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6、ふたつの時計台
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アーシアの金時計で、ということは限りなく正確にその時刻ということだが、夜の八時半過ぎに、エドワードとアーシアはヴィクトリアの森へ戻ってきた。一日のうちにずいぶんいろいろなことがあってふたりとも疲れていたが、目は冴えていた。おかげで、足元も見えない森へ入る恐怖を眠気で和らげるわけにはいかなかったが。
エドワードはアーシアが持っていた角灯で森の中を照らしてみた(アーシアはいつどこにいても本が読めるように、いつも小さな角灯を持ち歩いているのだ)。アーシアが小さな悲鳴を上げた。辛うじて足元を明るくする程度の光だったが、そばの木の枝の上でじっとしていたフクロウの目をぴかりとさせるには十分だったのだ。
「あなた、勇敢なのね」
先に立って歩くエドワードをこわごわ追いながらアーシアが言った。エドワードだって、怖くないわけではなかった。彼より大人で、もっと冷静な人物であっても、フクロウの鳴き声のする真っ暗な森をさまよい歩くはめになったなら、一度ならず木の幹に映る自分の影をぎくりと振り向くくらいのことはするだろう。だが、アーシアが普段の気の強さには不釣り合いなくらい怖がるので、ならば自分が、と気丈に振る舞うしかなかったのだ。
たまりかねたアーシアにシャツの袖を引っ張られたとき、妙に晴れがましいような気持ちになって、腕を貸しながらエドワードは笑った。
「君、夜にしか出てこない魔法の生きものとか、たくさん知ってるんだろ? 妖精とかユニコーンとか、どっかにいるかもしれないよ」
アーシアはエドワードの腕につかまりはしたが、にこりともしなかった。
「夜の森で妖精になんか会ったらどこかへさらわれるわ。ユニコーンがもし出てきたら、あなた、突き殺されるわよ」
角灯の灯りに見る〈入り口の木〉は、魔物が夜になって本当の姿を見せたという感じで、ますます怪物じみた迫力があった。まったく果てのない闇が広がっているようにも見えたが、エドワードとアーシアは、意を決して木のうろへ入った。広く見えるのは暗いせいで、実際は頭がつかえたところから木くずがぱらぱら散らばるくらいに狭く、エドワードもアーシアも屈まなければならなかった。時計台の外にある秘密にまで父や親方が関わっているかは分からなかったが、少なくとも、ドルトン氏がこの木に入るのは大変だっただろうとエドワードは思った。ドルトン氏はさほど背の高い方ではなかったが恰幅がよく、丸い腹に油染みだらけの前掛けをかけてのしのし歩く人だった。
隠し通路の蓋はもうかなり古びていて、重たかった。エドワードが念のためかぶせておいた枯れ葉を退けてから押し上げると、奥の方からひんやりとしたカビ臭い風が吹き上がってきた。アーシアがすかさず中を照らした。
「ずっと先まであるみたい」
地下の階段は、夜の森よりまだ暗かった。万にひとつもそんなことは起こらないでもらいたいと言いたげな口ぶりで、鼠でもいるかもしれないわね、とアーシアは言った。
「お話の中だと、この階段が時計台につながっているのよね? 」
「うん、ブラン・ダムで昔使われてた非常口なんだ。改造工事があって、もう使われていないってことになってる。……でも本当は、この道を通ってしか行かれない場所が時計台の中に新しく作られた、って話なんだ。ヴィクトリアでも、同じなんじゃないかな」
エドワードはアーシアから角灯を受け取り、そろそろと階段を下りはじめた。階段は切り出した石でできていて、一段一段が頑丈にエドワードの体重を支えた。
「階段を下りて平らな道をしばらく行くと、今度は上りになる……」
秘密の通路はわずかな音をよく跳ね返し、頼りない角灯の灯りしかない中では、たったふたりの足音さえ何重にも反響するのが不気味だった。明らかに倍以上の人数が歩き回っているように聞こえたし、今の一歩で立てたのがどの音なのかはだんだんと分からなくなり、変わりばえのしないじめじめした暗い通路が永遠に続くように思えたあとで、夢から覚めるようにはっと我に返ったりした。エドワードもアーシアも無言だった。
だが、陰気な道は間もなく終わった。セオとブランカが辿ったように上向きの階段を上り、やがてふいに空気の匂いが変わって、これまでとは違うところへ来たのだと分かった。地下を出たのだ。息はしやすくなったが、通路は急に狭くなり、ふたりで並んで歩くことはできそうもなかった。
「気をつけて! 」
アーシアが叫んだ。エドワードが急に早足になったからだ。
何段か先の左右の壁から、不思議な光が射していた。両側に同じ模様の透かし窓がある。左の窓からは、吹き抜けの四角い建物の様子が見えた。ずっと上の方に、鈍く光る黒いものが下がっている。時計の錘だ。どこかから月の光が青白く射し、森や地下の暗さに慣れた目には意外なくらいに、ヴィクトリアの中は明るかった。
「〈真理と時〉の絵が見えるわ。ヴィクトリアの入り口ね」
右の窓を覗いたアーシアが言った。
「この階段、壁と壁の間にあるんだわ! そう書いてなかった? 」
「ううん。普通の場所からは見えないところとしか。……この階段を全部上ったら、突き当たりに扉があるはずだ。例の、鍵の模様の扉が」
「おもしろいわね」
アーシアは興奮を押し殺した声で言った。
「これが、現実だっていうんだもの……」
階段はヴィクトリアの形に沿って時折直角に曲がりながらかなり長く続いたが、一体何階分上がったのだろう、そろそろ大時計のそばくらいに来たんじゃないか、という考えがエドワードの頭の中をぐるぐると渦巻きはじめた頃、突然終わりが見えた。角灯の光を、鋭く反射するものが前にある――それは金属製の小さな扉についている、女神の両目にはめられた丸い鏡の反射だった。押すと、派手に軋みながらも簡単に開いた。中に入ってみると、部屋の壁には一面に扉と似たような飾りが――開けても石壁があるだけだった――つけられていて、一度閉めてしまえばどれが本物の扉なのか分からないようになっていた。追われているときには入りたくない部屋ね、とアーシアが呟いた。
小さな部屋いっぱいに人形の並んだ木の台が置かれていて、下から大きな歯車の歯がいくつも覗いている。大時計の裏側に違いない、とエドワードは思った。そばへ寄るとエドワードより大きい時計の裏側は歯車と金具がぎっしり詰まっていて、眠っている人が静かな寝息を立てるみたいに、今この瞬間も、規則正しくごとごとと音をさせながら時を刻み続けていた。とても美しかった。
「きれいだなあ……」
「これ……こんな複雑なもの、一体どうやって作るのかしら? どうしてこの歯車の組み方で、あんなふうに人形を動かせるのかしら? 」
アーシアは恐る恐るというふうに、回り続ける歯車や黙っている人形たちをエドワードの肩越しにそっと窺った。
「時間が来たら、大時計の歯車と人形が連動するようになってるんだね」
エドワードは手近な仕掛けを調べた。それは、人形をレールに沿って進ませたり、躍らせたりするためのものだと分かった。
「時計の中に組み込まれている歯車が決まった時間にこっちの人形の台の歯車に引っかかるようになってて、そうするとこの人形が動くようにできてるんじゃないかな。文字盤が横に開く仕掛けも一緒に動くようにできてるはずだ……すごく複雑な設計だよ」
アーシアは、しばらくエドワードとからくりとを交互に見比べていた。それから、魔法みたいだわ、と呟いた。これは、アーシアの最大級の賛辞なのだ。
「あなたの親方って、魔法みたいなことができる人だったのね。それが分かるあなたも、魔法使いみたい。あなたにとっては当たり前のことでも」
さて、セオとブランカの足取りを追うなら、この大時計の部屋の〈右壁にある小さな鉄の扉〉を探し出さなければならない。中には色違いの宝石飾りがついた五本の鎖が下がっていて、〈人と似た石〉の鎖だけが最初の仕掛けを動かすことができるのだ。
それで、この部屋の意味が分かった。ふたりが一面にくっついている飾りの扉を手当たり次第に調べると、右壁の左から三番目の飾り扉の内側が浅く削られていて、宝石のついた五本の鎖が収まっているのを見つけた。さらに、ふたりが通ってきたものの他に、もうひとつだけどうやら本物らしい扉があるのも分かった。だが、この扉は固く閉ざされていた。
「〈人と似た石〉の仕掛けが解けたら、この扉が開くのかしら? 」
アーシアは扉の隙間から何か見えはしないかと頑張ったが、何も手がかりはなかった。
「時計を管理してる人が使ってるのかもしれない」
とエドワードは言った。大時計の正確さを保つために、数日おきにでもねじを巻く役割をする人物が必ずいるはずだった――ドルトン親方やエドワード自身が、ポート・オブ・メイカーの時計台でそうしていたように。それは、昼間時計台について説明してくれたあの管理人かもしれなかった。だとすれば、彼はどこまでこの時計台の秘密を知っているのだろう? 自分が出入りする扉のすぐ脇に、誰も開いたことのない隠し扉が隣り合っているかもしれないことは?
何にせよ、ふたりはさしあたって宝石の仕掛けを解かなくてはならなかった。エドワードは角灯を近づけたが、赤味を帯びた光の下では、正確な色など分からなかった。
「これ、何色だろう? 」
「全然分からないわ」
アーシアは眉根を寄せて本を取り出した。
「『鎖の宝石の色は右から順に、赤、青、緑、紫、黄色。赤がルビー、青がサファイア、緑がエメラルド、紫がアメジスト、黄色がトパーズだ』ですって。これを信じるしかないわね」
「〈人と似た石〉って、どういうことかな? 」
エドワードは角灯の光に目を凝らしたが、石の表面に何か彫りつけられているとか、ひとつだけ違う磨かれ方をしているとかいうことはなかった。
「いつもきらきらしてるんだから、暗いところでも光ればいいのに……」
「あら、宝石が闇夜の灯りになったっていう話は結構あるのよ。お話の中では、だけど」
アーシアは左から二番目の鎖を手に取った。
「アメジストは人間の女の子が姿を変えられた石っていうお話があるわ。猛獣をけしかけられた女の子を、女神さまが白い石に変えて守るのよね。そこに葡萄酒が注がれたから、紫色の宝石になったんですって」
「じゃあ、アメジストのことかな? 」
「でも、〈人と似ている〉というのとはちょっと違う気もするわ。……ダイヤモンドが入ってれば、分かりやすかったのにね。ダイヤモンドは炭素でできてるから、燃えるのよ」
「怖いこと言うね」
「似てる宝石が多いのはルビーね。昔は、赤い宝石はみんなルビーだって言われていたらしいわ。サファイアは、心変わりを防ぐって言われてるけど……」
アーシアは頬に両手を当てて考え込んだ。先に魔法使いみたいと言われたせいか、その姿は魔法をかける手順を思い出そうとしている魔女のように見えた。アーシアみたいな魔女なら怖くないのにな、とエドワードは思った。
「『「人と似た石って、どういうことだろう? 」とセオは言った。』」
アーシアが角灯を本に近づけて読み上げた。エドワードが続きを読んだ。
「『「見て、ここ。何か彫ってあるわ」とブランカ。壁のかなり低い位置に、小さな字で文章が刻まれている――人。あやまち多きもの。人。瑕疵(かし)なきものなし。人。瑕疵ありて、なおあまりある輝き。人。脆いがため美しい。』」
「人間は欠点が多くて、脆いもの――つまり、傷が多くて脆い石を当てろってことね。それから? 」
「詩に続きがあったみたいだ。石のことも書いてあるよ。『五本の鎖に捕らえたる、五つの輝石の物語。赤と青とは双子の姉妹。色が違ったそのために、そうとは見えずに生き別れ。黄色の君は神の石。陽の恩恵の印とて、敬われたる尊さよ。紫色は哀れな娘。女神の慈悲が身を守り、男神の悔いが身を染める。最後の緑は魅惑の主。傷つきやすく繊細で、輝き満ちる栄光は、気高き王女の御心を、そっと飾るにふさわしい。』」
アーシアは本と照らし合わせて鎖を一本選んだ。ティリパット氏の書いたとおりなら、このきらきら光るどす黒い石は、本当は美しい緑色のエメラルドのはずだ。
そして、実際の壁には何も刻まれていないのを確かめ、もう一度鎖の順番を確認した。
「〈エメラルドと人間に傷のないものはない〉って、聞いたことあるわ」
角灯がじりじり鳴る他は物音ひとつない中で、アーシアの確信に満ちた声は妙に高らかに聞こえた。
「エメラルドって、ものすごく傷が多い石なんですって。それに、〈傷つきやすく繊細〉なら、十分〈瑕疵ありて、なおあまりある輝き〉だし〈脆いがため美しい〉だわ……これで間違いないわ」
「ちょっと待って」
すぐにもエメラルドの鎖を引こうとしたアーシアを、エドワードは慌てて止めた。
「もし引っ張る鎖を間違えたらどうなるんだろう? 」
アーシアは手を引っ込めた。
「間違えたらって? 」
「君の言っていることは正しいと思うし、鎖の順番も本のとおりだと思う」
エドワードは慎重に言った。
「でも、もし万が一にでも、間違ったとき上から刃物が落ちてくるとかだったら……」
「やめてよ! 」
アーシアは悲鳴を上げて飛びのいた。
「そんな仕掛けがあるの? 」
「そりゃ、やってできない設計じゃないと思うけど……そういうの、出てくる本とかないのかい? 」
「ええ、あるわよ。わたしが読んだことあるのはね、ある古いお城に仕掛けられてて――ああ、思い出しちゃったじゃない。その話だと、道を間違えた人は首を切られちゃうの。だって、道を選ぶたびに小さな窓をくぐらなければいけないんだもの。間違えた途端、上から刃物が………。切られた首は、城主が見せしめに門に吊るすのよ。腐って骨になるまでね」
アーシアの声は恨みがましかった。もはや鎖を引く勇気などないのだ。
「僕が引くよ」
エドワードはできる限り明るく言い、少し迷ったが、やはりアーシアの選んだ鎖を握った。念のためああは言ってみたものの、アンソニー・ティリパットに干からびた人間の首を眺める趣味があったとは思えないし、ドルトン氏が人を死なせるようなからくりを設計するはずがない。せいぜい、正解も含めて他の四本すべてに制御がかかり、動かせなくなるくらいだろう――それだって、ここまでやってきたふたりにしてみれば相当な痛手には違いないが――。
エメラルドの鎖はとても重く、軽く引いただけでは動かなかった。力を入れて、思い切って強く引いた――金属の擦れ合う音がして、エドワードが手を放すより早く、エメラルドの鎖は上に巻き上げられてエドワードからもぎ取られてしまった。がたんごとんと、何か大きなものが動いているらしい振動がする。念のためにエドワードもアーシアも壁際から距離を取ったが、上から刃物が落ちてくることも、壁から矢が飛んでくることもなかった。
「どうなったの? 」
アーシアは残った鎖を呆然と、絶望的な顔をして見つめた。
「これでよかったの? ま……間違いだったの? 」
「間違いじゃない」
エドワードは壁の隙間や、足元や、頭の上から響く音に耳を澄ました。誰も動かしたことのない、秘密のからくりが動きはじめた音……ヴィクトリアの真実が明らかにされていく、神聖な解明の音だった。
「聴いてごらんよ……仕掛けが動いてる音がするだろ。ほら、あそこも」
文字盤の歯車が、急にそれまでとは違う回り方をしはじめた。表から見ればアーシアでも長針と短針の動きが分かっただろうが、エドワードは裏から見るだけで十分だった。ティリパット氏が物語で伝えてくれた通りに、今頃二本の針は、十二時の形を目指して別々に回りはじめたに違いない。
そして、その推測がすべて正しいことを証明する祝福の音楽が流れた。本文とは違う趣向だったが、エドワードはしおらしい讃美歌よりも気に入った。
流れたのはあの〈赤い木の実のナナカマド〉(もとは〈青き空の讃歌〉という名前の曲なのだが)で、人形たちも踊り出した。かなり唐突に始まったので、エドワードが引っ張らなければ、人形の台のそばに立っていたアーシアは、台からはみ出ている歯車にスカートを巻き込まれていたかもしれなかった。
「こういうものに近づくときは、スカートを押さえてて」
「ええ」
アーシアは答えたが、ちゃんと聞いていたかは怪しかった。アーシアの注意は、そのとき完全にエドワードから逸れていた。
「あの子、首に鍵をかけてるわ」
「どれ? 」
「あのドワーフよ! 」
アーシアはくるくる回るドワーフの人形を触ろうとしたが、エドワードは彼女を必死に引き留めた。機械の中に巻き込まれた人間がどうなるかなんて、アーシアで試してみなくてもエドワードはよく知っている。あとできちんと、歯車と無鉄砲な人間の〈物語〉をアーシアに話そうか? いや、刺激が強すぎるかもしれない。エドワードは、アーシアにからくりを嫌ってほしくはなかった。
アーシアが無茶をする必要はなかった。音楽が止むのと同時に人形も動かなくなったが、ドワーフの人形だけが仲間と違うことをした。彼は他の人形がみんな元通り文字盤の方を向いても、一体だけエドワードとアーシアの方を向いていた。確かに、胸元に金の鍵が下がっている。彼のための飾りとしては大きすぎるその鍵は、ドワーフが掲げた水晶に引っかかって持ち上がり、ふたりに差し出された。
「セオの鍵だ」
エドワードは手を伸ばして鍵を取った。セオが浜辺の瓶から鍵を見つける場面にあった挿し絵と、そっくり同じ鍵だった。エドワードは鍵穴を探した。ここで鍵を渡される理由が、きっとあるはずだ。そして、人形の台に鍵穴があるのが間もなく見つかった。鍵と同じ、金でできた鍵穴だった。
「下に降りられそうだよ」
台を開けて中を覗いたエドワードがそう言うと、アーシアは冗談でしょ、と小さな声で呟いた。だが、エドワードに続いて、歯車と歯車の間に滑り込んできた。歯車で組み立てられた階段が下まで続いている。台の下に入ると、左右は壁で囲まれていて、蝋燭を三本立てた燭台がひとつだけ置かれていた。
「これ、持っていけってことかな? 」
角灯から光を分けると、その途端、通路はずっと下までかなり明るくなった。
「鏡だわ! 」
アーシアが指差すと、真横の壁に取り付けられた鏡の中のアーシアが反対側の手で――鏡には下向きに角度がついていて、ふたりの肘から下しか見えなかった――指を差し返してきた。時計の錘がふたつすぐそばに見えていて、エドワードたちのかなり下に、先ほど横を通った透かし窓があった。
エドワードはそろりと足を伸ばして、一枚下の歯車をつついた。大丈夫だ。
「降りてみよう。気をつけてね」
「冗談みたいね」
アーシアはおっかなびっくり歯車の上に降りてきたが、ちょっとの段差によろめいてエドワードにしがみついた。見れば、彼女は努めて、下を覗かないようにしているのだった。
「この階段、いきなりばらばらに崩れたりしないわよね? 」
アーシアは上を向いたまま言った。
「高いわよね? 」
「高いね。でも、絶対大丈夫。見てごらんよ、怖くないから」
「信じるわよ」
アーシアはエドワードの腕を掴んだまま、ゆっくりと顔を下へ向けた。
「分かるかい」
エドワードが話す仕草を、何枚もの鏡に映った何人ものエドワードが一斉に真似した。その横のアーシアは、どの鏡の中でも青ざめていた。
「ここの歯車は、最初から人が乗るために――つまり、この道を通るために取り付けられたものだと思うんだ。もしかしたら、違和感がないように歯車の形をしてるだけで、どの機構にも関係ないのかもしれない。一枚一枚もこんなに大きいし、踏み外して落ちても、必ず少し下に受け止めてくれる歯車があるよ」
「それに、床がないのは時計の錘の真下だけだわ。吹き抜けの隣がこんなふうになってるなんて、下じゃ誰も思わないでしょうね! 」
アーシアは身を乗り出して覗きこんだりはしなかったが、声には勢いと明るみが戻った。彼女の言うとおり、歯車の階段が収まっているこの空間は、下から見上げても絶対に見えないようになっていた。ティリパット氏はヴィクトリアの謎にまつわるものを最初から最後まで徹底して無関係の人間の目から隠しとおすつもりだったに違いなかった。
階段を降りきって石の床に足が着くと、アーシアはようやく活き活きとしだした。あんまり端に行くと落ちるよ、というエドワードの声など、彼女の好奇心の前には小さな囁きも同然だった。
「仕掛けがあるわ」
アーシアは壁に張りついた。エドワードが追いついていって横から覗くと、鉄格子のはまったアーチの隣には、また飾りのついた鎖が下がっていた。今度は十二本だ。飾りは宝石ではなく、鋳型で作った錫の人形で、人間や動物がそれぞれ丁寧にかたどられていた。
「これは黄道十二星座だわ。星占いに使われる星座よ」
アーシアは本を取り出し、床にしゃがみ込んで星座の鎖のページを探した。エドワードは角灯を近づけた。
「『下へ下へと続く、その一風変わった階段は大した長さではなかったが、セオは慎重に足場を選んだ。一段ごとに、気持ちがすり減っていくような気がした。冷や汗をかいた手は、よく滑った。』……これ、ここの歯車の階段のことだわ。ティリパットさんて、高いところが好きじゃなかったのかもしれないわね。次だわ……『星座の鎖のすぐ横の壁には、次のような文章が彫りつけられていた。
〈君よ、歌うがいい、獅子のように声高く。踊るがいい、収穫を願う清らかな乙女のように。酌夫の美酒に快く酔い、魚のようにしがらみなく生き、友を片割れのように愛するがいい。快楽の導を選び取り、誤りなく順に辿れば、君は喜びと栄光との座に招かれる。しかし、君が豊かな土壌を秘め、美しい琴線を備えているのならば、君を真に導いてくれるのは清廉な女神の裁きをおいて他にない。喜びたまえ、アストライアの忠実なる友は、君がその手に取るまでは埃をかぶりはしないだろう〉』」
アーシアはヴィクトリアの壁を調べたが、宝石の鎖のときと同じように、実際には何も刻まれていなかった。彼女は首を傾げていた。
「これ、どういうことかしら。どっちが正しいのかしら」
「どっちが? 」
エドワードは詩の部分を読み直しながら聞いた。アーシアはじれったそうに言った。
「この書き方だと、道がふたつあるみたいだわ。一方は、〈喜びと栄光の座〉に行ける。もう一方は、女神が導いてくれる――」
「でも、〈君がその手に取るまでは埃をかぶりはしないだろう〉って書いてあるよ」
アストライアが何なのか、その忠実な友がなぜ〈埃をかぶる〉などという表現をされているのかはまったく見当がつかなかったが、エドワードはおずおずと意見を述べた。
「一度違う方を選んでも、〈女神の道〉はまた選べるんじゃないかな」
「そうね。そうかもしれない」
アーシアは頷いて、〈喜びと栄光の座〉を開くために鎖を調べはじめた。そうしながら、エドワードに解説してくれた。
「この〈富と栄光の座〉の方、ずいぶん分かりやすく書いてあるわね。獅子座、乙女座、水瓶座、魚座、双子座の順番で鎖を引けってことだわ。酌夫っていうのは、水瓶座の瓶を持ってるガニュメデスっていう男の子のことよ。神さまたちにお酒を注いで回る仕事をしているの」
「アストライアってなに? 」
とエドワードは質問した。アーシアの知識には隙がなかった。
「女神さまの名前よ。乙女座の乙女が誰なのかはいろいろ説があるんだけど、アストライアだっていう人もいるわ。豊かな時代が過ぎて、人間の心が荒んで争いを起こすようになった時代に、他の神さまが呆れて天に帰ってしまったあと、アストライアだけは正義の天秤を持って人々に道徳を説いて回ったそうよ。結局は、彼女も人間を見限ってしまうのだけどね」
「じゃあ、〈アストライアの忠実な友〉っていうのは、天秤のことかな? 」
「多分そうね。〈女神の道〉へ行くなら、天秤座の鎖を引けばいいんじゃないかしら」
だがひとまず、ふたりは〈喜びと栄光の座〉への道を開くことにした。鎖を順に引くと、壁の中でからくりが動く音がして、アーチの鉄格子は巻き上げられた。
アーシアは最初に引いた獅子座の鎖を指で掬い上げた。
「わたし、獅子座なの」
「似合うね」
エドワードは占いに詳しくないが、堂々として、燃え立つような知識欲と好奇心を持つアーシアに、獅子の誇らかな姿はふさわしく思えた。
「僕、天秤座だったような気がするんだけど……」
エドワードは言ったが、獅子や乙女に比べて、天秤というものがどんな性質を表しているのかがさっぱり分からなかった。他の鎖はみな生きものがくっついているのに(水瓶座でさえ、少年が瓶を抱えている形なのだ)、天秤座だけは、古い形の天秤がそっけなくぶら下がっているだけだ。今まで自分が何座の生まれだろうと大して気にもしてこなかったが、獅子にふさわしいとは言えない自分の性格を顧みれば、少し情けないような気もした。
アーシアはアーチを通って歩きながらも、エドワードを観察した。
「天秤座の人って、よく社交的だなんて本に書いてあるんだけど、わたしの思ってた〈社交的〉には、あなたは当てはまらないみたいね」
「君の思ってる〈社交的〉って、どんなの? 」
「そうね、話好きで、愛想がよくって、誰とでも友だちになれる……みたいな人のことだと思ってたわ。あなたはそうじゃないでしょ? あまり口数は多くないし、思っていることを何でも喋ったりはしないじゃない。だけど、あなたって本当は、口に出すことの何倍も頭で考えてるんじゃないかしら」
そうかな、とエドワードは思った。みんなは、話すことと考えることが同時にできるんだろうか? それとも、何も考えなくてもちゃんと話ができるのかな。だって、その話題がその場に合うかどうかなんて、すぐには分からないじゃないか?……
「ほら、また考えてる」
横からアーシアが言い、エドワードははっとした。
「ほんとだ。僕、みんなそうだと思ってたよ……」
「世の中には、思ったことを考えなしに口に出せる人もいるのよ。そういう人たちはやってしまってから後悔したりするものだけど、あなたの場合は、やらなくて後悔することが多いんじゃない? 天秤は、公平さの象徴よ。みんなにとっていい結論が出せるように、少し考えすぎてしまうのかもしれないわね」
確かにそうかもしれない、とエドワードはこれまでの人生を振り返った。もっとはっきり主張すればよかった、どう思っているか、何がほしいかをきちんと伝えればよかった。エドワードがとりあえず思い出せるそうした後悔はすべて、その場にそぐわないという理由で考えを口に出すことなく抹殺したのが原因だった。警察に引っ張っていかれそうになったときだって、身内同然の親方を突然奪われた悲しみや、やるせなさや、疑われた惨めさを、もっと訴えればよかった(もっともそれは、リジーさんが十分すぎるほど肩代わりしてくれたのだが)。黙っているからと侮られ、頭ごなしに疑われたことをもっと怒ればよかったのだ。だがそれも、やらないままに終わった。
今回の旅だって、みずから思い立ったものではなかったではないか? そもそもクレイハーが来なければあの店から出ようとは思わなかっただろうし、思ったとしても実行はされなかったに違いない――そんなに店を空けるわけにはいかない、とかなんとか理由をつけて。もしアンメリー号に乗るまでが奇跡的に達成されたとしても、アーシアがいなかったとしたらどうだろう? 現に、ルーミアへ行こうと言い出したのは、アーシアではなかったか?
そして、その先でエドワードが見つけたのが、この時計台だった。エドワードの人生から永遠に奪われてしまったはずのふたりが残した、素晴らしい仕事――。
「ありがとう」
急にお礼を言われて、アーシアは目をぱちくりさせた。エドワードが自分の考えすぎを自覚していなかったように、アーシアもまた、エドワードに特別なことをしたとは思っていないのかもしれないけれど。
「君がいなければここまで来られなかった」
「本当ね」
アーシアははにかんだ。魅力的な笑顔だった。
「あなた、歯車のことほど本に詳しくないんだもの。でも、それでよかったのよ。セオにだって、ブランカがいるもの。ブランカだって、セオがいなければ冒険に出ることはなかったんだわ」
アーチをくぐった先の道はやがて終わり、突き当たりには、これまでヴィクトリアで見たどんな扉よりも頑丈そうな扉があった。取っ手も鍵穴もない。中央から開くようにできていることは分かるが、木製でも無理に突破するのは骨が折れるだろうというくらいに大きなその扉は金属でできていた。
「今度はボタンだわ」
アーシアは扉の脇に膝をついてエドワードを呼んだ。細かな模様の刻まれた押しボタンが四つ並んでいる。扉と同じ金属でできていた。
アーシアは例によって『セオとブラン・ダムのおはなし』を開いたが、しばらくページをあちこち行ったり来たりしてから、途方に暮れたような顔をエドワードに向けた。
「書いてない」
「えっ? 」
「星座の鎖のあと、何の仕掛けについても書いてないわ……ほら、見て、ここ。『〈喜びと栄光の座〉は、いまや彼らの目前に迫っていた――がらがらという耳障りな音とともに鉄格子は姿を消し、新たな秘密の通路が現れた。一体、ここはブラン・ダムのどこに位置するのか? この通路に入れるのはごく限られた人々であることには違いないが、それ以外の圧倒的な大勢の目からこの時計台のもうひとつの顔を完璧に隠しおおせてきたであろう設計者たちの、なんと優秀なことだろう!
突き当たりには扉があった――セオは扉を開けた。最後の扉だ。部屋へ入るなり、セオとブランカは立ちすくんだ。ブラン・ダムの秘密! 一本の小さな鍵から辿り着いた秘密の、なんと大きなことだろう! それは驚くべき光景だった。』」
エドワードは試しに扉を押してみたが、びくともしなかった。
「まるで魔法の迷宮だわ――ちゃんと手順を踏まないと、誰もこの扉には入れないんだもの! 」
アーシアはやけを起こし、足を投げ出した。
「解く方法さえ分かれば簡単に解決できるところも魔法と似てるね」
エドワードは諦めずに扉を調べた。
「ここまで来られたのに、最後の仕掛けだけ動かせないなんてこと、あるもんか。書いてないなら、理由があるはずだ」
扉は、ドルトン氏とコーディ氏の設計がいかに優れたものであったか、その設計に応えた職人たちがいかに優秀で丁寧であったかということの他は、何も教えてくれなかった。二枚の扉はエドワードの調査を頑として受けつけず、どんなに叩いてもわずかな隙間さえできないように作られていた。
アーシアはボタンを調べていたが、宝石や星座のときのように冴えた考えがあるようではなかった。アーシアはボタンの絵柄を見ながらしきりと首を傾げた。
「分からないわ。何を表してるのかしら、このボタン。これ、フクロウでしょ。その横が、ヘビ。それに、これはアナグマね」
「その、一番左の木は? 」
「リンゴかしら。ちょっと枝ぶりが違うような気もするけど……枝に実がついてるものね。ここにヘビもいるし、多分リンゴだわ。でも、だとすると、フクロウとアナグマは何かしら」
角灯の光に、フクロウの両目と、木の枝の実がきらきら輝いた。宝石がはまっているのだ。アナグマとヘビは彫金してあるだけだったが、それぞれ違う金属で作られているらしかった。アナグマは明るい日の下で見れば恐らく銀色に、ヘビの方は金色に、それぞれ煌めいて見えたことだろう――いや、待てよ。
「リンゴじゃない」
アーシアが訝しげにエドワードを見た。エドワードはボタンの前にかがみこんだ。
「これ、ナナカマドだよ! ナナカマドの木の絵なんだ……ほら、リンゴよりずっと実の感じが小さいもの」
「ナナカマド? 」
「親方がよく歌ってた歌があるんだ。フクロウと、アナグマと、ニシキヘビと……ナナカマドが出てくる歌」
アーシアが息を呑んだ。驚きのあまり言葉はすぐに出てこなかったが、黙ったままでもエドワードに場所を譲ることはできた。
「押してみて。歌に出てくる順番の通りに」
アーシアは胸をさすりながらエドワードを促した。
「ドルトンさんのしてほしかった通りに……あなたが押さなくてはならないのよ」
赤い木の実のナナカマド……固いボタンだ。エドワードは親指でボタンを押しこんだ。青い目をしたフクロウ……銀の毛皮のアナグマ……何かが何かにぶつかる音がした。もう少しだ。金の尾をしたニシキヘビ。
ばちんと音がして、辺りが急に賑やかになった。祝福の音楽はなかったが、エドワードには同じ意味のある音だ。歯車が回り、鎖が引っ張られる音――叩いても蹴っても揺れさえしない扉を動かすために、ドルトン氏はずいぶん大がかりな設計をしなくてはならなかったようだ。時計が千個周りを取り囲んでいるかのような、ささやかだが正確な音の波とともに、最後の扉がひとりでに開いた。部屋にはガラスの入った大きな天窓があり、月明かりがヴィクトリアの〈驚くべき光景〉を照らしだしていた。
中は見事なからくり部屋だった。見上げるエドワードとアーシアの頭の上で、さっき上を歩いてきたのよりも大きな歯車が、いくつも回っている。
エドワードの見立て違いでなければ――そして、ティリパット氏ことレイクフィールド卿が、図書館を丸ごと寄贈するほどの財力の持ち主であったことを考えるのなら、なぜこの部屋ひとつのためにこれほど凝った演出が必要だったか、その謎はたった今解けた。
青白い月明かりにもごまかされない、輝かな煌めき……部屋の中の歯車は、ひとつ残らず金でできていた。
エドワードはアーシアが持っていた角灯で森の中を照らしてみた(アーシアはいつどこにいても本が読めるように、いつも小さな角灯を持ち歩いているのだ)。アーシアが小さな悲鳴を上げた。辛うじて足元を明るくする程度の光だったが、そばの木の枝の上でじっとしていたフクロウの目をぴかりとさせるには十分だったのだ。
「あなた、勇敢なのね」
先に立って歩くエドワードをこわごわ追いながらアーシアが言った。エドワードだって、怖くないわけではなかった。彼より大人で、もっと冷静な人物であっても、フクロウの鳴き声のする真っ暗な森をさまよい歩くはめになったなら、一度ならず木の幹に映る自分の影をぎくりと振り向くくらいのことはするだろう。だが、アーシアが普段の気の強さには不釣り合いなくらい怖がるので、ならば自分が、と気丈に振る舞うしかなかったのだ。
たまりかねたアーシアにシャツの袖を引っ張られたとき、妙に晴れがましいような気持ちになって、腕を貸しながらエドワードは笑った。
「君、夜にしか出てこない魔法の生きものとか、たくさん知ってるんだろ? 妖精とかユニコーンとか、どっかにいるかもしれないよ」
アーシアはエドワードの腕につかまりはしたが、にこりともしなかった。
「夜の森で妖精になんか会ったらどこかへさらわれるわ。ユニコーンがもし出てきたら、あなた、突き殺されるわよ」
角灯の灯りに見る〈入り口の木〉は、魔物が夜になって本当の姿を見せたという感じで、ますます怪物じみた迫力があった。まったく果てのない闇が広がっているようにも見えたが、エドワードとアーシアは、意を決して木のうろへ入った。広く見えるのは暗いせいで、実際は頭がつかえたところから木くずがぱらぱら散らばるくらいに狭く、エドワードもアーシアも屈まなければならなかった。時計台の外にある秘密にまで父や親方が関わっているかは分からなかったが、少なくとも、ドルトン氏がこの木に入るのは大変だっただろうとエドワードは思った。ドルトン氏はさほど背の高い方ではなかったが恰幅がよく、丸い腹に油染みだらけの前掛けをかけてのしのし歩く人だった。
隠し通路の蓋はもうかなり古びていて、重たかった。エドワードが念のためかぶせておいた枯れ葉を退けてから押し上げると、奥の方からひんやりとしたカビ臭い風が吹き上がってきた。アーシアがすかさず中を照らした。
「ずっと先まであるみたい」
地下の階段は、夜の森よりまだ暗かった。万にひとつもそんなことは起こらないでもらいたいと言いたげな口ぶりで、鼠でもいるかもしれないわね、とアーシアは言った。
「お話の中だと、この階段が時計台につながっているのよね? 」
「うん、ブラン・ダムで昔使われてた非常口なんだ。改造工事があって、もう使われていないってことになってる。……でも本当は、この道を通ってしか行かれない場所が時計台の中に新しく作られた、って話なんだ。ヴィクトリアでも、同じなんじゃないかな」
エドワードはアーシアから角灯を受け取り、そろそろと階段を下りはじめた。階段は切り出した石でできていて、一段一段が頑丈にエドワードの体重を支えた。
「階段を下りて平らな道をしばらく行くと、今度は上りになる……」
秘密の通路はわずかな音をよく跳ね返し、頼りない角灯の灯りしかない中では、たったふたりの足音さえ何重にも反響するのが不気味だった。明らかに倍以上の人数が歩き回っているように聞こえたし、今の一歩で立てたのがどの音なのかはだんだんと分からなくなり、変わりばえのしないじめじめした暗い通路が永遠に続くように思えたあとで、夢から覚めるようにはっと我に返ったりした。エドワードもアーシアも無言だった。
だが、陰気な道は間もなく終わった。セオとブランカが辿ったように上向きの階段を上り、やがてふいに空気の匂いが変わって、これまでとは違うところへ来たのだと分かった。地下を出たのだ。息はしやすくなったが、通路は急に狭くなり、ふたりで並んで歩くことはできそうもなかった。
「気をつけて! 」
アーシアが叫んだ。エドワードが急に早足になったからだ。
何段か先の左右の壁から、不思議な光が射していた。両側に同じ模様の透かし窓がある。左の窓からは、吹き抜けの四角い建物の様子が見えた。ずっと上の方に、鈍く光る黒いものが下がっている。時計の錘だ。どこかから月の光が青白く射し、森や地下の暗さに慣れた目には意外なくらいに、ヴィクトリアの中は明るかった。
「〈真理と時〉の絵が見えるわ。ヴィクトリアの入り口ね」
右の窓を覗いたアーシアが言った。
「この階段、壁と壁の間にあるんだわ! そう書いてなかった? 」
「ううん。普通の場所からは見えないところとしか。……この階段を全部上ったら、突き当たりに扉があるはずだ。例の、鍵の模様の扉が」
「おもしろいわね」
アーシアは興奮を押し殺した声で言った。
「これが、現実だっていうんだもの……」
階段はヴィクトリアの形に沿って時折直角に曲がりながらかなり長く続いたが、一体何階分上がったのだろう、そろそろ大時計のそばくらいに来たんじゃないか、という考えがエドワードの頭の中をぐるぐると渦巻きはじめた頃、突然終わりが見えた。角灯の光を、鋭く反射するものが前にある――それは金属製の小さな扉についている、女神の両目にはめられた丸い鏡の反射だった。押すと、派手に軋みながらも簡単に開いた。中に入ってみると、部屋の壁には一面に扉と似たような飾りが――開けても石壁があるだけだった――つけられていて、一度閉めてしまえばどれが本物の扉なのか分からないようになっていた。追われているときには入りたくない部屋ね、とアーシアが呟いた。
小さな部屋いっぱいに人形の並んだ木の台が置かれていて、下から大きな歯車の歯がいくつも覗いている。大時計の裏側に違いない、とエドワードは思った。そばへ寄るとエドワードより大きい時計の裏側は歯車と金具がぎっしり詰まっていて、眠っている人が静かな寝息を立てるみたいに、今この瞬間も、規則正しくごとごとと音をさせながら時を刻み続けていた。とても美しかった。
「きれいだなあ……」
「これ……こんな複雑なもの、一体どうやって作るのかしら? どうしてこの歯車の組み方で、あんなふうに人形を動かせるのかしら? 」
アーシアは恐る恐るというふうに、回り続ける歯車や黙っている人形たちをエドワードの肩越しにそっと窺った。
「時間が来たら、大時計の歯車と人形が連動するようになってるんだね」
エドワードは手近な仕掛けを調べた。それは、人形をレールに沿って進ませたり、躍らせたりするためのものだと分かった。
「時計の中に組み込まれている歯車が決まった時間にこっちの人形の台の歯車に引っかかるようになってて、そうするとこの人形が動くようにできてるんじゃないかな。文字盤が横に開く仕掛けも一緒に動くようにできてるはずだ……すごく複雑な設計だよ」
アーシアは、しばらくエドワードとからくりとを交互に見比べていた。それから、魔法みたいだわ、と呟いた。これは、アーシアの最大級の賛辞なのだ。
「あなたの親方って、魔法みたいなことができる人だったのね。それが分かるあなたも、魔法使いみたい。あなたにとっては当たり前のことでも」
さて、セオとブランカの足取りを追うなら、この大時計の部屋の〈右壁にある小さな鉄の扉〉を探し出さなければならない。中には色違いの宝石飾りがついた五本の鎖が下がっていて、〈人と似た石〉の鎖だけが最初の仕掛けを動かすことができるのだ。
それで、この部屋の意味が分かった。ふたりが一面にくっついている飾りの扉を手当たり次第に調べると、右壁の左から三番目の飾り扉の内側が浅く削られていて、宝石のついた五本の鎖が収まっているのを見つけた。さらに、ふたりが通ってきたものの他に、もうひとつだけどうやら本物らしい扉があるのも分かった。だが、この扉は固く閉ざされていた。
「〈人と似た石〉の仕掛けが解けたら、この扉が開くのかしら? 」
アーシアは扉の隙間から何か見えはしないかと頑張ったが、何も手がかりはなかった。
「時計を管理してる人が使ってるのかもしれない」
とエドワードは言った。大時計の正確さを保つために、数日おきにでもねじを巻く役割をする人物が必ずいるはずだった――ドルトン親方やエドワード自身が、ポート・オブ・メイカーの時計台でそうしていたように。それは、昼間時計台について説明してくれたあの管理人かもしれなかった。だとすれば、彼はどこまでこの時計台の秘密を知っているのだろう? 自分が出入りする扉のすぐ脇に、誰も開いたことのない隠し扉が隣り合っているかもしれないことは?
何にせよ、ふたりはさしあたって宝石の仕掛けを解かなくてはならなかった。エドワードは角灯を近づけたが、赤味を帯びた光の下では、正確な色など分からなかった。
「これ、何色だろう? 」
「全然分からないわ」
アーシアは眉根を寄せて本を取り出した。
「『鎖の宝石の色は右から順に、赤、青、緑、紫、黄色。赤がルビー、青がサファイア、緑がエメラルド、紫がアメジスト、黄色がトパーズだ』ですって。これを信じるしかないわね」
「〈人と似た石〉って、どういうことかな? 」
エドワードは角灯の光に目を凝らしたが、石の表面に何か彫りつけられているとか、ひとつだけ違う磨かれ方をしているとかいうことはなかった。
「いつもきらきらしてるんだから、暗いところでも光ればいいのに……」
「あら、宝石が闇夜の灯りになったっていう話は結構あるのよ。お話の中では、だけど」
アーシアは左から二番目の鎖を手に取った。
「アメジストは人間の女の子が姿を変えられた石っていうお話があるわ。猛獣をけしかけられた女の子を、女神さまが白い石に変えて守るのよね。そこに葡萄酒が注がれたから、紫色の宝石になったんですって」
「じゃあ、アメジストのことかな? 」
「でも、〈人と似ている〉というのとはちょっと違う気もするわ。……ダイヤモンドが入ってれば、分かりやすかったのにね。ダイヤモンドは炭素でできてるから、燃えるのよ」
「怖いこと言うね」
「似てる宝石が多いのはルビーね。昔は、赤い宝石はみんなルビーだって言われていたらしいわ。サファイアは、心変わりを防ぐって言われてるけど……」
アーシアは頬に両手を当てて考え込んだ。先に魔法使いみたいと言われたせいか、その姿は魔法をかける手順を思い出そうとしている魔女のように見えた。アーシアみたいな魔女なら怖くないのにな、とエドワードは思った。
「『「人と似た石って、どういうことだろう? 」とセオは言った。』」
アーシアが角灯を本に近づけて読み上げた。エドワードが続きを読んだ。
「『「見て、ここ。何か彫ってあるわ」とブランカ。壁のかなり低い位置に、小さな字で文章が刻まれている――人。あやまち多きもの。人。瑕疵(かし)なきものなし。人。瑕疵ありて、なおあまりある輝き。人。脆いがため美しい。』」
「人間は欠点が多くて、脆いもの――つまり、傷が多くて脆い石を当てろってことね。それから? 」
「詩に続きがあったみたいだ。石のことも書いてあるよ。『五本の鎖に捕らえたる、五つの輝石の物語。赤と青とは双子の姉妹。色が違ったそのために、そうとは見えずに生き別れ。黄色の君は神の石。陽の恩恵の印とて、敬われたる尊さよ。紫色は哀れな娘。女神の慈悲が身を守り、男神の悔いが身を染める。最後の緑は魅惑の主。傷つきやすく繊細で、輝き満ちる栄光は、気高き王女の御心を、そっと飾るにふさわしい。』」
アーシアは本と照らし合わせて鎖を一本選んだ。ティリパット氏の書いたとおりなら、このきらきら光るどす黒い石は、本当は美しい緑色のエメラルドのはずだ。
そして、実際の壁には何も刻まれていないのを確かめ、もう一度鎖の順番を確認した。
「〈エメラルドと人間に傷のないものはない〉って、聞いたことあるわ」
角灯がじりじり鳴る他は物音ひとつない中で、アーシアの確信に満ちた声は妙に高らかに聞こえた。
「エメラルドって、ものすごく傷が多い石なんですって。それに、〈傷つきやすく繊細〉なら、十分〈瑕疵ありて、なおあまりある輝き〉だし〈脆いがため美しい〉だわ……これで間違いないわ」
「ちょっと待って」
すぐにもエメラルドの鎖を引こうとしたアーシアを、エドワードは慌てて止めた。
「もし引っ張る鎖を間違えたらどうなるんだろう? 」
アーシアは手を引っ込めた。
「間違えたらって? 」
「君の言っていることは正しいと思うし、鎖の順番も本のとおりだと思う」
エドワードは慎重に言った。
「でも、もし万が一にでも、間違ったとき上から刃物が落ちてくるとかだったら……」
「やめてよ! 」
アーシアは悲鳴を上げて飛びのいた。
「そんな仕掛けがあるの? 」
「そりゃ、やってできない設計じゃないと思うけど……そういうの、出てくる本とかないのかい? 」
「ええ、あるわよ。わたしが読んだことあるのはね、ある古いお城に仕掛けられてて――ああ、思い出しちゃったじゃない。その話だと、道を間違えた人は首を切られちゃうの。だって、道を選ぶたびに小さな窓をくぐらなければいけないんだもの。間違えた途端、上から刃物が………。切られた首は、城主が見せしめに門に吊るすのよ。腐って骨になるまでね」
アーシアの声は恨みがましかった。もはや鎖を引く勇気などないのだ。
「僕が引くよ」
エドワードはできる限り明るく言い、少し迷ったが、やはりアーシアの選んだ鎖を握った。念のためああは言ってみたものの、アンソニー・ティリパットに干からびた人間の首を眺める趣味があったとは思えないし、ドルトン氏が人を死なせるようなからくりを設計するはずがない。せいぜい、正解も含めて他の四本すべてに制御がかかり、動かせなくなるくらいだろう――それだって、ここまでやってきたふたりにしてみれば相当な痛手には違いないが――。
エメラルドの鎖はとても重く、軽く引いただけでは動かなかった。力を入れて、思い切って強く引いた――金属の擦れ合う音がして、エドワードが手を放すより早く、エメラルドの鎖は上に巻き上げられてエドワードからもぎ取られてしまった。がたんごとんと、何か大きなものが動いているらしい振動がする。念のためにエドワードもアーシアも壁際から距離を取ったが、上から刃物が落ちてくることも、壁から矢が飛んでくることもなかった。
「どうなったの? 」
アーシアは残った鎖を呆然と、絶望的な顔をして見つめた。
「これでよかったの? ま……間違いだったの? 」
「間違いじゃない」
エドワードは壁の隙間や、足元や、頭の上から響く音に耳を澄ました。誰も動かしたことのない、秘密のからくりが動きはじめた音……ヴィクトリアの真実が明らかにされていく、神聖な解明の音だった。
「聴いてごらんよ……仕掛けが動いてる音がするだろ。ほら、あそこも」
文字盤の歯車が、急にそれまでとは違う回り方をしはじめた。表から見ればアーシアでも長針と短針の動きが分かっただろうが、エドワードは裏から見るだけで十分だった。ティリパット氏が物語で伝えてくれた通りに、今頃二本の針は、十二時の形を目指して別々に回りはじめたに違いない。
そして、その推測がすべて正しいことを証明する祝福の音楽が流れた。本文とは違う趣向だったが、エドワードはしおらしい讃美歌よりも気に入った。
流れたのはあの〈赤い木の実のナナカマド〉(もとは〈青き空の讃歌〉という名前の曲なのだが)で、人形たちも踊り出した。かなり唐突に始まったので、エドワードが引っ張らなければ、人形の台のそばに立っていたアーシアは、台からはみ出ている歯車にスカートを巻き込まれていたかもしれなかった。
「こういうものに近づくときは、スカートを押さえてて」
「ええ」
アーシアは答えたが、ちゃんと聞いていたかは怪しかった。アーシアの注意は、そのとき完全にエドワードから逸れていた。
「あの子、首に鍵をかけてるわ」
「どれ? 」
「あのドワーフよ! 」
アーシアはくるくる回るドワーフの人形を触ろうとしたが、エドワードは彼女を必死に引き留めた。機械の中に巻き込まれた人間がどうなるかなんて、アーシアで試してみなくてもエドワードはよく知っている。あとできちんと、歯車と無鉄砲な人間の〈物語〉をアーシアに話そうか? いや、刺激が強すぎるかもしれない。エドワードは、アーシアにからくりを嫌ってほしくはなかった。
アーシアが無茶をする必要はなかった。音楽が止むのと同時に人形も動かなくなったが、ドワーフの人形だけが仲間と違うことをした。彼は他の人形がみんな元通り文字盤の方を向いても、一体だけエドワードとアーシアの方を向いていた。確かに、胸元に金の鍵が下がっている。彼のための飾りとしては大きすぎるその鍵は、ドワーフが掲げた水晶に引っかかって持ち上がり、ふたりに差し出された。
「セオの鍵だ」
エドワードは手を伸ばして鍵を取った。セオが浜辺の瓶から鍵を見つける場面にあった挿し絵と、そっくり同じ鍵だった。エドワードは鍵穴を探した。ここで鍵を渡される理由が、きっとあるはずだ。そして、人形の台に鍵穴があるのが間もなく見つかった。鍵と同じ、金でできた鍵穴だった。
「下に降りられそうだよ」
台を開けて中を覗いたエドワードがそう言うと、アーシアは冗談でしょ、と小さな声で呟いた。だが、エドワードに続いて、歯車と歯車の間に滑り込んできた。歯車で組み立てられた階段が下まで続いている。台の下に入ると、左右は壁で囲まれていて、蝋燭を三本立てた燭台がひとつだけ置かれていた。
「これ、持っていけってことかな? 」
角灯から光を分けると、その途端、通路はずっと下までかなり明るくなった。
「鏡だわ! 」
アーシアが指差すと、真横の壁に取り付けられた鏡の中のアーシアが反対側の手で――鏡には下向きに角度がついていて、ふたりの肘から下しか見えなかった――指を差し返してきた。時計の錘がふたつすぐそばに見えていて、エドワードたちのかなり下に、先ほど横を通った透かし窓があった。
エドワードはそろりと足を伸ばして、一枚下の歯車をつついた。大丈夫だ。
「降りてみよう。気をつけてね」
「冗談みたいね」
アーシアはおっかなびっくり歯車の上に降りてきたが、ちょっとの段差によろめいてエドワードにしがみついた。見れば、彼女は努めて、下を覗かないようにしているのだった。
「この階段、いきなりばらばらに崩れたりしないわよね? 」
アーシアは上を向いたまま言った。
「高いわよね? 」
「高いね。でも、絶対大丈夫。見てごらんよ、怖くないから」
「信じるわよ」
アーシアはエドワードの腕を掴んだまま、ゆっくりと顔を下へ向けた。
「分かるかい」
エドワードが話す仕草を、何枚もの鏡に映った何人ものエドワードが一斉に真似した。その横のアーシアは、どの鏡の中でも青ざめていた。
「ここの歯車は、最初から人が乗るために――つまり、この道を通るために取り付けられたものだと思うんだ。もしかしたら、違和感がないように歯車の形をしてるだけで、どの機構にも関係ないのかもしれない。一枚一枚もこんなに大きいし、踏み外して落ちても、必ず少し下に受け止めてくれる歯車があるよ」
「それに、床がないのは時計の錘の真下だけだわ。吹き抜けの隣がこんなふうになってるなんて、下じゃ誰も思わないでしょうね! 」
アーシアは身を乗り出して覗きこんだりはしなかったが、声には勢いと明るみが戻った。彼女の言うとおり、歯車の階段が収まっているこの空間は、下から見上げても絶対に見えないようになっていた。ティリパット氏はヴィクトリアの謎にまつわるものを最初から最後まで徹底して無関係の人間の目から隠しとおすつもりだったに違いなかった。
階段を降りきって石の床に足が着くと、アーシアはようやく活き活きとしだした。あんまり端に行くと落ちるよ、というエドワードの声など、彼女の好奇心の前には小さな囁きも同然だった。
「仕掛けがあるわ」
アーシアは壁に張りついた。エドワードが追いついていって横から覗くと、鉄格子のはまったアーチの隣には、また飾りのついた鎖が下がっていた。今度は十二本だ。飾りは宝石ではなく、鋳型で作った錫の人形で、人間や動物がそれぞれ丁寧にかたどられていた。
「これは黄道十二星座だわ。星占いに使われる星座よ」
アーシアは本を取り出し、床にしゃがみ込んで星座の鎖のページを探した。エドワードは角灯を近づけた。
「『下へ下へと続く、その一風変わった階段は大した長さではなかったが、セオは慎重に足場を選んだ。一段ごとに、気持ちがすり減っていくような気がした。冷や汗をかいた手は、よく滑った。』……これ、ここの歯車の階段のことだわ。ティリパットさんて、高いところが好きじゃなかったのかもしれないわね。次だわ……『星座の鎖のすぐ横の壁には、次のような文章が彫りつけられていた。
〈君よ、歌うがいい、獅子のように声高く。踊るがいい、収穫を願う清らかな乙女のように。酌夫の美酒に快く酔い、魚のようにしがらみなく生き、友を片割れのように愛するがいい。快楽の導を選び取り、誤りなく順に辿れば、君は喜びと栄光との座に招かれる。しかし、君が豊かな土壌を秘め、美しい琴線を備えているのならば、君を真に導いてくれるのは清廉な女神の裁きをおいて他にない。喜びたまえ、アストライアの忠実なる友は、君がその手に取るまでは埃をかぶりはしないだろう〉』」
アーシアはヴィクトリアの壁を調べたが、宝石の鎖のときと同じように、実際には何も刻まれていなかった。彼女は首を傾げていた。
「これ、どういうことかしら。どっちが正しいのかしら」
「どっちが? 」
エドワードは詩の部分を読み直しながら聞いた。アーシアはじれったそうに言った。
「この書き方だと、道がふたつあるみたいだわ。一方は、〈喜びと栄光の座〉に行ける。もう一方は、女神が導いてくれる――」
「でも、〈君がその手に取るまでは埃をかぶりはしないだろう〉って書いてあるよ」
アストライアが何なのか、その忠実な友がなぜ〈埃をかぶる〉などという表現をされているのかはまったく見当がつかなかったが、エドワードはおずおずと意見を述べた。
「一度違う方を選んでも、〈女神の道〉はまた選べるんじゃないかな」
「そうね。そうかもしれない」
アーシアは頷いて、〈喜びと栄光の座〉を開くために鎖を調べはじめた。そうしながら、エドワードに解説してくれた。
「この〈富と栄光の座〉の方、ずいぶん分かりやすく書いてあるわね。獅子座、乙女座、水瓶座、魚座、双子座の順番で鎖を引けってことだわ。酌夫っていうのは、水瓶座の瓶を持ってるガニュメデスっていう男の子のことよ。神さまたちにお酒を注いで回る仕事をしているの」
「アストライアってなに? 」
とエドワードは質問した。アーシアの知識には隙がなかった。
「女神さまの名前よ。乙女座の乙女が誰なのかはいろいろ説があるんだけど、アストライアだっていう人もいるわ。豊かな時代が過ぎて、人間の心が荒んで争いを起こすようになった時代に、他の神さまが呆れて天に帰ってしまったあと、アストライアだけは正義の天秤を持って人々に道徳を説いて回ったそうよ。結局は、彼女も人間を見限ってしまうのだけどね」
「じゃあ、〈アストライアの忠実な友〉っていうのは、天秤のことかな? 」
「多分そうね。〈女神の道〉へ行くなら、天秤座の鎖を引けばいいんじゃないかしら」
だがひとまず、ふたりは〈喜びと栄光の座〉への道を開くことにした。鎖を順に引くと、壁の中でからくりが動く音がして、アーチの鉄格子は巻き上げられた。
アーシアは最初に引いた獅子座の鎖を指で掬い上げた。
「わたし、獅子座なの」
「似合うね」
エドワードは占いに詳しくないが、堂々として、燃え立つような知識欲と好奇心を持つアーシアに、獅子の誇らかな姿はふさわしく思えた。
「僕、天秤座だったような気がするんだけど……」
エドワードは言ったが、獅子や乙女に比べて、天秤というものがどんな性質を表しているのかがさっぱり分からなかった。他の鎖はみな生きものがくっついているのに(水瓶座でさえ、少年が瓶を抱えている形なのだ)、天秤座だけは、古い形の天秤がそっけなくぶら下がっているだけだ。今まで自分が何座の生まれだろうと大して気にもしてこなかったが、獅子にふさわしいとは言えない自分の性格を顧みれば、少し情けないような気もした。
アーシアはアーチを通って歩きながらも、エドワードを観察した。
「天秤座の人って、よく社交的だなんて本に書いてあるんだけど、わたしの思ってた〈社交的〉には、あなたは当てはまらないみたいね」
「君の思ってる〈社交的〉って、どんなの? 」
「そうね、話好きで、愛想がよくって、誰とでも友だちになれる……みたいな人のことだと思ってたわ。あなたはそうじゃないでしょ? あまり口数は多くないし、思っていることを何でも喋ったりはしないじゃない。だけど、あなたって本当は、口に出すことの何倍も頭で考えてるんじゃないかしら」
そうかな、とエドワードは思った。みんなは、話すことと考えることが同時にできるんだろうか? それとも、何も考えなくてもちゃんと話ができるのかな。だって、その話題がその場に合うかどうかなんて、すぐには分からないじゃないか?……
「ほら、また考えてる」
横からアーシアが言い、エドワードははっとした。
「ほんとだ。僕、みんなそうだと思ってたよ……」
「世の中には、思ったことを考えなしに口に出せる人もいるのよ。そういう人たちはやってしまってから後悔したりするものだけど、あなたの場合は、やらなくて後悔することが多いんじゃない? 天秤は、公平さの象徴よ。みんなにとっていい結論が出せるように、少し考えすぎてしまうのかもしれないわね」
確かにそうかもしれない、とエドワードはこれまでの人生を振り返った。もっとはっきり主張すればよかった、どう思っているか、何がほしいかをきちんと伝えればよかった。エドワードがとりあえず思い出せるそうした後悔はすべて、その場にそぐわないという理由で考えを口に出すことなく抹殺したのが原因だった。警察に引っ張っていかれそうになったときだって、身内同然の親方を突然奪われた悲しみや、やるせなさや、疑われた惨めさを、もっと訴えればよかった(もっともそれは、リジーさんが十分すぎるほど肩代わりしてくれたのだが)。黙っているからと侮られ、頭ごなしに疑われたことをもっと怒ればよかったのだ。だがそれも、やらないままに終わった。
今回の旅だって、みずから思い立ったものではなかったではないか? そもそもクレイハーが来なければあの店から出ようとは思わなかっただろうし、思ったとしても実行はされなかったに違いない――そんなに店を空けるわけにはいかない、とかなんとか理由をつけて。もしアンメリー号に乗るまでが奇跡的に達成されたとしても、アーシアがいなかったとしたらどうだろう? 現に、ルーミアへ行こうと言い出したのは、アーシアではなかったか?
そして、その先でエドワードが見つけたのが、この時計台だった。エドワードの人生から永遠に奪われてしまったはずのふたりが残した、素晴らしい仕事――。
「ありがとう」
急にお礼を言われて、アーシアは目をぱちくりさせた。エドワードが自分の考えすぎを自覚していなかったように、アーシアもまた、エドワードに特別なことをしたとは思っていないのかもしれないけれど。
「君がいなければここまで来られなかった」
「本当ね」
アーシアははにかんだ。魅力的な笑顔だった。
「あなた、歯車のことほど本に詳しくないんだもの。でも、それでよかったのよ。セオにだって、ブランカがいるもの。ブランカだって、セオがいなければ冒険に出ることはなかったんだわ」
アーチをくぐった先の道はやがて終わり、突き当たりには、これまでヴィクトリアで見たどんな扉よりも頑丈そうな扉があった。取っ手も鍵穴もない。中央から開くようにできていることは分かるが、木製でも無理に突破するのは骨が折れるだろうというくらいに大きなその扉は金属でできていた。
「今度はボタンだわ」
アーシアは扉の脇に膝をついてエドワードを呼んだ。細かな模様の刻まれた押しボタンが四つ並んでいる。扉と同じ金属でできていた。
アーシアは例によって『セオとブラン・ダムのおはなし』を開いたが、しばらくページをあちこち行ったり来たりしてから、途方に暮れたような顔をエドワードに向けた。
「書いてない」
「えっ? 」
「星座の鎖のあと、何の仕掛けについても書いてないわ……ほら、見て、ここ。『〈喜びと栄光の座〉は、いまや彼らの目前に迫っていた――がらがらという耳障りな音とともに鉄格子は姿を消し、新たな秘密の通路が現れた。一体、ここはブラン・ダムのどこに位置するのか? この通路に入れるのはごく限られた人々であることには違いないが、それ以外の圧倒的な大勢の目からこの時計台のもうひとつの顔を完璧に隠しおおせてきたであろう設計者たちの、なんと優秀なことだろう!
突き当たりには扉があった――セオは扉を開けた。最後の扉だ。部屋へ入るなり、セオとブランカは立ちすくんだ。ブラン・ダムの秘密! 一本の小さな鍵から辿り着いた秘密の、なんと大きなことだろう! それは驚くべき光景だった。』」
エドワードは試しに扉を押してみたが、びくともしなかった。
「まるで魔法の迷宮だわ――ちゃんと手順を踏まないと、誰もこの扉には入れないんだもの! 」
アーシアはやけを起こし、足を投げ出した。
「解く方法さえ分かれば簡単に解決できるところも魔法と似てるね」
エドワードは諦めずに扉を調べた。
「ここまで来られたのに、最後の仕掛けだけ動かせないなんてこと、あるもんか。書いてないなら、理由があるはずだ」
扉は、ドルトン氏とコーディ氏の設計がいかに優れたものであったか、その設計に応えた職人たちがいかに優秀で丁寧であったかということの他は、何も教えてくれなかった。二枚の扉はエドワードの調査を頑として受けつけず、どんなに叩いてもわずかな隙間さえできないように作られていた。
アーシアはボタンを調べていたが、宝石や星座のときのように冴えた考えがあるようではなかった。アーシアはボタンの絵柄を見ながらしきりと首を傾げた。
「分からないわ。何を表してるのかしら、このボタン。これ、フクロウでしょ。その横が、ヘビ。それに、これはアナグマね」
「その、一番左の木は? 」
「リンゴかしら。ちょっと枝ぶりが違うような気もするけど……枝に実がついてるものね。ここにヘビもいるし、多分リンゴだわ。でも、だとすると、フクロウとアナグマは何かしら」
角灯の光に、フクロウの両目と、木の枝の実がきらきら輝いた。宝石がはまっているのだ。アナグマとヘビは彫金してあるだけだったが、それぞれ違う金属で作られているらしかった。アナグマは明るい日の下で見れば恐らく銀色に、ヘビの方は金色に、それぞれ煌めいて見えたことだろう――いや、待てよ。
「リンゴじゃない」
アーシアが訝しげにエドワードを見た。エドワードはボタンの前にかがみこんだ。
「これ、ナナカマドだよ! ナナカマドの木の絵なんだ……ほら、リンゴよりずっと実の感じが小さいもの」
「ナナカマド? 」
「親方がよく歌ってた歌があるんだ。フクロウと、アナグマと、ニシキヘビと……ナナカマドが出てくる歌」
アーシアが息を呑んだ。驚きのあまり言葉はすぐに出てこなかったが、黙ったままでもエドワードに場所を譲ることはできた。
「押してみて。歌に出てくる順番の通りに」
アーシアは胸をさすりながらエドワードを促した。
「ドルトンさんのしてほしかった通りに……あなたが押さなくてはならないのよ」
赤い木の実のナナカマド……固いボタンだ。エドワードは親指でボタンを押しこんだ。青い目をしたフクロウ……銀の毛皮のアナグマ……何かが何かにぶつかる音がした。もう少しだ。金の尾をしたニシキヘビ。
ばちんと音がして、辺りが急に賑やかになった。祝福の音楽はなかったが、エドワードには同じ意味のある音だ。歯車が回り、鎖が引っ張られる音――叩いても蹴っても揺れさえしない扉を動かすために、ドルトン氏はずいぶん大がかりな設計をしなくてはならなかったようだ。時計が千個周りを取り囲んでいるかのような、ささやかだが正確な音の波とともに、最後の扉がひとりでに開いた。部屋にはガラスの入った大きな天窓があり、月明かりがヴィクトリアの〈驚くべき光景〉を照らしだしていた。
中は見事なからくり部屋だった。見上げるエドワードとアーシアの頭の上で、さっき上を歩いてきたのよりも大きな歯車が、いくつも回っている。
エドワードの見立て違いでなければ――そして、ティリパット氏ことレイクフィールド卿が、図書館を丸ごと寄贈するほどの財力の持ち主であったことを考えるのなら、なぜこの部屋ひとつのためにこれほど凝った演出が必要だったか、その謎はたった今解けた。
青白い月明かりにもごまかされない、輝かな煌めき……部屋の中の歯車は、ひとつ残らず金でできていた。
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