【毎日20時更新】怪盗ジェスターと人食い鬼

ユーレカ書房

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一、疑い

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 「僕じゃありませんよ」

 雅文は我知らず言い訳がましい口調になるのをどうすることもできなかった。だが、目の前の客人が納得しようがしまいが、やっていないものはやっていない。

 それに、何としてもこの疑いは晴らさなければならなかった。なぜなら――。

 「みんな最初はそう言うんだよ、マサフミ! 」

 ラウール団長は雅文の事務所の机に彼自身が並べた新聞記事の切り抜きを両手で叩いた。

 「ホシは上がってるんだ! 早いとこ認めた方が身のためだよ! 」
 「どこで覚えたんです、そんな言い回し」

 ラウール団長はわっと泣き伏した。彼が現役の舞台人だった頃からの仕草は、なかなか彼の体から抜けないらしい。

 「だって、ひどいじゃないか! 僕はてっきり、君が僕との約束をきちんと守って仕事をしてるとばかり思っていたのに、まさか殺人事件を起こしてるだなんて! 」

 雅文はしびれを切らした。

 「だから、僕じゃありませんて! 」



 橋本はしもと雅文まさふみは、常に隣近所の噂の的だった。肩書き、私立探偵。それだけでも世間からはかなり浮いているのに、彼の事務所にはときおり異国人の優雅な紳士がやって来るということで、勝手気ままに尾ひれをつけた数々の噂がおもしろおかしくまことしやかに井戸端で囁かれ、酒の肴にされた。

――外国帰りで、何種類も言葉を話せるらしい。

――どうやら、今は亡きナントカ伯爵の血縁だとか。

――いや、旅回りの劇団で俳優をしていたと聞いた。

――となると、よくやって来るあの紳士は、昔の知り合いか、俳優仲間か、貴族か。

――あの人も、あんまり見かけない色の目をしてるしな。……

 雅文がいかにも呑気で穏やかな紳士という風采だったせいで、おおよそこんな噂が事務所を開いたときからずっとつきまとっていた。人で溢れる帝都の一角とはいえ難事件などそうそう起こるはずもなく、持ち込まれる相談ごとといったら飼い猫探しやら恋人の素行調査やら――こんなのはまだマシな方で、ほとんどは犬の散歩の代行だとか、電球の交換だとか、簡単な御用聞きのような依頼ばかりだった。

 それでも腐ることなく、頼めばなんでも快く引き受けてくれる雅文は人から好かれたが、ろくに報酬も出なそうな仕事ばかりなのに困っている様子もないその暮らしぶりは人々にとっては実に謎めいたもので、それがいっそう妙な噂の発生に一役買っているのだった。

 雅文は、何でも噂が出るに任せて笑っているばかりだった。むしろ、派手な話になればなるほどおもしろがり、みずから思わせぶりなことを口にしたりもした。おもしろ半分で怪奇小説顔負けのとんでもない話ができ上がっても、雅文は一向に構わなかった――彼をよく訪ねてくるラウール団長も似たようなもので、雅文を訪ねてくるたびに新しい噂ができていはしないかとご近所に聞き込みして回るのだった。

 「マサフミ、君はいつから鼠小僧の末裔と勝負してたんだい」

 この日ラウール団長がそう言いながら事務所に入ってきたときも、雅文はいつもの調子で彼を迎えた。

 「なんですって? 鼠小僧の末裔? 僕が? 」
 「君じゃない……うん、今の・・君じゃない。鼠小僧の末裔が帝都を騒がせていて、君はそれを捕まえるために日々のんびりしているふりをして世を忍んでいるんだとかなんとか」
 「鼠小僧ってなんだかご存じなんですか? 」
 「ニホンの有名な義賊だろう。怪盗ジェスターが、一部からはそう呼ばれているらしいよ」

 ラウール団長は青い目をきらきらと輝かせた。

 「わたしの言ったとおりだったね。派手な噂は、真実を覆い隠す……使いこなせれば、実に便利だ」
 「最近じゃ、あなたが本国を追われた欧州の貴族で、僕がそのご落胤だとか言われてるらしいです」
 「なかなかの推理だ。当たらずとも遠からじってとこだね」

 ラウール団長は雅文が出した紅茶のティーバックを自分で上下させて味を濃くしながら、ふとひやりとするような鋭い目で雅文を見た。雅文は身構えた――この人がこういう目をするときは、たいていロクなことを言い出さない。

 「君、もう聞いたかな? 」

 ラウール団長は恋人に花を差し出すのと似た仕草で、コートの内側から取り出した紙の束を雅文に差し出した。新聞や、大衆向けの雑誌の切り抜きのようだ。雅文は一番上に乗っている切り抜きの見出しを読み上げた。

 「〈恐怖! 遺産目的か? 月夜の惨劇〉」
 「他にもあるよ……〈「輝石王」殺害さる……あまたのきらめきに包まれた旧家の光と影〉。宝石商の宮園みやぞの芳竹よしたけ氏とその妻が、何ものかに殺害された、という事件だね。起きたのは三か月前だ。輝石王……有名だね。わたしは、お目にかかったことはないけど」
 「話は聞きましたよ。大きく取り上げられましたからね」

 雅文は自分のカップに角砂糖を入れながら切り抜きを読み進めた。宮園夫妻は人から恨まれるような人物ではなく、先々代から受け継いだ商売を正直に続けており、彼らが扱う宝石の質の良さは方々から高い信頼を得ていた。宮園家の人間が代々屋敷で保管しているとされる莫大な財産を狙っての犯行と思われる――。

 ラウール団長は雅文の様子をじっと見つめていた。

 「君は、その事件どう思うかい? 」
 「どうと言われましても……財産目当てだとしたら説明がつきますね。宮園さんご夫妻には、お気の毒でしたが」
 「……それだけ? 」
 「……何か? 」

 突然鼻先に白手袋の指を突きつけられ、雅文は困惑した。ラウール団長は眉間にしわを寄せた。

 「この事件の犯人のひとりに、怪盗ジェスターの名前が挙がっているんだ」

 雅文は一瞬、言葉を失った。人を殺した? 怪盗ジェスターが?
 
 怪盗ジェスター。予告状に記されたその名で呼ばれる彼(彼女という説も一部にはある)の姿を、実際に目にしたものはいない。いとも鮮やかな仕事ぶりに、徹底した義賊ぶり。理不尽な搾取や暴力、詐欺、窃盗などに巻き込まれた人々を知らぬ間に探り当て、瞬く間に救う――名声は帝都に轟き、敵以外からは英雄扱いされ、小説に、舞台に、模倣犯やなりすましも含めれば、彼はどこにでも、誰の前にも現れた。

 一般に義賊と思われているからといってジェスターがまったく殺人を犯すことはないという保証にはならないが、雅文が驚いたのは彼こそが件の義賊――〈怪盗ジェスター〉その人だったからだ。

 あまりに偽物が世に氾濫しすぎ、誰が本物なのか、そもそも本物がいるのか、ジェスターを巡る状況は混乱してはいたが、最初に〈怪盗ジェスター〉を名乗ったのは橋本雅文に他ならなかった。表に向けた私立探偵の看板とその裏に隠した怪盗の看板を使い分け、理不尽な涙に濡れる人々を救い出す。これが、怪盗稼業をはじめたときにジェスターこと雅文がラウール団長と交わした約束であり、彼本人が心に誓ったことでもあった。その誓いは破られたことはなく、彼はただの一度も、自分の才能を〈本当の悪事〉に使ったことはなかった。

 ときに探偵として堂々と玄関をくぐり、ときに怪盗としてひそかに調査を進める――自由にふたつの顔を使い分けることのできる雅文のところへはさまざまな依頼が持ち込まれたが、その性質は自然複雑で立ち入りにくい事情が絡んだものか、司法の光が届かないものに偏った。

 ラウール団長が切り抜きを持ってきた時点で、雅文はこの〈宝石商殺し〉もそうした込み入った事情のある事件なのかと疑っていた――それがまさか、容疑者扱いされようとは。

 「まあ、わたしは君がやったなんて全然思ってないけどね。一応、そういう話もあるってことを耳に入れておこうと思ってさ」

 ラウール団長はひとしきり雅文をからかったあと、けろりと立ち直って紅茶を啜った。雅文の方は、そうも言っていられなかったが。

 彼は自分の正体を悟られないためになりすましをかえって利用し、〈怪盗ジェスター〉という人物の実情をはっきりと掴ませないようにしてきた。もとが義賊である彼になりすますものは偽物であっても義賊じみた振舞いをすることが多く、雅文が注意を払わなければならないほどの事件でジェスターの名が騙られたことはなかったのに――。

 「さすがに、これは捨て置くわけにはいきませんね」

 雅文が深刻な顔をするのと対照的に、ラウール団長は故意でない限りいつ何時とも崩れない悠々とした態度で切り抜きを眺めた。

 「実在が証明できないから正式な容疑者として名前を挙げられないといって、真犯人が名の知れた怪盗を騙った、って線で捜査が進んでるらしいよ。だから、そういう意味では警察含めてジェスターが犯人だなんて真に受けてる人はほとんどいないとは思うけどね。ただ、ジェスターの犯人説は一部で根強い支持を受けてはいる――なんせ君、ドラマティックだからね」

 ラウール団長は美しい発音で言った。雅文はしばらく切り抜きと睨めっこしたが、特に目新しい情報はなかった。

 宝石商の富豪の屋敷が何ものかに襲われ、当主夫妻が死亡。犯人は、怪盗ジェスターを名乗ったらしい……。

 「予告状か何か、あったんですかね」

 雅文が言うと、ラウール団長は首を傾げた。

 「いや、そんな話は聞かないよ。ジェスターは有名だからね。予告状が送られていたら、その段階でもっと騒ぎになってもおかしくない」
 「それなら、どうしてジェスターの名前が出てきたんですかね? 僕、予告状でしか名乗ったことないのに」
 「本人がそう名乗ったんじゃないかい」

 ラウール団長は身を乗り出した。

 「宮園家は大きな家だから、使用人だっていただろう。物音に気がついて駆けつけた彼らに、謎の人物が言う――〈わたしは、怪盗ジェスターだ〉」
 「だとしたら、最初から僕を陥れようとしたってことになりますかね? 」
 「それなら予告状を出すんじゃないかい? 」

 ふたりは顔を見合わせた。正体の分からない犯人像に対して、おもしろ半分で〈ジェスター〉の名が噂された、という可能性はなくはない――ある説には、これまで義賊として知られてきたジェスターだったが、突然宮園家の財産に目がくらんだ。ある説には、宮園芳竹は誠実な取引で知られていた宝石商だったが、実態は見せかけとは乖離したもので、多くの人間から恨みを買っていた。つまり、ジェスターに狙われても仕方のないことを陰で行っていた。またある説には、単に宝石を盗みに入ったものがおり、当主夫妻に発見されたことで衝動的に殺害。逃げ出す間際に、家人にジェスターの名を騙った……あらゆる噂が出回っているようだったが、どれも本当とは思えなかった。

 「大した害はないと思うけど、気になるなら調べてみるかい? 」

 ラウール団長は切り抜きを片づけた。一般に出回っている情報からだけでは、これ以上分かることは増えそうもなかった。

 雅文は身軽に立ち上がり、帽子を手に取った。

 「宮園さんのお屋敷を見にいきます。誰か、情報を持っている人がいるかもしれない」
 「聞き込みは捜査の基本だよね」

 ラウール団長は口笛を吹いた。

 「わたしも行こう――あの辺りの人は、わたしのことを知っているからね。何か話してくれるかもしれない」



 ラウール団長は自身が運営するサーカス小屋を帝都に持っており、宮園家の屋敷はその近くにあるとのことだった。事件当時は捜査官だけでなく近隣の野次馬が集まって毎日ごった返していたそうだが、三か月が経った今はさすがにその人波も引いて、門の鉄扉に鎖が巻かれて出入りが制限されているだけで、敷地内はもちろん周囲も閑散としていた。

 宮園邸は大きな二階建ての洋館で、門の隙間から覗き込むと、大きな庭石がいくつもある庭園が手前に広がっていた。白っぽい無数の敷石がきらきら輝いている。

 ラウール団長は一階の窓のひとつを指さした――その窓だけ、覆いがかけられていた。

 「あそこが、事件が起きた部屋だよ。〈ジェスター〉は目的を果たしたあと、あの窓を破って逃げた。だから、ガラスがないんだ」
 「勤めていた人たちは、どうしたんですかね」
 「いねえよ……みんな散り散りになるしかなかったんだろう」

 雅文の問いに、背後から誰かが答えた。ふたりが振り向くと、小柄な老人が立っていた。

 「あんた、サーカスの団長さんじゃないか。噂の宮園屋敷を見に来たのかい」
 「おお、モナミ我が友よ! 」

 ラウール団長は老人ににこにこと握手を求め、雅文の背中を叩いた。

 「そうなんですよ! どうも、あまり嬉しくない噂を聞きましてね――事件を起こしたのは正体のつかめない怪人だとか、使用人たちに高笑いして霧のように消えてしまったとか。わたしも恐ろしいんで、友人の探偵殿に独自調査をお願いしようと思いましてね」
 「なんだい、そんな話になってるのかい! あんたたちそりゃあ、酒飲み友達に一杯食わされたんだよ! 」

 老人はげらげら笑った。だが、そのうちにラウール団長と雅文が目論んだとおり、大げさな噂に踊らされた情報遅れの野次馬たちに正しいことを教えてやろうという気になったらしかった。彼は声を潜めた。

 「おれのうちはすぐそこなんで、女の悲鳴と、窓のガラスが割れた音まで聞こえたぜ。何の騒ぎだと思って表を見たらそこの道をすごい勢いで走ってく男がいた。あいつがもしかしたら、あんたたちの言う〈怪人〉だったのかもな」
 「男だったんですね? 」
 「ああ、間違いねえな」

 老人は〈探偵〉が自分の証言に真剣な表情で聞き入るのを見て気をよくしたらしい。

 「あの背格好は、男だったよ。暗かったもんであまり詳しい顔かたちなんぞは見えなかったが、別に金品の包みを抱えてたわけじゃなさそうだったぜ。両手を振って走ってたからな」
 「悲鳴を上げた女性というのは、誰だったんですか? 」
 「さあ、はっきり誰とは言えねえな……あの屋敷は、女の方が人数が多かったからな。小間使いか誰かだったのかもしれねえし、奥さんが犯人と鉢合わせしちまったのかも。それに、娘もいたしな」
 「ほう、お嬢さんが」

 ラウール団長はきれいに整えたあごひげを撫でた。老人は頷いた。

 「さっきも言ったように、あの屋敷に勤めてた使用人連中はみんな仕事を変えた。娘は死んじゃいないから残ろうとしたやつもいたようだが、まあ主人夫婦が死んじまったからな。いくら残りたくたって、給金がもらえなくちゃ仕方ねえ」
 「そのお嬢さんは、どうしたんです? 」
 「まだ、家を継ぐには若すぎるからな――十六だか十七だかっていったか。別の家に引き取られたよ。おれは詳しく知らねえが、遠縁の親戚かなんかだったんじゃねえか。こんな町なかじゃなく、もっと山に近いところに屋敷を持ってる、何とかっていう画商の家だ。何ていううちだったか……確か、オノザワだかオノデラだか、そんな名前の家だ」

 老人は痛ましげに眉を寄せた。

 「気の毒な子だよ……突然親が両方殺されちまって、自分だけ生き残っちまった。そりゃあ、こんな人の多いところには置いておけねえわな。ただでさえ誘拐だなんだ、ああいう家の子どもは気をつけなくちゃなんねえってのに、遺産を継げるのがあの子ひとりってなった上に若い娘ときたもんだ。目ぇつけられたらどんな目に遭わされるか分かったもんじゃねえ。――親の方を殺しておいて、娘に取り入って婿になろうとしたやつでもいるんじゃねえかなんて話があるくらいだ」
 「なかなかひどい話だね! 」

 老人に礼を言って来た道を戻りながら、ラウール団長が雅文に言った。

 「宝石だか婿の座だか知らないが、そんなもののために一家の平和をぶち壊しにするとは。僕らには考えもつかない所業だよ」
 「その上、よりにもよって〈怪盗ジェスター〉を名乗るだなんてね」

 雅文は教えてもらった話を整理しながら、やがて考えをまとめた。彼はこの話に、首を突っ込むことに決めたのだった。

 「僕、生き残ったお嬢さんのところへ行ってみようと思います。宝石にしろ婿入りにしろ遺産にしろ、そのお嬢さんがまだ〈偽ジェスター〉に巻き込まれる可能性は高いと思うので」
 「人助けの匂いもするしね」

 ラウール団長は満足そうに笑った。雅文は夕暮れにぼんやりと浮かびはじめたガス灯の明かりを眺めた。遠目にはかすかに、たやすく消えてしまいそうな火が、理不尽な運命に否応なく巻き込まれた宮園家の令嬢の命運のようにも見えた。
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