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10.その二組、厄介につき
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ヴェルナーが御者に扮した馬車に乗り換え、帰路につきながら、レナータは苦々しい顔をしつつも「さすがでございました」と一言述べた。
「さすがとは?」
「……ディヒラー伯爵を乗せるその口先がです。相手の性格を理解し、どう述べればいい気分にさせつつ騙せるか、あまりにも当意即妙な答えに正直びっくりしました」
「君にそう言っていただけるとは光栄だよ。私と結婚する気になってきたかい?」
「いえ、むしろかなりしたくなくなりました」
詐欺師呼ばわりされるリスクを負うと話したが、既に詐欺師の資質は持ち合わせているらしい。
向いに座るカールハインツはわざとらしく眉尻を下げ「君に見直してもらえると思ったのに」などと述べる。これもどこまで本当だか怪しいものだ。
「しかし、実際帝国皇子というのはそこまでの教育を受けるものなのですか?」
「そこまでというと、税収一般論や麦の質に詳しかったり、具体的な価格交渉をしたりということかな?」
「ええ。皇子教育に歴史や政治は当然含まれるでしょうが、食物の品質や土地の価値計算はそれとは別。特に帝国では宮廷官吏の所掌するところではないのでしょうか?」
“なんでもできる”は、ときに“なにもできない”を意味する。広く知っていることは大事だが、それによって深化させているものがないのでは結局役に立たない。自らの立場と役目から適切な分野配分をするのも必要な政治力だ。その意味で、帝国皇子が一伯爵と領地の遣り取りをできるというのは違和感がある。
実際、カールハインツは「まあ、教育としてはなかったね」と頷く。
「ではなぜ?」
「それはもちろん、君という人は自ら領地を見て回り、管理し、交渉しているからね。私もできなければならないと考えるのはごく自然なことだ」
「私がしているからといって即座にできるようになるわけではないでしょう。それをどう打破したかお尋ねしているのです」
返事をしつつ、どうせ答える気はないのだろうと返答は期待していなかった。予想通り、カールハインツは「答えたとおりだというのに」と肩を竦めるだけだった。
「ところで、さきほどはすまなかったね」
「何がです?」
「伯爵が暴いた冤罪の件だ」
レナータの背筋を、蛇が這うような不快感が撫でる。
もし、カールハインツが「冤罪とはいえ父君が罪人とされていたことを口にして悪かった」なんて謝罪を寄越したらどうする。声を荒げて、ディヒラー伯爵こそが黒幕だったと喚いてしまう、そんな自分が容易に想像できた。
まだ計画の道半ばなのに、そんな不格好な自分を見られ、取引から降りられるわけにはいかない。レナータは目を伏せて深呼吸した。
「……いえ、あれは的確な口車だったと感じました」
「そうだとして――」
「大丈夫です、殿下。時には汚名も利用すべきときがあります。私が伯爵のもとへ出向く際もそうですしね」
謝罪の内容を聞きたくないと思っているのが伝わったのか、カールハインツは一度口を閉じた。「……そう」と短く相槌を打ったのは、話を変える合図だろう。
「ではどうだろう、一仕事終えたということでカフェにでも」
「いえ、まだまだ始まったばかりですので」
かと思えばまたこれだ。安堵できる話題ではあるが、そもそもカールハインツ個人を信用したわけではない。
「では私の労をねぎらうということでいかがだろう」
が、そう言われては断れるはずがない。なにせ最後の一押しはカールハインツのアドリブだ。それに、レナータも少し疲れていた。
「……構いませんよ。せっかくですし、おすすめのカフェにご案内しましょう」
王都にあるレナータ御用達のカフェへ行くと、初老の店主が快く迎えてくれる。店の裏側にあるテラス席に着き注文を済ませると、カールハインツは妙に上機嫌だった。
「……お気に召しましたか? 素敵でしょう、店主は子爵家の御次男さんで、傍付だった女性と婚姻したのを機に家を出て、このカフェを開いたそうです。ご夫人のお陰か、とても細やかな気配りをしていただけるのですよ」
「ああ、大変仲睦まじいご夫婦だよね。ご夫人の焼くガトーショコラも絶品だ」
「いらっしゃったことがあるんですか?」
王都にやって来たとして、まさかこんなところでのんびりお茶をしているとは想像していなかった。
「ああ、王都を訪ねた際は寄ることにしているよ。ここのガトーショコラが好きでね。君も小腹が空いただろう、ナッツのパウンドケーキも頼もうか」
レナータが返事をする前に注文された。が、ナッツのパウンドケーキは、この店に来れば必ずと言っていいほど食べているくらいにはお気に入りで、今回もカールハインツがいるから遠慮していたに過ぎない。その意味で全く問題ないのだが……。
「……殿下は人の心を見透かす怪しい術でもご存知なのでしょうか?」
「そんなはずないじゃないか」
「であればなぜ私がナッツのパウンドケーキを我慢していると分かったのです!」
「食べたかったんだね、なによりだよ」
口が滑った……。羞恥で頬を赤く染めてしまった。この得体のしれない皇子を前に好物を明らかにしてしまうとは……。
……いや、好物は例の社交界でも暴露してしまった。ただ、あれはカールハインツが好物ばかり持ってきたから……。
「……殿下は私の好物をよくご存知ですね」
やはり、何かがおかしい。早速やってきたパウンドケーキを前に、レナータはキッとカールハインツを睨み付けた。
「なぜですか?」
「君の好物をよく知っているだなんて」
カールハインツはガトーショコラを前に、悠然と笑みをこぼす。
「君のことならなんでも知っているだけだよ」
「………………そうですか」
だめだ、この皇子からは何も聞き出せまい。レナータはコーヒーにミルクを注ぎながら必死に頭を回転させる。海洋利権が狙われている可能性は考えていたが、それではストレート過ぎてこの皇子らしくない。もっと何かあるはずだ、エッフェンベルガー領が持つ、重要な何かが……。
そんなことを考えるあまりしかめっ面になってしまったが、カールハインツは笑みを崩さない。そんなところまで不気味だ。
「……こちらに着いたときからご機嫌がいいようですね。なにかいいことでも……例えば狙い通りに事が運んでいるなどございましたか?」
「狙い通りではないんだけれど、こうしてカフェで君と向かい合って時間を過ごすことができるのが嬉しくてね」
「……私は明日D伯爵領に向かいますが、殿下はご足労いただかなくて結構ですので」
もう尋ねるのはよそう。レナータは眉間に深いしわを刻んだままパウンドケーキを口に運ぶ。
「今回、土地を譲り受けた名義はトーマス・マルトリッツといたしましたので、さらに私が譲り受けましょう。これでディヒラー伯爵の領地の一部は私のものですが、いずれ殿下に差し上げますのでご安心ください」
「私にくれるというのは焦らなくていいよ。売買代金は君が用意したもので、トーマス・マルトリッツは名実ともに仮想の存在だからね。どう転んでも私に損はない」
「おっしゃるとおりです……」
深く頷こうとしていたレナータは、店内にある人物の姿を認めてハッと顔を背けた。
「どうした?」
「……エーリヒ殿下がいらっしゃってます」
見間違えようもない、物々しく護衛を連れたエーリヒが、床を高く鳴らしながら店内に入ってきたところだ。見られて困ることはないカールハインツは、堂々と視線を向けながら頬杖をつく。
「……ああ、本当だ。しかも、面白い人を連れている」
同じように床を高く鳴らしながら現れた令嬢を見て、口角を吊り上げる。
「レディ・メラニー、君を盗人呼ばわりしたディヒラー伯爵令嬢だな」
幸いにも、二人はテラスに出ずに、半個室のテーブル席についた。会話は聞こえないが、二人でいることが何よりの情報なので会話の内容に興味はない。
「エーリヒ殿下はレディ・メラニーを婚姻相手にと考えているのかもしれません。これは困りました……」
「困る? なぜ?」
途端、カールハインツの目が細められる。怪しく危険なものでも見るような目つきだった。
「エーリヒ殿下に婚約者がいらっしゃらないのはご存知でしょう? しかしエーリヒ殿下もいいお年ですし、このままではとんとん拍子にお二人が婚姻なさるかも」
「それがなぜ君を困らせる?」
「困りますよ、だって――」
続きを言う前に口を閉じざるを得なかった。
カールハインツが、テーブルの上でレナータの手を握ったせいだ。
……なにをしているのだ、この皇子は。レナータは危機感も忘れて白い目を向けた。
「……殿下。淑女の手を社交場以外で握らないでいただきたいのですが?」
「では結婚しよう」
「手を握るためにですか? さきほどの交渉力はどこへいったのです」
「女性を口説く訓練はしていなくてね」
「確かに帝国皇子となれば女性を探して口説く能力ではなく寄ってくる女性を見極める能力が求められますものね。とりあえず離していただいてよろしいでしょうか?」
「君が結婚してくれるならね」
ひょいと手が持ち上げられ、軽く口づけられた。レナータは露骨にイヤそうな顔をしながら手を引っ込める。
「いまはそんなお話はどうでもいいのです。エーリヒ殿下とメラニーの婚姻が秒読みだとすれば厄介です」
「……厄介か、なるほど。ではエーリヒ殿下と君自身が良い仲になりたいわけではないんだね」
「当然です、エーリヒ殿下と婚姻するメリットはありませんから」
「そう言われると非常に説得力がある。だとして、厄介とは?」
やはり、カールハインツは何が何でもレナータと結婚しなければ目的を遂げられないらしい。そこの答えは見えないままだが、さきほども言ったとおり、いまはそんなことはどうでもいい。
「エーリヒ殿下と婚姻なさると、おいそれと手出してきなくなりますからね。姻族となるディヒラー伯爵しかり。計画を早める必要がございますが、どうしてもディヒラー伯爵の動きに依るところもあるので、非常に厄介だというのです」
「ということは、君はレディ・メラニーにも何か仕掛けるつもりか」
「ええ。私、基本的には敵愾心むき出しの格下に構うのは人生の無駄だと考えております。ですから、ちょっと悪口を言われた程度であれば何も聞かなかったふりをしましたが……」
社交場で、しかもあのペンダントを指差して盗人呼ばわりはいただけない。それはそれとして、当時の情けなく動揺した自分も思い出し、レナータは一人羞恥心にも襲われた。
「……コホン。しかし、社交場で汚名を着せられたとなれば話は別です。その汚名も盗人猛々しいというべきですから、ひとつお仕置きをしておかねばと」
「まあ、そういうことであればさしたる心配はないだろう。エーリヒ殿下に別の女性を宛がい、悩ませればいいだけだ」
しれっと提案され、レナータは目から鱗が落ちた。なるほど確かに、エーリヒは婚姻を急いてはいるが、最近までめぼしい相手はレナータだった。なにがなんでもメラニーに惹かれているというわけでもなかろう。
「……しかし、誰であればエーリヒ殿下に勧めてよいかと言われると困ります。私自らその役を買って出るのが筋かもしれませんが、私はいま汚名を着せられた身ですし、そもそも色仕掛けというものもとんと苦手ですし」
「君がエーリヒ殿下を誘惑する必要などない」
ピシャリと、まるでテーブルでも叩くようにはっきりと強く、カールハインツは断じた。
「もし君がどうしても後学のために誰かを誘惑してみたいというのなら、私が相手になろう。心配せずとも、ちゃんと誘惑されてあげるよ」
「殿下にはいつか国有数の伯爵令嬢をご紹介してさしあげます。私が社交場に返り咲くのをいましばらくお待ちください」
レナータ自身の親しい友人となると限られるが、帝国皇子を紹介されると言われて嫌な顔をする令嬢は少ないだろう。
「それはさておき、時間稼ぎは必要かもしれませんね……。いや、ここはむしろ状況を利用したほうが……婚約時点では手出しできなくなるものではありませんし、そのタイミングで……ええ、そうしましょう」
「その調子だと、私を誘惑してくれることはなさそうだね」
「頭の調子がおかしくなった頃でもないでしょうね。さて、そうとなればまた少し忙しいので、今日のところはこれで切り上げましょう」
ひょいぱくひょいぱくと、豪快に口を開けて残りのパウンドケーキを食べるレナータに、カールハインツは押し殺したような笑い方をした。
「……なにか?」
「いや、いい食べっぷりだと思っただけだ。今度帝国に来たときにはおいしいラムレーズンケーキを用意しておくよ」
ラムレーズンも大好物だが、もう何も聞かないことにしよう。レナータはパウンドケーキと一緒に言葉を飲み込んだ。
「では殿下、エーリヒ殿下に気付かれる前に出ましょう。幸いにも店主は気の利く方ですから、このまま裏から出してもらえます」
「そうか、じゃあ馬車も裏に回させよう」
「私は馬で構いませんから、これで」
「屋敷に戻るまで一緒にいさせてくれてもいいじゃないか。それに、エーリヒ殿下と同じ店にいたと誰かに知られると面倒だろう?」
ごもっともだが、前段のせいで釈然としない。レナータは難しい顔をして首を傾けながら、しかし頷いた。
「さすがとは?」
「……ディヒラー伯爵を乗せるその口先がです。相手の性格を理解し、どう述べればいい気分にさせつつ騙せるか、あまりにも当意即妙な答えに正直びっくりしました」
「君にそう言っていただけるとは光栄だよ。私と結婚する気になってきたかい?」
「いえ、むしろかなりしたくなくなりました」
詐欺師呼ばわりされるリスクを負うと話したが、既に詐欺師の資質は持ち合わせているらしい。
向いに座るカールハインツはわざとらしく眉尻を下げ「君に見直してもらえると思ったのに」などと述べる。これもどこまで本当だか怪しいものだ。
「しかし、実際帝国皇子というのはそこまでの教育を受けるものなのですか?」
「そこまでというと、税収一般論や麦の質に詳しかったり、具体的な価格交渉をしたりということかな?」
「ええ。皇子教育に歴史や政治は当然含まれるでしょうが、食物の品質や土地の価値計算はそれとは別。特に帝国では宮廷官吏の所掌するところではないのでしょうか?」
“なんでもできる”は、ときに“なにもできない”を意味する。広く知っていることは大事だが、それによって深化させているものがないのでは結局役に立たない。自らの立場と役目から適切な分野配分をするのも必要な政治力だ。その意味で、帝国皇子が一伯爵と領地の遣り取りをできるというのは違和感がある。
実際、カールハインツは「まあ、教育としてはなかったね」と頷く。
「ではなぜ?」
「それはもちろん、君という人は自ら領地を見て回り、管理し、交渉しているからね。私もできなければならないと考えるのはごく自然なことだ」
「私がしているからといって即座にできるようになるわけではないでしょう。それをどう打破したかお尋ねしているのです」
返事をしつつ、どうせ答える気はないのだろうと返答は期待していなかった。予想通り、カールハインツは「答えたとおりだというのに」と肩を竦めるだけだった。
「ところで、さきほどはすまなかったね」
「何がです?」
「伯爵が暴いた冤罪の件だ」
レナータの背筋を、蛇が這うような不快感が撫でる。
もし、カールハインツが「冤罪とはいえ父君が罪人とされていたことを口にして悪かった」なんて謝罪を寄越したらどうする。声を荒げて、ディヒラー伯爵こそが黒幕だったと喚いてしまう、そんな自分が容易に想像できた。
まだ計画の道半ばなのに、そんな不格好な自分を見られ、取引から降りられるわけにはいかない。レナータは目を伏せて深呼吸した。
「……いえ、あれは的確な口車だったと感じました」
「そうだとして――」
「大丈夫です、殿下。時には汚名も利用すべきときがあります。私が伯爵のもとへ出向く際もそうですしね」
謝罪の内容を聞きたくないと思っているのが伝わったのか、カールハインツは一度口を閉じた。「……そう」と短く相槌を打ったのは、話を変える合図だろう。
「ではどうだろう、一仕事終えたということでカフェにでも」
「いえ、まだまだ始まったばかりですので」
かと思えばまたこれだ。安堵できる話題ではあるが、そもそもカールハインツ個人を信用したわけではない。
「では私の労をねぎらうということでいかがだろう」
が、そう言われては断れるはずがない。なにせ最後の一押しはカールハインツのアドリブだ。それに、レナータも少し疲れていた。
「……構いませんよ。せっかくですし、おすすめのカフェにご案内しましょう」
王都にあるレナータ御用達のカフェへ行くと、初老の店主が快く迎えてくれる。店の裏側にあるテラス席に着き注文を済ませると、カールハインツは妙に上機嫌だった。
「……お気に召しましたか? 素敵でしょう、店主は子爵家の御次男さんで、傍付だった女性と婚姻したのを機に家を出て、このカフェを開いたそうです。ご夫人のお陰か、とても細やかな気配りをしていただけるのですよ」
「ああ、大変仲睦まじいご夫婦だよね。ご夫人の焼くガトーショコラも絶品だ」
「いらっしゃったことがあるんですか?」
王都にやって来たとして、まさかこんなところでのんびりお茶をしているとは想像していなかった。
「ああ、王都を訪ねた際は寄ることにしているよ。ここのガトーショコラが好きでね。君も小腹が空いただろう、ナッツのパウンドケーキも頼もうか」
レナータが返事をする前に注文された。が、ナッツのパウンドケーキは、この店に来れば必ずと言っていいほど食べているくらいにはお気に入りで、今回もカールハインツがいるから遠慮していたに過ぎない。その意味で全く問題ないのだが……。
「……殿下は人の心を見透かす怪しい術でもご存知なのでしょうか?」
「そんなはずないじゃないか」
「であればなぜ私がナッツのパウンドケーキを我慢していると分かったのです!」
「食べたかったんだね、なによりだよ」
口が滑った……。羞恥で頬を赤く染めてしまった。この得体のしれない皇子を前に好物を明らかにしてしまうとは……。
……いや、好物は例の社交界でも暴露してしまった。ただ、あれはカールハインツが好物ばかり持ってきたから……。
「……殿下は私の好物をよくご存知ですね」
やはり、何かがおかしい。早速やってきたパウンドケーキを前に、レナータはキッとカールハインツを睨み付けた。
「なぜですか?」
「君の好物をよく知っているだなんて」
カールハインツはガトーショコラを前に、悠然と笑みをこぼす。
「君のことならなんでも知っているだけだよ」
「………………そうですか」
だめだ、この皇子からは何も聞き出せまい。レナータはコーヒーにミルクを注ぎながら必死に頭を回転させる。海洋利権が狙われている可能性は考えていたが、それではストレート過ぎてこの皇子らしくない。もっと何かあるはずだ、エッフェンベルガー領が持つ、重要な何かが……。
そんなことを考えるあまりしかめっ面になってしまったが、カールハインツは笑みを崩さない。そんなところまで不気味だ。
「……こちらに着いたときからご機嫌がいいようですね。なにかいいことでも……例えば狙い通りに事が運んでいるなどございましたか?」
「狙い通りではないんだけれど、こうしてカフェで君と向かい合って時間を過ごすことができるのが嬉しくてね」
「……私は明日D伯爵領に向かいますが、殿下はご足労いただかなくて結構ですので」
もう尋ねるのはよそう。レナータは眉間に深いしわを刻んだままパウンドケーキを口に運ぶ。
「今回、土地を譲り受けた名義はトーマス・マルトリッツといたしましたので、さらに私が譲り受けましょう。これでディヒラー伯爵の領地の一部は私のものですが、いずれ殿下に差し上げますのでご安心ください」
「私にくれるというのは焦らなくていいよ。売買代金は君が用意したもので、トーマス・マルトリッツは名実ともに仮想の存在だからね。どう転んでも私に損はない」
「おっしゃるとおりです……」
深く頷こうとしていたレナータは、店内にある人物の姿を認めてハッと顔を背けた。
「どうした?」
「……エーリヒ殿下がいらっしゃってます」
見間違えようもない、物々しく護衛を連れたエーリヒが、床を高く鳴らしながら店内に入ってきたところだ。見られて困ることはないカールハインツは、堂々と視線を向けながら頬杖をつく。
「……ああ、本当だ。しかも、面白い人を連れている」
同じように床を高く鳴らしながら現れた令嬢を見て、口角を吊り上げる。
「レディ・メラニー、君を盗人呼ばわりしたディヒラー伯爵令嬢だな」
幸いにも、二人はテラスに出ずに、半個室のテーブル席についた。会話は聞こえないが、二人でいることが何よりの情報なので会話の内容に興味はない。
「エーリヒ殿下はレディ・メラニーを婚姻相手にと考えているのかもしれません。これは困りました……」
「困る? なぜ?」
途端、カールハインツの目が細められる。怪しく危険なものでも見るような目つきだった。
「エーリヒ殿下に婚約者がいらっしゃらないのはご存知でしょう? しかしエーリヒ殿下もいいお年ですし、このままではとんとん拍子にお二人が婚姻なさるかも」
「それがなぜ君を困らせる?」
「困りますよ、だって――」
続きを言う前に口を閉じざるを得なかった。
カールハインツが、テーブルの上でレナータの手を握ったせいだ。
……なにをしているのだ、この皇子は。レナータは危機感も忘れて白い目を向けた。
「……殿下。淑女の手を社交場以外で握らないでいただきたいのですが?」
「では結婚しよう」
「手を握るためにですか? さきほどの交渉力はどこへいったのです」
「女性を口説く訓練はしていなくてね」
「確かに帝国皇子となれば女性を探して口説く能力ではなく寄ってくる女性を見極める能力が求められますものね。とりあえず離していただいてよろしいでしょうか?」
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「……厄介か、なるほど。ではエーリヒ殿下と君自身が良い仲になりたいわけではないんだね」
「当然です、エーリヒ殿下と婚姻するメリットはありませんから」
「そう言われると非常に説得力がある。だとして、厄介とは?」
やはり、カールハインツは何が何でもレナータと結婚しなければ目的を遂げられないらしい。そこの答えは見えないままだが、さきほども言ったとおり、いまはそんなことはどうでもいい。
「エーリヒ殿下と婚姻なさると、おいそれと手出してきなくなりますからね。姻族となるディヒラー伯爵しかり。計画を早める必要がございますが、どうしてもディヒラー伯爵の動きに依るところもあるので、非常に厄介だというのです」
「ということは、君はレディ・メラニーにも何か仕掛けるつもりか」
「ええ。私、基本的には敵愾心むき出しの格下に構うのは人生の無駄だと考えております。ですから、ちょっと悪口を言われた程度であれば何も聞かなかったふりをしましたが……」
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「……コホン。しかし、社交場で汚名を着せられたとなれば話は別です。その汚名も盗人猛々しいというべきですから、ひとつお仕置きをしておかねばと」
「まあ、そういうことであればさしたる心配はないだろう。エーリヒ殿下に別の女性を宛がい、悩ませればいいだけだ」
しれっと提案され、レナータは目から鱗が落ちた。なるほど確かに、エーリヒは婚姻を急いてはいるが、最近までめぼしい相手はレナータだった。なにがなんでもメラニーに惹かれているというわけでもなかろう。
「……しかし、誰であればエーリヒ殿下に勧めてよいかと言われると困ります。私自らその役を買って出るのが筋かもしれませんが、私はいま汚名を着せられた身ですし、そもそも色仕掛けというものもとんと苦手ですし」
「君がエーリヒ殿下を誘惑する必要などない」
ピシャリと、まるでテーブルでも叩くようにはっきりと強く、カールハインツは断じた。
「もし君がどうしても後学のために誰かを誘惑してみたいというのなら、私が相手になろう。心配せずとも、ちゃんと誘惑されてあげるよ」
「殿下にはいつか国有数の伯爵令嬢をご紹介してさしあげます。私が社交場に返り咲くのをいましばらくお待ちください」
レナータ自身の親しい友人となると限られるが、帝国皇子を紹介されると言われて嫌な顔をする令嬢は少ないだろう。
「それはさておき、時間稼ぎは必要かもしれませんね……。いや、ここはむしろ状況を利用したほうが……婚約時点では手出しできなくなるものではありませんし、そのタイミングで……ええ、そうしましょう」
「その調子だと、私を誘惑してくれることはなさそうだね」
「頭の調子がおかしくなった頃でもないでしょうね。さて、そうとなればまた少し忙しいので、今日のところはこれで切り上げましょう」
ひょいぱくひょいぱくと、豪快に口を開けて残りのパウンドケーキを食べるレナータに、カールハインツは押し殺したような笑い方をした。
「……なにか?」
「いや、いい食べっぷりだと思っただけだ。今度帝国に来たときにはおいしいラムレーズンケーキを用意しておくよ」
ラムレーズンも大好物だが、もう何も聞かないことにしよう。レナータはパウンドケーキと一緒に言葉を飲み込んだ。
「では殿下、エーリヒ殿下に気付かれる前に出ましょう。幸いにも店主は気の利く方ですから、このまま裏から出してもらえます」
「そうか、じゃあ馬車も裏に回させよう」
「私は馬で構いませんから、これで」
「屋敷に戻るまで一緒にいさせてくれてもいいじゃないか。それに、エーリヒ殿下と同じ店にいたと誰かに知られると面倒だろう?」
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