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1.その辺境伯、女につき

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「もうすぐ春がくるのね」

 馬車の扉を開ければ、冷たい夜風に載せられ花の香りがした。空に散る光は、少し前まで雪だったが、いまは星ばかりだ。
 いい季節になってきた。控えめなブラウンの髪が揺れ、レナータは深いブルーの瞳を閉じる。夜会は好きではないが、少し早く季節を感じることができるのは悪くない。

「お嬢様、扉を開けるのくらい待っていただけます?」

 クロードの呆れた声に別の車輪の音がかぶさったのをいいことに、レナータは聞こえないふりをした。が、クロードはめげない。

「お嬢様、いつも申し上げておりますでしょう。馬車が停まってほんの数秒待っていただければ結構です。私が開けます」
「その数秒を待つのが面倒なの。ただでさえ馬車なんて息苦しいのに」

 雨風を凌ぐために上も左右もしっかり閉じられ、防犯のために頑強に作られたこの箱はまるで動く城だ。そんなものに乗って移動するなんて性に合わないが、夜会に出るのに馬で参上するわけにはいかない。

「その数秒を、こういうときくらい我慢なさってくださいと言っているのですよ」
「サロンに行くときも王宮に参上するときも同じことを言うでしょ」
「それはお嬢様が一向に――」
「大体、いつまでも私をお嬢様なんて呼ばないで」

 馬車から飛び降り、レナータは振り向きざま腰に手をあてて下からクロードを睨みつけた。

「もう私は辺境伯なの。“お嬢様”じゃなくて“ご主人様”にしてって何度言えば分かるの?」
「そうは言われましても、お嬢・・

 淡いブルーの横髪を眼鏡の蔓《つる》にひっかけながら、クロードは諫めるように同じ色の瞳を細くした。

「私はお嬢様がお嬢様の頃から仕えておりますので。一朝一夕に呼び方を変えろと言われましても難しいものがございます」
「一朝一夕どころか千八百二十五朝千八百二十五夕過ぎたわ」
「計算が早くて結構なことです。お降りになった際に御髪が乱れましたよ」

 長い脚で颯爽と馬車から降り、クロードは零れた髪を掬って耳の後ろに隠した。

「では、どうぞお気をつけて」
「ええ、今日はエーリヒ殿下という邪魔者もいらっしゃらないだろうし、ゆっくりと過ごすわ」

 レナータは馬車をクロードに任せて、真紅のドレスを翻して夜会の場へと向かった。

「レディ・レナータ」

 が、足を踏み入れようとする前に、伯爵令嬢メラニーの声に止められた。今日の夜会に選ばれた屋敷は既に明るく、人々の陽気さで溢れているが、メラニーの影はその輪に入らずにいた。

「こんばんは、レディ・メラニー。ごきげんよう……」

 挨拶をする声が尻すぼみになり、そのブルーの瞳も困惑に揺れる。
 原因は、メラニーがその気の強そうな眉尻を吊り上げていたからだ。その目には燃えるような敵意も宿っていた。

「ごきげんよう、ですって? わたくしが何を話したいか分かっておきながら、まだしらばっくれるのかしら?」
「はい?」

 一体なにごとかと眉を顰めれば、メラニーは大きく口を開け
「あなた、わたくしの大切なペンダントを盗みましたわね!?」

 レナータが跳び上がってしまいそうなほどの罵声で、覚えのない罪を擦り付けた。

「あの……? レディ・メラニー、申し訳ないのですけれど、一体何のことか……」
「とぼけたって無駄よ、こちらは全て証拠を押さえているの。あなたが身に着けているそのサファイアがはめられた銀縁のペンダント!」

 メラニーは赤毛を振り乱しながら、レナータの胸元を指差した。ドレスに包まれていない白い肌の上には、鈍いながらも上品な輝きを放つブルーのペンダントが載っている。

「それはわたくしが幼い頃にお祖母様からいただいた大切なものよ。わたくしの昔馴染みはみーんな知っているわ、わたくしの手元からある日忽然と消えたことも含めてね……。前回の社交場でもそれを身に着けていたでしょう? だからお友達が教えてくださったのよ、あなたが盗んだんじゃないかってね!」
「ちょっと……ちょっと、何を言っているのか分からないわ」

 さっぱり理解できない理由で怒鳴られ、レナータは狼狽した。

「これは私のお母様が私のお祖母様からいただいたペンダントよ。あなたが似たようなブルーのペンダントを持っていたのは知っているけれど――」

 脳裏には、メラニーが自慢げに胸元につけていたペンダントのことが浮かぶ。

「でもあれとは違うの。これは正真正銘、私が代々受け継いでいるものよ」
「しらじらしいッ、大体、人のもの・・を盗んだうえに理由までまるごと盗むだなんて! 我が一族を侮辱する気!?」

 レナータは混乱し続けていた。メラニーはなぜここまで怒っているのか。
 だって、メラニーは分かっているはずだ。レナータがメラニーのペンダントを盗んでいないことを。
 なにか誤解している、話せば分かるはず、そう思いつつも、なにから説明すればいいのか分からず、言葉が出てこなかった。メラニーがあまりに怒り狂っており、しかもその原因は意味不明、想定外の事態に混乱してしまっていた。

「人のものを羨ましがってしまうのは仕方がないわ、だってそれは持たない者の性《さが》ですもの。でもそれを盗んで我が物顔で身に着けて、挙句に最初から自分のものでした、って? あなたのいらっしゃる辺境にはそんな馬鹿げた法があるのかしら? これだから田舎者は困りますわあ!」

 そんなレナータを前に、メラニーは口を挟む間もなく罵声を浴びせる。

「実のところ、わたくしも前回の社交場であなたがそのペンダントを身に着けていたのは見ていたの。でも旧知の間柄であるあなたがわたくしのものを盗むはずがないと信じてさしあげたの。でもまんまと裏切られたわ」
「だからメラニー、これはなにかの……」
「だってあなた、わたくしとドレスの形までそーっくり! 今日のために仕立てた帽子もそう!」

 レナータの真紅のドレスと大きな白い帽子を睨み、メラニーは自分の帽子を放り捨てた。確かに、そのふたつの帽子の形はまったく同じであった。しかし当然だ、両方とも隣国・ヘルブラオ帝国の流行を取り入れた“流行り”なのだから。

「わたくしに憧れるからって、そんなふうに真似ばかりしないでいただけるかしら?」
「これは真似ではなく、仕立て屋が――」
「いいこと、レディ・レナータ。わたくし、あなたのために今回の件はエーリヒ殿下にお伝えせずにいるの」

 エーリヒ殿下――ローザ国の第一王子でありながらまだ婚約者すらない。理由はひとえにエーリヒが自ら良い令嬢を見極めたいと考えているからであった。それゆえに、エーリヒが顔を出す社交場では、どの令嬢も自分こそがとアピールするのが常だった。

「あなたに少しでも辺境伯令嬢としての矜持があるなら、名ばかりのその爵位を返上して国外へ逃れてはいかがかしら? そうでなければ、エーリヒ殿下にすべてを暴露し、あなたがエーリヒ殿下の妃となる未来など訪れぬようにしてさしあげるわ!」

 レナータは既に両親を亡くしてしまっており、辺境伯の爵位はレナータの手にある。しかし、レナータはまだ若く、なにより女であるがゆえに、未だに「辺境伯令嬢・・」と呼ばれていた。

「……レディ・メラニー、少し私の話を聞いてもらえない? あなたの言っていることは間違ってるわ、ペンダントは……」
「もう結構、あなたの口からは謝罪以外聞きたくないわ! 言っておくけれど、昨晩、ファッシュ伯爵のサロンでこちらの話は暴露しているのよ」

 ファッシュ伯爵のサロンといえば、レナータ達のように若い令嬢・令息に人気があり、いつも多くの若者が集まることで有名だ。つまり、レナータとメラニーの友人みなに「レナータがメラニーのペンダントを盗んだ」と伝えている、ということだ。
 そして、メラニーの家は、名門とは言えぬものの、王宮で確かな地位を手に入れており、このローザ国ではそれなりに大きな伯爵家である。
 メラニーは勝ち誇った笑みを浮かべながら、レナータに背を向ける。

「もうこの国にあなたの居場所はなくってよ。追放される前に、自ら国を出ていくことね!」

 そう吐き捨てられたレナータは、目を白黒させるしかなかった。
 メラニーの言動はさっぱり理解できなかった。ひとつだけ分かることがあるとすれば、あの状態のメラニーが先に乗り込んだ社交場は、レナータにとって戦場同然だということだ。
 だがしかし、ここで踵を返せば「ほら、やっぱり盗んだから後ろめたかったのよ」などと言われるに違いない。それに、メラニーが何を言いふらしたのか、この目と耳で確かめる必要もある。
 意を決したレナータは、そっと屋敷に足を踏み入れ――肌に幾千もの針が刺されるような視線を感じた。

「あらあら、レディ・レナータよ」
「どの面下げてこんなところに来ることができたのかしら? メラニー様にペンダントもお返ししていないようだし」
「それどころか身に着けたままじゃありませんこと? ほら、あのブルーに銀のペンダント……」
「あら本当、そっくり! それを我が物顔でつけていらっしゃるなんて、盗人猛々しいとはこのことだわ」
「きっと他にもメラニー様から盗んだものがおありなのでしょうよ。なにせ、所詮は親の七光りで大きな顔をしているだけですもの」

 クスクスと、嘲笑が向けられる。なるほど、どうやら確かに、メラニーは“レナータがペンダントを盗んだ”と言いふらしたらしい。

「レディ・レナータ、みなが話すこれは事実か?」
「え……」

 そこに、さらにエーリヒ第一王子が現れる。
 レナータは唖然とした。エーリヒが今日の夜会に参加するとは聞い・・てい・・なか・・った・・からだ。
 いやしかし、エーリヒが参加するからこそ、メラニーは事前に噂を広めていたのかもしれない。レナータは勘繰りつつ、しかし根拠もないのに疑ってはいけないとかぶりを振った。
 だが、そんなレナータの殊勝な心などエーリヒの知ったことではない。エーリヒは険しい表情を向けた。

「レナータ、君はメラニーからペンダントを盗んだのか?」
「……そんなことはしておりません、事実無根です」
「であれば、なぜ黙っている。していないのであれば証拠を示すべきだろう」

 まるで理知的な主張のように聞こえるが、やっていないことの証明を求めるなど愚の骨頂だ。“やった”と主張する側が相応の根拠を示さなければならない、そうでなければ声高に叫べば罪を作り放題ということになってしまう。
 ……と、こんなところで言うわけにはいかず、やはりレナータは黙るしかなかった。公衆の面前で我が国の王子を論破して顔に泥を塗ってはいけない。
 が、エーリヒは「みながまるで事実のように語っている」という熱に呑まれてしまい、レナータの状態を「反論できない」のだと考えてしまった。

「レナータ、私は……、私は君を優しく真面目な女性だと信じていた。それだというのに、この仕打ちはどういうことか!」
「……華やかな場にそぐわぬ騒ぎの当事者となっていることはお詫びいたします、殿下。しかし、先程も申し上げましたとおり、私はレディ・メラニーのペンダントを盗んでなどおりません」
「であれば証拠を示せばよいと話している」
「やあねえ、レディ・レナータったら、エーリヒ殿下にとりなしてもらえると思っていたのかしら」

 二人の会話を聞き、周囲が勝手な想像を語る。

「どうりで顔を出せたわけね、殿下と既にいい仲だから」
「品のない言い方をしないでよ、殿下の前よ」
「あら失礼。でも、一番品がないのは誰かしら?」
「レディ・レナータのような方がいるから、私達まで一緒になって馬鹿にされるのよ、女性は男性に寄生する愚かな生き物だなんて」

 レナータは、今度は別の意味で弁解する気が失せていた。メラニーの言っていることこそどこにも証拠がなく、ゆえに本来はメラニーのほうがおかしいのだが、ここでは声の大きな者が勝つ。既にメラニーが全友人を味方につけている以上、レナータがどれほど筋の通ったことを口にしようと「言い訳」と一蹴されるに決まっている。ここではだんまりを決め込むのが得策だ。

「そんなことを言っては可哀想よ」

 そこに割って入ったのは、当のメラニーであった。
 メラニーは、まるで主役かのようにホールの真ん中から再登場した。いや、確かに主役であった――レナータという辺境伯令嬢に大事な宝物を盗まれた悲劇のヒロインだ。
 レナータとの当初の口論は、ホール内部までは届いていなかった。ゆえに、そのしおらしい表情に、誰もが一斉に「なんてお優しい……」と尊敬の念を向けた。

「レディ・レナータは幼い頃に両親を亡くされて大変苦労なさったのよ。だからこそわたくしを頼ってきたこともあったし、わたしもよくしてさしあげたわ……」
「さすがメラニー様ですわね」
「でも、それでは恩を仇で返すようなものではなくて?」
「そうよ、メラニー様はご厚意でレディ・レナータによくしてさしあげたっていうのに」

 メラニーがレナータによくして差し上げた? 滑稽ともいうべき見方に、レナータは今度こそ声を失った。レナータがメラニーを頼ったことはない。むしろその昔、メラニーのほうからレナータに仲良くしてほしいと言ってきたのだ。

『レディ・レナータ? 私、メラニー・ディヒラーというの』

 レナータが辺境伯の爵位を継ぐ前、もっと幼い頃に、メラニーは社交界でレナータに挨拶してきた。

『エッフェンベルガー辺境伯令嬢のレナータよね? あなたのことは以前から夜会で見かけてたわ。仲良くしてね』

 そう言われてすぐに頷くことができなかったのは、レナータ自身、メラニーを以前から知っていたからだ。

 レナータの父は、昔、あらぬ罪を着せられ王宮を追放され、失意のあまり体調を崩し、そのまま亡くなった。その後に、メラニーの父が、レナータの父の罪は冤罪であったと明らかにした。メラニーの父は「政敵の冤罪など放置しておけばいいものを、なんと正義感にあふれた方か」と称賛され、いまの地位にある。
 しかし、成長したレナータは、母の言葉により、実はメラニーの父こそがレナータの父に罪を着せた張本人だと知らされていた。その母も、父の死後は病に臥せり、後を追うように亡くなってしまった。
 つまり、メラニーの父は、レナータにとって仇だった。
 それでも、娘に罪はない。メラニーの父の罪を暴くことは、本人のみならず一族を追放することを意味する。ゆえにレナータは、メラニーの父を許せずにいながらも、メラニーには他の令嬢と同じように接してきた、が。

「いいのよみなさん、そうお怒りにならないで」

 聖母のような微笑みを浮かべながら、メラニーは、しかしレナータを激しく睨み付けた。

「弱い方には優しくしてさしあげないと、お可哀想でしょう?」

 他人に罪をなすりつけ、強者を名乗る者こそ、弱者と言わずになんと言おう。
 愕然とするばかりはレナータのみで、エーリヒなどはすっかり王宮の空気に呑まれ、メラニーに感心した目を向ける反面、レナータに呆れた目を向けた。

「レディ・メラニーが寛大な心の持ち主でよかったな、レナータ」

 ああ、王子とはいえ、しょせんは空気に流され他人を罵るような未熟な人間なのだ。
 そこまでされると逆に諦めがついた。レナータは口を真一文字に引き結び、エーリヒからもメラニーからも顔を背け、何事もなかったかのような顔でホールの中へと足を進めた。
 そんな姿を見て、人々は「まあ、あの涼しい顔」「なにも感じていらっしゃらないのかしら? おそろしい、魔物のような方ね」と軽蔑の眼差しを向けた。
 どうしてこんなことになってしまったのか。レナータは気丈に振る舞いながらも、頭の中では静かに、自分の半生を振り返っていた。
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