味が脳を一周するのに、時間がかかった。なんだか過剰に嬉しがらせを言われている気がする。訊き返して、違うことを言われたらどうしよう。

「えっと俺、ど底辺の金欠サラリーマンですけど」
「私もど底辺の金欠経営者だよ? そういう人って、人を好きになったりしちゃいけないんだっけ?」
「好きって、俺ぇ?」
「ここには他に誰もいない。田代さんの成績は、私も頑張って協力する。地に足をつけて考える人、好きなの」


 降って湧いたような話に、思考が停止する。これの落とし前をどうつければ良いのだろう。自分の気持ちには、今さっき気がついたばかりだというのに。

「買い出しに行くとき、何回か田代さんを見かけたの。いつも重そうな鞄背負ってて、勝手に同志感抱いてた。そういうの、ダメかな」

 他人にことさらに努力を強調しなくても、見る人は見ています。学生のころ、教師がそう説教していた気がする。本当に、正にその通りだったのか。

「ダメじゃない……ってか、これから頑張る」

 首を横に振り、やっと柚子の顔を見た。女の子から意思表示してもらったんだから、ちゃんと返事するのは礼儀だ。自分もしっかり意思表示をしなくては。

「俺から言わせて。つきあってください、長い目で」
「よろしくお願いします」

 そんなこんなが、ふたりのはじまりになった。


 今日も重い鞄を背負って、飛び込み営業に出る。いくつか開拓した店舗が呼び水になり、定期的な注文を受けられるようになりつつある半年目の営業は、心なしか晴れやかな顔をしている。
 本日のランチは『キッチンあずさ』に決定している。在庫が少なくなっているので注文を聞きに来いと、先刻連絡があった。ついでに昼食も食べようと、ウキウキする。

 別に無料で食事をさせてくれるわけじゃない。商売は商売だから、代償は払わなくちゃならない。けれども仕事中に恋人に会えるのは嬉しいことだ。そうだろう?
 食事は一般客と同じ、客が切れたことを確認して勘定を済ませて、ここまでは柚子の商売。

 狭い通路から小さいドアを開く。ここをくぐりぬけた先は、店と自分のストックヤードだ。在庫を確認して注文を控え、ありがとうございましたと頭を下げるのは、隼人の商売。そしてここからはプライベートだ。メリハリは多分ある。

 笑顔で送り出そうとしてくれる人を、ぎゅっと抱きしめてみる。

充電チャージ完了。午後の営業、行ってきます」

 隼人の気持ちのストックヤードは、柚子の唇。中身はこれから充実、の予定。
fin.
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ここは東京郊外松平市にある商店街。 国会議員の重光幸太郎先生の地元である。 そんな商店街にある、『居酒屋とうてつ』やその周辺で繰り広げられる、一話完結型の面白おかしな商店街住人たちのひとこまです。 ★このお話は、鏡野ゆう様のお話 『政治家の嫁は秘書様』https://www.alphapolis.co.jp/novel/210140744/354151981 に出てくる重光先生の地元の商店街のお話です。当然の事ながら、鏡野ゆう様には許可をいただいております。他の住人に関してもそれぞれ許可をいただいてから書いています。 ★他にコラボしている作品 ・『桃と料理人』http://ncode.syosetu.com/n9554cb/ ・『青いヤツと特別国家公務員 - 希望が丘駅前商店街 -』http://ncode.syosetu.com/n5361cb/ ・『希望が丘駅前商店街~透明人間の憂鬱~』https://www.alphapolis.co.jp/novel/265100205/427152271 ・『希望が丘駅前商店街 ―姉さん。篠宮酒店は、今日も平常運転です。―』https://www.alphapolis.co.jp/novel/172101828/491152376 ・『日々是好日、希望が丘駅前商店街-神神飯店エソ、オソオセヨ(にいらっしゃいませ)』https://www.alphapolis.co.jp/novel/177101198/505152232 ・『希望が丘駅前商店街~看板娘は招き猫?喫茶トムトム元気に開店中~』https://ncode.syosetu.com/n7423cb/ ・『Blue Mallowへようこそ~希望が丘駅前商店街』https://ncode.syosetu.com/n2519cc/

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