あかるたま

ユーレカ書房

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別離

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 よく晴れた日だった。

 あかるこは空に手を翳した。高く澄んだ天に柔らかく黄色味が差し、爪の先にきらきらと縁取りができる。
後ろからナギの手が添い、指を握りこんだ。ナギはそういう、他愛ないふれあいが好きらしい。

 「何を考えているんです」

 頭の後ろに、広い肩がある。

 「何も」

 あかるこの手についた傷の、一番長いのをナギの親指がすっと撫でていく。気にしようとすまいと、擦り込む油もないその日暮らしに傷は増え続け、若い肌を隠すように、いつまでも居残る。

 そんな手でも、ナギは愛しいと言った。

 一度だけだったが、確かに聞いた。

 みなに背いて生きることは、決して過ちのためではないと言っていた――。

 「高嶋、遅いね」

 言うと、ナギの手が指の名残りを残しながらゆっくりと別れた。そうしておいて、小さな声で言った。

 「見送りを許してくださってありがとうございます」
 「ううん」

 あかるこは草地に熱心に人の姿を探すふりをした。今、ナギはナギを見てほしくないのではないかと思ったのだ。

 「これが最後です……」

 ナギの指が首筋まで上がってきて、あかるこは思わず振り向いた。ナギは意外にすっきりした顔つきであかるこを見つめていた。悩み惑う色が、少し薄いように見えた。

 「わたしはあなたと生きる」

 明るい陽が差していた。

 ナギの目の、とても深いところまでが一遍に光を通し、一枚の隔たりもなく見えた。

 「綺麗」

 何をするつもりでもなく、何気ない振る舞いのうちに、あかるこはナギの頬に手を伸ばした。何ですか、というように、ナギが首を傾げた。

 ――草地が風もなく音を立てた。

 ナギはそちらへ目をやり、片腕であかるこを抱き寄せた。もう片方の手の指が、剣の柄の先に少し触っている。本気で抜く構えではないと見て、あかるこは草の間へ呼びかけた。

 「高嶋? 」

 返事はない。

 「高嶋、来てくれたの? 」

 誰も答えない。気のせいだったのか、と草地を窺おうとしたあかるこの肩へ、ナギが手をかけた。

 「下がって」

 柄を握っている。白い刃がきらりと覗いた。

 「誰だ」

 誰何すいかし、八方を睨み渡すより早く、草の陰から刃が二本飛び出した。伊織の衛士たちだ。綴りあわせの鎧を身につけている。突きの切っ先は油断なく、ナギは辛うじて一方を弾き、一方を受けた。

 「伊織のものだな」

 聞けば違うと言ってくれるかもしれないという、ナギの心が見えるようだった。ナギと刃を合わせて押し合っている衛士は、何も答えずに飛びすさった。ナギは不意打ちを与えにきたふたりを見据えた。

 「声もかけずに斬りかかるのが里の礼儀か」
 「こちらとて無用な犠牲は出したくないのでな」

 衛士たちの後ろから、もうひとり男が顔を出した。長いこと山辺彦の下で衛士頭の務めを助けてきた、ヤスオという男だ。かつてはよく屋形を訪ねてきてあかるこに戯れ、笑わせた男だ――。

 ヤスオは衛士たちを下がらせた。

 「そこにおれ。大水葵とはまともに打ち合ってはならん」
 「ヤスオさま」

 ナギも、思わず切っ先を下げた。ヤスオはあかることナギに順に目をやり、苦い顔に無理にほほえみを貼りつけた。

 「久しいのう」
 「これは一体どういうことです」

 ヤスオはたちまちほほえみを消した。

 「どういうこととは、どういう意味かな」

 高嶋の名を出すことははばかられ、ナギは答えに詰まり、あかるこは黙り込んだ。ヤスオは険しい声で言った。

 「我々は衛士だ。命じられたら捕えねばならん。追われるかもしれぬとは、思わなんだか? そのような心づもりで、巫女王をかどわかし、里を抜け出したのか。若さゆえとは片づけられぬ青さよな」

 野辺に果てる覚悟もなかったのか、とその声は問うていた。

 ナギがあかるこをかどわかした? あかるこを救い出すために燃え盛る炎の中に飛び込み、里を出てからもずっと守り続けてくれたナギが? 

 「里を出てからずっと」

 あかるこは黙っていられずに言った。

 「覚悟が必要だったのは、生きることの方にだったよ――生きていく方が、勇気がいるんだ」
 「それはその通りかもしれんが……」

 ヤスオは身を引き、認めた。だが、

 「葵さまの叔父上にも、そう言ってやってほしかったのう」

 ようやく里へ戻った若い衛士から報が入った、とヤスオは澱みなく言った。

 「山辺彦さまは亡くなられた。盗人たちから衛士たちを守るためにひとり剣を取り、最後は斬られてしもうたそうじゃ。……大人しく捕らわれてはもらえんか。そなたらを庇えるものは、もう里にはおらんのだ」

 あかるこはのろのろとナギの顔を窺った。ナギは一切の情の抜け落ちたまっさらな顔をして、ヤスオの肩の辺りを眺めているらしい。

 口元が緩み、かえって半笑いみたいにうつけていた。

 「信じません。あの方は、盗人になど倒されない」

 ナギは切っ先を上げた。

 「惑わされはしない」
 「少しでも罪を軽くしてやりたかったのだが……やることなすこと、すべてが罪と言われてしまうからな」

 ヤスオが剣を抜いた。

 「そなたを斬るつもりはないが、剣を抜かれたら応じぬわけにはいかん。好きにするがいい。そなたらには、どうしても王の前へ出てもらう」

 ナギは引かなかった。いかな剣撃にも臆することなく、ヤスオよりも若いという一点に賭けて、受けた倍斬り込んでいるように見えた。

 ……だがじきに、刃など持ったこともないあかるこにさえ、ヤスオの剣の質が分かってきた。と同時に、ナギの不利を悟らずにはいられなかった。

 ヤスオは巧みだった。ナギと比べれば緩やかとも見える足運びで、悠々と歩を進めてくる。ナギの刃をかわしながら、わざとナギが斬りやすいところへひょいと身を入れたりする。ナギが斬ろうとしているのか、ヤスオがそう仕向けているのか、あかるこには分からなかった。

 「そなたの師の剣じゃ」

 とヤスオが呟いた。

 「それでもあの方は負けた」

 答えようとしたのか、荒い息をしようとしたのか、ナギの唇が開きかけたが、そのときヤスオが無理に鍔迫り合いを仕掛け、太く骨張った肩でナギを突き飛ばした。ナギは押された力を使って後ろ向きに転がったが、片手を尖った石の上につき、左の大指の肉を削がれた。

 「剣を放らなかったのは褒めてもよい」

 ヤスオはナギの左手が血塗れになっていくのを見て、少し気の毒そうな顔をしながらも、間を詰めることを忘れなかった。

 「だが、運もまた才のうちじゃ」

 ナギは右腕だけで剣を持ち上げた。刃先が震えている。ヤスオは溜め息をついた。

 「振るのは無理だ。手首をひねるぞ」
 「あなたの足を狙うことくらいはできる」
 「そうか」

 ヤスオは本当に気の毒そうな顔をして、剣を構えた。相手に向かってくる意思がある限り、彼は剣を向けなくてはならないのだ。それは、ヤスオなりの敬意の表れでもあった。

 「惜しいのう……」
 「ナギ」

 あかるこはたまらず前へ出ようとしたが、

 「あかるこ! 」

 ナギが一喝した。初めて見る剣幕だった。

 「なぜお逃げにならなんだ」

 ヤスオがあかるこに聞いた。

 「大水葵は、まだあなたを逃すつもりのようだが」
 「わたしひとりが相手なら、見逃す気になるの? 」
 「……我ながら愚問であったな」

 今さら離れてどうなる、とあかるこは思った。ヤスオは目を細めた。だが何も言わずに、ナギに剣を向けた。……
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