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希望の子
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「わたしはずっと姉に謝りたかったんだよ」
モトチョーは静かに言った。おれたちはぬるくなったスイカを持ったまま、黙ってモトチョーの話に耳を傾けていた。ヒグラシの声がやけに大きく聞こえた。
「もし姉が生きていたら、どんな大人になったろう? 姉の人生には、どんな幸せがあったろう? 姉は愛情深い人だった。きっとたくさんの愛情が投げ返されて、誰よりも幸せになれたに違いない。その、姉が味わうはずだったものを、わたしが奪い取った。わたしが姉を死なせた……その想いが消えることはなかったよ」
「ユウコさん……じゃないや、豊子さんは、ずっとモトチョーのことばっかり心配してました」
おれは言った。
「まだ小さくて、いつもお腹空かせて泣いてたって……自分が死んだあと、どうしただろうって……自分の名前も、生きてたときのことも忘れちゃったのに、モトチョーのことだけは覚えてたみたいです」
「そうか……」
モトチョーは噛みしめるみたいに呟いた。
「姉は亡くなって、ようやく苦労から解放されたものと思っていたんだが、まだ七十年以上もわたしのことで心配をかけていたのか……」
「モトチョーは豊子さんが亡くなったあとどうしたんですか? 」
大夢が聞いた。モトチョーは遠くにあるものを見るような、ぼんやりした目で昔を思い出しているみたいだった。
「姉が亡くなったあと、すぐに戦争が終わってね……そう、本当に、すぐだ。戦争が終わったのが、八月。姉が亡くなったのは、同じ年の七月の終わり近くのことだった。東京の家は空襲ですっかり焼けてしまっていたが、幸い両親は無事だったから、わたしたちは姉のお骨と一緒に東京へ戻ったんだ。わたしは学校へ上がり、自分で言うのもなんだが、猛勉強した。どうしても、学校の先生になりたかったんだ。東京の学校に勤めようかとも思ったんだが、姉が倒れた畑を親戚が県に売り払って、そこに新しく学校ができるというんで、こちらで採用試験を受けたんだよ。お骨は東京にあるのにおかしな話だが、姉が亡くなった土地で立派な先生になれば、姉が見ていてくれる、喜んでくれる、とどこかで思っていたのかもしれない。君たちが旧校舎で姉に会ったということを考えれば、それはあながち間違いじゃなかった、ということになるかな? 」
「ずっとおれたちの学校で先生をやってたんですか? 」
とおれは聞いた。モトチョーは首を横に振った。
「いや、しばらくは別の学校に勤めていたんだ。何度か転勤を経験してやっと希望が叶ったんだが、その頃はもう新校舎ができていて、旧校舎にはロクに足を踏み入れないまま、七年でまた転勤になってしまった。もう一度戻ってきたのは校長になったときだった――教員生活の最後がこの学校かと、不思議な縁を感じたのを覚えているよ」
おれたちはなるほどと思った。モトチョーは、豊子さんの近くにずっといたんだ。でも、豊子さんは大人になったモトチョーを見ても、自分の弟だなんて思わなかったんだろう――自分が死んでどのくらい時間が経ったのか正確には分かってなかったに違いないし、豊子さんの中ではモトチョーは小さい〈トモちゃん〉のままで止まってしまっていたんだ。豊子さん本人の時間が十五歳で止まってしまったときから、ずっと。
「実は、学校の先生になりたいというのは、姉の夢だったんだよ」
とモトチョーは言った。
「小学校の先生になって、オルガンを弾いてあげたい。いつか戦争が終わったら、やりたいことがなんでもできる世の中になったら、たくさんの子どもに自分の夢を叶える力をつけてやりたい。どんなことにでも自分の意見を堂々と述べられるように――それは姉自身の願いだったんだろう。姉は本が好きだったが、当時は読める本も制限されていたし、国に対して不平不満を漏らそうものならどんな目に遭わされるか分からないような世の中だった」
「だから、豊子さんはモトチョーのことを可愛がったんじゃないですか? 」
大夢が神妙に言った。
「みんなが下を向いて黙ってるしかなかった――それは、みんなが自分自身に嘘をついていたってことですよね。でも、小さい子どもにはそんなこと関係ない。嫌なら嫌だと言うし、お腹が空いたらお腹が空いた、と言う。みんな、それが本当のことだから……認めてしまうと耐えられなくなるから、黙らせようとするけど。それって、変ですよね。みんなが耐えられないと思ってるんだったら、それで本当のこと言ってる人を悪者にするくらいなら、そんなのやめるべきなんだ。……豊子さんは、それを分かってたんじゃないかな。だから、モトチョーの〈本音〉だけは、守りたかったんじゃないでしょうか――自分の〈本音〉を、守るみたいに」
そうかもしれない、とおれは思った。おれたちはみんな、自分が本当に思っていることを〈みんなのために〉ってだんだんと口に出さなくなっていくけど、みんなが本音を隠して無理して生きているのが、本当に〈みんなのため〉になるんだろうか?
自分のやりたいことを自由にやる。思ったことを言う。それって、そんなに〈わがまま〉なことなんだろうか? それを〈わがまま〉だと言って人を責めるくらいなら、自分だって自分のやりたいことをやればいいじゃないか? ………
「そうだね。その通りだ………それに、これは現代にも存在する問題なんだ」
モトチョーは静かに頷いた。
「自分の〈本音〉に、正直であること――これは、とても勇気のいることだ。わたしたちは大人になる途中で、この勇気をへし折られたり、恐怖に負けて自分で手放してしまったりする……ときには、何かを望むことすら恐れるようになる。そして、いつまでもその勇気を持っているものを嘲笑い、叱責し、軽蔑するようになる。いい加減大人になれ、なんて言ってね。自分自身を自由にする勇気を持たないものほど、そうやって他人に構う。そして、相手を自分と同じ境遇に下ろそうとするんだ。自分と同じ、窮屈な〈大人〉に」
モトチョーはひと息入れた。それから、今度はいくらか明るい口ぶりで続けた。
「さっきも話したとおり、わたしは姉に死なれてから〈わがまま〉な態度を取らなくなったんだが、じきに姉が命をかけて守ってくれたものがわたしの命だけではないことに気がついた――姉がわたしの〈本音〉を許しながら育ててくれたおかげで、わたしは本質的に望みを持つことを恐れない人間になっていたんだ。こんな願いが、叶うわけない――そう言って最初から何かをあきらめたことは一度もない。そして、あらゆる場面で〈本音〉を表に出したことで、望んだことの結果がどうなろうと、すべて自分の責任でその結果を引き受ければいいのだ、ということも次第に学ぶことができた」
「望んだことの結果がどうなろうと? 」
勝が首を傾げた。モトチョーは苦笑いした。
「わたしが〈本音〉で臨んだことを、受け入れてくれる人ばかりではなかったということさ。そして、それは当然のことだ。世の中の人は、みんなそれぞれ違った〈本音〉を持っているからね」
モトチョーは、おれたちの前に人差し指をぴんと立てた、多分、生徒を教えていたときも、そうやってたんだろう。そんな雰囲気のある仕草だった。
「たとえば、君たちが一緒に遊びに出かける約束をしたとしよう。だが、三人いる中で、自分だけ行きたい場所が違った――さあ、どうする? 」
「うーん……」
勝はおれたちを見ながら考えていたが、しばらくして言った。
「まあ、一応おれの行きたい場所のことも、相談してみる……かな? うーん、でも、ふたりが行きたいところが一緒なんだったら、別にそっちでもいいけど」
「僕も」
と大夢(「オカルトが絡んでなければだろ」と勝が言った)。おれも、頷いた。じゃあ次はこっちな、とは言うかもしれないけど。モトチョーは楽しそうに頷いた。
「なるほど。その場合の結果は、他のふたりの意見を受け入れる、ということになる。君たちは自分でその結果を選び取ったのだと自覚しなければいけない。自分が行きたいところには行かれなかったことを、他のふたりのせいにしてはいけないんだ」
「多数決なのに? 仕方ないな、って思っちゃだめってことですか? 」
大夢が聞いた。モトチョーは頷いた。
「そうとも。ふたりの意見に合わせるという以外にも選択肢はあったのに、君たちは選ばなかったんだから――仕方ない譲ってやるか……と思ったとしても、実は仕方のないことではない」
「でも、他の選択肢って………なんだ? 話し合うとか? 」
自分で言っておいて、勝は微妙な顔をした。勝はガキ大将みたいなポジションにいるわりに喧嘩っ早いやつじゃないから、〈相手をぶっ飛ばして言うこときかす〉みたいな発想はないんだろうけど、だからって話し合うほどじゃねえよな、とその顔は言っていた。でも、モトチョーは頷いた。
「徹底討論、それもある。それにたとえば……どうしても行きたいと言い張るとか」
勝はますます変な顔をした。おれと大夢も、反応としては似たようなものだった。まさかそんな、小さい子どもじゃあるまいし。
「出かける場所くらいのことで、そんなみっともねえことしねえよ」
「そうだな。あまり時間をかけるべき話題とは言えない。……だが、どうだろう? 君たちが選ぶのが一日遊びに行く場所ではなく、この先何十年も住まなければならない場所のことだったら? 君たちの一生を左右するような、大きな仕事のことだったら? 君たちが一生かけてでも成し遂げたいと思うほどのことだったら? 他人から口を挟まれたり、誰かから反対されたりしたとしても――反対されるなら別にいいや、なんて果たして思えるだろうか? 言うことを聞かないと叱られる。ひどく失敗して、困ることになるかもしれない。そんな恐怖に負けて意見を変えてしまっても、本当に後悔せずに割り切れるだろうか? 」
おれたちは黙り込んだ。モトチョーは笑った。
「まあ、ここでは気楽に、出かける行き先について考えてみよう。自分の意見を取り下げずに言い張った結果、他のふたりが折れて自分の希望が通るかもしれない。喧嘩になって、口もきいてもらえなくなってしまうかもしれない。自分が選んだ行動に対してどんな結果が返ってくるかは行動してみなければ分からないが、とにかく、望むことと選ぶことは誰もが自由にできるんだ。わたしたちは、あらゆる場面でこの自由な選択をしているが、自分が〈選択している〉ということに気づいている人は案外少ない」
「じゃあ、えーっと……モトチョーも、誰かと喧嘩になったりしたんですか? 」
おれは聞いてみた。モトチョーが誰かと喧嘩してるところなんか、あんまり想像つかないけど。
モトチョーは頷いた。
「わたしは、両親とずいぶん派手に言い合ったよ。なにしろわたしの両親は、わたしが東京以外で教師になることに反対したんだ――いつまでも兄弟の末っ子で、手のかかる子どもみたいに思われていたんだろう。それに、娘を亡くした土地になんて二度と縁を持ちたくなかったんだろうしね。だがわたしは言うことを聞かなかった。そして、それは正しかったわけだ――望みを叶える覚悟をして選んだ道に間違いなどあるはずがないんだ。わたしは、姉もそうして生きていたんだと信じたかった。姉はわたしを生かしたいと思ったから、自分の口に入るはずのものを分けてくれていたんだと。その選択を、後悔してはいなかったのだと……だがいくらなんでも、そんな都合のいいことは信じられなかった。姉の気持ちを勝手に推測して、自分の罪悪感を減らしたいだけだと分かっていたからね。わたしは自分の人生には満足しているが、つい最近まで、姉に対する罪の意識だけはどうやっても拭い去ることができなかった……だから、姉に謝ったんだ。しかし……」
そうだ、モトチョーにも分かったんだっておれは思った。モトチョーの頭をなでた豊子さんの顔を見たら、豊子さんがモトチョーを助けて自分が死んじゃったことを後悔してるなんて誰も思わないだろう。いつも泣いてた小さいモトチョーがじいちゃんになるまで長生きしてて、もう腹減ってない、もう怖い思いはしてないって分かったとき、本当に安心した顔をしたんだから。
豊子さんは、自分で自分に嘘をつかなきゃならないのを変だとは思ってたけど、そうは言えなかった。長女だからとか、戦争中だからとか、いろんな理由で。だからきっと、モトチョーを自分の希望にしていたんだ。帰りたい、お腹空いた、好きなことをやりたいって、本当は豊子さんもそう言いたかったんだ。
「わたしは、姉がわたしに教えてくれたことを誰かに伝えたかった。望みを持つことを恐れず、やりたいと思ったことは何でもやってみていい――そんなふうに、勇気を与えてやりたかった。その勇気こそが、自分自身で人生を切り開く力になるものだからね。勇気を持つこと。選択肢はひとつではなく、何を選ぶかは常に自由であると忘れないこと――それだけで、自分が本当に生きたいように生きることができるようになる。だから、姉と同じように学校の先生になろうと思ったんだ。そのおかげで君たちのような生徒と出会うこともできたわけだ」
モトチョーは晴れやかな顔で笑った。
「校長になってからなんだが、わたしは姉に少しでも罪滅ぼしをするつもりで、命日に花束を――そうでない日もお菓子を旧校舎の裏庭にこっそり供えていたんだ。姉がどこで倒れたのかわたしは見ていないから、裏庭で一番大きな木の陰に、そっとね。そして、それと一緒に君たちにおやつを配っていたんだ。君たちが元気で遊び回れればいいと思ってね……それなのに、まさかわたしの方が倒れてしまうとは。まったく情けない」
「〈旧校舎の大楠の花束〉! 」
大夢がデカい声で叫んでいきなり立ち上がったので、おれと勝はスイカを落っことしそうになった。危なかった――モトチョーの話を聞いておいて食べものを粗末にするなんて、とてもじゃないけどできない。
モトチョーも目を白黒させている。大夢だけが、目をきらきらさせていた。コイツ、モトチョーがまた目え回したらどうすんだよ。
モトチョーは気を取り直したけど、一見大人しそうな大夢が自分の話のどこにこんなめちゃくちゃな食いつきを見せたのかまでは分かってないみたいだった。
「な、なんだって? 旧校舎の? 」
「うちの学校の七不思議のひとつなんです……旧校舎の裏庭の楠に、毎年七月になると誰かが花束を供えてるって……それが、旧校舎のユーレイと関係あるんじゃないかって」
「怪談話か! 君らの想像力ってやつは、大したもんだな」
モトチョーは大笑いした。でも、旧校舎のユーレイが豊子さんで、花束を供えてたのがモトチョーだったってことは、いじめられてた生徒とその親ってわけじゃなかったけど、大夢の言ってたことはそんなに外れてなかったってことか。
おれたちはモトチョーにお礼を言って、一緒に校門まで戻ってきた。大夢は真相が分かって納得したような、ちょっと複雑なような顔をした。
「僕、自由研究どうしよう。まさかこんなことになるなんて思わなかった……」
「なんでよ。そのまんま書けばいいじゃん――本当はモトチョーがやってたんだって、分かったんだし」
勝は気楽なもんだったけど、大夢は頷かなかった。
「それはどうなのかな……なんか、そんなふうに書いてもいいことなのかな」
大夢の言いたいことは何となく分かった。モトチョーと豊子さんの話は、おれたちにとってはもうただの怪談話じゃなくなっていた。嘘か本当か分からない、みんながおもしろ半分に怖がっていいような話じゃない。確かに生きてたヒトと、今も生きてる人の、人生全部が見えるような話だったじゃないか。どう考えたって夏休みの自由研究で取り扱うようなノリにはなれなかった。
それに、七不思議はいろんな説があって〈不思議〉なままだから怪談話として成立する――それこそ、嘘か本当か分からないところが、最大の魅力だ。大夢が本当に求めていたのは、正解じゃなかったんだ。でも、大夢は真相が分かってしまって初めてそれに気がついたみたいだった。
「七不思議にどんなのがあるかまとめて他の学校の噂と比較してみた、とかにしたら? 似たような話、いっぱい知ってるだろ? 」
とおれは言った。もともとのテーマとはズレてしまうから大夢としては不満だろうけど、大夢くらい知識と情熱があれば、どんなテーマだろうがきちんとした研究にできるはずだ。それに、大夢は
「他校との比較か……それは思いつかなかったよ」
と結構前向きにおれの案に食いついた。あと一週間で新学期はじまるけど、頑張ってくれ。
おれたちはそこで別れた。勝なんかは、そろそろ溜めてる宿題をやらないとマズい頃だろう。
おれは何となく、旧校舎の裏手に回って噂の大楠を見てみることにした――話には聞いていたけど、何かに巻き込まれるのが嫌で一度もちゃんと見たことがない大楠。でも、そこに供えられてる花束は怪現象でもなんでもなくて、弟が死んだ姉さんのために置いてる花だったんだ。
楠がどの木かなんておれは知らなかったけど、一本だけ周りよりちょっと背の高い木の前を通ったとき、話に聞いていた通りに花束が置いてあるのが見えた。七月の終わりに大夢が見たときにはまだ新しかったんだろうけど、そろそろひと月が経とうとしてる今となっては、どの花も水気がなくなってしおれてしまっていた。モトチョーもまさか来年の七月までこのまま置いておくわけじゃないだろうし、そのうちに持って帰るつもりなんだろうな。
「あら、タッちゃん」
おれが楠の前に突っ立ってぼんやりしていると、後ろから誰かが声をかけてきた。
豊子さんだった! 最後に会ったときより元気そう(幽霊に元気っていうのも変だけど)で、明るい表情をしている。見慣れたブラウスにモンペじゃなく、きれいなワンピースなんか着てるもんだからすぐに誰だか分からなくて、おれはぱちぱち瞬きしてしまった。
でもおれが見慣れないだけで、こっちがもともとの豊子さんなんだ。おれはなんだか変にどきどきしてしまった。
「今までどこ行ってたんだよ――成仏しちゃったのかと思った」
「ごめんね。トモちゃんと会ってから、なんだか急にいろんなことを思い出しちゃって……もともと住んでた家だとか、町の感じだとかを見に行ってたの。そしたら、こんなワンピースのことまで思い出しちゃった。これお気に入りだったの」
「似合うよ」
もうちょっといい褒め言葉が思いつけばよかったんだけど、おれはそう言うので精一杯だった。でも、お世辞を言ったわけじゃない。薄い黄色のふわっとしたワンピースは豊子さんに本当によく似合っていて、そこでヒマワリが揺れているみたいに見えた。
住んでた家を見に行ってたってことは、東京に行ってたんだろう。でも、確かモトチョーは、空襲で隣近所も全部焼けちゃったって言ってなかったっけ? おれはちょっと怖かったけど、聞いてみた。
「……どうだった? 懐かしかった? 」
豊子さんは首を振ったけど、おれが恐れていたような暗い表情にはならなかった。分かってたけど、ちゃんと確かめられて気が済んだ――そんな感じのすっきりした笑顔だった。
「もう……すっかり、変わっちゃってた。戦争で焼けてしまったみたいね。町の名前だけはもとのままだったけど、どこにうちがあったのかも分からなくなっちゃってたわ」
「残念だったね」
「ううん、いいのよ――町は、生きている人と一緒に変わっていくものだもの。昔を懐かしんで、いつまでも同じようにしておくことはできないんだわ。死んだ人間がいつまでもこの世にいられないのと同じよ」
豊子さんはモトチョーにそうしたみたいに、おれの頭に手を置いた。
「ありがとう、タッちゃん。あんたたちに会えなかったら、わたしはいつまでもあの校舎の外へ出られなかったんだわ――わたしみたいなのが見えるってことは、危険なことはこれからもたくさんあるでしょうけど。………でも、わたしや橋の坊やを助けてくれたみたいな優しさを、これからもどうか忘れないでね。あんたたちのことは、これからもずっと見守ってるから」
触られてる感触が、あったわけじゃない。でも、豊子さんの手がおれの頭をなでたとき、なでられたところが確かに少しあったかくなったような感じがした。豊子さんの体は、だんだんおれの目にも見えなくなっていった――今度こそ、あの世へ行くんだ。
「豊子さん! 」
もう、ほとんど姿が見えなくなったというところで、おれは叫んだ。そうだ、これはまだ、豊子さんは知らないはずだ。
「トモちゃん、豊子さんのおかげで先生になったんだよ! 豊子さんがトモちゃんを育てたみたいに、子どもに教えたかったって! 」
その瞬間、淡く消えていきつつあった豊子さんの目が、えっ、って感じに丸くなるのが確かに見えた。おれは続けた。
「幸せだったって――豊子さんのおかげで、生きたいように生きる勇気を持てたって! 」
豊子さんはにっこり笑った。そして、そのまま完全に消えてしまった。おれはしばらくその場に立って、豊子さんがいたところを眺めていた。二度と会えないんだ、とは思わなかった。ずっと見守ってるって言ってくれたし、もしかしたらひいじいちゃんたちみたいに、年に一回帰ってきてくれるかも。それにおれだって、いつかあの世へ行くときは必ず来るんだから。だからそれまでは、この人生をきちんと生きるんだ。どうしようもない、お人好しのままで。
※
こうしておれたちの不思議な夏休みは終わり、それからというもの、
「旧校舎でユーレイを見た」
っていう噂はぱったり聞かなくなった。モトチョーは相変わらずおやつを配りに来るけど、旧校舎には行かなくなったみたいだ。豊子さんはもうあそこにはいないし、もう自分の名前を思い出した。モトチョーが手を合わせて祈れば、どこだろうと豊子さんに届くはずだ。
大夢は、あのあと頑張って自由研究を完成させた――〈「学校の怪談」の比較と、恐怖のポイント〉とかいう、タイトルのわりに難しいやつ。全国の学校に共通してあるような怪談話はどうやって生まれたのかだとか、どうして似たような話があちこちにあるのかだとか、しまいには人は何に恐怖を感じるのか、みたいなことまで考察した超大作だった。
おれや勝は何じゃそりゃって感じだったんだけど、大夢はそれで賞をもらうことになった。これが最初のきっかけになって大夢はますますオカルトの研究にのめりこみ、そのうち将来は大学の先生になって民俗学を研究したい、と言うようになった。
この夢は十数年後に現実になり、そうなってからもおれや勝はあっちこっちの調査につき合わされることに――そのたびに、今回みたいな不思議な出来事に巻き込まれることになるんだけど、まあそれはまた別のお話、ってやつさ。
モトチョーは静かに言った。おれたちはぬるくなったスイカを持ったまま、黙ってモトチョーの話に耳を傾けていた。ヒグラシの声がやけに大きく聞こえた。
「もし姉が生きていたら、どんな大人になったろう? 姉の人生には、どんな幸せがあったろう? 姉は愛情深い人だった。きっとたくさんの愛情が投げ返されて、誰よりも幸せになれたに違いない。その、姉が味わうはずだったものを、わたしが奪い取った。わたしが姉を死なせた……その想いが消えることはなかったよ」
「ユウコさん……じゃないや、豊子さんは、ずっとモトチョーのことばっかり心配してました」
おれは言った。
「まだ小さくて、いつもお腹空かせて泣いてたって……自分が死んだあと、どうしただろうって……自分の名前も、生きてたときのことも忘れちゃったのに、モトチョーのことだけは覚えてたみたいです」
「そうか……」
モトチョーは噛みしめるみたいに呟いた。
「姉は亡くなって、ようやく苦労から解放されたものと思っていたんだが、まだ七十年以上もわたしのことで心配をかけていたのか……」
「モトチョーは豊子さんが亡くなったあとどうしたんですか? 」
大夢が聞いた。モトチョーは遠くにあるものを見るような、ぼんやりした目で昔を思い出しているみたいだった。
「姉が亡くなったあと、すぐに戦争が終わってね……そう、本当に、すぐだ。戦争が終わったのが、八月。姉が亡くなったのは、同じ年の七月の終わり近くのことだった。東京の家は空襲ですっかり焼けてしまっていたが、幸い両親は無事だったから、わたしたちは姉のお骨と一緒に東京へ戻ったんだ。わたしは学校へ上がり、自分で言うのもなんだが、猛勉強した。どうしても、学校の先生になりたかったんだ。東京の学校に勤めようかとも思ったんだが、姉が倒れた畑を親戚が県に売り払って、そこに新しく学校ができるというんで、こちらで採用試験を受けたんだよ。お骨は東京にあるのにおかしな話だが、姉が亡くなった土地で立派な先生になれば、姉が見ていてくれる、喜んでくれる、とどこかで思っていたのかもしれない。君たちが旧校舎で姉に会ったということを考えれば、それはあながち間違いじゃなかった、ということになるかな? 」
「ずっとおれたちの学校で先生をやってたんですか? 」
とおれは聞いた。モトチョーは首を横に振った。
「いや、しばらくは別の学校に勤めていたんだ。何度か転勤を経験してやっと希望が叶ったんだが、その頃はもう新校舎ができていて、旧校舎にはロクに足を踏み入れないまま、七年でまた転勤になってしまった。もう一度戻ってきたのは校長になったときだった――教員生活の最後がこの学校かと、不思議な縁を感じたのを覚えているよ」
おれたちはなるほどと思った。モトチョーは、豊子さんの近くにずっといたんだ。でも、豊子さんは大人になったモトチョーを見ても、自分の弟だなんて思わなかったんだろう――自分が死んでどのくらい時間が経ったのか正確には分かってなかったに違いないし、豊子さんの中ではモトチョーは小さい〈トモちゃん〉のままで止まってしまっていたんだ。豊子さん本人の時間が十五歳で止まってしまったときから、ずっと。
「実は、学校の先生になりたいというのは、姉の夢だったんだよ」
とモトチョーは言った。
「小学校の先生になって、オルガンを弾いてあげたい。いつか戦争が終わったら、やりたいことがなんでもできる世の中になったら、たくさんの子どもに自分の夢を叶える力をつけてやりたい。どんなことにでも自分の意見を堂々と述べられるように――それは姉自身の願いだったんだろう。姉は本が好きだったが、当時は読める本も制限されていたし、国に対して不平不満を漏らそうものならどんな目に遭わされるか分からないような世の中だった」
「だから、豊子さんはモトチョーのことを可愛がったんじゃないですか? 」
大夢が神妙に言った。
「みんなが下を向いて黙ってるしかなかった――それは、みんなが自分自身に嘘をついていたってことですよね。でも、小さい子どもにはそんなこと関係ない。嫌なら嫌だと言うし、お腹が空いたらお腹が空いた、と言う。みんな、それが本当のことだから……認めてしまうと耐えられなくなるから、黙らせようとするけど。それって、変ですよね。みんなが耐えられないと思ってるんだったら、それで本当のこと言ってる人を悪者にするくらいなら、そんなのやめるべきなんだ。……豊子さんは、それを分かってたんじゃないかな。だから、モトチョーの〈本音〉だけは、守りたかったんじゃないでしょうか――自分の〈本音〉を、守るみたいに」
そうかもしれない、とおれは思った。おれたちはみんな、自分が本当に思っていることを〈みんなのために〉ってだんだんと口に出さなくなっていくけど、みんなが本音を隠して無理して生きているのが、本当に〈みんなのため〉になるんだろうか?
自分のやりたいことを自由にやる。思ったことを言う。それって、そんなに〈わがまま〉なことなんだろうか? それを〈わがまま〉だと言って人を責めるくらいなら、自分だって自分のやりたいことをやればいいじゃないか? ………
「そうだね。その通りだ………それに、これは現代にも存在する問題なんだ」
モトチョーは静かに頷いた。
「自分の〈本音〉に、正直であること――これは、とても勇気のいることだ。わたしたちは大人になる途中で、この勇気をへし折られたり、恐怖に負けて自分で手放してしまったりする……ときには、何かを望むことすら恐れるようになる。そして、いつまでもその勇気を持っているものを嘲笑い、叱責し、軽蔑するようになる。いい加減大人になれ、なんて言ってね。自分自身を自由にする勇気を持たないものほど、そうやって他人に構う。そして、相手を自分と同じ境遇に下ろそうとするんだ。自分と同じ、窮屈な〈大人〉に」
モトチョーはひと息入れた。それから、今度はいくらか明るい口ぶりで続けた。
「さっきも話したとおり、わたしは姉に死なれてから〈わがまま〉な態度を取らなくなったんだが、じきに姉が命をかけて守ってくれたものがわたしの命だけではないことに気がついた――姉がわたしの〈本音〉を許しながら育ててくれたおかげで、わたしは本質的に望みを持つことを恐れない人間になっていたんだ。こんな願いが、叶うわけない――そう言って最初から何かをあきらめたことは一度もない。そして、あらゆる場面で〈本音〉を表に出したことで、望んだことの結果がどうなろうと、すべて自分の責任でその結果を引き受ければいいのだ、ということも次第に学ぶことができた」
「望んだことの結果がどうなろうと? 」
勝が首を傾げた。モトチョーは苦笑いした。
「わたしが〈本音〉で臨んだことを、受け入れてくれる人ばかりではなかったということさ。そして、それは当然のことだ。世の中の人は、みんなそれぞれ違った〈本音〉を持っているからね」
モトチョーは、おれたちの前に人差し指をぴんと立てた、多分、生徒を教えていたときも、そうやってたんだろう。そんな雰囲気のある仕草だった。
「たとえば、君たちが一緒に遊びに出かける約束をしたとしよう。だが、三人いる中で、自分だけ行きたい場所が違った――さあ、どうする? 」
「うーん……」
勝はおれたちを見ながら考えていたが、しばらくして言った。
「まあ、一応おれの行きたい場所のことも、相談してみる……かな? うーん、でも、ふたりが行きたいところが一緒なんだったら、別にそっちでもいいけど」
「僕も」
と大夢(「オカルトが絡んでなければだろ」と勝が言った)。おれも、頷いた。じゃあ次はこっちな、とは言うかもしれないけど。モトチョーは楽しそうに頷いた。
「なるほど。その場合の結果は、他のふたりの意見を受け入れる、ということになる。君たちは自分でその結果を選び取ったのだと自覚しなければいけない。自分が行きたいところには行かれなかったことを、他のふたりのせいにしてはいけないんだ」
「多数決なのに? 仕方ないな、って思っちゃだめってことですか? 」
大夢が聞いた。モトチョーは頷いた。
「そうとも。ふたりの意見に合わせるという以外にも選択肢はあったのに、君たちは選ばなかったんだから――仕方ない譲ってやるか……と思ったとしても、実は仕方のないことではない」
「でも、他の選択肢って………なんだ? 話し合うとか? 」
自分で言っておいて、勝は微妙な顔をした。勝はガキ大将みたいなポジションにいるわりに喧嘩っ早いやつじゃないから、〈相手をぶっ飛ばして言うこときかす〉みたいな発想はないんだろうけど、だからって話し合うほどじゃねえよな、とその顔は言っていた。でも、モトチョーは頷いた。
「徹底討論、それもある。それにたとえば……どうしても行きたいと言い張るとか」
勝はますます変な顔をした。おれと大夢も、反応としては似たようなものだった。まさかそんな、小さい子どもじゃあるまいし。
「出かける場所くらいのことで、そんなみっともねえことしねえよ」
「そうだな。あまり時間をかけるべき話題とは言えない。……だが、どうだろう? 君たちが選ぶのが一日遊びに行く場所ではなく、この先何十年も住まなければならない場所のことだったら? 君たちの一生を左右するような、大きな仕事のことだったら? 君たちが一生かけてでも成し遂げたいと思うほどのことだったら? 他人から口を挟まれたり、誰かから反対されたりしたとしても――反対されるなら別にいいや、なんて果たして思えるだろうか? 言うことを聞かないと叱られる。ひどく失敗して、困ることになるかもしれない。そんな恐怖に負けて意見を変えてしまっても、本当に後悔せずに割り切れるだろうか? 」
おれたちは黙り込んだ。モトチョーは笑った。
「まあ、ここでは気楽に、出かける行き先について考えてみよう。自分の意見を取り下げずに言い張った結果、他のふたりが折れて自分の希望が通るかもしれない。喧嘩になって、口もきいてもらえなくなってしまうかもしれない。自分が選んだ行動に対してどんな結果が返ってくるかは行動してみなければ分からないが、とにかく、望むことと選ぶことは誰もが自由にできるんだ。わたしたちは、あらゆる場面でこの自由な選択をしているが、自分が〈選択している〉ということに気づいている人は案外少ない」
「じゃあ、えーっと……モトチョーも、誰かと喧嘩になったりしたんですか? 」
おれは聞いてみた。モトチョーが誰かと喧嘩してるところなんか、あんまり想像つかないけど。
モトチョーは頷いた。
「わたしは、両親とずいぶん派手に言い合ったよ。なにしろわたしの両親は、わたしが東京以外で教師になることに反対したんだ――いつまでも兄弟の末っ子で、手のかかる子どもみたいに思われていたんだろう。それに、娘を亡くした土地になんて二度と縁を持ちたくなかったんだろうしね。だがわたしは言うことを聞かなかった。そして、それは正しかったわけだ――望みを叶える覚悟をして選んだ道に間違いなどあるはずがないんだ。わたしは、姉もそうして生きていたんだと信じたかった。姉はわたしを生かしたいと思ったから、自分の口に入るはずのものを分けてくれていたんだと。その選択を、後悔してはいなかったのだと……だがいくらなんでも、そんな都合のいいことは信じられなかった。姉の気持ちを勝手に推測して、自分の罪悪感を減らしたいだけだと分かっていたからね。わたしは自分の人生には満足しているが、つい最近まで、姉に対する罪の意識だけはどうやっても拭い去ることができなかった……だから、姉に謝ったんだ。しかし……」
そうだ、モトチョーにも分かったんだっておれは思った。モトチョーの頭をなでた豊子さんの顔を見たら、豊子さんがモトチョーを助けて自分が死んじゃったことを後悔してるなんて誰も思わないだろう。いつも泣いてた小さいモトチョーがじいちゃんになるまで長生きしてて、もう腹減ってない、もう怖い思いはしてないって分かったとき、本当に安心した顔をしたんだから。
豊子さんは、自分で自分に嘘をつかなきゃならないのを変だとは思ってたけど、そうは言えなかった。長女だからとか、戦争中だからとか、いろんな理由で。だからきっと、モトチョーを自分の希望にしていたんだ。帰りたい、お腹空いた、好きなことをやりたいって、本当は豊子さんもそう言いたかったんだ。
「わたしは、姉がわたしに教えてくれたことを誰かに伝えたかった。望みを持つことを恐れず、やりたいと思ったことは何でもやってみていい――そんなふうに、勇気を与えてやりたかった。その勇気こそが、自分自身で人生を切り開く力になるものだからね。勇気を持つこと。選択肢はひとつではなく、何を選ぶかは常に自由であると忘れないこと――それだけで、自分が本当に生きたいように生きることができるようになる。だから、姉と同じように学校の先生になろうと思ったんだ。そのおかげで君たちのような生徒と出会うこともできたわけだ」
モトチョーは晴れやかな顔で笑った。
「校長になってからなんだが、わたしは姉に少しでも罪滅ぼしをするつもりで、命日に花束を――そうでない日もお菓子を旧校舎の裏庭にこっそり供えていたんだ。姉がどこで倒れたのかわたしは見ていないから、裏庭で一番大きな木の陰に、そっとね。そして、それと一緒に君たちにおやつを配っていたんだ。君たちが元気で遊び回れればいいと思ってね……それなのに、まさかわたしの方が倒れてしまうとは。まったく情けない」
「〈旧校舎の大楠の花束〉! 」
大夢がデカい声で叫んでいきなり立ち上がったので、おれと勝はスイカを落っことしそうになった。危なかった――モトチョーの話を聞いておいて食べものを粗末にするなんて、とてもじゃないけどできない。
モトチョーも目を白黒させている。大夢だけが、目をきらきらさせていた。コイツ、モトチョーがまた目え回したらどうすんだよ。
モトチョーは気を取り直したけど、一見大人しそうな大夢が自分の話のどこにこんなめちゃくちゃな食いつきを見せたのかまでは分かってないみたいだった。
「な、なんだって? 旧校舎の? 」
「うちの学校の七不思議のひとつなんです……旧校舎の裏庭の楠に、毎年七月になると誰かが花束を供えてるって……それが、旧校舎のユーレイと関係あるんじゃないかって」
「怪談話か! 君らの想像力ってやつは、大したもんだな」
モトチョーは大笑いした。でも、旧校舎のユーレイが豊子さんで、花束を供えてたのがモトチョーだったってことは、いじめられてた生徒とその親ってわけじゃなかったけど、大夢の言ってたことはそんなに外れてなかったってことか。
おれたちはモトチョーにお礼を言って、一緒に校門まで戻ってきた。大夢は真相が分かって納得したような、ちょっと複雑なような顔をした。
「僕、自由研究どうしよう。まさかこんなことになるなんて思わなかった……」
「なんでよ。そのまんま書けばいいじゃん――本当はモトチョーがやってたんだって、分かったんだし」
勝は気楽なもんだったけど、大夢は頷かなかった。
「それはどうなのかな……なんか、そんなふうに書いてもいいことなのかな」
大夢の言いたいことは何となく分かった。モトチョーと豊子さんの話は、おれたちにとってはもうただの怪談話じゃなくなっていた。嘘か本当か分からない、みんながおもしろ半分に怖がっていいような話じゃない。確かに生きてたヒトと、今も生きてる人の、人生全部が見えるような話だったじゃないか。どう考えたって夏休みの自由研究で取り扱うようなノリにはなれなかった。
それに、七不思議はいろんな説があって〈不思議〉なままだから怪談話として成立する――それこそ、嘘か本当か分からないところが、最大の魅力だ。大夢が本当に求めていたのは、正解じゃなかったんだ。でも、大夢は真相が分かってしまって初めてそれに気がついたみたいだった。
「七不思議にどんなのがあるかまとめて他の学校の噂と比較してみた、とかにしたら? 似たような話、いっぱい知ってるだろ? 」
とおれは言った。もともとのテーマとはズレてしまうから大夢としては不満だろうけど、大夢くらい知識と情熱があれば、どんなテーマだろうがきちんとした研究にできるはずだ。それに、大夢は
「他校との比較か……それは思いつかなかったよ」
と結構前向きにおれの案に食いついた。あと一週間で新学期はじまるけど、頑張ってくれ。
おれたちはそこで別れた。勝なんかは、そろそろ溜めてる宿題をやらないとマズい頃だろう。
おれは何となく、旧校舎の裏手に回って噂の大楠を見てみることにした――話には聞いていたけど、何かに巻き込まれるのが嫌で一度もちゃんと見たことがない大楠。でも、そこに供えられてる花束は怪現象でもなんでもなくて、弟が死んだ姉さんのために置いてる花だったんだ。
楠がどの木かなんておれは知らなかったけど、一本だけ周りよりちょっと背の高い木の前を通ったとき、話に聞いていた通りに花束が置いてあるのが見えた。七月の終わりに大夢が見たときにはまだ新しかったんだろうけど、そろそろひと月が経とうとしてる今となっては、どの花も水気がなくなってしおれてしまっていた。モトチョーもまさか来年の七月までこのまま置いておくわけじゃないだろうし、そのうちに持って帰るつもりなんだろうな。
「あら、タッちゃん」
おれが楠の前に突っ立ってぼんやりしていると、後ろから誰かが声をかけてきた。
豊子さんだった! 最後に会ったときより元気そう(幽霊に元気っていうのも変だけど)で、明るい表情をしている。見慣れたブラウスにモンペじゃなく、きれいなワンピースなんか着てるもんだからすぐに誰だか分からなくて、おれはぱちぱち瞬きしてしまった。
でもおれが見慣れないだけで、こっちがもともとの豊子さんなんだ。おれはなんだか変にどきどきしてしまった。
「今までどこ行ってたんだよ――成仏しちゃったのかと思った」
「ごめんね。トモちゃんと会ってから、なんだか急にいろんなことを思い出しちゃって……もともと住んでた家だとか、町の感じだとかを見に行ってたの。そしたら、こんなワンピースのことまで思い出しちゃった。これお気に入りだったの」
「似合うよ」
もうちょっといい褒め言葉が思いつけばよかったんだけど、おれはそう言うので精一杯だった。でも、お世辞を言ったわけじゃない。薄い黄色のふわっとしたワンピースは豊子さんに本当によく似合っていて、そこでヒマワリが揺れているみたいに見えた。
住んでた家を見に行ってたってことは、東京に行ってたんだろう。でも、確かモトチョーは、空襲で隣近所も全部焼けちゃったって言ってなかったっけ? おれはちょっと怖かったけど、聞いてみた。
「……どうだった? 懐かしかった? 」
豊子さんは首を振ったけど、おれが恐れていたような暗い表情にはならなかった。分かってたけど、ちゃんと確かめられて気が済んだ――そんな感じのすっきりした笑顔だった。
「もう……すっかり、変わっちゃってた。戦争で焼けてしまったみたいね。町の名前だけはもとのままだったけど、どこにうちがあったのかも分からなくなっちゃってたわ」
「残念だったね」
「ううん、いいのよ――町は、生きている人と一緒に変わっていくものだもの。昔を懐かしんで、いつまでも同じようにしておくことはできないんだわ。死んだ人間がいつまでもこの世にいられないのと同じよ」
豊子さんはモトチョーにそうしたみたいに、おれの頭に手を置いた。
「ありがとう、タッちゃん。あんたたちに会えなかったら、わたしはいつまでもあの校舎の外へ出られなかったんだわ――わたしみたいなのが見えるってことは、危険なことはこれからもたくさんあるでしょうけど。………でも、わたしや橋の坊やを助けてくれたみたいな優しさを、これからもどうか忘れないでね。あんたたちのことは、これからもずっと見守ってるから」
触られてる感触が、あったわけじゃない。でも、豊子さんの手がおれの頭をなでたとき、なでられたところが確かに少しあったかくなったような感じがした。豊子さんの体は、だんだんおれの目にも見えなくなっていった――今度こそ、あの世へ行くんだ。
「豊子さん! 」
もう、ほとんど姿が見えなくなったというところで、おれは叫んだ。そうだ、これはまだ、豊子さんは知らないはずだ。
「トモちゃん、豊子さんのおかげで先生になったんだよ! 豊子さんがトモちゃんを育てたみたいに、子どもに教えたかったって! 」
その瞬間、淡く消えていきつつあった豊子さんの目が、えっ、って感じに丸くなるのが確かに見えた。おれは続けた。
「幸せだったって――豊子さんのおかげで、生きたいように生きる勇気を持てたって! 」
豊子さんはにっこり笑った。そして、そのまま完全に消えてしまった。おれはしばらくその場に立って、豊子さんがいたところを眺めていた。二度と会えないんだ、とは思わなかった。ずっと見守ってるって言ってくれたし、もしかしたらひいじいちゃんたちみたいに、年に一回帰ってきてくれるかも。それにおれだって、いつかあの世へ行くときは必ず来るんだから。だからそれまでは、この人生をきちんと生きるんだ。どうしようもない、お人好しのままで。
※
こうしておれたちの不思議な夏休みは終わり、それからというもの、
「旧校舎でユーレイを見た」
っていう噂はぱったり聞かなくなった。モトチョーは相変わらずおやつを配りに来るけど、旧校舎には行かなくなったみたいだ。豊子さんはもうあそこにはいないし、もう自分の名前を思い出した。モトチョーが手を合わせて祈れば、どこだろうと豊子さんに届くはずだ。
大夢は、あのあと頑張って自由研究を完成させた――〈「学校の怪談」の比較と、恐怖のポイント〉とかいう、タイトルのわりに難しいやつ。全国の学校に共通してあるような怪談話はどうやって生まれたのかだとか、どうして似たような話があちこちにあるのかだとか、しまいには人は何に恐怖を感じるのか、みたいなことまで考察した超大作だった。
おれや勝は何じゃそりゃって感じだったんだけど、大夢はそれで賞をもらうことになった。これが最初のきっかけになって大夢はますますオカルトの研究にのめりこみ、そのうち将来は大学の先生になって民俗学を研究したい、と言うようになった。
この夢は十数年後に現実になり、そうなってからもおれや勝はあっちこっちの調査につき合わされることに――そのたびに、今回みたいな不思議な出来事に巻き込まれることになるんだけど、まあそれはまた別のお話、ってやつさ。
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