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別離
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――ヤスオが急につんのめり、剣の切っ先がナギから外れた。ナギが唖然としている、それを認めるか認めないかというところで、あかるこは乱暴に押し倒された。腹の上に、衛士のひとりが乗っている。ヤスオは彼に突き飛ばされたのだ。
首に剣だこだらけの指が食い込んだ。棒のようになったままの脚で抗うことも忘れ、あかるこは喉を震わせた。息が通らず、声も出ない。
「何をしておるのだ! 」
ヤスオが衛士に叫んだが、衛士はびくともせずあかるこの首にかけた指に力を込めた。聞こえていないのかもしれない、何も――。あかるこを押さえつけている力の主とは思えないほど沈んだまなざしは、死人のように虚ろだった。
「命に背くつもりか! 」
ヤスオが駆けてくるらしい……。
目の端に小さな輝きが走り、衛士があかるこの脇に崩れた。ナギの刀子が首に刺さっている。傷口から血が一滴、雨だれのように頬に落ちた。
突然息が通い、あかるこは背を丸めて咳込んだ。絡んだままの脚を引き抜いて後ずさると、衛士の片目がこちらを向いているのが見えた。あかるこの首を絞めているとき見えた目と少しも変わらない。彼の命がいつ絶えたのか、分からない。
「刀子を投げるとは」
ヤスオは衛士の体に向かって拝礼しながら呟いた。後ろで控えていたもうひとりは凍りついたように立ちすくんでいたが、死者に礼を示すため、はっとして額を土に擦りつけた。ナギは刀子を投げた格好のまま、呆然としてこちらを見ていた。
ヤスオは衛士の胸から首飾りを外した。力ない仕草だった。
「なぜ急にあんなことをしたのか……」
「まだナギを斬るつもり? 」
あかるこはヤスオに問うた。ヤスオはぼんやりした目であかるこを見返した。何が起こったのか、よく分かっていないのだ。殺されかけたあかるこにも、急に部下を失ったヤスオにも、刀子を投げたナギにさえ。
「出直そう。送の場で血を流すことはできぬ」
ヤスオは残った衛士を従えて背を向けた。草の根の、少しの盛り上がりにふらつきながら。
「ナホワカというものじゃ。弔ってやってくだされ」
ナギがそばへ来て、ナホワカの目を閉じてやった。ナギはナホワカの首から刀子を抜き、自分の衣の端で拭ってから、ナホワカの胸に置いた。刃は、死者を悪霊から守る。別の刀子を置きたくても、まったく使っていない刃の持ち合わせなどなかった。
高嶋が、ヤスオたちに言い告げたのは間違いなかった。進んで告げたのか、密会が知られて吐かされたのかは定かではないが……。
明日を約すとき、高嶋はふたりの目を見ようとしなかった。ナギは言葉少なだった。
「あかるこ」
ナギは一言呼び、あかるこの頬に手をやって、袖でナホワカの血を擦った。
「無事でよかった」
手はそのまま下ろされた。
互いに黙り込み、触れ合わずにいると、余計にやるせなかった。あかるこは試みに、ナギの左手を求めた。ナギは万事、あかるこの好きにさせていた。
ナギの左手の大指には、石の裂いた痕が赤く開いていた。袖口を真っ赤にしたきりで血は止まりかけている。
「痛い? 」
あかるこが聞くと、ナギは西日に溶けてゆきそうなほほえみを浮かべた。
「……はい」
兄水葵と呼ばれ、痛くはないと意地を張れた頃とは、何もかもが変わってしまったのだと、そのほほえみは言っていた。里も、友も、師も。
あかるこは大指の傷口から毒を吸い出し、領巾を千切って巻きつけた。どんなに痛くても、辛くても、ナギは生きているのだ。
東の山で、祟りに食い殺された若者たちの目。あかるこを襲い、死んだナホワカの目。野辺に倒れたという叔父の目も、もしかしたら彼らのように空しさと寂しさとに満ちていたろうか……。
痛ましい幻想を抱きながらも、このときあかるこが感じていたのは恐怖でも、嫌悪でも、悲しみですらなかった。あかるこは、ナギの目が死者たちのそれと同じにならなかったことに、ただ安堵を感じていた。
「あかるこ」
あかるこはナギを抱きしめた。ナギは少しかすれて上擦った声で止め立てしようとした。
「血がつきます……」
それでも、声と裏腹に両の手は持ち上がり、あかるこの肩にそっと触れ、やがて背を包み込んだ。ナホワカに刀子を投げたあとで、ナギは思いがけない己の暴力に怯えているのかもしれなかった。剣を取れば誰よりも強いが、もともと誰よりも優しい青年だから。
胸の奥が静かに鳴っている。ふたりが温めあうには長くかかった。ナギも少し泣きたかったのかもしれない……。
ナギの傷ついた左手の陰に、ナホワカが寝かされているのがあかるこから見えた……その目蓋が震えて、ぱくりと開いた。
――夢中でナギを突き飛ばしたけれど、ナギは大してよろけもしなかった。あかるこ、と訝しむ口は、最後まで言い切らなかった。
あかるこは刀子に刺されて倒れた。刀子を投げたナホワカは、ナギの方を一瞥して元の通りに死んだ。
何も聞こえなかったけれど、ナギの口が開いている。
悲鳴かもしれない、とあかるこは思った。
首に剣だこだらけの指が食い込んだ。棒のようになったままの脚で抗うことも忘れ、あかるこは喉を震わせた。息が通らず、声も出ない。
「何をしておるのだ! 」
ヤスオが衛士に叫んだが、衛士はびくともせずあかるこの首にかけた指に力を込めた。聞こえていないのかもしれない、何も――。あかるこを押さえつけている力の主とは思えないほど沈んだまなざしは、死人のように虚ろだった。
「命に背くつもりか! 」
ヤスオが駆けてくるらしい……。
目の端に小さな輝きが走り、衛士があかるこの脇に崩れた。ナギの刀子が首に刺さっている。傷口から血が一滴、雨だれのように頬に落ちた。
突然息が通い、あかるこは背を丸めて咳込んだ。絡んだままの脚を引き抜いて後ずさると、衛士の片目がこちらを向いているのが見えた。あかるこの首を絞めているとき見えた目と少しも変わらない。彼の命がいつ絶えたのか、分からない。
「刀子を投げるとは」
ヤスオは衛士の体に向かって拝礼しながら呟いた。後ろで控えていたもうひとりは凍りついたように立ちすくんでいたが、死者に礼を示すため、はっとして額を土に擦りつけた。ナギは刀子を投げた格好のまま、呆然としてこちらを見ていた。
ヤスオは衛士の胸から首飾りを外した。力ない仕草だった。
「なぜ急にあんなことをしたのか……」
「まだナギを斬るつもり? 」
あかるこはヤスオに問うた。ヤスオはぼんやりした目であかるこを見返した。何が起こったのか、よく分かっていないのだ。殺されかけたあかるこにも、急に部下を失ったヤスオにも、刀子を投げたナギにさえ。
「出直そう。送の場で血を流すことはできぬ」
ヤスオは残った衛士を従えて背を向けた。草の根の、少しの盛り上がりにふらつきながら。
「ナホワカというものじゃ。弔ってやってくだされ」
ナギがそばへ来て、ナホワカの目を閉じてやった。ナギはナホワカの首から刀子を抜き、自分の衣の端で拭ってから、ナホワカの胸に置いた。刃は、死者を悪霊から守る。別の刀子を置きたくても、まったく使っていない刃の持ち合わせなどなかった。
高嶋が、ヤスオたちに言い告げたのは間違いなかった。進んで告げたのか、密会が知られて吐かされたのかは定かではないが……。
明日を約すとき、高嶋はふたりの目を見ようとしなかった。ナギは言葉少なだった。
「あかるこ」
ナギは一言呼び、あかるこの頬に手をやって、袖でナホワカの血を擦った。
「無事でよかった」
手はそのまま下ろされた。
互いに黙り込み、触れ合わずにいると、余計にやるせなかった。あかるこは試みに、ナギの左手を求めた。ナギは万事、あかるこの好きにさせていた。
ナギの左手の大指には、石の裂いた痕が赤く開いていた。袖口を真っ赤にしたきりで血は止まりかけている。
「痛い? 」
あかるこが聞くと、ナギは西日に溶けてゆきそうなほほえみを浮かべた。
「……はい」
兄水葵と呼ばれ、痛くはないと意地を張れた頃とは、何もかもが変わってしまったのだと、そのほほえみは言っていた。里も、友も、師も。
あかるこは大指の傷口から毒を吸い出し、領巾を千切って巻きつけた。どんなに痛くても、辛くても、ナギは生きているのだ。
東の山で、祟りに食い殺された若者たちの目。あかるこを襲い、死んだナホワカの目。野辺に倒れたという叔父の目も、もしかしたら彼らのように空しさと寂しさとに満ちていたろうか……。
痛ましい幻想を抱きながらも、このときあかるこが感じていたのは恐怖でも、嫌悪でも、悲しみですらなかった。あかるこは、ナギの目が死者たちのそれと同じにならなかったことに、ただ安堵を感じていた。
「あかるこ」
あかるこはナギを抱きしめた。ナギは少しかすれて上擦った声で止め立てしようとした。
「血がつきます……」
それでも、声と裏腹に両の手は持ち上がり、あかるこの肩にそっと触れ、やがて背を包み込んだ。ナホワカに刀子を投げたあとで、ナギは思いがけない己の暴力に怯えているのかもしれなかった。剣を取れば誰よりも強いが、もともと誰よりも優しい青年だから。
胸の奥が静かに鳴っている。ふたりが温めあうには長くかかった。ナギも少し泣きたかったのかもしれない……。
ナギの傷ついた左手の陰に、ナホワカが寝かされているのがあかるこから見えた……その目蓋が震えて、ぱくりと開いた。
――夢中でナギを突き飛ばしたけれど、ナギは大してよろけもしなかった。あかるこ、と訝しむ口は、最後まで言い切らなかった。
あかるこは刀子に刺されて倒れた。刀子を投げたナホワカは、ナギの方を一瞥して元の通りに死んだ。
何も聞こえなかったけれど、ナギの口が開いている。
悲鳴かもしれない、とあかるこは思った。
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