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12.その母娘、強欲につき
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その日のうちに、レナータは帝国の宝石商のもとへ出向き、ディヒラー伯爵の屋敷へ商いをしに行くことを勧めた。なにせ、ディヒラー伯爵は来週には金を用意し、利権の話を進めようとしてくるだろう。そのときに渋ってはこの話が水の泡だ。
「だから、今週中にD伯爵の金をすべて浪費しなければなりません」
「浪費か。だから宝石を買わせようと?」
買うわけがない、と言いたげだった。なお、当然のようにカールハインツがついて回ってくることは、もう気にしないことにした。たまに結婚がどうのこうのと言い始めるが、それ以外は特に害は及ぼされていない。
「まあ、D伯爵は買うことはないだろうけれど、伯爵夫人と令嬢は喜んで買うかもしれないね」
「殿下、ご夫人をご存知なのですか?」
「ああ、D伯爵夫人は流行りに敏感通り越して執着していてね。一度つけた宝石を二度つけて社交界に現れることはないとまで言われる」
「……とんでもないお方ですね」
社交場に出向くのは月に一度や二度ではないし、そうだとしても耳を疑う散財っぷりだ。
「しかもD伯爵は愛人に金をかけているし、財政は火の車だと思うよ。二度伯爵家に足を運んで分かっただろう、アンティークに見える家具は全て模造品だった。元の家具はすべて売って、しかし見栄を張って似た安物を買ったんだろうね」
……害はないし、役に立つところもある。レナータは、ディヒラー伯爵が愛人を持っていることは知っていたが、そこにどれだけ金をかけているかは知らないし、家具が本物か偽物かまで観察する余裕はなかった。この皇子は意外と市井に通じているし、ローザ国の貴族事情にも詳しいし、泥臭い観察眼がある。
「……トーマス・マルトリッツとして話を持ち掛けられたとき、かなり吹っ掛けてきたとは思いましたが。あれは精一杯の虚勢だったということですか」
「だと思うよ。つまらない男だけれど、成り上がるだけの実力はある。はったりをかますくらいの力は残っていたというわけだ」
「そうなると、想定以上にご夫人と令嬢は喜んで宝石を買うでしょうね。なにせしばらく新しいものなど買い与えられていない」
「その上、帝都で商いをするような立派な宝石商がやってきたとなれば、喜んで空の懐を開くだろう。とはいえ、若干彼らの欲に頼り過ぎている側面は否めない。私でよければだめ押しをしてこようと思うけど、どうかな?」
現在の伯爵家の状況、メラニーの性格を聞けば策を弄するまでもないとも思えるが、カールハインツの言うことも一理ある。それに、カールハインツにとってはここでレナータを裏切るよりも、当初の約束どおりディヒラー伯爵領を手に入れるほうが利益にもなる。
「……では、お願いしてもよろしいですか?」
「もちろん。君と離れる時間は惜しいけどね」
「では晩餐はご一緒しましょう。私も私で別にやらなければならないことがありますので、お互いに報告会ということで」
「私をやる気にさせる方法をよく知ってるね。私の別邸でいいかな?」
「ええ、もちろん構いません」
ただ、念には念を入れたほうがいい。カールハインツが去った後、レナータはコホンと咳払いした。
「どうせついてきているんでしょう、クロード。出てきなさい」
「……よくお分かりで」
路地の間から、馬を引いたクロードが顔を出す。子ども扱いしてばかりと口を尖らせたくなるが、カールハインツがいたのは不可解であっただろうし、今回はやむを得ない。
「でもちょうどよかった。カールハインツ殿下を尾行してくれる?」
「もちろんですよ。ディヒラー伯爵のもとへ向かうと、そういうことでしたね?」
「相変わらず耳が良いわね。そう、ディヒラー伯爵のもとへ向かわないとか、伯爵と密談を交わしているなどの事情があれば教えて。ただ、護衛のヴェルナー様は近くにいらっしゃるはずだから、気付かれないよう注意して」
「畏まりました」
カールハインツがレナータを裏切る可能性は理屈上低いとしても、見落としがある可能性はある。レナータは「くれぐれも気をつけて」とクロードを送り出した。
が、それは杞憂だった。日が沈み始める頃、カールハインツの別邸を訪ねる前にクロードは戻ってきたが、その顔には困惑を浮かべるほど、カールハインツには怪しい動きがなかったらしい。
「……そう。……いや、そう。それならいいんだけど」
「お嬢様、そろそろカールハインツ殿下となにをしているか教えていただいても?」
別邸へと向かい始めながら、クロードが訊ねる。
「安心して、危ないことはしてないから」
「メラニー嬢のことなんでしょう? であれば私に話してくださっても構わないのでは?」
クロードは、その顔立ちからは意外だが、もとは孤児だ。レナータの父が屋敷に連れ帰って面倒を見ていたところ、あまりに物覚えがいいので、ゆくゆくはレナータの世話係になって、屋敷も仕切ってくれるようにと育てられた。
ただ、本人は出生に引け目があるのか、たまに拗ねたようなことをいう。レナータはあくまで子ども扱いされそうなこととそうでないことを分けているだけなのだが。
「メラニーに、ズルいことはしちゃだめよってお説教するだけよ」
「それはまた、随分長い道のりを有するお説教ですね」
「だっていきなり呼び出したって話を聞いてくれないんだもの。いい、クロード。話を聞かない人がいるときに、なんで聞いてくれないのって頭ごなしに言ってもダメ。その人が話を聞いてくれる環境を作ることも大事なのよ」
レナータの政治手腕を知っているクロードは黙った。まるで良き教育者の理屈だが、レナータがやっていることは、大抵の場合、相手が「話を聞かせてください」と言わざるを得ない状況に追い込むことだ。無論、そこに非合法的なことも非倫理的なこともないし、相手も商売人として興味をそそられるからそう言うのだが。
「……ちなみに、カールハインツ殿下がディヒラー伯爵の屋敷を訪ねた際、伯爵は不在でした。玄関口で『先日領地を買い取らせてもらったトーマス・マルトリッツ』と名乗り、また『他の領地について話をしに来たのだが不在ならば日を改めて』といったことも述べていました」
「ふむ。そのように言えば、使用人相手でも領地を欲しがっているこことは伝わるでしょう。ただ、宝石を欲しがる夫人との関係では若干の矛盾が生じてしまいますね」
「領地を売却するほど財産が残っていないのではないかと勘繰ってしまうからですか?」
「そのとおりよ。そこはどうクリアしたのかしら」
ぼやきながら別邸に着くと、カールハインツ自ら迎えに現れた。その服装は昼間とは変わっており、レナータを見ると、まるで恋人が帰ってきたかのように微笑んだ。
「やあ、お帰り」
「ここは私の家ではありませんが」
「私のもとへ、という意味だよ。少し狭いけれど、私の執務室でもいいかな。報告会をするのに食事の間では広すぎるから」
「私はもちろん構いません」
一応、前回も使用人は気遣ってくれたが、皇子の執務室ほど内緒話に適した場所はないだろう。
歩き出す前に、カールハインツはクロードを一瞥した。邪魔者は来るなと言っているようにも思えたが、主を帝国皇子と密室に二人きりというわけにはいかない。クロードは気付かないふりをした。
「……君が必要というなら従者にも来てもらおうと思うけど、どうかな」
「……ではお言葉に甘えて、同席させてもらいましょう」
クロードは軽く目を伏せて礼を言った。使用人の態度ではないが、カールハインツは気にせず執務室へと案内する。
想像どおり、執務室は壁が厚く扉も重厚だった。が、むしろこんなところにいると内緒話をしていますと言っているようなものとも思えてきた。なお、狭いと言いつつも十分な広さがあり、テーブルには豪華な食事が並ぶ。
「……なぜ今回は執務室へ?」
「来客用に造ってあるけれど、私は好きではなくてね。テーブルが大きすぎて君との距離が遠くなる」
「私の声、小さくて聞き取りにくいです?」
「まさか、君の可愛らしい声に呼ばれればたとえ海の向こうからでも気が付くよ」
「では報告会に移りましょうか」
無視して書簡を取り出すと、カールハインツは眉を八の字にしていたが、押されている封蝋印を見るとそれを吊り上げた。
「……もしかして、それは王室裁判所のものかい?」
「ええ、そのとおりです。王室裁判所へ訴える手順はご存知ですか? 訴えの書簡は全く同じ内容で3通用意し、このうち一通を控え、二通を王室裁判所に提出し、うち一通が相手方に送られ、双方都合のよい期日にて開廷される……。これは期日指定の通知書で、こちらが訴状です。来週、この裁判が開かれます」
隠すことはあるまい、とレナータは控えの書簡をカールハインツに渡した。その内容にざっと目を通したカールハインツは、わくわくするように口角を吊り上げた。
「……さすが、よくできている。レディ・メラニーが君にしたことを考えれば、確かにこのくらいはすべきだ。では、私から報告だけれど」
書簡を返し、カールハインツは両手を組んで顎を載せる。
「無事、D伯爵夫人と令嬢は、君が新たにデザインを依頼していた宝石を買った」
「あら、よかったです」
「ついでに、帽子屋と生地屋も紹介しておいた」
「え?」
驚いて見つめ返すと「金を浪費するに越したことはなさそうだったから」と微笑み返された。それはもちろんその通りだが……。
「夫人と令嬢になにを仰ったんですか? さすがにそこまで買い込むとは想定外ですし……」
なにより、領地の譲受けを仄めかせば、夫人達は財産が困窮していると勘繰ったのではないか。屋敷に入る前にクロードと話したことが頭には浮かぶ。
「安心してくれ、私は君以外の女性に可愛いという形容は用いないから」
「いえそんな心配は微塵もしておりません」
「将来の王子妃たる者、そしてその母となる者はそれに相応しいものを身に着けるべきじゃないでしょうかと申し向けただけだよ」
なるほど、そうか。レナータは目から鱗が落ちた。メラニーとエーリヒが2人でいたのは見たが、その発想はなかった。
「あの日の2人に、特にお忍びというわけでもなさそうだったから、そういう噂があるということにしたんだ。トーマス・マルトリッツと名乗り、残りの領地について譲り受けることを伯爵と話しに来たとも伝えたし」
「そのことですが、そんなことを伝えては財政を不安がって買い控えるのでは?」
「逆だよ」
逆? なぜ、とレナータもクロードも首を傾げた。
「領地を売却することを考えていると聞いて真っ先に考えつくのは、君のいうとおり財政が逼迫しているということだ」
「であれば――」
「そのうえで、夫人は伯爵の愛人の存在を知っていることを踏まえるとどうなる」
……どうなるのだろう? レナータはさらに首を傾げた。
「伯爵を切り捨てることを厭わないかもしれないということですね」
「そのとおり」
代わりに答えたのはクロードだ。そこまで言われれば、レナータにも分かった。
「いま残っている財産を運搬・隠匿が容易なものに換えておけば、自分の生活は当面確保できる。もちろん第一目標はエーリヒ殿下とメラニーの婚姻による姻戚関係とこれによる財産の持ち直しですが、万が一――伯爵の立場に何らかの問題が生じたときのために保険をかけているということですか。愛人にかまけている夫など、不利益を及ぼしてくるのなら知ったものではないと」
しかも、隠匿のために交換したブツが宝石となれば、王族と婚姻できた場合にも無駄にはならない。自分の宝飾品として愛でればいいだけだ。帽子やドレスもそうだし、なんならこちらは、万が一の際も生活に必要なものとして差し押さえを免れる可能性があり、隠匿の手間もかからない。こうして考えてみると、他にない完璧な保険のかけ方だ。
「よくできました、正解です。ご褒美にかぼちゃスープのおかわりを持ってこさせよう」
確かにかぼちゃスープは好きだし、特にこれは絶品だったが、例によって好きなものを見透かされているのも、まるであやすような優しさも気持ちが悪い。どうやら天は二物を与えないよう、いやむしろ間違った二物を与えた結果、気味の悪い皇子ができあがったのかもしれない。
「……しかし、伯爵夫人はなかなか周到ですね。そんな保険のかけ方を瞬時に考え付くとは……」
「これはメラニー嬢の言い出したことだ。もちろん、助言したのは私だけどね」
……メラニーに、カールハインツ自ら助言した? レナータの計画を盤石なものにしてくれたという感謝より、いまはメラニーとの関係のほうが気にかかった。
「それは……それはどういうことでしょう。殿下はメラニーと親しいと?」
「君が妬いてくれるなら親しくしても構わないよ」
裏切りを心配しているのだが? 睨めば、軽口を詫びるように肩を竦めた。
「親しくはないね。先日、エーリヒ殿下に招かれた茶会で会ったから少し話をしただけだよ」
誤魔化されたのか、それとも事実か? ただ、前者だとしても、カールハインツはレナータを利したことに変わりはない。
しかし、まさしくそれは、メラニーにとっては保険として働くものだ。エーリヒとの関係との前後関係も問題になってくるとはいえ、この場合、カールハインツは味方か否か……。
「いまの話は措くとして、夫人らは領地の売却によって懐に入ってくる金も気にしていたけれどね。手切れ金として要求するつもりなのかどうかは知らないけれど、卵が孵る前から雛の数を数えるとはこのことだ」
「……そうですか」
「というわけで、借入金はしっかりすっからかんだ。……で? これではまだ、君が伯爵の土地の一部、しかも将来私がいただくものを買い取っただけだ」
計画の全容を聞かされていないカールハインツは両手を組み、そこに顎を載せた。
「私の予想ではこう――おそらく、借入金を目的外のことに費消した伯爵に対し、レーガー家は即座の返済を迫る。しかし伯爵には当然これができないから、レーガー家は担保の領地を売却するが、トーマス・マルトリッツは存在しない貴族。その需要を裏付けるものはなくなり、君は伯爵領を底値で買いたたき、伯爵から土地を根こそぎ剥ぎ取る……どうかな?」
……やはり、この皇子は恐ろしい。大筋においては、レナータが描いている計画のとおりだ。もしこの皇子が敵に回れば、エッフェンベルガー辺境伯の失脚も有り得るだろう。
「……いえ。それだけでは足りないと考えております」
だが、現段階では目を瞑ることにしよう。レナータは軽く目を伏せた。
「伯爵家には、ローザ国から出て行っていただきます」
いずれにせよ、カールハインツの動きはその結末を左右することはない。
「だから、今週中にD伯爵の金をすべて浪費しなければなりません」
「浪費か。だから宝石を買わせようと?」
買うわけがない、と言いたげだった。なお、当然のようにカールハインツがついて回ってくることは、もう気にしないことにした。たまに結婚がどうのこうのと言い始めるが、それ以外は特に害は及ぼされていない。
「まあ、D伯爵は買うことはないだろうけれど、伯爵夫人と令嬢は喜んで買うかもしれないね」
「殿下、ご夫人をご存知なのですか?」
「ああ、D伯爵夫人は流行りに敏感通り越して執着していてね。一度つけた宝石を二度つけて社交界に現れることはないとまで言われる」
「……とんでもないお方ですね」
社交場に出向くのは月に一度や二度ではないし、そうだとしても耳を疑う散財っぷりだ。
「しかもD伯爵は愛人に金をかけているし、財政は火の車だと思うよ。二度伯爵家に足を運んで分かっただろう、アンティークに見える家具は全て模造品だった。元の家具はすべて売って、しかし見栄を張って似た安物を買ったんだろうね」
……害はないし、役に立つところもある。レナータは、ディヒラー伯爵が愛人を持っていることは知っていたが、そこにどれだけ金をかけているかは知らないし、家具が本物か偽物かまで観察する余裕はなかった。この皇子は意外と市井に通じているし、ローザ国の貴族事情にも詳しいし、泥臭い観察眼がある。
「……トーマス・マルトリッツとして話を持ち掛けられたとき、かなり吹っ掛けてきたとは思いましたが。あれは精一杯の虚勢だったということですか」
「だと思うよ。つまらない男だけれど、成り上がるだけの実力はある。はったりをかますくらいの力は残っていたというわけだ」
「そうなると、想定以上にご夫人と令嬢は喜んで宝石を買うでしょうね。なにせしばらく新しいものなど買い与えられていない」
「その上、帝都で商いをするような立派な宝石商がやってきたとなれば、喜んで空の懐を開くだろう。とはいえ、若干彼らの欲に頼り過ぎている側面は否めない。私でよければだめ押しをしてこようと思うけど、どうかな?」
現在の伯爵家の状況、メラニーの性格を聞けば策を弄するまでもないとも思えるが、カールハインツの言うことも一理ある。それに、カールハインツにとってはここでレナータを裏切るよりも、当初の約束どおりディヒラー伯爵領を手に入れるほうが利益にもなる。
「……では、お願いしてもよろしいですか?」
「もちろん。君と離れる時間は惜しいけどね」
「では晩餐はご一緒しましょう。私も私で別にやらなければならないことがありますので、お互いに報告会ということで」
「私をやる気にさせる方法をよく知ってるね。私の別邸でいいかな?」
「ええ、もちろん構いません」
ただ、念には念を入れたほうがいい。カールハインツが去った後、レナータはコホンと咳払いした。
「どうせついてきているんでしょう、クロード。出てきなさい」
「……よくお分かりで」
路地の間から、馬を引いたクロードが顔を出す。子ども扱いしてばかりと口を尖らせたくなるが、カールハインツがいたのは不可解であっただろうし、今回はやむを得ない。
「でもちょうどよかった。カールハインツ殿下を尾行してくれる?」
「もちろんですよ。ディヒラー伯爵のもとへ向かうと、そういうことでしたね?」
「相変わらず耳が良いわね。そう、ディヒラー伯爵のもとへ向かわないとか、伯爵と密談を交わしているなどの事情があれば教えて。ただ、護衛のヴェルナー様は近くにいらっしゃるはずだから、気付かれないよう注意して」
「畏まりました」
カールハインツがレナータを裏切る可能性は理屈上低いとしても、見落としがある可能性はある。レナータは「くれぐれも気をつけて」とクロードを送り出した。
が、それは杞憂だった。日が沈み始める頃、カールハインツの別邸を訪ねる前にクロードは戻ってきたが、その顔には困惑を浮かべるほど、カールハインツには怪しい動きがなかったらしい。
「……そう。……いや、そう。それならいいんだけど」
「お嬢様、そろそろカールハインツ殿下となにをしているか教えていただいても?」
別邸へと向かい始めながら、クロードが訊ねる。
「安心して、危ないことはしてないから」
「メラニー嬢のことなんでしょう? であれば私に話してくださっても構わないのでは?」
クロードは、その顔立ちからは意外だが、もとは孤児だ。レナータの父が屋敷に連れ帰って面倒を見ていたところ、あまりに物覚えがいいので、ゆくゆくはレナータの世話係になって、屋敷も仕切ってくれるようにと育てられた。
ただ、本人は出生に引け目があるのか、たまに拗ねたようなことをいう。レナータはあくまで子ども扱いされそうなこととそうでないことを分けているだけなのだが。
「メラニーに、ズルいことはしちゃだめよってお説教するだけよ」
「それはまた、随分長い道のりを有するお説教ですね」
「だっていきなり呼び出したって話を聞いてくれないんだもの。いい、クロード。話を聞かない人がいるときに、なんで聞いてくれないのって頭ごなしに言ってもダメ。その人が話を聞いてくれる環境を作ることも大事なのよ」
レナータの政治手腕を知っているクロードは黙った。まるで良き教育者の理屈だが、レナータがやっていることは、大抵の場合、相手が「話を聞かせてください」と言わざるを得ない状況に追い込むことだ。無論、そこに非合法的なことも非倫理的なこともないし、相手も商売人として興味をそそられるからそう言うのだが。
「……ちなみに、カールハインツ殿下がディヒラー伯爵の屋敷を訪ねた際、伯爵は不在でした。玄関口で『先日領地を買い取らせてもらったトーマス・マルトリッツ』と名乗り、また『他の領地について話をしに来たのだが不在ならば日を改めて』といったことも述べていました」
「ふむ。そのように言えば、使用人相手でも領地を欲しがっているこことは伝わるでしょう。ただ、宝石を欲しがる夫人との関係では若干の矛盾が生じてしまいますね」
「領地を売却するほど財産が残っていないのではないかと勘繰ってしまうからですか?」
「そのとおりよ。そこはどうクリアしたのかしら」
ぼやきながら別邸に着くと、カールハインツ自ら迎えに現れた。その服装は昼間とは変わっており、レナータを見ると、まるで恋人が帰ってきたかのように微笑んだ。
「やあ、お帰り」
「ここは私の家ではありませんが」
「私のもとへ、という意味だよ。少し狭いけれど、私の執務室でもいいかな。報告会をするのに食事の間では広すぎるから」
「私はもちろん構いません」
一応、前回も使用人は気遣ってくれたが、皇子の執務室ほど内緒話に適した場所はないだろう。
歩き出す前に、カールハインツはクロードを一瞥した。邪魔者は来るなと言っているようにも思えたが、主を帝国皇子と密室に二人きりというわけにはいかない。クロードは気付かないふりをした。
「……君が必要というなら従者にも来てもらおうと思うけど、どうかな」
「……ではお言葉に甘えて、同席させてもらいましょう」
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「……なぜ今回は執務室へ?」
「来客用に造ってあるけれど、私は好きではなくてね。テーブルが大きすぎて君との距離が遠くなる」
「私の声、小さくて聞き取りにくいです?」
「まさか、君の可愛らしい声に呼ばれればたとえ海の向こうからでも気が付くよ」
「では報告会に移りましょうか」
無視して書簡を取り出すと、カールハインツは眉を八の字にしていたが、押されている封蝋印を見るとそれを吊り上げた。
「……もしかして、それは王室裁判所のものかい?」
「ええ、そのとおりです。王室裁判所へ訴える手順はご存知ですか? 訴えの書簡は全く同じ内容で3通用意し、このうち一通を控え、二通を王室裁判所に提出し、うち一通が相手方に送られ、双方都合のよい期日にて開廷される……。これは期日指定の通知書で、こちらが訴状です。来週、この裁判が開かれます」
隠すことはあるまい、とレナータは控えの書簡をカールハインツに渡した。その内容にざっと目を通したカールハインツは、わくわくするように口角を吊り上げた。
「……さすが、よくできている。レディ・メラニーが君にしたことを考えれば、確かにこのくらいはすべきだ。では、私から報告だけれど」
書簡を返し、カールハインツは両手を組んで顎を載せる。
「無事、D伯爵夫人と令嬢は、君が新たにデザインを依頼していた宝石を買った」
「あら、よかったです」
「ついでに、帽子屋と生地屋も紹介しておいた」
「え?」
驚いて見つめ返すと「金を浪費するに越したことはなさそうだったから」と微笑み返された。それはもちろんその通りだが……。
「夫人と令嬢になにを仰ったんですか? さすがにそこまで買い込むとは想定外ですし……」
なにより、領地の譲受けを仄めかせば、夫人達は財産が困窮していると勘繰ったのではないか。屋敷に入る前にクロードと話したことが頭には浮かぶ。
「安心してくれ、私は君以外の女性に可愛いという形容は用いないから」
「いえそんな心配は微塵もしておりません」
「将来の王子妃たる者、そしてその母となる者はそれに相応しいものを身に着けるべきじゃないでしょうかと申し向けただけだよ」
なるほど、そうか。レナータは目から鱗が落ちた。メラニーとエーリヒが2人でいたのは見たが、その発想はなかった。
「あの日の2人に、特にお忍びというわけでもなさそうだったから、そういう噂があるということにしたんだ。トーマス・マルトリッツと名乗り、残りの領地について譲り受けることを伯爵と話しに来たとも伝えたし」
「そのことですが、そんなことを伝えては財政を不安がって買い控えるのでは?」
「逆だよ」
逆? なぜ、とレナータもクロードも首を傾げた。
「領地を売却することを考えていると聞いて真っ先に考えつくのは、君のいうとおり財政が逼迫しているということだ」
「であれば――」
「そのうえで、夫人は伯爵の愛人の存在を知っていることを踏まえるとどうなる」
……どうなるのだろう? レナータはさらに首を傾げた。
「伯爵を切り捨てることを厭わないかもしれないということですね」
「そのとおり」
代わりに答えたのはクロードだ。そこまで言われれば、レナータにも分かった。
「いま残っている財産を運搬・隠匿が容易なものに換えておけば、自分の生活は当面確保できる。もちろん第一目標はエーリヒ殿下とメラニーの婚姻による姻戚関係とこれによる財産の持ち直しですが、万が一――伯爵の立場に何らかの問題が生じたときのために保険をかけているということですか。愛人にかまけている夫など、不利益を及ぼしてくるのなら知ったものではないと」
しかも、隠匿のために交換したブツが宝石となれば、王族と婚姻できた場合にも無駄にはならない。自分の宝飾品として愛でればいいだけだ。帽子やドレスもそうだし、なんならこちらは、万が一の際も生活に必要なものとして差し押さえを免れる可能性があり、隠匿の手間もかからない。こうして考えてみると、他にない完璧な保険のかけ方だ。
「よくできました、正解です。ご褒美にかぼちゃスープのおかわりを持ってこさせよう」
確かにかぼちゃスープは好きだし、特にこれは絶品だったが、例によって好きなものを見透かされているのも、まるであやすような優しさも気持ちが悪い。どうやら天は二物を与えないよう、いやむしろ間違った二物を与えた結果、気味の悪い皇子ができあがったのかもしれない。
「……しかし、伯爵夫人はなかなか周到ですね。そんな保険のかけ方を瞬時に考え付くとは……」
「これはメラニー嬢の言い出したことだ。もちろん、助言したのは私だけどね」
……メラニーに、カールハインツ自ら助言した? レナータの計画を盤石なものにしてくれたという感謝より、いまはメラニーとの関係のほうが気にかかった。
「それは……それはどういうことでしょう。殿下はメラニーと親しいと?」
「君が妬いてくれるなら親しくしても構わないよ」
裏切りを心配しているのだが? 睨めば、軽口を詫びるように肩を竦めた。
「親しくはないね。先日、エーリヒ殿下に招かれた茶会で会ったから少し話をしただけだよ」
誤魔化されたのか、それとも事実か? ただ、前者だとしても、カールハインツはレナータを利したことに変わりはない。
しかし、まさしくそれは、メラニーにとっては保険として働くものだ。エーリヒとの関係との前後関係も問題になってくるとはいえ、この場合、カールハインツは味方か否か……。
「いまの話は措くとして、夫人らは領地の売却によって懐に入ってくる金も気にしていたけれどね。手切れ金として要求するつもりなのかどうかは知らないけれど、卵が孵る前から雛の数を数えるとはこのことだ」
「……そうですか」
「というわけで、借入金はしっかりすっからかんだ。……で? これではまだ、君が伯爵の土地の一部、しかも将来私がいただくものを買い取っただけだ」
計画の全容を聞かされていないカールハインツは両手を組み、そこに顎を載せた。
「私の予想ではこう――おそらく、借入金を目的外のことに費消した伯爵に対し、レーガー家は即座の返済を迫る。しかし伯爵には当然これができないから、レーガー家は担保の領地を売却するが、トーマス・マルトリッツは存在しない貴族。その需要を裏付けるものはなくなり、君は伯爵領を底値で買いたたき、伯爵から土地を根こそぎ剥ぎ取る……どうかな?」
……やはり、この皇子は恐ろしい。大筋においては、レナータが描いている計画のとおりだ。もしこの皇子が敵に回れば、エッフェンベルガー辺境伯の失脚も有り得るだろう。
「……いえ。それだけでは足りないと考えております」
だが、現段階では目を瞑ることにしよう。レナータは軽く目を伏せた。
「伯爵家には、ローザ国から出て行っていただきます」
いずれにせよ、カールハインツの動きはその結末を左右することはない。
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