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第3話
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半年後の私は、宮殿の廊下から窓の外を見ていた。見下ろす先の庭園は、その果てが見えぬほど広がっている。中心には巨大な噴水があり、その左右にはシンメトリーのバラ園が広がって、西側のバラ園の向こう側には人工の小川まである。東側のバラ園の向こう側には森が広がり、野生動物が放たれ、すぐに狩りに出かけられるようになっていた。
窓枠に足をかけたヴァレンは「いつ見ても整い過ぎた不思議な景色だな」と首を傾げている。神獣のヴァレンから見ればそう見えるのだろう。私から見れば、一日どころか何日いても退屈することのなさそうな、豪華で贅沢な空間だ……。感嘆にも似た溜息を漏らしてしまっていると「ロザリア、ロザリア!」と大きな声が廊下の向こう側から聞こえた。振り向く頃には、走るラウレンツ殿下が隣にまでやってきたところだった。
「こんなところにいた! ごめん、ちょっと来てくれ!」
「はいはい、ただいま」
二つ返事で引き受け、ドレスの裾をたくし上げて走り出す。ヴァレンは飛び降りるように素早く廊下に着地し、音もなく追いかけてくる。
「で、本日はどうなさったんですか?」
「困ったことに、隣国からお客様があってね。商談に出てる連中じゃ言葉が通じない」
ラウレンツ殿下はすぐ隣を早足で歩き始める。
「俺が出てもいいんだけれど、これからちょうど会談が始まるんだ。王子の俺が外すわけにはいかない」
「でも、それなら私も会談に出席しなければならないのでは?」
「それはもちろん。ただ、会談は取引の話しかないから大丈夫だよ。終わってから庭園を散歩して少しお茶を振る舞う、そのお茶のタイミングから来てくれれば」
「お茶の準備も含めて考えると、会談が終わるまでに商談をまとめて戻ってきてくれということですね」
「そういうことになるね」
なんなら私は着替えと化粧直しまで必要になる。相変わらず人使いの荒い王子様だ。
「それってボーナスも出ますか?」
「……善処しよう」
「約束してください」
「……約束しよう」
「ありがとうございます!」
廊下の突き当りで別れると、ヴァレンがクゥと鳴く声が後ろに流れていく。ラウレンツ殿下が私の視界から外れると、最近のヴァレンはよくそんな反応をしている。
でも、それがどういう意味なのかヴァレンに聞く暇はない。いまは商談の場に急がなければいけないのだ。窓の外を見ると、ちょうど地上に人の塊が見えた。
慌てて立ち止まり、大窓を開け放つ。
「ヴァレン、ちょっと下まで乗せてくれる?」
「よかろう」
すかさず屈んでくれたヴァレンの背中に乗って、一緒に三階の窓から飛び出した。ふわふわの銀の毛が風にあおられてくすぐったい。
シュタッと軽やかにバラ園の影に着地したとき、音もなく飛んできたフクロウの影がヴァレンの頭に落ちた。見上げるより先に、その影は私の頭に合流する。
「オーリ、お帰りなさい。森の様子はどうだった?」
クー、という機嫌のいい声は豊作だった証拠だ。ヴァレンは私を下ろしながら「昨晩は雨が降ったから草木が一層元気だそうだ」と通訳する。神獣同士は直接に言葉を理解できるらしい。
「そう、よかったねオーリ。おいしい木の実は食べた?」
「オーリは木の実を食わない」
「あ、そうだったわ。ごめんなさい、見当違いなことを言ったわね」
オーリは宮殿近くの森の主で、言ってしまえば野良神獣だ。出会って以来、こうしてたまに会いに来て森の様子は教えてくれるものの、ヴァレンと違っていつでも近くにいてくれるわけではなく、ふらっと飛んできてはふらっと飛んでいく。そのわりに人懐っこいのか、私の頭の上に載って寝ていることもある。今だって、影を見れば、羽に顔を埋めてうとうとしているのが丸分かりだ。
「それで、そのお客様のお相手が今日の仕事か?」
「ええ。上手くやりましょう、きっとそのお客様は隣国の使者――会談についていらっしゃった方々、懐事情はすごぶる良いに決まっているわ。ぜひ気に入られて色々とお買い求めになっていただきましょう」
そうしてこのモンドハイン国の財政を立て直し、ひいては私もボーナス獲得。ぎゅっと拳を握りしめてドレスを整え、目当ての人々がいる場へ飛び出す。ラウレンツ殿下の言ったとおり、いつもの商人仲間は、異国の雰囲気のある若い男性相手に、手を縦横に振りながら右往左往していた。
「お待たせしました、担当のロザリアです!」
相手の母国語と共に飛び込むと、パッと男性の顔が華やいだ。そのまま「このグリーンの石が美しいから、ペンダントにして売ってもらえるか確認したかったんです」と少し照れくさそうな顔をする。
「そういうことなら、デザインから加工まで、どうぞお任せください」
「ありがとうございます!」
バラ園の陰に隠れたヴァレンから私の耳元へ、「相変わらず商魂たくましいことだ」とおじさんくさいコメントが届いた。
――さて、どうしてこんなことになったのか。はじまりは半年前、私がアラリック殿下に婚約破棄されたときに遡る。
行き場がない、と呆然としていた私に声をかけた商隊の長たる少年ラウレンツは、なんとモンドハイン国のラウレンツ王子だった。王子がなぜ商人のふりをしていたのか、その原因は破綻寸前のモンドハイン国の財政にあった。
モンドハイン国は、我が国――エーデンタール国の隣にある巨大な国だ。その領土面積は大陸屈指、必然強国――とも思えるが、実は元王妃の浪費により国が傾くほどの財政難に陥り、また一族ばかり要職につける縁故登用を繰り返した結果汚職にまみれてしまっていた。彼女は一族と共に既に追放されているが、それによって自動的にすべてが回復するわけではない。結果、元王妃の継子であるラウレンツ殿下は、王城の人事を取り仕切るほか、なんと自ら商人となってまで財政の立て直しに奔走する羽目になっていた。
私に声をかけたのは、人事の一環だったそうだ。元王妃が選んだメイドたちは、当然のことながら元王妃と共に贅沢三昧、とてもじゃないか雇用継続することはできず、しかし全く新たに雇い入れる余裕も伝手もなく、困っていたのだという。
そこに見つけたのが、大国・エーダンタール国王家の元メイド(と勘違いされていた)私。雇われていた時期があった以上、それなりの教養はあるはず、そうとなれば一から教育する手間も費用も必要ない、クビになった直後で藁にもすがりたいタイミング、今が底値でお買い得――そう判断したらしい。大変失礼だけれどごもっとも、大変商魂たくましい王子様だ。
そうして侍女として雇入れたら実は王子の元婚約者でしたということで大変仰天されたし、なんなら「じゃあメイドとしてなんて働けないじゃないか!」と頭を抱えられてしまったのだが、私が王城でいいようにこき使われていたのはお互いに嬉しい誤算だった。ラウレンツ殿下は、すぐに私の仕事っぷりを喜んでくれた。
が、それもほんの短い期間だけで、すぐに「メイドでなく妃で契約し直してくれないか」と提案された。思ったよりも私が使えたのでメイドではもったいないと感じたらしく、そしてラウレンツ殿下は継母のトラウマで頑なに婚約を拒みつつ、しかし対外的に度々王子としての資質の欠陥だと指摘され、婚約者の不在を苦慮していたそうだ。
結果、日当を1.5倍に上げていただくことを条件に私が引き受けた。
そうして私は、時に外交の場でラウレンツ殿下の隣で微笑み、社交場で一緒に踊り、王子としての体裁を保ちつつ、アラリック殿下の婚約者当時にさせられていた宮殿の内部統制だの監査だのの仕事を引き受けつつ、こんな通訳みたいな事務仕事まですることになっている。お陰で現在の私の収入には、日当以外にも臨時ボーナスがつくようになった。
ボーナス対象の商談を無事終えた後、ヴァレンと一緒に部屋まで戻り、今度は外交用のドレスに着替え、化粧直しをして、庭園に降りる。向こうから殿下と隣国の使者が馬に乗ってやってくるのが見え、オーリは私の頭上から飛び立った。オーリは騒がしいのが嫌いなのだ。
ラウレンツ殿下は「わざわざありがとう、ロザリア」と微笑みながら下馬し、「私の妻のロザリアです」と私を紹介する。その一挙手一投足は優雅なものだが、目元にはほんのりと疲労の色が滲んでいる。仕方がない、アラリック殿下がボケボケ暮らしていたのとは違ってラウレンツ殿下は王子なんて名ばかり、継母の尻ぬぐいのために朝から晩まで働きづめなのだ。今日の夕方には少しいい紅茶を淹れて持っていってあげよう。
「はじめまして、王子妃殿下自らお出迎えいただけるとは、大変恐縮です」
「こちらこそはじめまして、ロザリアと申します。どうぞ、お気遣いなく」
この会談は、元王妃のせいで外国からの信用を失いつつあったモンドハイン国が、再び同盟を結んでもらうための第一歩。そのせいか、席に着いたラウレンツ殿下の横顔には日頃ない緊張が見えていた。
しかし、きっと大丈夫だ。元王妃が好き放題やっていなくなったのは事実だけれど、ラウレンツ殿下が王家として責任を取り、努力してきたのも事実。
実際、使者の方はいい意味で意外そうな表情で「こちらの宮殿も見違えましたね」と周囲を見渡した。
「もう4、5年前になりますが、私が以前お訪ねした際は、それはもう酷い有様でした。断罪されたかの王妃とその一族に支配され、宮殿全体が暗く、いやらしい雰囲気に満ちていた。それが今や、かつての栄華を取り戻しつつある。さすがですね、ラウレンツ殿下」
「褒めていただき光栄です。ただ、私一人の力ではありません、尽力してくれた信頼できる臣下と、有能な我が妃のお陰で」
「あら殿下、外でそんなことをおっしゃらないでください」
目配せされ、微笑んで頷く。褒めてくれるのがお世辞かは分からないが、少なくともそうして感謝を口にしてくれるのはこの場限りの演技ではない。ラウレンツ殿下は、ご自身が継母に振り回されて苦労した経験があるからか、日頃から労をねぎらい、感謝してくれる方だ。
そんな腰の低いラウレンツ殿下は「それに」と付け加えながら遠くへ視線をやる。
「時の運も大きいです。この半年のうちに迎えた収穫の季節には近年まれにみる豊かさがありましたし、“死んだ山”と呼ばれていた山からは溢れんばかりの鉱石が採掘され、我が妃の提案もあってですが、さびれていた田舎町が工芸品で活性化し、海を越えて新たな国と取引も始まり、お陰で優秀な人材が宮殿に戻ってきてくれて」
「はは、そうご謙遜なさるな。殿下が国のためにいかに尽力なさったかは私もよく存じ上げております。ただ、そうですな、時の運もあるとすれば、ひょっとすると、ロザリア妃殿下は幸福の女神だったかもしれませんね」
「ええ、ロザリアが妃になってくれただけで、こんなに幸福なことはなかった。それなのに、二つも三つも幸せを運んできてくれましたよ」
こういうことはさらっと言ってのけるんだから、素直で腰が低いとはいえさすが王子だ。いつものことながら感心してしまい、すごいですね、なんてうっかり口にしてしまいそうだった。
そんな会談の後、ラウレンツ殿下は疲労を肩に乗せながら「助かったよ、ロザリア」と気の抜けた笑みを見せた。
「いえいえ、私は隣でニコニコしていただけですから」
「隙なくニコニコしてもらうのが大事だからそれがよかったんだって。それから、商談に来ていたお客様が、実は辺境伯令息だったんだ」
「あら、どうりで」
身形が随分きちんとしているし、若いわりに随分ぽんと大きな金額を出すものだと思ったのだ。
「婚約者へ少し珍しい贈り物をしたいと考えていたらしくて、大層喜んでいたよ。婚約者が気に入ってくれれば――」
「定期的に工芸品を仕入れてくれるかもしれませんね」
「そのとおり。さすがロザリア、話が早くて助かるよ。……それで」
少し改まるような間に、つい両手を合わせて目を輝かせてしまった。もしかして。
「もしかしてボーナスの上乗せですか?」
どうやらそうではないらしい、というのは面食らったグリーンの目を見れば分かった。
「冗談ですって、私とて契約妃としてこの国の財政が健全とおりこして潤沢になるために尽力しているのです。がめつく給金アップばかり求めません」
「あ……ああ、うん……そうだな、うん、助かるよ。でも無理はしないでほしいから、厳しいことがあればなんでも言ってくれ」
「大丈夫です、衣食住が保証された居心地のいい生活にお給金までもらえているんですから、これほど気楽なことはありません」
ラウレンツ殿下はまだなにか言いたげにしていたけれど、何かあればすぐ言ってくれるタイプだし、勘違いだろう。ではこれで、とヴァレンを連れて辞去した。
自室に戻ると、ヴァレンはのっそりとソファの上に横になる。
「今日の仕事はこれで終わったのか?」
「ええ、一応ね。ねえヴァレン、もうラウレンツ殿下の人となりも分かったんでしょう? そろそろ神獣だって明かしてもいいんじゃない?」
悪用されてはたまらないと、ヴァレンはラウレンツ殿下の前では頑なに口を閉ざしている。お陰でラウレンツ殿下は、ヴァレンが犬ではなく狼である以上のことは知らなかった。
ヴァレンは「用心はするに越したことはない」と言いながら顎を前足に乗せ、耳をパタパタと動かす。
「でも、ヴァレンの加護が時の運だと勘違いされてるわよ」
「別に、それで十分だ。私としても感謝されたいわけではない」
ヴァレンがつかさどる加護の内容は“豊穣”。しかもその対象は、一族や家族といったごく狭い範囲ではなく、国全体を含む。そんな強大な力を持つヴァレンの加護を受け、このモンドハイン国の死んだ山は鉱山に、荒地は畑に、枯れた木々は果樹に、それぞれ甦った。
でも、エーデンタール国はそれほどの豊かさに恵まれなかったように思う。こんな風に二人きりでいるときにそう首を傾げると、ヴァレンは鼻を鳴らし。
『加護を与える相手を選ぶのは私だ。私のロザリアを物のように扱う者に加護など与えるものか』
いけしゃあしゃあとそんなことを言ってのけた。なんだ、じゃあ分かりやすいほどの加護がなかったのはヴァレン自身がそう決めたからだったのかと納得した。ちなみに、ヴァレンの通訳によれば、オーリは才能をつかさどり、加護を与える者のもとへ才ある者が集まるのだという。
結果、私とラウレンツ殿下は、お互いにウィンウィンな関係を築いていた。私はラウレンツ殿下に雇われたお陰でこうして衣食住を確保し、なんならかつてアラリック殿下には「口うるさい」「細かい」「小賢しい」と黙らされてきたことをしても至極公平に判断してもらえてお給金までもらえて、生活に不便することはない。ラウレンツ殿下は、長年の努力が報われ、ヴァレンに認められたことで国を豊かにすることもできた。殿下とのお散歩中に野良神獣のオーリが発見されたことで、宮殿には才ある新たな官吏も登用されている。
メイドとしてさえ雇ってやるものか、そう放り出されたとき、一時はどうなるかと思ったけれど、人生、なにがよく転ぶか分からないものだ。ヴァレンとラウレンツ殿下のお陰、もしかしたら婚約者時代に私にあれこれ仕事をさせてくれたヴィオラ様とアラリック殿下のお陰で、こうして私はせっせとお金を稼ぎ、ヴァレンと一緒に暮らす算段を立てることができている。
そう上機嫌になりながら、ラウレンツ殿下の紅茶を用意する。
「ねえヴァレン、充分なお金が貯まったらどこで暮らしたい? やっぱり自然が近くにあるほうがいいわよね。それに、ヴァレンがこの国を加護の対象に選んだのなら国内に留まるほうがいいだろうし、なんならオーリも一緒に来ないかしら? 自然が近くで、ヴァレンと住めて、働くこともできて……もしかしてこの宮殿でメイドとして雇ってもらうのが一番いいかも、でもさすがにそれは我儘かもしれないわね。……ヴァレン?」
いつも適当な相槌を打ってくれるのに、ヴァレンはむくりと立ち上がる。
「どうしたの?」
「いや、用事を思い出した」
「用事って、ヴァレン、あなたいつも夜にいなくなるけど、一体どこに行ってるの? 狩り?」
「そんなところだ」
扉を開けてあげると、ヴァレンはのそのそとどこかへ歩いていく。心なしかその後ろ姿はちょっぴり嬉しそうだった。
窓枠に足をかけたヴァレンは「いつ見ても整い過ぎた不思議な景色だな」と首を傾げている。神獣のヴァレンから見ればそう見えるのだろう。私から見れば、一日どころか何日いても退屈することのなさそうな、豪華で贅沢な空間だ……。感嘆にも似た溜息を漏らしてしまっていると「ロザリア、ロザリア!」と大きな声が廊下の向こう側から聞こえた。振り向く頃には、走るラウレンツ殿下が隣にまでやってきたところだった。
「こんなところにいた! ごめん、ちょっと来てくれ!」
「はいはい、ただいま」
二つ返事で引き受け、ドレスの裾をたくし上げて走り出す。ヴァレンは飛び降りるように素早く廊下に着地し、音もなく追いかけてくる。
「で、本日はどうなさったんですか?」
「困ったことに、隣国からお客様があってね。商談に出てる連中じゃ言葉が通じない」
ラウレンツ殿下はすぐ隣を早足で歩き始める。
「俺が出てもいいんだけれど、これからちょうど会談が始まるんだ。王子の俺が外すわけにはいかない」
「でも、それなら私も会談に出席しなければならないのでは?」
「それはもちろん。ただ、会談は取引の話しかないから大丈夫だよ。終わってから庭園を散歩して少しお茶を振る舞う、そのお茶のタイミングから来てくれれば」
「お茶の準備も含めて考えると、会談が終わるまでに商談をまとめて戻ってきてくれということですね」
「そういうことになるね」
なんなら私は着替えと化粧直しまで必要になる。相変わらず人使いの荒い王子様だ。
「それってボーナスも出ますか?」
「……善処しよう」
「約束してください」
「……約束しよう」
「ありがとうございます!」
廊下の突き当りで別れると、ヴァレンがクゥと鳴く声が後ろに流れていく。ラウレンツ殿下が私の視界から外れると、最近のヴァレンはよくそんな反応をしている。
でも、それがどういう意味なのかヴァレンに聞く暇はない。いまは商談の場に急がなければいけないのだ。窓の外を見ると、ちょうど地上に人の塊が見えた。
慌てて立ち止まり、大窓を開け放つ。
「ヴァレン、ちょっと下まで乗せてくれる?」
「よかろう」
すかさず屈んでくれたヴァレンの背中に乗って、一緒に三階の窓から飛び出した。ふわふわの銀の毛が風にあおられてくすぐったい。
シュタッと軽やかにバラ園の影に着地したとき、音もなく飛んできたフクロウの影がヴァレンの頭に落ちた。見上げるより先に、その影は私の頭に合流する。
「オーリ、お帰りなさい。森の様子はどうだった?」
クー、という機嫌のいい声は豊作だった証拠だ。ヴァレンは私を下ろしながら「昨晩は雨が降ったから草木が一層元気だそうだ」と通訳する。神獣同士は直接に言葉を理解できるらしい。
「そう、よかったねオーリ。おいしい木の実は食べた?」
「オーリは木の実を食わない」
「あ、そうだったわ。ごめんなさい、見当違いなことを言ったわね」
オーリは宮殿近くの森の主で、言ってしまえば野良神獣だ。出会って以来、こうしてたまに会いに来て森の様子は教えてくれるものの、ヴァレンと違っていつでも近くにいてくれるわけではなく、ふらっと飛んできてはふらっと飛んでいく。そのわりに人懐っこいのか、私の頭の上に載って寝ていることもある。今だって、影を見れば、羽に顔を埋めてうとうとしているのが丸分かりだ。
「それで、そのお客様のお相手が今日の仕事か?」
「ええ。上手くやりましょう、きっとそのお客様は隣国の使者――会談についていらっしゃった方々、懐事情はすごぶる良いに決まっているわ。ぜひ気に入られて色々とお買い求めになっていただきましょう」
そうしてこのモンドハイン国の財政を立て直し、ひいては私もボーナス獲得。ぎゅっと拳を握りしめてドレスを整え、目当ての人々がいる場へ飛び出す。ラウレンツ殿下の言ったとおり、いつもの商人仲間は、異国の雰囲気のある若い男性相手に、手を縦横に振りながら右往左往していた。
「お待たせしました、担当のロザリアです!」
相手の母国語と共に飛び込むと、パッと男性の顔が華やいだ。そのまま「このグリーンの石が美しいから、ペンダントにして売ってもらえるか確認したかったんです」と少し照れくさそうな顔をする。
「そういうことなら、デザインから加工まで、どうぞお任せください」
「ありがとうございます!」
バラ園の陰に隠れたヴァレンから私の耳元へ、「相変わらず商魂たくましいことだ」とおじさんくさいコメントが届いた。
――さて、どうしてこんなことになったのか。はじまりは半年前、私がアラリック殿下に婚約破棄されたときに遡る。
行き場がない、と呆然としていた私に声をかけた商隊の長たる少年ラウレンツは、なんとモンドハイン国のラウレンツ王子だった。王子がなぜ商人のふりをしていたのか、その原因は破綻寸前のモンドハイン国の財政にあった。
モンドハイン国は、我が国――エーデンタール国の隣にある巨大な国だ。その領土面積は大陸屈指、必然強国――とも思えるが、実は元王妃の浪費により国が傾くほどの財政難に陥り、また一族ばかり要職につける縁故登用を繰り返した結果汚職にまみれてしまっていた。彼女は一族と共に既に追放されているが、それによって自動的にすべてが回復するわけではない。結果、元王妃の継子であるラウレンツ殿下は、王城の人事を取り仕切るほか、なんと自ら商人となってまで財政の立て直しに奔走する羽目になっていた。
私に声をかけたのは、人事の一環だったそうだ。元王妃が選んだメイドたちは、当然のことながら元王妃と共に贅沢三昧、とてもじゃないか雇用継続することはできず、しかし全く新たに雇い入れる余裕も伝手もなく、困っていたのだという。
そこに見つけたのが、大国・エーダンタール国王家の元メイド(と勘違いされていた)私。雇われていた時期があった以上、それなりの教養はあるはず、そうとなれば一から教育する手間も費用も必要ない、クビになった直後で藁にもすがりたいタイミング、今が底値でお買い得――そう判断したらしい。大変失礼だけれどごもっとも、大変商魂たくましい王子様だ。
そうして侍女として雇入れたら実は王子の元婚約者でしたということで大変仰天されたし、なんなら「じゃあメイドとしてなんて働けないじゃないか!」と頭を抱えられてしまったのだが、私が王城でいいようにこき使われていたのはお互いに嬉しい誤算だった。ラウレンツ殿下は、すぐに私の仕事っぷりを喜んでくれた。
が、それもほんの短い期間だけで、すぐに「メイドでなく妃で契約し直してくれないか」と提案された。思ったよりも私が使えたのでメイドではもったいないと感じたらしく、そしてラウレンツ殿下は継母のトラウマで頑なに婚約を拒みつつ、しかし対外的に度々王子としての資質の欠陥だと指摘され、婚約者の不在を苦慮していたそうだ。
結果、日当を1.5倍に上げていただくことを条件に私が引き受けた。
そうして私は、時に外交の場でラウレンツ殿下の隣で微笑み、社交場で一緒に踊り、王子としての体裁を保ちつつ、アラリック殿下の婚約者当時にさせられていた宮殿の内部統制だの監査だのの仕事を引き受けつつ、こんな通訳みたいな事務仕事まですることになっている。お陰で現在の私の収入には、日当以外にも臨時ボーナスがつくようになった。
ボーナス対象の商談を無事終えた後、ヴァレンと一緒に部屋まで戻り、今度は外交用のドレスに着替え、化粧直しをして、庭園に降りる。向こうから殿下と隣国の使者が馬に乗ってやってくるのが見え、オーリは私の頭上から飛び立った。オーリは騒がしいのが嫌いなのだ。
ラウレンツ殿下は「わざわざありがとう、ロザリア」と微笑みながら下馬し、「私の妻のロザリアです」と私を紹介する。その一挙手一投足は優雅なものだが、目元にはほんのりと疲労の色が滲んでいる。仕方がない、アラリック殿下がボケボケ暮らしていたのとは違ってラウレンツ殿下は王子なんて名ばかり、継母の尻ぬぐいのために朝から晩まで働きづめなのだ。今日の夕方には少しいい紅茶を淹れて持っていってあげよう。
「はじめまして、王子妃殿下自らお出迎えいただけるとは、大変恐縮です」
「こちらこそはじめまして、ロザリアと申します。どうぞ、お気遣いなく」
この会談は、元王妃のせいで外国からの信用を失いつつあったモンドハイン国が、再び同盟を結んでもらうための第一歩。そのせいか、席に着いたラウレンツ殿下の横顔には日頃ない緊張が見えていた。
しかし、きっと大丈夫だ。元王妃が好き放題やっていなくなったのは事実だけれど、ラウレンツ殿下が王家として責任を取り、努力してきたのも事実。
実際、使者の方はいい意味で意外そうな表情で「こちらの宮殿も見違えましたね」と周囲を見渡した。
「もう4、5年前になりますが、私が以前お訪ねした際は、それはもう酷い有様でした。断罪されたかの王妃とその一族に支配され、宮殿全体が暗く、いやらしい雰囲気に満ちていた。それが今や、かつての栄華を取り戻しつつある。さすがですね、ラウレンツ殿下」
「褒めていただき光栄です。ただ、私一人の力ではありません、尽力してくれた信頼できる臣下と、有能な我が妃のお陰で」
「あら殿下、外でそんなことをおっしゃらないでください」
目配せされ、微笑んで頷く。褒めてくれるのがお世辞かは分からないが、少なくともそうして感謝を口にしてくれるのはこの場限りの演技ではない。ラウレンツ殿下は、ご自身が継母に振り回されて苦労した経験があるからか、日頃から労をねぎらい、感謝してくれる方だ。
そんな腰の低いラウレンツ殿下は「それに」と付け加えながら遠くへ視線をやる。
「時の運も大きいです。この半年のうちに迎えた収穫の季節には近年まれにみる豊かさがありましたし、“死んだ山”と呼ばれていた山からは溢れんばかりの鉱石が採掘され、我が妃の提案もあってですが、さびれていた田舎町が工芸品で活性化し、海を越えて新たな国と取引も始まり、お陰で優秀な人材が宮殿に戻ってきてくれて」
「はは、そうご謙遜なさるな。殿下が国のためにいかに尽力なさったかは私もよく存じ上げております。ただ、そうですな、時の運もあるとすれば、ひょっとすると、ロザリア妃殿下は幸福の女神だったかもしれませんね」
「ええ、ロザリアが妃になってくれただけで、こんなに幸福なことはなかった。それなのに、二つも三つも幸せを運んできてくれましたよ」
こういうことはさらっと言ってのけるんだから、素直で腰が低いとはいえさすが王子だ。いつものことながら感心してしまい、すごいですね、なんてうっかり口にしてしまいそうだった。
そんな会談の後、ラウレンツ殿下は疲労を肩に乗せながら「助かったよ、ロザリア」と気の抜けた笑みを見せた。
「いえいえ、私は隣でニコニコしていただけですから」
「隙なくニコニコしてもらうのが大事だからそれがよかったんだって。それから、商談に来ていたお客様が、実は辺境伯令息だったんだ」
「あら、どうりで」
身形が随分きちんとしているし、若いわりに随分ぽんと大きな金額を出すものだと思ったのだ。
「婚約者へ少し珍しい贈り物をしたいと考えていたらしくて、大層喜んでいたよ。婚約者が気に入ってくれれば――」
「定期的に工芸品を仕入れてくれるかもしれませんね」
「そのとおり。さすがロザリア、話が早くて助かるよ。……それで」
少し改まるような間に、つい両手を合わせて目を輝かせてしまった。もしかして。
「もしかしてボーナスの上乗せですか?」
どうやらそうではないらしい、というのは面食らったグリーンの目を見れば分かった。
「冗談ですって、私とて契約妃としてこの国の財政が健全とおりこして潤沢になるために尽力しているのです。がめつく給金アップばかり求めません」
「あ……ああ、うん……そうだな、うん、助かるよ。でも無理はしないでほしいから、厳しいことがあればなんでも言ってくれ」
「大丈夫です、衣食住が保証された居心地のいい生活にお給金までもらえているんですから、これほど気楽なことはありません」
ラウレンツ殿下はまだなにか言いたげにしていたけれど、何かあればすぐ言ってくれるタイプだし、勘違いだろう。ではこれで、とヴァレンを連れて辞去した。
自室に戻ると、ヴァレンはのっそりとソファの上に横になる。
「今日の仕事はこれで終わったのか?」
「ええ、一応ね。ねえヴァレン、もうラウレンツ殿下の人となりも分かったんでしょう? そろそろ神獣だって明かしてもいいんじゃない?」
悪用されてはたまらないと、ヴァレンはラウレンツ殿下の前では頑なに口を閉ざしている。お陰でラウレンツ殿下は、ヴァレンが犬ではなく狼である以上のことは知らなかった。
ヴァレンは「用心はするに越したことはない」と言いながら顎を前足に乗せ、耳をパタパタと動かす。
「でも、ヴァレンの加護が時の運だと勘違いされてるわよ」
「別に、それで十分だ。私としても感謝されたいわけではない」
ヴァレンがつかさどる加護の内容は“豊穣”。しかもその対象は、一族や家族といったごく狭い範囲ではなく、国全体を含む。そんな強大な力を持つヴァレンの加護を受け、このモンドハイン国の死んだ山は鉱山に、荒地は畑に、枯れた木々は果樹に、それぞれ甦った。
でも、エーデンタール国はそれほどの豊かさに恵まれなかったように思う。こんな風に二人きりでいるときにそう首を傾げると、ヴァレンは鼻を鳴らし。
『加護を与える相手を選ぶのは私だ。私のロザリアを物のように扱う者に加護など与えるものか』
いけしゃあしゃあとそんなことを言ってのけた。なんだ、じゃあ分かりやすいほどの加護がなかったのはヴァレン自身がそう決めたからだったのかと納得した。ちなみに、ヴァレンの通訳によれば、オーリは才能をつかさどり、加護を与える者のもとへ才ある者が集まるのだという。
結果、私とラウレンツ殿下は、お互いにウィンウィンな関係を築いていた。私はラウレンツ殿下に雇われたお陰でこうして衣食住を確保し、なんならかつてアラリック殿下には「口うるさい」「細かい」「小賢しい」と黙らされてきたことをしても至極公平に判断してもらえてお給金までもらえて、生活に不便することはない。ラウレンツ殿下は、長年の努力が報われ、ヴァレンに認められたことで国を豊かにすることもできた。殿下とのお散歩中に野良神獣のオーリが発見されたことで、宮殿には才ある新たな官吏も登用されている。
メイドとしてさえ雇ってやるものか、そう放り出されたとき、一時はどうなるかと思ったけれど、人生、なにがよく転ぶか分からないものだ。ヴァレンとラウレンツ殿下のお陰、もしかしたら婚約者時代に私にあれこれ仕事をさせてくれたヴィオラ様とアラリック殿下のお陰で、こうして私はせっせとお金を稼ぎ、ヴァレンと一緒に暮らす算段を立てることができている。
そう上機嫌になりながら、ラウレンツ殿下の紅茶を用意する。
「ねえヴァレン、充分なお金が貯まったらどこで暮らしたい? やっぱり自然が近くにあるほうがいいわよね。それに、ヴァレンがこの国を加護の対象に選んだのなら国内に留まるほうがいいだろうし、なんならオーリも一緒に来ないかしら? 自然が近くで、ヴァレンと住めて、働くこともできて……もしかしてこの宮殿でメイドとして雇ってもらうのが一番いいかも、でもさすがにそれは我儘かもしれないわね。……ヴァレン?」
いつも適当な相槌を打ってくれるのに、ヴァレンはむくりと立ち上がる。
「どうしたの?」
「いや、用事を思い出した」
「用事って、ヴァレン、あなたいつも夜にいなくなるけど、一体どこに行ってるの? 狩り?」
「そんなところだ」
扉を開けてあげると、ヴァレンはのそのそとどこかへ歩いていく。心なしかその後ろ姿はちょっぴり嬉しそうだった。
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ある日、父親に未開拓の土地へと送ると言われ、開拓して来いと命令される。
ニクスは無理だというも、騎士として働くか比較的自由な未開拓の土地に向うか選ばなければならなかった。どうしても働きたくなかったニクスは泣く泣く家を出る。
実家から遥か遠くの土地へと脚を運んだニクスは自由な生活を送るため、奮闘していた。
事が順調に運んでいるはずだったのだが……。
ゴミ召喚士と呼ばれたスライム超特化テイマーの僕〜超特化が凄すぎて、最強スライムを育ててしまう〜
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ファンタジー
13歳になる年の始め、子供達は教会に集まる。
人生が決まるに等しい、適性診断があるからだ。
全ての人がモンスターを召喚できる召喚士となり、サモナーとテイマーに分かれる。
これが問題で、一般的にテイマーはハズレ、サモナーはアタリとされていた。
適性診断では、どんなモンスターに特化した召喚士であるのかが分かる。
ここに、夢を語りながら教会へと向かう子供が二人。
主人公のカイト・フェイトと、その幼馴染のラビ・エンローズだ。
どんな召喚士になるのか、気になってしまうのは当然のこと。
同じ学校に通う、顔見知りの子供達が作る列の最後尾に並び、ドキドキしながら順番を待つ。
一人、また一人と診断を終えて出てくる子供の顔は三者三様。嬉しそうな表情ならサモナー、絶望を浮かべていればテイマーになったのだろうと分かりやすい。
そしてついに、二人の順番がやってきた。
まずは、幼馴染のラビ・エンローズから。
「……ねえ、カイトくん? ……ラビね、ドラゴン特化サモナーになっちゃった」
小さく呟き、振り返ったラビの顔は、悲しんでいるのか喜んでいるのかよく読み取れない。口角は上がっているのに涙目で、頬がヒクヒクと動いている。
何が起きたのか理解できず、まるでカイトに助けを求めているようで……。
「す、すごいじゃん!」
幼馴染が、世界最強のドラゴンサモナーになってしまったのだ。手の届かないところへ行ってしまった気がして、カイトには情けない一言を発することしかできない。
「僕だって!」
しかし、カイトも自分を信じて疑わない。
ステータスを見ると、スライム超特化テイマーと表示されていた。
絶望するカイト。世界から色が消え失せて、ショックからか意識を手放す。
親の助言もあり、立ち直ることはできた。
だが、いじめっ子同級生のザンブに決闘を挑まれる。
自分を信じてスライムをテイムし、カイトは困難に立ち向かう。
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