蝶々ロング!

蒲公英

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予算はがっちりと使いましょう

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 十一月に入って一週間もすると、当月の月予算が申し渡された。

「作業着売場、二百四十。客注については、計算しなくていいから」

 二百四十、割る事の九割。

「私、二百七十も売りました?」

 商品と客の出入りが普段の比じゃないので、売上金額をチェックしてなかった。まだ波は引くどころか、企業ごとの大きな発注は落ち着いても、今度は個人の細かい注文が立て込みはじめてバタバタである。そして実は、そっちの方が利益率は大きい。大きな注文は大きな金額こそ動いても、見積段階で結構な値引きをしていることが多い。それに対して、店頭で気に入ったものを決めて購入していく客に対しての値引きでは、せいぜい数パーセント程度だ。そのつもりで話を進め、蓋を開けたら複数枚だったなんて話も珍しくなく、美優のPOSデータはいきなり増えていた。

 売上が増えるのは単純に嬉しいし、怖い顔のおじさんや手の甲にまでタトゥーのお兄さんは、慣れてくれば良い人が多い。もちろん困った客も無愛想な客も少なくはないが、前職のデータ処理会社よりも働いている実感があるのは、実績が目の前で見られるからだと思う。自分が入って半年で、売上を倍増したのだという自負が出てくる。

 先行発注した商品の外に、客が取り寄せてくれと言った商品を一緒に置いてみる。それを手に取って見る客の動きを見ながら、色違いで置いてもいいかななんて、再発注する。(小売業の店員が客について歩くのは、そんな意味もあるのです。セールストークで売りつけようとしてるわけじゃないです)

 一日中ワンフロアを飽きずにグルグルと歩き、カウンターの中で肘をついている時間は少なくなった。やりがいのある仕事で楽しいかと問われれば、今現在なら楽しいと答えられる。

 美優が店舗にいる時間は、基本的に昼だ。けれど本来店自体が混雑するのは夕方以降で、五時過ぎに入ってくる客の相手をしているうちに、帰りがだんだん遅くなる。夜の工業団地は真っ暗で、かなり心細い。防犯笛を咥えたところで、その音を聞きつける人はいないのだ。

 身体は疲れてくるし、頭は色気のないくらい仕事が占めていて、若い女としてはなんとなく寂しい気がする。売り場の客が切れた瞬間を見計らって事務所に戻ると、着替える気も起きない。ユニフォームの上にジャンパーを羽織り、自転車に乗って帰宅する。

 このままだと、私の青春が革手袋と安全靴に埋まってしまうかも知れない。暗い道から大通りに出るとき、ふとそう思った。職場にいる女は自分だけで、ユニフォームはポロシャツとカーゴパンツだし、品出しをするのに爪を綺麗にしたって邪魔だし。較べる相手がいないから、化粧もテキトーになってきた。

 電車に乗るために可愛い服を着て、バッグも靴も気を使って歩きたい。女の子同士のお喋りして、仕事の帰りに美味しいものを食べに行ったりしたい。

 転職するんなら、事務の経験が古くないうちのほうがいいよね。ここじゃ、どんどん世間から取り残されていく気がする。出会いだって、現場作業のおじさんばっかり。

 よし、求人情報誌貰って帰ろ。そう思って通りがかりのコンビニエンスストアに足を向けたとき、目の前を一台のバンが通り過ぎた。白い何の変哲もないバンは、見知らぬ社名が書いてあった。中に乗っていた人の作業服のロゴが見えただけだ。

 腕に貼られた辰喜知のワッペンは、今年のモデルだ。鉄が予約購入した、深い紫色のジャージタイプ。一目で判別してしまった自分に苦笑して、店の入り口で方向転換した。

 どっぷり作業着屋じゃないの、私。

 ああそうか。辞めちゃったら、てっちゃんとかリョウ君とか、お菓子持ってきてくれるおじさんとか、あんな人たちとも会えなくなるのか。私が作業着売場にいるって認識してて、通ってくれる人たち。私が辞めたら、一号店に行くのかなあ。それは少し悔しい気がする。あれは私のお客さんで、私が仕入れたものを買ってくれる人たちだもん。

 私はもう伊佐治の作業服担当なんだな。綺麗なオフィスに行きたいなんて一瞬思っても、本気じゃないんだって自分でわかる。今辞めたら、後悔するのが目に見えてるもん。

 帰宅するために曲がる角には、建築中だったマンションの竣工が近くなっている。夜まで灯りがついているのは、最終段階の内装業が働いているからだろう。あることすら知らなかった仕事、肉体のみの労働だと思い込んでいた仕事が、そこにある。

 プライドの高い職人さんたちの、こだわりと見得は着衣にもあらわれる。それを支える仕事をしてるんだ。

 がんばれ、美優! 自分を励まして、自転車のスタンドを下げた。


 作業服の新デザインの入荷が一息吐くと、今度次々に入ってくるのは二次小物類だ。帽子やネックウォーマー、保温インナーも厚手の靴下もボア入りの手袋もと、とにかく細かい。平面ハンガーのフックが足りなくなり、レイアウトし直す始末だ。

 ドラッグストアだってスーパーマーケットだって、もっと安価なものが売っているではないか。わざわざ作業服売場で探す意味はあるのか。ディスプレーした以外に、ダンボールひと箱分の在庫をカウンターの内側に隠す。仕入れ過ぎたろうかと不安になって、客の視線がパネルに止まるたびに買えと念じてしまう。

 ぜんっぜん売れないんですけど。ヤマヤテブクロもアイザックも、辰喜知だって売れるって言ったのに、動きやしない。そう思った翌日に急激に気温の低い日が来て、出社するとフックに掛かっているものが半分になっていた。事前に寒さに備えて買って行くのではなく、今日寒かったから買っちゃおうってなノリなのだ。機能が一番大切な衣服であるから、色気と共に求められるのは商品ごとの特徴である。曰く防風である、曰くリバーシブルである、曰く発熱素材である。ちょっとくらい寒くても可愛ければいいじゃないか、なんて理論は当然ないのだ。かっこよくて寒さを凌げて、しかも他人と被らないもの。

 だから同じ色を何十枚も仕入れるわけにはいかず、カタログで選ぶたびに価格表とPOSデータを確認して、ズレの部分を訂正してもらう。たかだか数十円の利益の差でバカバカしいなんて言い捨てると、後で自分に跳ね返ってくる惧れがある。つまりデータが更新されていることに気がつかずにラベル打ちをすると、レジでバーコードを読んでみたら価格が違ってクレームになっちゃうのだ。

 軽防寒服が出始めたなと思った翌日に、羽織るだけのジャケットの注文が来る。靴下はタオルはとチェックして、ふと気がつくとポロシャツがなくなっていたりするのである。

「おねえちゃん、Tシャツないの?」

「はい、こちらに」

 丸首のシャツを差し出すと、襟のついたものだと言われて首を傾げる。ニットのシャツ全般をTシャツ、布帛のシャツはすべてワイシャツと表現する客は意外に多く、意思の疎通に時間がかかる。

「入れておきます。厚手の冬用も注文できますが」

「いや、汗掻いちまうから薄いヤツ」

 言い分もさまざまで、全部聞いてたら予算は全然足りない。

 しかし、しかしである。一番値の張るはずの防寒服は、昨月に一通り入荷している。普段より動きが激しいとはいえ、一月で全部は売り切れない。ってことは、仕入せずに利益だけ落ちるってことだ。今月予算で季節物を揃える必要はない。では、何を仕入れる?

 定番品を充実させとかなくちゃ。今月は潤沢な予算は、おそらく季節商品が行きわたると同時に、売上に応じて減る。その間に定番品を充実させておけば、伊佐治には商品があると客に認識させられる。スーパーマーケットだって、品揃えの良い店の方が客は入る。ワークショップも同じことだ。

 在庫があってもスペースを取らず、確実に動くものは何だ。手袋と靴下、そしてインナー。担当者が不在だった昨年度以前の二号店の実績は、まるで役に立たない。頼りになるのは自分の勘と、一号店の熱田のアドバイスだけだ。

 POSデータを覗き、自分が目星をつけた商品の半年分のデータを追う。真剣に考えすぎて、肩が凝る。

「よ、まだ頑張ってんの? 六時過ぎたぜ?」

「え、嘘!」

 美優の感覚では、まだ四時を少々回ったあたりだった。

「おお、働き者」

 オレンジの髪は、ワッチキャップで隠れている。見慣れた作業服は、もうブカブカズボンなんて言わない、超超ロングである。

「仕事帰り?」

「うん。親父が寄ってくって言うから、荷物持ち。社員さんに頼んでもいいんだけどさ、みーがまだいるかなと思って」

 私がいるかと思って来たって、それはどういうこと? てっちゃん、私に会いに来たの? そう思った瞬間、顔に朱が上った。耳まで熱くなったのが自覚できて、表情がつくれない。

 赤くなるな、美優! 自分にそう言い聞かせるだけ余計に上気してしまい、どうしようもない。

「俺らの仕事ってさ、普段女と会わないじゃん。ヤローばっかりと喋ってると、おっさん化が激しくなる」

 言い訳みたいに鉄が言う。女と会わないとか言ったって、草野球の試合には女の子が何人も来ていたし、商工会青年部も男ばかりじゃない。

 鉄の真意を測りかねて、美優も曖昧に笑った。

 商品が全部揃ったと二階まで呼びに来た早坂興業の社長は、美優の顔を見てにっこり笑った。

「みー坊ちゃんがまだいるんなら、俺も頼んどこうかな。ちょっと羽織れるもん、欲しいんだよ」

「カタログ、家にあるだろうが」

「せっかくみー坊ちゃんがここにいるんだから、女の子に選んでもらった方がいいじゃん」

「やだやだ、おっさんは。自分のセンスってもんがねえ」

「社長に向かって何言いやがる。おまえ、来月から減俸な」

 聞いている分には面白いが、美優の定時は過ぎている。ここで帰り損なうと、また客が続けて入ってきて帰れなくなってしまう。

 数冊のカタログから軽い羽織物のページを開き、カウンターの上に並べた。

「社長、こんな感じです。お好みはどうでしょう」

「辰喜知がいいな。この色なら、誰も着てないよな」

 鉄の父は美優と並んで立ち、一緒にカタログを眺める。背面の鉄は気になるが、とりあえず接客が優先だ。

「なあ、これだったらどっちの色がいいと思う?」

「ちょっと冒険して、黄緑とかでもステキだと思うんですけど……ねえ、てっちゃん、どう思う?」

 振り向いたら、ぶすったれた顔の鉄と目が合った。

「時間かかるんなら、車に荷物積んでくるわ」

 どのブルゾンが良いかという質問には答えず、鉄が階段を降りていく。何も買わなくとも、ありがとうございましたと声を張り上げるのは、店員としての礼儀だ。カタログに向き直ると、鉄の父は小さく笑った。

「しょうがねえガキだな。母親早くに亡くしたから、ばあちゃんが不憫だ不憫だって可愛がり過ぎちまってなあ。まして肩車してもらったような職人たちに囲まれて、自分が一番構ってもらえると思ってんだよなあ」

 そして何故か一言。

「みー坊ちゃん、大変だなあ」

 それはどういう意味だと聞き返すのもためらわれて、美優は曖昧に頷いた。


 薄いブルゾンの注文を受けて、美優はカウンターの上を片付けはじめる。真冬でも薄手のブルゾンを着る人がいるって情報が本日の成果で、これから差し込んでいく在庫を考える上での必要事項だ。そう考えると、予算を全部次期の在庫に注ぎこんでしまうわけにいかない。売れるときに売れるものを置いておかなくては。

 冬は、身に着けるものが多い。厚手の防寒服は、たとえば車を運転するときは邪魔になる。だから当然、薄い羽織物も需要があるのだ。衣服には、色と形の外にサイズがある。目を引く新商品を入れるとなれば、一枚ずつってわけにはいかない。幸いまだ、予算は潤沢にある。翌日にでも、少し振り分けよう。

 私、また仕事のこと考えてる! そんなに仕事熱心じゃないってば。私の頭、今剥いたら作業服と安全靴が飛び出してくるに違いない。なんでここまでハマるかなあ……あーあ。

 社畜なんて言葉がふっと浮かんだが、基本的には時給のアルバイトだ。辞めると言えば引き留められはするだろうが、誰もいなかった売り場に入っただけのことで、自分がいなくなっても元に戻るだけ。伊佐治の利益なんて自分には関係ないし、時給が少々アップするくらいのものだ。

 でもね。私はどうも、この仕事が好きみたいだ。少なくとも前の仕事のとき、自分の仕事を他の人に渡すのが悔しいだなんて、思ってもいなかった。


 家に到着したのを見ていたようなタイミングで友達からSNSで連絡があり、慌てて着替えて食事に出ることにする。ここを外してしまうと、女の子同士の情報交換ができなくなってしまう。華やかで今風な部分をどこかで補充しておかないと、自分がくすんでしまいそうな気がする。

 シャワーを浴びて化粧をはじめたところで、自分のスマートフォンの着信ランプに気がついた。画面を開けば、見慣れたオレンジ頭のアイコンに吹き出しがついていた。

――よ、さっきはどーも。

 雑談する気満々の言葉だが、美優の友人がそろそろ車で拾いに来てしまう。適当な言葉で返事をして化粧に戻ると、また着信音。

――今テレビでやってるお笑い、結構面白い。

 いや、テレビ見てるヒマありませんから。爪は仕方ないけど、せめてマスカラくらい塗りたいですから。

――ごめん。今から出かけるから、ちょっと忙しいの。あと二十分くらいで、友達が来ちゃう。

 家の中の女が祖母しかいない鉄が、女の仕度がどれくらい時間のかかるものなのか知らなくても無理はない。

――夜にオメカシして、合コン?

――違うよ、高校の同級生たち。

――共学なんだろ?

 共学ではあったが、何故それを確認されなくてはならないのか。そう思っているうちに、家の前でクラクションが鳴った。

 いいやもう、面倒だから放置!

 そうして夜半近くまでお喋りを楽しめば、大抵の懸案事項など忘れるものだ。っていうか、鉄のメッセは別に懸案事項じゃない。仕事の話でもなく重要な用事があったわけでもなく、ただ時間が合わなかっただけ。ここで少々引っかかりがあるのは、早坂興業自体が伊佐治の重要な顧客であることと、もうひとつ。

 もうひとつの方は敢えて無視することとして、社員として考えれば――いいや、どうせアルバイトだもん。職場にいる時間以外に、客の機嫌なんか考えてたまるもんか。さっきは急いでたから、ゴメンね。そんなメッセを送るような間柄じゃない。


「おはようございまーす!」

 出社時にユニフォームを着ていなくても、客に挨拶すること。意識して覚えたわけでも指導されたわけでもなく、いつの間にか美優にも当たり前の習慣になっている。長く一階の顧客でも二階には何があるのか知らない人も多いから、客は美優の顔なんか知らない。それでもそう挨拶することで、美優も店の人間だと印象付けることができる。つまり一種の顔つなぎで、覚えてもらって軽口が利けるようになればしめたものだ。次のステップが販売に繋がる。

「美優ちゃん、昨日の晩の客注」

 差し出されたメモに目を通し、二度見する。

「これ、品番とか確認してないんですか?」

「階段あがってすぐ右にあるやつ。あれの黒だって」

 それ以上問い詰めても仕方がないので、自分の持ち場に上がっていく。上がってすぐ右のモデルのカラーバリエーションに黒はない。朝からぐったりする瞬間である。

 知識も興味もない人が、カタログも確認せずに注文を受けているのだ。美優が入るまで、どうやって手配していたのかが謎である。

 そういえば、てっちゃんが言ってたことあるな。揃ってない上に、いつ入ってくるかわからないって。あれって、わかんないって後回しにされちゃってたんだろうな。

 今は違うでしょ?チェーンのワークショップみたいに在庫はないけど、受注したら一週間以内に全部揃えて渡せるし、とり急ぎ必要なものなら困らないだけの品数がある。美優なりのプライドで、売り場を作ったのだ。それを否定するヤツがいれば、出て来い。

 朝礼のあとには商品の棚をチェックして歩き、不足なものや気になるものの発注をする。それが済んだ頃に午前便の入荷が来る。午前中はあっという間に過ぎてしまい、ひとりの売り場でも結構気が抜けない。プランを練るのは、主に午後になる。

 メーカーから送られてきたファクシミリの中に商品入れ替えのための特売品が記載されていたので、自分の売り場に置いて動くものかどうか、インターネットから商品の情報を引き出してみる。置いてみたくても、勝負だなと思うようなものは一度に大量に発注はできない。肘をついて考え込んでいると、客が入ってきちゃうのだ。

「みーって子、おねえさん?」

「はい?」

 何故顔も知らない人から、そんな風に呼び掛けられるのかわからない。

「テツが野球に連れてきたことあるって言ってたけど、俺の顔覚えてる?」

 相手も自分も覚えていないのだから、やっぱり関係のある人じゃないように思う。けれど、客は客だ。最低限でも愛想よくしておかなくてはならない。

「ああ、やっぱり覚えてないか。ま、いいや。靴なんだけど、二十九センチのやつ」

「ごめんなさい、そのサイズはお取り寄せになります」

 客は明らかに、フンとした顔になった。

「どこの店だって、何種類かは置いてるよ? ワーカーズじゃなくてこっちの方がモノがいいって、テツが言ってたのに」

 置いてある商品の品質については、量販を売り物にしている店舗とは違うと胸を張れる。けれども品数やサイズの揃え方では太刀打ちできない。

「二・三日いただければ」

「だから伊佐治ってダメなんだよなあ。テツがマシになったって言ってたのに、ダメじゃん。ワーカーズのほうが全然いいよ」

 何だこいつ、ワーカーズワーカーズって、そっちの方がいいんならそっちに行けよ。絶対にそんなことを言ってはいけない。イレギュラーサイズまで本当にちゃんと揃っているのか美優は確認したことはないのだから、教えを乞うフリをしてスルーしてしまうのが一番早い。

 男が気持ち良さそうにワーカーズと伊佐治の比較をしているとき、美優は思いっきり男の服装を確認していた。伊佐治も扱っているメーカーだが、彼が着ているのは量販店向けのブランドだ。デザインは同じでも、生地と縫製が一ランク落ちる。つまり、メインにカタログ品を置いている伊佐治を愛用するようにはならないだろう。

「お取り寄せ、いたしましょうか?」

「いいや、ワーカーズに行くわ。伊佐治、高価いし」

 男は言うだけ言って帰ろうとし、余計なこともついでに言って行った。

「テツが珍しく女に声かけたって言うからさ、どんなのかと思ったらフツーなのな。硬派男が泣くわ」

 硬派? てっちゃんが? だって私には、はじめっからあの調子なんですけど。

 フツーですけど、それが何か問題でも。女に声かけたったって、野球の試合の後ふたりでどこかに消えたってわけじゃない。顔を覚えられないほどたくさんの人数でファミリーレストランに行って、それだけ。つきあってるわけでもないし、大体ナニあの男! 他の店が気に入ってるんなら、はじめっからそっち行けばいいじゃないの。買う気がないなら、何しに来たのよ。

 あ、なんだか軽くムカついてきた。公私ともども面白くないぞ。

 オンナとかオネーチャンって言葉を蔑称代わりに使う男は、ときどきいる。言葉が荒くても良識的な職人さんたちに、おねえちゃんなんて声をかけられても、腹は立たない。彼らはあくまでも親しみを込めてそう呼びかけている。だから蔑称として使われたってのは、肌感覚でしかない。自分が不愉快なときに、あの言葉は一体何だと腹が立つだけだ。

 現場仕事は男社会だから(少数でも女がいることはいるが)女との接触が少ないのは納得できる。自分を大きく見せるために他人を卑下しようとする人間がいることも、知っている。つまりあの男は、普段接触のない女を眺めに来て、自分の期待よりも下だったからって理由で美優をバカにして行ったに違いない。

 まったくもってバカヤローで、そんなヤツに腹を立てるのは神経の無駄だ。けれどやっぱり、面白くないものは面白くないんである。

――お客様のご紹介、ありがとうございました。

 厭味ったらしく送ったメッセの相手は、言わずと知れている。現場で仕事中であれば、すぐになんて返信は来ない。送ってしまえば別にどうってことはない。何かを表現したかっただけで、相手が反応しようがしまいが忘れちゃって一件落着である。だから、すぐに忘れた。

 そして少々考えて、一種類の靴だけイレギュラーサイズを置いてみることに決めた。需要が大きければ、次は拡大すれば良いのだ。言われっぱなしになんかしておけない。

 五時過ぎに戻ってきたメッセのアイコンは、やっぱりオレンジ頭。

――誰か、来た?

 名前なんか知らない。顔もちゃんと覚えてない。覚えているのは失礼な口の利き方と、量販店と自分の売り場の比較をされた不愉快さだ。

――足が二十九センチの人。

 情報はそれだけだ。

――半魚人みたいな顔したやつ?

 半魚人なんて会ったことないから、どんな顔してるのかは知らない。にも拘わらず、その顔が浮かんできてしまう。

――そんな失礼なこと、言わない。

 その答えは、充分に失礼である。

 上着を羽織って帰りの挨拶をして店を出ると、美優の自転車はなくなっていた。慌てて駐車場を見回すと、見覚えのあるバンの前に長身が立っている。

「私の自転車、知らない?」

 いらっしゃいませの挨拶じゃなくてそれなのは、焦っている証拠であるのだが、鉄はごくごく平坦な顔で車を親指で示した。

「乗せた。メシ行こうぜ」

 こちらの都合も聞かない身勝手さだ。

「なんか待ち合わせしてたっけ?」

 慣れてくると、こういうところもある性格なのだと、だんだんに理解してくる。きっとそれは、男友達では通用する間合いなんだろう。予定がないなら遊びに行こうぜ、みたいな。美優は女の子だ。

 少し前に、女の子と長続きしないと聞いた。原因は、こんなこともあったに違いない。ここで言葉を遠慮すると、また同じことをされる気がする。

「あのさ。顔直してないし、これの下は伊左次のロゴ入ったポロシャツ着てるんだよね」

「いいじゃん。俺もそのまんまだし、ファミレスで気取ったって」

「気取ってるわけじゃないの。女の子は外に出るとき、それなりに準備してるんだよ。顔だってばしゃばしゃっと洗っておしまい、じゃないんだから」

「そんなに大層なこと、してねえじゃん」

 ふう、と溜息を吐く。予測できることはこの際、言ってしまった方が良いかも知れない。これから先に何らかの進展があるとすれば、自分に不利益をもたらすことだ。

「てっちゃんが朝起きると、おばあちゃんってもう全部支度しちゃってるんでしょ? 着替えてお化粧済ませて、ごはんまで作ってて。違う?」

 鉄は明らかにムカっとした顔になったが、とりあえずおとなしく聞いている。

「何かの用事で出るときも、自分の支度が全部終わってから声かけるんじゃない? でもさ、こっちにはこっちの都合ってものがあるんだから、てっちゃんのペースにだけなんて合わせらんない」

 一息に言い終えた後に、少々きつかったかなと思う。

「うるっせー女だな。わかったよ、チャリ返すよ」

 あ、そういう展開? やば、ちょっと言い過ぎたかな?

「そういうこと言ってるんじゃなくって、修正してくれって」

「で、行くの? 行かねーの?」

 バンの後部を開けたまま、鉄は言う。

「……行ってもいい」

 返事に鉄は、口角を持ち上げた。

「昨日も親父に言われたばっかり。世界中の人が、俺のことばっかり気にしてんじゃねえぞって。わかってても、やっちゃうんだよなあ。ガキくせえったらねーわ」

 運転席に乗り込んで美優に隣を促しながら、鉄は続けた。

「どうもね、こいつは大丈夫だって思っちゃうと、余計自分に合わせてくれる気がしちゃうらしい。ガキなんだな、やっぱり」

 小さく笑って、車を発進させる。美優の心情なんかお構いなしに、ハンドルを握って街道に出る。少々複雑ながらも、帰るとは言えない。

 美優の兄は金融の男だから、どちらかと言えば相手優先の行動が身についている。父親も普通の会社員だし、手マメ口マメな母親が梶をとって家庭生活が成り立っているので、他人の生活や性格を言及することなんて滅多にない。

「ちゃんと言ってくれないと、なんで怒ってるか、わかんなくってさぁ。ま、何にせよ良かったわ」

 そっか、ここまで親しくなったから、言えたのか。これもまた、人間関係の予算の消化である。そして消化した予算が次の利益を産む、筈なのだ。
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