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サースティールート
ギアン家の夜(同日)
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たぶん、私は油断していたのだと思う――
隣にサースが居るのに危険なことがある訳がないって……。
それに指輪はサースのおばあさまのものだった。
サースのおばあさまは、谷口くんやフリードさんが好きだったと言っていた方だ。
おばあさまの指輪が危険なものだなんてちっとも思っていなかった。
それに私には守りの加護がある。
聖女の願いを使って、ミューラーに付けてもらったものだ。
だから――
自分がたった一人で、皆からも引き離されて危険な目に遭うなんて、本当に思っていなかったんだ。
目を覚ました時そこは真っ暗な闇の中だった。
どんなに目を凝らしても何も見えて来ない。
そして、小さな音すら聴こえても来ない。
(……ここは?)
暗闇はそれだけで私の心を怯えさせる。
まるで宇宙に独りぼっちで放り出されたかのような気分だ。
ゆっくりと上半身を起き上がらせると、少しだけ考えた。
(何が起こったの?サース達はどこにいるんだろう。皆は無事なのかな……)
私は一人で、どうしたらいいんだろう。
(……もしも皆も闇に飲まれたなら、サースは……?)
サースは以前闇の魔力に飲み込まれそうになったことがあると言っていた。
彼に危険はないだろうか。
そう考えたら居ても立っても居られない気持ちになる。けれど、彼のところに飛んでもいいのかすら分からない。
私は顔を上げ、空間を少しだけ見上げるようにして言った。
「ミューラー……?」
ミューラーはミュトラスの使い。
その名前を口にするのは久しぶりの気がした。
『なんだいサリーナ』
暗闇の中に聞き覚えのある声が響いて来た。
すぐに返事が返って来たのはちょっと意外だったけれど、ミューラーの声は私を安心させる。
私は心を落ち着かせるように深呼吸をした。
ミューラーと話が出来るなら、もしかしたらなんとかなるのかもしれない。
「……守りの加護、発動しなかったみたいだよ?」
『危険も、脅かすものも、なかったんじゃないかな?』
ひょうひょうと答えたミューラーの言葉をちょっとだけ考えた。
(それは、今の私に危険がないということ……?)
そう思えたら、少しだけ冷静になれる。
だったらここはどこなんだろう。
「ミューラー、ここはどこなの?」
『ここは魔力の集合体……彼の意識の中だよ』
――『彼』
そう言われてギクリとした。この場所に他に誰かがいるのかと、慌てて顔を上げる。
『ここのことは、僕より彼に聞いた方が詳しいよ』
ミューラーは言った。
段々と暗闇に目が慣れて来たんだろうか。
それとも、ミューラーが彼と言ったから見えるようになったんだろうか。
まだよく分からないけれど、少し離れたところに、確かに人の気配を感じる。
人影が私たちに向かって歩いて来ている。
その人の周りには、何もかもを吸い込んでしまいそうに暗いこの空間の中でも、その暗闇が更にぎゅうっと濃縮されているかのような、圧倒的な魔力を感じる。
闇そのもののような風を纏いながら、その人は、だけれど夜空のように煌めいていた。
暗闇の中、星が宝石のように輝くように。
純粋な闇色の中でだからこそ、これ以上なく綺麗なものになれるかのように。
何よりも美しいその人を――私の瞳は確かに捉えていた。
揺れる長い黒髪は、辺りの闇に溶けるように揺れ動く。
深淵を映すかのような漆黒の瞳は、世界の全てを見透かすかのように聡明な色をしている。
全身に纏う闇をマントのようになびかせながら、何か大きな力の塊が動いているかのように、ゆっくりと長い足を動かしながら、均整の取れた美しい体躯が私の元へ訪れようとしていた。
(…………)
私は、今の気持ちを言葉にすることが出来ない。
サースに出会ってから色々なことがあったけれど、こんなにも驚いたのはこれが初めてだろうと思う。
その人は私の前で立ち止まると、無表情に私を見下ろした。
長い睫毛が少しだけ伏せられる。
整い過ぎた顔立ちも、陶器のような白い肌も、まるで美の化身のようだった。
纏う闇に連動するかのように、長い黒髪がひらひらと揺れている。
その美しい顔を、私は世界で誰よりも知っている。
「神の使いが騒がしいと思ったら……」
その人の形の良い唇が動くと、空気に溶けるような美しい声が響いた。
「珍客か」
その人はそう言うと、その美しい手を私に差し出した。
私は思わず――条件反射でその手を握ってしまう。
するとその人は私を立ち上がらせ、ふらついた私を何気なく両腕で抱きとめてくれた。
とても良い匂いがする。
良く知っている匂い。甘さの中に苦さが香る、だけれど柑橘系の爽やかさも欠かさない、絶妙なバランスで配合された香水のような匂い。
私は衝動的に手を伸ばし、その人の胸に触れた。
服の上からの弾力感。温かさも固さも、いつもと何も変わらないように思える。
最後に、目の前の彼の黒髪に顔を寄せた。
フンフンと匂いを嗅いでみる。
独自に生み出されたかのようなこの髪の匂いも、今日もこっそり嗅いだばかりのものと変わらないように思える。
私はそろりと顔を上げる。
輝くような黒髪を持つ、漆黒の瞳の美しい人が、無表情に私を見下ろしていた。
(――違う)
こんなにもそっくりなのに。
私の全身を幸福で満たす、あの人が持っているものを同じように持っている人なのに。
この人は私を見つけても、緊張が解けるときのようにふわりと笑ったりはしない。
私を見つめる瞳を、優しく細めたりしない。
激しく私を求めるように抱き締めたりはしない――
「……サース様?」
私は無意識にその名を口にしていた。
この人は、まるでゲームの中で知っていたサース様にそっくりに思える。
私の台詞に少しだけ考えるようにしてから彼は言った。
「俺を知っているのか……?」
サースにそっくりなその人は、私の左手を握ると顔の前に持ち上げた。
「祖母の指輪をはめる少女、か」
ならば、とその人は続けて言う。
「お前は――
俺が出会わなかった少女なのか………」
無表情な顔を少しだけ緩ませるように、その人は言った――
その暗闇のような空間で、私たちは二人座り込んで、長い話をした。
お互いのことを説明しあう。
私から、自分のことを彼に話した。
彼は少しだけ面白そうに私の話を聞いていた。
異世界で発売されていたゲームのこと。そしてその内容。
サースに恋をしてやってきた聖女の私のこと。
魔王フラグを折るために奮闘していたこと。
サースを私の世界に連れて来たこと。
二人の力を合わせて、仲間とともに、生き残れる道を探していたこと。
私の話を聞き終わった彼は、少しだけ考える時間を置いてから、美しい声を響かせる。
「ある日、ここにその指輪をはめた祖母がやってきたんだ……」
驚いたよ、と彼は言った。
「この場所に人など来られる訳がなかった。ましてや、やって来たのは俺が知っている祖母では無いようだった」
この暗闇の空間にやって来たという事なんだろうか。
私は話の続きを待った。
「俺の祖母は、婚姻後、子を産むとまもなく精神と身体を壊し亡くなったと聞いている。祖父と祖母の愛のない結婚生活を伝え聞いていた。だが彼女は、しきりにリオール・ギアンの身を案じていた」
この指輪の持ち主であるサースのおばあさまは、早くに亡くなっていた?
(あれ……。でも確かライくんとフリードさんが言っていた。サースのおじいさまとおばあさまはとても仲が良く、愛し合っていて、孫世代のライくんのことも可愛がってくれたって。そんなに早くに亡くなっていたとは思えなかったけど……)
驚いて彼を見つめる。
「俺の知っている世界では存在しないだろう祖母がやってきて……そして」
吸い込まれそうな黒い瞳が私をまっすぐに見つめて言った。
「祖母に導かれた、お前がやって来た――」
そっと、形の良い指が私の頬に触れた。
そして彼は――美しい微笑を浮かべた。
本物の暗闇の中ではじめて輝ける星のように、研ぎ澄まされたような美を煌めかせる。
「――神は叶えたか」
独り言のように、微かに呟いた。
それから少しだけ、その人は自分のことを話してくれた。
その人は高等部2年生の時に闇の魔力に飲み込まれ、それからずっとこの場所に居るのだと言う。
私に会ったことはなく、ローザ様と恋愛関係でも無かったそうだ。
また、彼にはローザ様はアラン様と付き合っているように見えたと言う。
私は頭の中を整理するように少し考えた。
(そうすると……ゲームのルートで例えると、この人は、アラン様ルートのバッドエンドを進んだ人だという事になるの?)
それならば本当に、この人は、私のサースとは別の人なんだ。
私を忘れているわけでも、出会う前のサースでもなくて、別の選択肢を進んだ人……。
「あの……」
話しかけようとして戸惑う。
なんて呼びかけたらいいのか迷ってしまう。
「サース様……って呼んでもいいですか?」
「構わないが……お前は?」
「サリーナ・リタです……」
この名前で良いんだろうかと思いながらも、日本名は分かりにくいかもと思い偽名にする。
「サリーナか……」
美しい声が私を呼んだ。
名前を呼ばれるだけで、こんな時なのに、無駄にズキュンと来てしまう私がいる……。
「お前の言うゲームはそもそも、俺の生きて来た世界では存在がなかったはずだ」
やけにはっきりとサース様は言った。
「ゲームの中で、俺の選択肢の一つに、魔王にならない道があると言ったが」
「はい」
「それは可能性を示していたんだろう。皆に愛される聖女ならば、俺を魔王にすることもなく、世界を救うことが出来たかもしれないと」
「え?」
(可能性を示していた?)
驚いて彼の瞳を見つめると、少しだけ口角を上げた笑みが返された。
あまりの美しさと色っぽさにドキドキと鼓動が早くなり、もはや心臓が痛くなった。
サース様の微笑みが少しずつ増えて行く……。
赤面しながらそんなことを思う。
サース様は立ち上がると私の手を引いて立ち上がらせる。
「おいで……説明しよう」
彼は私の手を引きながら、この世界のことを語ってくれた。
「ここは魔力の集合体の中だ」
「集合体?」
「そうだな……見せるのが早い。魔力には種類がある。火、水、風、土、光、そして闇……」
その人が語る言葉に合わせるように、暗闇の世界に様々な色が浮かび上がって来た。
赤色、水色、緑色、黄色、白色、黒色……。
色とりどりの魔力の色が渦を巻くようにして消えていく。
「今この場所は全ての魔力が混在された、魔力だけの世界だ」
「魔力だけ……?」
「そうだ。お前にも見えないか?様々な色の魔力が渦巻き合っている」
さっき、ミューラーの言葉でもそうだったけれど、見える、と言われると不思議と見えてくる。
急に、ただ暗闇一色の世界だと思っていた場所が、様々な色が塗り重なって出来ている場所なのだと分かった。
「魔力は、強く弱く、常に揺れ動いている。増えては膨み、しぼんでは消える。その力の動きに終わりはない」
サース様は、世界の全てを知っているかのような聡明な瞳を、魔力が揺れ動く世界に向けている。
「人の姿では世界が魔力の渦で構成されていることは見えない。それは、ただそういうものだからだ。だが、人の身でも微塵だが魔力が感じられただろう……」
魔力は確かに感じることが出来た。
サースが私に送り込んでくれた闇の魔力を知っている。
頷くと、サース様は話を続けてくれた。
「そうだ。見えなくても感じていたはずだ。皆、本当は、心の底では知っていて、気が付かないふりをしていただけだ。自分がやらなくても誰かがやると。日常は変わらず続くのだと疑うこともなく。それは、俺も例外ではない」
陰りのある表情をしたサース様は、何かを思い出すように視線を伏せた。
「人の営みの根幹に魔力が据えられた世界で、その魔力の天秤が崩れていることを、知っているものも居ただろう。声を上げたものも居ただろう。想像よりも多くの者が天秤の修復に挑んだのだろう。だけれど、世界は、大多数の者が気が付かないふりをしていたうちに、終わりを告げた――」
――『世界は、終わりを告げた』――
私はサース様のその言葉に、息を飲む。
(それは……彼の世界は終わったと言うことなのだろうか)
「例えば光の魔力は……聖女の願いが生み出す」
サース様は優しい声で説明を続けてくれる。
「魔力は、生き物が生み出すものなんだ。生まれながらの特異性や思考や感情から生まれる。それは、世界を動かす力だ」
火、水、風、土、闇の魔力も、生き物が生み出していくのだと言う。
「例えば闇の魔力は……生き物の負の感情が生み出す。辛い苦しいことがあった時に、世界に生まれる。光の魔力とは真逆だな。光の魔力は無心で他者をいたわる正の感情だ」
サース様の思考に合わせたように、私たちの前に、白色と黒色の魔力がクルクルと渦を巻く。
「魔力はいつでも生まれる。だが、その魔力は生まれたまま放置されるものではない。使われるんだ」
「使われる?」
「そうだ。魔法として。それが、俺の生きた魔法社会だ」
魔法社会――
詳しく知らなかったけれど、確かに毎日のように訪れていたあの世界には化学が発達している様子はなかった。
サースを初めて日本に連れて来たときに、高層ビル群にとても驚いていた。
「食事を作るのにも、湯を沸かすにも、荷を動かすのにも、物を作るにも、社会は魔法無しでは成立しない。人々は、生まれ持った適性のある魔法を使いこなし、社会に貢献していく」
サース様の言葉に合わせるように、目の前の情景に、テレビ画面のようにあの世界の人々の映像が流れていった。家庭の中で調理をするお母さん。箱に詰められた荷物が魔法で運ばれている。様々な物が作られている大きな工場のような場所。これはきっとサース様が見せてくれている映像なんだろう。
「魔法は、その魔力との親和性が高いものにしか使いこなせない。その肉体と心で、魔力を受け止められるものでなければ使えない。すると、当然のように、闇の魔法を使えるものが社会から減って行った」
とても、長い年月だったけれど、そうサース様は言う。
「闇の魔力を受け止めると、精神に負を抱える。心を病み死んで行くものが増えた。誰もが生理的に行いたくないと思うその作業を、いつしか社会から義務のように課せられたものだけが魔法として消化するようになった。だがそれでは闇の魔力の消化が追い付かない。それでも本来は追い付かなくても構わなかったんだ。なぜなら、例え闇の魔力だけが増えたとしても、光の魔力と相殺されるから。天秤が崩れたところで、増え過ぎた闇の魔力は光の魔力で抑えられるはずだった」
光と闇の魔力が拮抗している映像が映し出されていた。
「しかし……。光の魔力を生み出すものも減っていった。まるで謀ったように。社会を回す火、水、風、土の魔力は次々と消化されていくと言うのに。光が減る世界で、闇の魔力だけが世界を埋め尽くすように増えて行った」
映像が、学園の校舎になった。
教室の一角に、席に座るサース様が映っている。
表情を映さぬ瞳で窓の外を見つめていた。
「彼は――運命づけられた、ただの最後の一人だった」
サース様は自分の映像を『彼』と言った。
「取り返しがつかぬほど闇の魔力の飽和した世界で、他者にも世界にも一切の関心を向けずに、ただ一人で生きているのだと思い込んでいた詰まらぬ男が、最後に闇の魔力を『消化』する役割を背負わされた。飽和した全ての魔力を背負える力さえ、生まれ持っていた。まるで神にそう作られたかのように……。そうだろう。気配を殺している、ミュトラスの使いよ」
『その通りだよ。魔王』
――魔王。
ミューラーが彼をそう呼んだ。
私は心臓が止まりそうなほどドキリとした。
だって、ミュトラスの使いが、はっきりと、彼を魔王と呼んだのだ。
『世界が終わることは、ミュトラスの意思ではなかった。だけど、その流れはもう生き物によって作られてしまっていたんだ。最初で最後の魔王が生まれたのは、そこにたどり着いた時に必ず訪れる運命でしかなかった。だって僕たちは、光の魔力が増えるようにいつだって手助けをしていたっていうのにね』
ミュトラスは、光の魔力が増える手助けをしていた――
聖女に願いの力を授けていたミュトラスの意図を初めて知る。
呆然とサース様を見つめていると、彼は私に、少しだけ優しげな眼差しを向ける。
「ここは魔力の集合体……。生き物が全て朽ち果てた世界の、成れの果てだ。人が居なくなり、魔力だけとなった世界に、俺の意識だけが残る――」
俺は……と、サース様は私を見つめながら言った。
「闇の魔力の全てをこの身に引き受けたときに、神に運命づけられたかのように、世界を滅ぼした。俺の意思はそこにはなかった。ただ、神に――この世界に、そうなるように作られた傀儡だった」
この魔力だけが残った世界で……と、彼は続ける。
「魔力の全てをまるで王のように統べる……かつて人だったものの思念の残骸が、俺だ」
自分を魔王だと言う彼は……。
その言葉も声も表情も、世界の何よりも澄んでいるかのように美しかった。
今目の前に居るのは、ゲームの世界で垣間見たサース様ですらなかった。
サース様のように生きた人が……魔王となった、意識の残りなのだ。
「他に人など居ないと言うのに、王などと呼ぶとは、神の使いも皮肉を言う……」
私は何も言えなくなって、ただサース様――魔王――をまっすぐに見上げていた。
私の震える手に気が付いたのか、彼が両手で私の手を握ってくれた。
興味深げに私の手に視線を落としている。
「……何を悲しむ、聖女よ」
「もう、あなた一人しか……いないの?」
「いないな」
「おばあさまはどうやって……ここに来れたの?」
「願ったからだな……」
「何を……?」
彼は微笑を浮かべる。空気を震わせるように闇が美しく輝きだした。
「世界が滅びるそのとき、全ての魔力の渦の中に俺自身が溶け込み……俺は生まれてはじめて、光の魔力を心から受け止めた。人であった時にも欠片のようなものを感じたことがあったのかもしれないが、自覚出来るほどに感じたことはなかった。温かく心地よい魔力――それを感じたときに、自分の中に知らぬ感情が湧き上がった。そのはじめての感情は俺を思考をさせた。そして俺は人の形を失う最後の瞬間に、ただ一度だけ、心から願った」
「なにを……?」
「この哀しみを世界に与えないでくれ……と」
優しい声でそう言う、自らを魔王だと名乗るその人は、私の世界で一番大好きな人と何も変わらないように思えた。
愛など与えられず、孤独に生きて死んだその瞬間に、初めて受け止めた光の魔力――それは誰かから与えられたものですらなかったのに、温かく心地良かった……ただそれだけの理由で、死の間際に、世界の幸福を心から願ったのだと言う。
『まさか、魔王がミュトラスの力を使い、聖人になるなんて思わなかったよ』
ミューラーがいつものように軽い口調で言う。
「……そうか、ならば、それは神の意思ではなかったのだな」
魔王と名乗るその人も穏やかに答えるだけだ。
『世界の全ての魔力を受け持つものの願いだからね。それ相応の働きをさせてもらったよ』
「ほう」
『世界を再構築させるための布石を世界中に撒いた。もう、この世界だけでは終わる未来にしかたどり着けず閉じていたからね、双子世界から力を借りることにしたんだ。魔力を必要としていない社会で生きている、膨大な魔力を使いこなせる肉体を持つ、別の世界の人間たちをね』
「分かっていたのなら早くにやればよかろうに」
『僕たちは願われなければ動けないからね』
「使えぬな」
彼も軽口のように受け答えをする。もう、何も気にしていないかのように。
それを聞いている私は、思いが溢れて、言葉にならない。
何かを言うと泣き出してしまいそうな気がする。
何を言ったらいいのかも分からない。
少ししてから、私は絞り出すように言った。
「サース様は……魔王になって、聖人になったの?」
「そうだな」
「対価は……?ミュトラスの力を使ったら願いの対価が与えられるのでしょう?」
与えられたところで、人がもう居ないこの世界で一体何に使うと言うのだろう。
「使ったな」
彼は私の左手を持ち上げる。
「祖母のようなその人は、聖女の願いをなんらかの形で使いここにやってきたと言っていた。名前は確かに祖母の名だったが、まだ若い、婚姻前の少女だった。俺の事が分からないようだったので自分のことを多くは語らなかった。きっと、俺の願いの影響で歴史が変わった世界から来たのだろうと思った。彼女は俺と話し、そして言った。もう一度ここに来れる手段が欲しいと。俺は承諾すると願いを使い、そして彼女に言った。この指輪を持つものが願えば、一度だけここに連れて来ようと」
私は自分の左手の薬指の、虹色に輝く指輪を見つめた。
この指輪には、サースのおばあさまの願いと……そして、サース様――魔王――の二人の願いが込められていたのだと知った。
「わ、私……」
今日のことを思い出す。
私たちはギアン家に行った。
サースはお父様と話して、おじいさまの本を受け取った。
そこにはもしかしたら、ギアン家の謎が書かれているかもしれないと言っていた。
私はあの時……。
「ギアン家の謎が知りたかった。サースがこれからどうなるのか知りたかった。心からそう思ってた……だから?」
「……そうだな。そう思っていたのなら、ここに導かれただろう」
突然光り出した指輪。驚愕していたサースの表情。
あれは危険が迫っていた瞬間ではなく、願いが発動した光だったのだ。
そして私一人だけがここにやって来た。
(サースはきっと、消えた私を心配しているんだろうな……)
残して来た人たちが心配になる。
視線を落とすと、キラリと光る指輪が目に入った。
(おばあさまは何を願ったら、ここに辿り着けたのだろう……)
私はあれだけサースのために願いを使おうとしていたのに、きっと一人では来られなかったのだろう。
俯いてしまった私を、彼は覗き込むようにして私の顔を見つめた。
「ゲームの話をしよう。きっと……『俺』はもう知っているんだろう。だがお前は知らないのだろう」
「え?」
突然の台詞に頭が付いて行かない。
「ゲームはミュトラスの撒いた布石の一つとして作られたものなのだろう。それはただ選択肢を示していたに過ぎない。生きていた頃には分からなかったが、今の俺には分かることがある」
漆黒の瞳が私をまっすぐに見つめていた。
「攻略対象者の全てが、その世界の特別な存在だ」
特別な存在?
言葉の意味が私には分からなかった。
「特別って?」
私の台詞に、彼は「『俺』に聞いてみるといい」と答えた。
そして……と彼は続けて言った。
「もう一度言うが……皆に愛される聖女ならば、俺を魔王にすることもなく、世界を救うことが出来たかもしれないと、可能性を示していたにすぎないのだろう。『俺』を救うのはローザでなくてもいい、お前は横入りした訳でも選択肢を奪った訳でもなく、『俺』の唯一の聖女なんだろう」
心に染み入るような優しい口調で、彼は語る。
その台詞の意味を理解すると、私は全身を震わせた。
――横入りした訳でも選択肢を奪った訳でもなく、唯一の聖女なんだろう――
「えっ……?」
胸の奥の、一番深いところがズキリと痛むような気がする。
心臓が止まるんじゃないかと思った。
どうして彼が突然そう言い出したのかも分からなかったのに、一瞬で、まるで発作のように、私は動揺した。
「……な、なんで」
「……」
どうしてそんなことを言うのかと言いたかったのに、言葉にならない。
「わ、わたし……」
本当は……ずっと気にしていた。
生まれた世界の違う私が彼の隣に居てもいいのか分からなかった。
彼の世界に、彼の運命の相手が他にいるのではないかって。
私の恋心は、本当の彼の幸せを邪魔しているのではないかって――。
そばに居させてもらって、抱き締められて、幸福を知れば知るほど、私は泣きたくなっていった。
両目から涙がぼろりと溢れ出す。
慌てて手の甲でごしごしと涙をぬぐうのだけど、次から次へと涙が零れてくる。
心が苦しい。
……違う、本当はずっと苦しかった。
気が付かないふりをしていただけだ。
ずっと怖かった。
そうただ怖かったんだ。
私自身がサースが幸せになれる道を阻んでいるのではないかって。
心のどこかで……ローザ様のことも気にしていた。
彼と結ばれるのは彼女だったのではないかって。
だけれど……。
それは選択肢の一つに過ぎなかったのだと、今目の前の、滅びた世界の魔王が言う――。
涙は溢れ続け、かすれて見える世界の中に彼の姿を探した。
すると彼は……そっと両手を私の頬に添えると、形の良い指で涙を拭った。
ふと見えた彼の表情も、そしてそのしぐさも、全てが私を優しく包み込むようだった。
温かさにまだ涙がボロボロと溢れ出す。
涙を止めようと唇を噛んだら、彼は唇にも触れて来たので、私はびくりとした。
驚いて見上げると、世界の全てを詰め込んだかのような漆黒の瞳は、まっすぐに私を見つめている。
「俺の出会わなかった――少女よ」
この世界の魔王だと言う彼の声は、世界の全てを震わせる、心地いい音楽のように響いた。
「もう、お帰り――」
私は彼の瞳を見つめ返す。
私が帰ったら、この人はこのまま、この先もこの場所でいつまでも独りぼっちで過ごすのだ。
自分以外に誰も居ないこの場所で、全ての魔力を使いこなせるのに、その魔力は誰の為にも使うこともなく――
「帰り方が分からないよ……」
そう言う私の台詞に答えるように、彼は、私の首の後ろに手を回してきた。
私は一瞬、ひぅっと変な声を上げた。まさかサースみたいなことをされるとは思わなかった。
見守っていると、彼は私の首から、ペンダントが入っている小さな巾着袋を取ってくれていた。
「……ふっ」
サース様が、初めて、噴き出すように笑った。
その顔は、私が知っているサースにそっくりに見える。
「『俺』ならば、持たせているだろうと思ったが、本当に持たせているとは……。間違いなくもう一人の『俺』がいるんだな」
楽しそうにそう言うと、彼は巾着袋の中からペンダントを取り出し、鎖を外すと私を見つめた。
「帰り方が分からないんじゃない。帰りたくないと思っているんだろう。お前の使いこなせる魔力なら、ここに居るのも、帰るのも自在のはずだ。帰れないのなら、繋いでいる魔力を遮断すれば、元の世界に戻される」
そう言うと、鎖の両端を持った彼は、私をまるで抱き締めるように……両手を首に回して来た。
動作の意味を理解すると私は叫んだ。
「待って……待って!まだ、もう少し、帰りたくない……!!」
「……」
帰らなくちゃいけないことは分かっている。
サースが待っている。きっととても心配してくれている。
だけど、今目の前にいるサース様――魔王――も、サースと同じ匂いがするんだ。
同じ感触がするんだ。
同じだけの優しさを持っているんだ……。
私の愛している人と、何も変わらず、私の全てに幸福を感じさせてくれる人なんだ。
「あなたも……私の大好きなサースティー・ギアンなの……」
なのにこの人は、永遠にこの場所に一人取り残される。
私が元の世界に戻っても。
例えサースの運命を変えても。
この人はここで、ただ一人終わらぬ時を過ごすのだ。
「やだ……」
私は思わず目の前の彼の胸に抱き付いた。
そこはまるでいつもと変わらない、世界で一番大好きな場所のように思えた。
すると彼は、一瞬、ふわりと優しく触れるように、私を抱きしめてくれた。
そして次の瞬間、体を起こすと私の首の後ろに手を回した。
慌てて彼を見上げると、彼は微笑んで私を見下ろしている。
「世界は再構築される……。
いずれ全ての運命が塗り替わったとき、俺の意識は世界の魔力の中に溶けるのだろう。その時、俺は俺へと還るのだろう。還るべき場所で――もう一度、出会うことが出来た、その時には……」
彼は美しい顔を私の顔に近づけて来た。
長い睫毛も煌めく瞳も形の良い鼻筋も、すぐ目の前にあった。
唇が、もうすぐ、触れるのではないかと、思った。
「その時には俺を――」
彼がそう言ったその時、ペンダントが首にぽとんと落とされた。
ペンダントが付けられたその瞬間、私はまた、意識を失った――
「……砂里?」
サースの声が聞こえて来た。
目を開けると、目の前にサースの顔のどアップがあった。
美しいご尊顔、心配そうに私を見下ろす瞳、そして紛れもないサースの良い匂い、それは全て私の大好きな人のものだった。
そしてここは……西洋風の、豪華な部屋の中のようだった。
私はベッドの上に寝かされていて、サースが添い寝するようにそこに居る。
「……サース?」
眩暈がするように頭がクラクラする。
頭の中に、話していたばかりのサース様――魔王――の姿が浮かんで来て混乱する。
(彼は――最後に何て言っていた?)
「ああ。砂里、君は突然倒れたんだ。ここはギアン家の客間だ。大丈夫か?」
彼は確か、最後に言っていた。
――もう一度、出会うことが出来た、その時には俺を――
(俺を……その続きはなんて言うつもりだったんだろう……)
だけど言うつもりも無かったのかもしれない。彼は私を帰してしまった。
きっともう会うことも出来ないのかもしれない……。
「……砂里?」
あの人は今も――あの暗闇の世界に、独りぼっちで居る。
そう思うだけで胸が引き裂かれるようだった。
ガクン、と、体が揺れた。
急に肩を強い力で掴まれたのを感じた。
「砂里、大丈夫なのか!?」
「……え?」
ぼんやりと、目の前のサースの顔に焦点を合わせると、彼は真剣な表情で私を見つめていた。
額にうっすらと汗をかいているのが見える。
苦しそうに顔を歪めて、心から私を心配してくれているのが伝わって来た。
「……うん」
(サースだ……)
私の、世界で一番大好きな人。
長い時間を一緒に過ごして、少しずつ距離を近づけた、唯一の人。
そしていつしか私を求めてくれた彼が――ここに居る。
今目の前に居るのは、確かに私の知っているサースだと感じた。
だからこそ、サース様――魔王――は……もう居ないのだと、同じだけ感じた。
「サース……」
私は少しだけ体を起こし、飛びつくようにサースの首の後ろに手を回した。
「サース、サース、サース…………」
強い力で思い切り彼に抱き付いた。
温かくていい匂いがする。頬にあたる彼の髪の肌触りが気持ちいい。
大好きなサースがここに居る。
なのに……心の中は苦しくて哀しい気持ちでいっぱいだった。
「サース……サース……」
「どうしたんだ?砂里……」
サースが戸惑うように頭を撫でてくれる。
「どこか具合が悪いのか?」
「サース……」
名前を呼んでいるうちに、私は一体、誰を呼んでいるんだろうと不思議に思った。
サース、サース様、魔王……どれも彼であって、なのに同じ人ではないなんて――
「……サースっ!」
「……なんだ?」
今目の前に、私を愛してくれている彼がいるのに、私は悲しくて仕方がなくて、それをどう言葉にしたらいいのかが分からなかった。
気が付くと涙が溢れ出していた。
「砂里……?」
「……っ」
口に手をあてて、嗚咽を止めるようにしながらも、流れ続ける涙を抑えられなかった。
そうして、サースの優しい手で頭を撫でられているうちにそれはいつしか号泣へと変わっていった。
苦しい気持ちを吐き出すように泣き続けた。
泣いて泣いて泣いて。
この日、結局私は朝まで、サースの胸の中で泣いていたのだった。
(とは言え、今日は泊りになるって伝えてなかったから……。一度サースの魔法で家に帰り、パジャマに着替えてから、両親に顔を見られないように気を付けながらお休みの挨拶を伝えて、戻って来た。サースと一晩一緒に過ごしたけど、私はただ泣いていただけの日)
隣にサースが居るのに危険なことがある訳がないって……。
それに指輪はサースのおばあさまのものだった。
サースのおばあさまは、谷口くんやフリードさんが好きだったと言っていた方だ。
おばあさまの指輪が危険なものだなんてちっとも思っていなかった。
それに私には守りの加護がある。
聖女の願いを使って、ミューラーに付けてもらったものだ。
だから――
自分がたった一人で、皆からも引き離されて危険な目に遭うなんて、本当に思っていなかったんだ。
目を覚ました時そこは真っ暗な闇の中だった。
どんなに目を凝らしても何も見えて来ない。
そして、小さな音すら聴こえても来ない。
(……ここは?)
暗闇はそれだけで私の心を怯えさせる。
まるで宇宙に独りぼっちで放り出されたかのような気分だ。
ゆっくりと上半身を起き上がらせると、少しだけ考えた。
(何が起こったの?サース達はどこにいるんだろう。皆は無事なのかな……)
私は一人で、どうしたらいいんだろう。
(……もしも皆も闇に飲まれたなら、サースは……?)
サースは以前闇の魔力に飲み込まれそうになったことがあると言っていた。
彼に危険はないだろうか。
そう考えたら居ても立っても居られない気持ちになる。けれど、彼のところに飛んでもいいのかすら分からない。
私は顔を上げ、空間を少しだけ見上げるようにして言った。
「ミューラー……?」
ミューラーはミュトラスの使い。
その名前を口にするのは久しぶりの気がした。
『なんだいサリーナ』
暗闇の中に聞き覚えのある声が響いて来た。
すぐに返事が返って来たのはちょっと意外だったけれど、ミューラーの声は私を安心させる。
私は心を落ち着かせるように深呼吸をした。
ミューラーと話が出来るなら、もしかしたらなんとかなるのかもしれない。
「……守りの加護、発動しなかったみたいだよ?」
『危険も、脅かすものも、なかったんじゃないかな?』
ひょうひょうと答えたミューラーの言葉をちょっとだけ考えた。
(それは、今の私に危険がないということ……?)
そう思えたら、少しだけ冷静になれる。
だったらここはどこなんだろう。
「ミューラー、ここはどこなの?」
『ここは魔力の集合体……彼の意識の中だよ』
――『彼』
そう言われてギクリとした。この場所に他に誰かがいるのかと、慌てて顔を上げる。
『ここのことは、僕より彼に聞いた方が詳しいよ』
ミューラーは言った。
段々と暗闇に目が慣れて来たんだろうか。
それとも、ミューラーが彼と言ったから見えるようになったんだろうか。
まだよく分からないけれど、少し離れたところに、確かに人の気配を感じる。
人影が私たちに向かって歩いて来ている。
その人の周りには、何もかもを吸い込んでしまいそうに暗いこの空間の中でも、その暗闇が更にぎゅうっと濃縮されているかのような、圧倒的な魔力を感じる。
闇そのもののような風を纏いながら、その人は、だけれど夜空のように煌めいていた。
暗闇の中、星が宝石のように輝くように。
純粋な闇色の中でだからこそ、これ以上なく綺麗なものになれるかのように。
何よりも美しいその人を――私の瞳は確かに捉えていた。
揺れる長い黒髪は、辺りの闇に溶けるように揺れ動く。
深淵を映すかのような漆黒の瞳は、世界の全てを見透かすかのように聡明な色をしている。
全身に纏う闇をマントのようになびかせながら、何か大きな力の塊が動いているかのように、ゆっくりと長い足を動かしながら、均整の取れた美しい体躯が私の元へ訪れようとしていた。
(…………)
私は、今の気持ちを言葉にすることが出来ない。
サースに出会ってから色々なことがあったけれど、こんなにも驚いたのはこれが初めてだろうと思う。
その人は私の前で立ち止まると、無表情に私を見下ろした。
長い睫毛が少しだけ伏せられる。
整い過ぎた顔立ちも、陶器のような白い肌も、まるで美の化身のようだった。
纏う闇に連動するかのように、長い黒髪がひらひらと揺れている。
その美しい顔を、私は世界で誰よりも知っている。
「神の使いが騒がしいと思ったら……」
その人の形の良い唇が動くと、空気に溶けるような美しい声が響いた。
「珍客か」
その人はそう言うと、その美しい手を私に差し出した。
私は思わず――条件反射でその手を握ってしまう。
するとその人は私を立ち上がらせ、ふらついた私を何気なく両腕で抱きとめてくれた。
とても良い匂いがする。
良く知っている匂い。甘さの中に苦さが香る、だけれど柑橘系の爽やかさも欠かさない、絶妙なバランスで配合された香水のような匂い。
私は衝動的に手を伸ばし、その人の胸に触れた。
服の上からの弾力感。温かさも固さも、いつもと何も変わらないように思える。
最後に、目の前の彼の黒髪に顔を寄せた。
フンフンと匂いを嗅いでみる。
独自に生み出されたかのようなこの髪の匂いも、今日もこっそり嗅いだばかりのものと変わらないように思える。
私はそろりと顔を上げる。
輝くような黒髪を持つ、漆黒の瞳の美しい人が、無表情に私を見下ろしていた。
(――違う)
こんなにもそっくりなのに。
私の全身を幸福で満たす、あの人が持っているものを同じように持っている人なのに。
この人は私を見つけても、緊張が解けるときのようにふわりと笑ったりはしない。
私を見つめる瞳を、優しく細めたりしない。
激しく私を求めるように抱き締めたりはしない――
「……サース様?」
私は無意識にその名を口にしていた。
この人は、まるでゲームの中で知っていたサース様にそっくりに思える。
私の台詞に少しだけ考えるようにしてから彼は言った。
「俺を知っているのか……?」
サースにそっくりなその人は、私の左手を握ると顔の前に持ち上げた。
「祖母の指輪をはめる少女、か」
ならば、とその人は続けて言う。
「お前は――
俺が出会わなかった少女なのか………」
無表情な顔を少しだけ緩ませるように、その人は言った――
その暗闇のような空間で、私たちは二人座り込んで、長い話をした。
お互いのことを説明しあう。
私から、自分のことを彼に話した。
彼は少しだけ面白そうに私の話を聞いていた。
異世界で発売されていたゲームのこと。そしてその内容。
サースに恋をしてやってきた聖女の私のこと。
魔王フラグを折るために奮闘していたこと。
サースを私の世界に連れて来たこと。
二人の力を合わせて、仲間とともに、生き残れる道を探していたこと。
私の話を聞き終わった彼は、少しだけ考える時間を置いてから、美しい声を響かせる。
「ある日、ここにその指輪をはめた祖母がやってきたんだ……」
驚いたよ、と彼は言った。
「この場所に人など来られる訳がなかった。ましてや、やって来たのは俺が知っている祖母では無いようだった」
この暗闇の空間にやって来たという事なんだろうか。
私は話の続きを待った。
「俺の祖母は、婚姻後、子を産むとまもなく精神と身体を壊し亡くなったと聞いている。祖父と祖母の愛のない結婚生活を伝え聞いていた。だが彼女は、しきりにリオール・ギアンの身を案じていた」
この指輪の持ち主であるサースのおばあさまは、早くに亡くなっていた?
(あれ……。でも確かライくんとフリードさんが言っていた。サースのおじいさまとおばあさまはとても仲が良く、愛し合っていて、孫世代のライくんのことも可愛がってくれたって。そんなに早くに亡くなっていたとは思えなかったけど……)
驚いて彼を見つめる。
「俺の知っている世界では存在しないだろう祖母がやってきて……そして」
吸い込まれそうな黒い瞳が私をまっすぐに見つめて言った。
「祖母に導かれた、お前がやって来た――」
そっと、形の良い指が私の頬に触れた。
そして彼は――美しい微笑を浮かべた。
本物の暗闇の中ではじめて輝ける星のように、研ぎ澄まされたような美を煌めかせる。
「――神は叶えたか」
独り言のように、微かに呟いた。
それから少しだけ、その人は自分のことを話してくれた。
その人は高等部2年生の時に闇の魔力に飲み込まれ、それからずっとこの場所に居るのだと言う。
私に会ったことはなく、ローザ様と恋愛関係でも無かったそうだ。
また、彼にはローザ様はアラン様と付き合っているように見えたと言う。
私は頭の中を整理するように少し考えた。
(そうすると……ゲームのルートで例えると、この人は、アラン様ルートのバッドエンドを進んだ人だという事になるの?)
それならば本当に、この人は、私のサースとは別の人なんだ。
私を忘れているわけでも、出会う前のサースでもなくて、別の選択肢を進んだ人……。
「あの……」
話しかけようとして戸惑う。
なんて呼びかけたらいいのか迷ってしまう。
「サース様……って呼んでもいいですか?」
「構わないが……お前は?」
「サリーナ・リタです……」
この名前で良いんだろうかと思いながらも、日本名は分かりにくいかもと思い偽名にする。
「サリーナか……」
美しい声が私を呼んだ。
名前を呼ばれるだけで、こんな時なのに、無駄にズキュンと来てしまう私がいる……。
「お前の言うゲームはそもそも、俺の生きて来た世界では存在がなかったはずだ」
やけにはっきりとサース様は言った。
「ゲームの中で、俺の選択肢の一つに、魔王にならない道があると言ったが」
「はい」
「それは可能性を示していたんだろう。皆に愛される聖女ならば、俺を魔王にすることもなく、世界を救うことが出来たかもしれないと」
「え?」
(可能性を示していた?)
驚いて彼の瞳を見つめると、少しだけ口角を上げた笑みが返された。
あまりの美しさと色っぽさにドキドキと鼓動が早くなり、もはや心臓が痛くなった。
サース様の微笑みが少しずつ増えて行く……。
赤面しながらそんなことを思う。
サース様は立ち上がると私の手を引いて立ち上がらせる。
「おいで……説明しよう」
彼は私の手を引きながら、この世界のことを語ってくれた。
「ここは魔力の集合体の中だ」
「集合体?」
「そうだな……見せるのが早い。魔力には種類がある。火、水、風、土、光、そして闇……」
その人が語る言葉に合わせるように、暗闇の世界に様々な色が浮かび上がって来た。
赤色、水色、緑色、黄色、白色、黒色……。
色とりどりの魔力の色が渦を巻くようにして消えていく。
「今この場所は全ての魔力が混在された、魔力だけの世界だ」
「魔力だけ……?」
「そうだ。お前にも見えないか?様々な色の魔力が渦巻き合っている」
さっき、ミューラーの言葉でもそうだったけれど、見える、と言われると不思議と見えてくる。
急に、ただ暗闇一色の世界だと思っていた場所が、様々な色が塗り重なって出来ている場所なのだと分かった。
「魔力は、強く弱く、常に揺れ動いている。増えては膨み、しぼんでは消える。その力の動きに終わりはない」
サース様は、世界の全てを知っているかのような聡明な瞳を、魔力が揺れ動く世界に向けている。
「人の姿では世界が魔力の渦で構成されていることは見えない。それは、ただそういうものだからだ。だが、人の身でも微塵だが魔力が感じられただろう……」
魔力は確かに感じることが出来た。
サースが私に送り込んでくれた闇の魔力を知っている。
頷くと、サース様は話を続けてくれた。
「そうだ。見えなくても感じていたはずだ。皆、本当は、心の底では知っていて、気が付かないふりをしていただけだ。自分がやらなくても誰かがやると。日常は変わらず続くのだと疑うこともなく。それは、俺も例外ではない」
陰りのある表情をしたサース様は、何かを思い出すように視線を伏せた。
「人の営みの根幹に魔力が据えられた世界で、その魔力の天秤が崩れていることを、知っているものも居ただろう。声を上げたものも居ただろう。想像よりも多くの者が天秤の修復に挑んだのだろう。だけれど、世界は、大多数の者が気が付かないふりをしていたうちに、終わりを告げた――」
――『世界は、終わりを告げた』――
私はサース様のその言葉に、息を飲む。
(それは……彼の世界は終わったと言うことなのだろうか)
「例えば光の魔力は……聖女の願いが生み出す」
サース様は優しい声で説明を続けてくれる。
「魔力は、生き物が生み出すものなんだ。生まれながらの特異性や思考や感情から生まれる。それは、世界を動かす力だ」
火、水、風、土、闇の魔力も、生き物が生み出していくのだと言う。
「例えば闇の魔力は……生き物の負の感情が生み出す。辛い苦しいことがあった時に、世界に生まれる。光の魔力とは真逆だな。光の魔力は無心で他者をいたわる正の感情だ」
サース様の思考に合わせたように、私たちの前に、白色と黒色の魔力がクルクルと渦を巻く。
「魔力はいつでも生まれる。だが、その魔力は生まれたまま放置されるものではない。使われるんだ」
「使われる?」
「そうだ。魔法として。それが、俺の生きた魔法社会だ」
魔法社会――
詳しく知らなかったけれど、確かに毎日のように訪れていたあの世界には化学が発達している様子はなかった。
サースを初めて日本に連れて来たときに、高層ビル群にとても驚いていた。
「食事を作るのにも、湯を沸かすにも、荷を動かすのにも、物を作るにも、社会は魔法無しでは成立しない。人々は、生まれ持った適性のある魔法を使いこなし、社会に貢献していく」
サース様の言葉に合わせるように、目の前の情景に、テレビ画面のようにあの世界の人々の映像が流れていった。家庭の中で調理をするお母さん。箱に詰められた荷物が魔法で運ばれている。様々な物が作られている大きな工場のような場所。これはきっとサース様が見せてくれている映像なんだろう。
「魔法は、その魔力との親和性が高いものにしか使いこなせない。その肉体と心で、魔力を受け止められるものでなければ使えない。すると、当然のように、闇の魔法を使えるものが社会から減って行った」
とても、長い年月だったけれど、そうサース様は言う。
「闇の魔力を受け止めると、精神に負を抱える。心を病み死んで行くものが増えた。誰もが生理的に行いたくないと思うその作業を、いつしか社会から義務のように課せられたものだけが魔法として消化するようになった。だがそれでは闇の魔力の消化が追い付かない。それでも本来は追い付かなくても構わなかったんだ。なぜなら、例え闇の魔力だけが増えたとしても、光の魔力と相殺されるから。天秤が崩れたところで、増え過ぎた闇の魔力は光の魔力で抑えられるはずだった」
光と闇の魔力が拮抗している映像が映し出されていた。
「しかし……。光の魔力を生み出すものも減っていった。まるで謀ったように。社会を回す火、水、風、土の魔力は次々と消化されていくと言うのに。光が減る世界で、闇の魔力だけが世界を埋め尽くすように増えて行った」
映像が、学園の校舎になった。
教室の一角に、席に座るサース様が映っている。
表情を映さぬ瞳で窓の外を見つめていた。
「彼は――運命づけられた、ただの最後の一人だった」
サース様は自分の映像を『彼』と言った。
「取り返しがつかぬほど闇の魔力の飽和した世界で、他者にも世界にも一切の関心を向けずに、ただ一人で生きているのだと思い込んでいた詰まらぬ男が、最後に闇の魔力を『消化』する役割を背負わされた。飽和した全ての魔力を背負える力さえ、生まれ持っていた。まるで神にそう作られたかのように……。そうだろう。気配を殺している、ミュトラスの使いよ」
『その通りだよ。魔王』
――魔王。
ミューラーが彼をそう呼んだ。
私は心臓が止まりそうなほどドキリとした。
だって、ミュトラスの使いが、はっきりと、彼を魔王と呼んだのだ。
『世界が終わることは、ミュトラスの意思ではなかった。だけど、その流れはもう生き物によって作られてしまっていたんだ。最初で最後の魔王が生まれたのは、そこにたどり着いた時に必ず訪れる運命でしかなかった。だって僕たちは、光の魔力が増えるようにいつだって手助けをしていたっていうのにね』
ミュトラスは、光の魔力が増える手助けをしていた――
聖女に願いの力を授けていたミュトラスの意図を初めて知る。
呆然とサース様を見つめていると、彼は私に、少しだけ優しげな眼差しを向ける。
「ここは魔力の集合体……。生き物が全て朽ち果てた世界の、成れの果てだ。人が居なくなり、魔力だけとなった世界に、俺の意識だけが残る――」
俺は……と、サース様は私を見つめながら言った。
「闇の魔力の全てをこの身に引き受けたときに、神に運命づけられたかのように、世界を滅ぼした。俺の意思はそこにはなかった。ただ、神に――この世界に、そうなるように作られた傀儡だった」
この魔力だけが残った世界で……と、彼は続ける。
「魔力の全てをまるで王のように統べる……かつて人だったものの思念の残骸が、俺だ」
自分を魔王だと言う彼は……。
その言葉も声も表情も、世界の何よりも澄んでいるかのように美しかった。
今目の前に居るのは、ゲームの世界で垣間見たサース様ですらなかった。
サース様のように生きた人が……魔王となった、意識の残りなのだ。
「他に人など居ないと言うのに、王などと呼ぶとは、神の使いも皮肉を言う……」
私は何も言えなくなって、ただサース様――魔王――をまっすぐに見上げていた。
私の震える手に気が付いたのか、彼が両手で私の手を握ってくれた。
興味深げに私の手に視線を落としている。
「……何を悲しむ、聖女よ」
「もう、あなた一人しか……いないの?」
「いないな」
「おばあさまはどうやって……ここに来れたの?」
「願ったからだな……」
「何を……?」
彼は微笑を浮かべる。空気を震わせるように闇が美しく輝きだした。
「世界が滅びるそのとき、全ての魔力の渦の中に俺自身が溶け込み……俺は生まれてはじめて、光の魔力を心から受け止めた。人であった時にも欠片のようなものを感じたことがあったのかもしれないが、自覚出来るほどに感じたことはなかった。温かく心地よい魔力――それを感じたときに、自分の中に知らぬ感情が湧き上がった。そのはじめての感情は俺を思考をさせた。そして俺は人の形を失う最後の瞬間に、ただ一度だけ、心から願った」
「なにを……?」
「この哀しみを世界に与えないでくれ……と」
優しい声でそう言う、自らを魔王だと名乗るその人は、私の世界で一番大好きな人と何も変わらないように思えた。
愛など与えられず、孤独に生きて死んだその瞬間に、初めて受け止めた光の魔力――それは誰かから与えられたものですらなかったのに、温かく心地良かった……ただそれだけの理由で、死の間際に、世界の幸福を心から願ったのだと言う。
『まさか、魔王がミュトラスの力を使い、聖人になるなんて思わなかったよ』
ミューラーがいつものように軽い口調で言う。
「……そうか、ならば、それは神の意思ではなかったのだな」
魔王と名乗るその人も穏やかに答えるだけだ。
『世界の全ての魔力を受け持つものの願いだからね。それ相応の働きをさせてもらったよ』
「ほう」
『世界を再構築させるための布石を世界中に撒いた。もう、この世界だけでは終わる未来にしかたどり着けず閉じていたからね、双子世界から力を借りることにしたんだ。魔力を必要としていない社会で生きている、膨大な魔力を使いこなせる肉体を持つ、別の世界の人間たちをね』
「分かっていたのなら早くにやればよかろうに」
『僕たちは願われなければ動けないからね』
「使えぬな」
彼も軽口のように受け答えをする。もう、何も気にしていないかのように。
それを聞いている私は、思いが溢れて、言葉にならない。
何かを言うと泣き出してしまいそうな気がする。
何を言ったらいいのかも分からない。
少ししてから、私は絞り出すように言った。
「サース様は……魔王になって、聖人になったの?」
「そうだな」
「対価は……?ミュトラスの力を使ったら願いの対価が与えられるのでしょう?」
与えられたところで、人がもう居ないこの世界で一体何に使うと言うのだろう。
「使ったな」
彼は私の左手を持ち上げる。
「祖母のようなその人は、聖女の願いをなんらかの形で使いここにやってきたと言っていた。名前は確かに祖母の名だったが、まだ若い、婚姻前の少女だった。俺の事が分からないようだったので自分のことを多くは語らなかった。きっと、俺の願いの影響で歴史が変わった世界から来たのだろうと思った。彼女は俺と話し、そして言った。もう一度ここに来れる手段が欲しいと。俺は承諾すると願いを使い、そして彼女に言った。この指輪を持つものが願えば、一度だけここに連れて来ようと」
私は自分の左手の薬指の、虹色に輝く指輪を見つめた。
この指輪には、サースのおばあさまの願いと……そして、サース様――魔王――の二人の願いが込められていたのだと知った。
「わ、私……」
今日のことを思い出す。
私たちはギアン家に行った。
サースはお父様と話して、おじいさまの本を受け取った。
そこにはもしかしたら、ギアン家の謎が書かれているかもしれないと言っていた。
私はあの時……。
「ギアン家の謎が知りたかった。サースがこれからどうなるのか知りたかった。心からそう思ってた……だから?」
「……そうだな。そう思っていたのなら、ここに導かれただろう」
突然光り出した指輪。驚愕していたサースの表情。
あれは危険が迫っていた瞬間ではなく、願いが発動した光だったのだ。
そして私一人だけがここにやって来た。
(サースはきっと、消えた私を心配しているんだろうな……)
残して来た人たちが心配になる。
視線を落とすと、キラリと光る指輪が目に入った。
(おばあさまは何を願ったら、ここに辿り着けたのだろう……)
私はあれだけサースのために願いを使おうとしていたのに、きっと一人では来られなかったのだろう。
俯いてしまった私を、彼は覗き込むようにして私の顔を見つめた。
「ゲームの話をしよう。きっと……『俺』はもう知っているんだろう。だがお前は知らないのだろう」
「え?」
突然の台詞に頭が付いて行かない。
「ゲームはミュトラスの撒いた布石の一つとして作られたものなのだろう。それはただ選択肢を示していたに過ぎない。生きていた頃には分からなかったが、今の俺には分かることがある」
漆黒の瞳が私をまっすぐに見つめていた。
「攻略対象者の全てが、その世界の特別な存在だ」
特別な存在?
言葉の意味が私には分からなかった。
「特別って?」
私の台詞に、彼は「『俺』に聞いてみるといい」と答えた。
そして……と彼は続けて言った。
「もう一度言うが……皆に愛される聖女ならば、俺を魔王にすることもなく、世界を救うことが出来たかもしれないと、可能性を示していたにすぎないのだろう。『俺』を救うのはローザでなくてもいい、お前は横入りした訳でも選択肢を奪った訳でもなく、『俺』の唯一の聖女なんだろう」
心に染み入るような優しい口調で、彼は語る。
その台詞の意味を理解すると、私は全身を震わせた。
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胸の奥の、一番深いところがズキリと痛むような気がする。
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「……」
どうしてそんなことを言うのかと言いたかったのに、言葉にならない。
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本当は……ずっと気にしていた。
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「もう、お帰り――」
私は彼の瞳を見つめ返す。
私が帰ったら、この人はこのまま、この先もこの場所でいつまでも独りぼっちで過ごすのだ。
自分以外に誰も居ないこの場所で、全ての魔力を使いこなせるのに、その魔力は誰の為にも使うこともなく――
「帰り方が分からないよ……」
そう言う私の台詞に答えるように、彼は、私の首の後ろに手を回してきた。
私は一瞬、ひぅっと変な声を上げた。まさかサースみたいなことをされるとは思わなかった。
見守っていると、彼は私の首から、ペンダントが入っている小さな巾着袋を取ってくれていた。
「……ふっ」
サース様が、初めて、噴き出すように笑った。
その顔は、私が知っているサースにそっくりに見える。
「『俺』ならば、持たせているだろうと思ったが、本当に持たせているとは……。間違いなくもう一人の『俺』がいるんだな」
楽しそうにそう言うと、彼は巾着袋の中からペンダントを取り出し、鎖を外すと私を見つめた。
「帰り方が分からないんじゃない。帰りたくないと思っているんだろう。お前の使いこなせる魔力なら、ここに居るのも、帰るのも自在のはずだ。帰れないのなら、繋いでいる魔力を遮断すれば、元の世界に戻される」
そう言うと、鎖の両端を持った彼は、私をまるで抱き締めるように……両手を首に回して来た。
動作の意味を理解すると私は叫んだ。
「待って……待って!まだ、もう少し、帰りたくない……!!」
「……」
帰らなくちゃいけないことは分かっている。
サースが待っている。きっととても心配してくれている。
だけど、今目の前にいるサース様――魔王――も、サースと同じ匂いがするんだ。
同じ感触がするんだ。
同じだけの優しさを持っているんだ……。
私の愛している人と、何も変わらず、私の全てに幸福を感じさせてくれる人なんだ。
「あなたも……私の大好きなサースティー・ギアンなの……」
なのにこの人は、永遠にこの場所に一人取り残される。
私が元の世界に戻っても。
例えサースの運命を変えても。
この人はここで、ただ一人終わらぬ時を過ごすのだ。
「やだ……」
私は思わず目の前の彼の胸に抱き付いた。
そこはまるでいつもと変わらない、世界で一番大好きな場所のように思えた。
すると彼は、一瞬、ふわりと優しく触れるように、私を抱きしめてくれた。
そして次の瞬間、体を起こすと私の首の後ろに手を回した。
慌てて彼を見上げると、彼は微笑んで私を見下ろしている。
「世界は再構築される……。
いずれ全ての運命が塗り替わったとき、俺の意識は世界の魔力の中に溶けるのだろう。その時、俺は俺へと還るのだろう。還るべき場所で――もう一度、出会うことが出来た、その時には……」
彼は美しい顔を私の顔に近づけて来た。
長い睫毛も煌めく瞳も形の良い鼻筋も、すぐ目の前にあった。
唇が、もうすぐ、触れるのではないかと、思った。
「その時には俺を――」
彼がそう言ったその時、ペンダントが首にぽとんと落とされた。
ペンダントが付けられたその瞬間、私はまた、意識を失った――
「……砂里?」
サースの声が聞こえて来た。
目を開けると、目の前にサースの顔のどアップがあった。
美しいご尊顔、心配そうに私を見下ろす瞳、そして紛れもないサースの良い匂い、それは全て私の大好きな人のものだった。
そしてここは……西洋風の、豪華な部屋の中のようだった。
私はベッドの上に寝かされていて、サースが添い寝するようにそこに居る。
「……サース?」
眩暈がするように頭がクラクラする。
頭の中に、話していたばかりのサース様――魔王――の姿が浮かんで来て混乱する。
(彼は――最後に何て言っていた?)
「ああ。砂里、君は突然倒れたんだ。ここはギアン家の客間だ。大丈夫か?」
彼は確か、最後に言っていた。
――もう一度、出会うことが出来た、その時には俺を――
(俺を……その続きはなんて言うつもりだったんだろう……)
だけど言うつもりも無かったのかもしれない。彼は私を帰してしまった。
きっともう会うことも出来ないのかもしれない……。
「……砂里?」
あの人は今も――あの暗闇の世界に、独りぼっちで居る。
そう思うだけで胸が引き裂かれるようだった。
ガクン、と、体が揺れた。
急に肩を強い力で掴まれたのを感じた。
「砂里、大丈夫なのか!?」
「……え?」
ぼんやりと、目の前のサースの顔に焦点を合わせると、彼は真剣な表情で私を見つめていた。
額にうっすらと汗をかいているのが見える。
苦しそうに顔を歪めて、心から私を心配してくれているのが伝わって来た。
「……うん」
(サースだ……)
私の、世界で一番大好きな人。
長い時間を一緒に過ごして、少しずつ距離を近づけた、唯一の人。
そしていつしか私を求めてくれた彼が――ここに居る。
今目の前に居るのは、確かに私の知っているサースだと感じた。
だからこそ、サース様――魔王――は……もう居ないのだと、同じだけ感じた。
「サース……」
私は少しだけ体を起こし、飛びつくようにサースの首の後ろに手を回した。
「サース、サース、サース…………」
強い力で思い切り彼に抱き付いた。
温かくていい匂いがする。頬にあたる彼の髪の肌触りが気持ちいい。
大好きなサースがここに居る。
なのに……心の中は苦しくて哀しい気持ちでいっぱいだった。
「サース……サース……」
「どうしたんだ?砂里……」
サースが戸惑うように頭を撫でてくれる。
「どこか具合が悪いのか?」
「サース……」
名前を呼んでいるうちに、私は一体、誰を呼んでいるんだろうと不思議に思った。
サース、サース様、魔王……どれも彼であって、なのに同じ人ではないなんて――
「……サースっ!」
「……なんだ?」
今目の前に、私を愛してくれている彼がいるのに、私は悲しくて仕方がなくて、それをどう言葉にしたらいいのかが分からなかった。
気が付くと涙が溢れ出していた。
「砂里……?」
「……っ」
口に手をあてて、嗚咽を止めるようにしながらも、流れ続ける涙を抑えられなかった。
そうして、サースの優しい手で頭を撫でられているうちにそれはいつしか号泣へと変わっていった。
苦しい気持ちを吐き出すように泣き続けた。
泣いて泣いて泣いて。
この日、結局私は朝まで、サースの胸の中で泣いていたのだった。
(とは言え、今日は泊りになるって伝えてなかったから……。一度サースの魔法で家に帰り、パジャマに着替えてから、両親に顔を見られないように気を付けながらお休みの挨拶を伝えて、戻って来た。サースと一晩一緒に過ごしたけど、私はただ泣いていただけの日)
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