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4.その時勢、不利につき
しおりを挟む「おっと、失礼」
バシャッと派手な音と共に、葡萄酒がぶちまけられた。声と音と、令嬢達の悲鳴でレナータは振り返る。
レナータの後ろで、カールハインツのグレイの上着に紫色の模様が出来上がったところだった。
「も……申し訳ございません、カールハインツ殿下!」
カールハインツに葡萄酒をかけてしまった令嬢は、顔を真っ青に変えながら、悲鳴よりも上擦った声で謝罪する。
「すぐに着替えをご用意させていただきます!」
「いいんだよ、そんなことしなくて」
カールハインツはにこやかに笑みながら上着を脱ぐ。胸ポケットに挿してあった赤いバラは、折れぬようにシャツのポケットに挿し直した。
「そんなことをされたら、着替えを用意してもらう間、君と話す無駄な時間ができるだろう?」
また何か言った……。その場にいた令嬢達が唖然としていると、カールハインツは汚れた上着を抱えたままレナータに向き直った。
「こんばんは、レナータ・エッフェンベルガー。久しぶりだね」
「あ……あ、はい。大変ご無沙汰しております、カールハインツ殿下」
レナータは一瞬で辺境伯としてのスイッチを入れ、完璧な礼をする。なにせ相手は裏を感じさせる怪しい皇子だ。
しかし、カールハインツは心配そうに眉尻を下げた。たった一週間で、レナータは目に見えてやつれていたからだ。
「気分が悪いのかい? 少し夜風にあたって休んだほうがいいよ」
「いえ、そういうわけではありません。少々人酔いしてしまっただけで……」
カールハインツは有無を言わさずその手を取り、バルコニーまで連れていった。いつの間にもらったのか、水のグラスまで持っている。
「飲むかい?」
「すみません、お気遣いありがとうございます」
グラスを受け取る瞬間、金にブルーの宝石をあしらった上品なカフスが目についた。隣国皇子はこんなところにまでお洒落に気を遣うのか――そんなことを思いながらグラスを傾ける。
氷のように冷たい水が喉を通過する。一息ついたレナータは改めてまじまじとカールハインツを見上げ――その腕に持っている上着を見た。そういえば、さっき葡萄酒を……。
「あっ!」
「ん?」
「もしかして私のためにカールハインツ殿下が葡萄酒をかぶってしまったのでは!?」
そうに違いない、カールハインツはレナータの後ろからやってきたのだから! いや、もしかしたらレナータを庇ってカールハインツが出てきてくれのかも……レナータはさきほどの令嬢と同じくらい顔を青くした。信条に反するし、なにより相手は得体の知れない隣国皇子だ!
「も、申し訳ありません! 人様にご迷惑をかけるなんてあってはならないことです! 上着はお貸しください、すぐに新しいものをご用意しますから!」
「いや、いいよ。すぐに用意されたら――」
ハッとレナータは身構えた。一度ならず二度までも、カールハインツの謎毒舌は聞いている。この続きは――。
「君に会う口実がなくなってしまうからね」
「……私を強請るものがなくなるという意味ですか?」
「ん?」
予想外だったので聞き返してみたが、カールハインツは「なぜ?」と至極不思議そうな顔をするだけだ。
はて、とレナータも首を傾げてしまったが「それより」と視線をホールへ向けられ、つられてそちらを見る。メラニーが他の令嬢達と談笑しているところだった。
「君とレディ・メラニーの間には不思議な諍いがあったようだね。どうにも話がよく分からないのだけれど、よかったら聞かせてもらえるかな」
「……お話がよく分からないのは、それはメラニー様の主観が皆様の主観で広がっているからだと思いますが、そうだとして私からの話は私の主観ですよ」
それでいいのか? 暗にそう尋ねたが「構わないとも」と優しい笑みが返ってきた。
「……そういうことでしたら」
急に盗人呼ばわりされたが、ペンダントは自分のもので間違いないこと、メラニーのペンダントと自分のペンダントとがよく似ていたことは知っていたがよく見ると全くの別物であることを簡単に説明した。……悩んだが、メラニー自身が“盗まれたとは思っていないはず”というのは黙っておいた。
話を聞き終えたカールハインツは、バルコニーの手すりに背中を預け「そうか、大変だね」と短く答えただけだった。励まされるとは思っていなかったが、あまりに淡泊な反応にはそれでも肩を落としてしまった。
「……そういうことですので、私は本日はこのあたりで失礼しようと考えております」
「まあそう言わず。せっかく来たんだから、食事くらい楽しんでもいいんじゃない? ヴェルナー」
カールハインツがガラス扉の向こうに声をかけると、白銀の長い髪を結った騎士が食事を取り分けて持ってきた。カールハインツの護衛らしい、女性のように美麗な騎士だった。
「どうぞ」
差し出された小さな皿には、一品一品が円形に盛り付けられている。そのどれもこれもがレナータの好物ばかりで、状況も忘れてお腹が鳴りそうだった。
「あ、ありがとうございます……好きなものばかりです。特に魚料理には目がありませんで」
「よかった、いまの君には少し重たいかもしれないと心配だったんだけど」
「いえ、あっさりした味付けなので、むしろ食べやすいです」
口に運びながら、あれ、とレナータは首を傾げてしまった。食事を取り分けて持ってきてくれたのはカールハインツの護衛だったが、まるでカールハインツが取ってくるものを指示したかのような口ぶりだった。……いや、ほんの言葉のあやだろう。まさか事前に示し合わせたわけでもあるまいし。
「ところで、ここでは君をなんて呼ぶのが正しいだろう? レディ・レナータか、エッフェンベルガー辺境伯か」
なるほど、その疑問があったから、カールハインツはレナータをファーストネーム・ラストネームで呼んでいたのか。ややこしい立場で申し訳ない、とレナータは少し目を伏せた。
「このような場ではレディと呼ばれることが多いですね」
「ということは、社交場での君は辺境伯令嬢ということになっているのかな?」
「いえ、もちろん私の正式な立場は辺境伯です。ただ……」
レナータがどれほど“辺境伯”として奔走しようと、他の当主達がレナータを見る目は変わらない。エーリヒが零したように、女に爵位を相続させるのは法の不備だと主張する貴族も多く、“エッフェンベルガー辺境伯”というと、いまだに人々はレナータの父を思い浮かべる。裏を返せば、そういった貴族達にとって、レナータは“辺境伯令嬢”という肩書でしか見られていないのだ。お偉い当主連中がその有様なので、その子女も然り。
しかし、そんな弱音や愚痴じみたことを赤裸々に口にできるはずもない。レナータはあえて背筋を伸ばした。
「ただ、私はまだ辺境伯として未熟な点も多いのです。ですから、私は先代辺境伯の娘と認識されており、そう呼ばれております。もちろん、このような呼び名に甘んじることなく邁進するつもりですが」
「なるほど? 頑張り屋さんにはご褒美をあげなくてはね」
カールハインツは再びヴェルナーに目配せし、ガラスの器に入ったさくらんぼを持ってこさせた。ひんやりとよく冷やされているのが受け取る前からよく分かり、レナータは思わず唾を呑み込んでしまう。さくらんぼも好物だった。
「……ありがとうございます」
「手土産を持ってきておいてよかったよ。レディ・レナータ、よかったらこちらもどうかな、帝国で採れた葡萄で作った飲み物なんだけど」
さらに再び以下略、出てきたガラス瓶には深い紫色の液体が入っていた。
レナータはわずか、ほんのわずかに表情を硬くした。アルコールは苦手なのだ。もちろん、付き合いのために飲むことはあるが、そのときは相手に飲ませるなりなんなり色々画策してやり過ごしている。しかし、バルコニーで二人きりとなると……。
「これはね、葡萄しか使っていない飲み物なんだ。皮ごと実を煮込んで果汁を濾《こ》したものでね、アルコールは入っていないよ」
「あ、そうなんですね!」
そんな飲み物があるなんて! 懸念を払拭されたレナータの顔が明るくなるのを見て、クスクスとカールハインツは笑う。ヴェルナーがふたつのグラスにそれを注いだ後は、レナータより先に口に含んでみせた。
「御覧のとおり、毒も入っていないし」
「恐れ入ります。ではいただきますね……」
贅沢な果実の甘味が喉に広がった。色を見て勝手に渋味を想像してしまっていたが、それをまったく感じない。レナータは思わず顔をほころばせた。
「おいしい! こんなにおいしい飲み物は初めてです! 葡萄なのに渋味も全くなく、飲み物なのにまるでお菓子のような!」
その興奮に任せてカールハインツを見上げたレナータは、微笑を向けられていたことに気付いて慌てて「あっすみません、つい」と頭を下げた。
「はしたない真似を致しました、失礼しました」
「失礼だなんて。ここ十数日で一番の笑顔だった、見れて安心したよ」
柔らかい雰囲気、優しい微笑、穏やかな口調、どれもこれもが、まるで真綿で包まれているかのように心地よくさせる。油断してはいけないと分かりつつも、その心地の良さにはついつい緊張の糸を緩めてしまいそうになった。
が、ふと気付いた。“ここ十数日で一番の笑顔”だなんて、そもそも前回の夜会以来、しばらく会っていなかったはずだが……。なぜ、まるでここ十数日のレナータの様子を知っていたかのような口ぶりだったのだろう。
これも、言葉のあやか? グラスに口をつけながら、はて、とレナータは首を傾げた。
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