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二、日照り

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 ばあや、いるか、と千尋は声をかけた。岩倉のばあやは千尋の母を育てた人で、千尋にとっては祖母のような人だった。村外れに建つばあやの小屋は、少し前までは庭の花もきちんと整えられていたのだが、ばあやが寝ついてからは名もないような草ばかりがぼうぼう伸びて、ささやかに咲いた花をみんな隠してしまっていた。

 「まあ、千尋さま」

 建てつけのよくない戸を千尋が引き開けると、かび臭さと薬臭さのないまぜになった空気がひんやりと流れ出てきた。古い屏風の陰にひっそりと横になっていた岩倉のばあやは、静かにそばへ寄ってきた千尋を迎えるために起き上がろうとした。

 「そのままで」

 と千尋は言ったが、少し体を起こしたばあやが申し訳なさそうに水を求めるので、持ってきた瓜を小さく割って含ませてからばあやを助けて寝かせた。ばあやは千尋の手を借りながら、潤んだ目で千尋の顔を見つめた。

 「お優しい方に育ちなさって……」

 前に来たときも同じことを言われた、と千尋は思った。ふとしたときに昔のことを思い出しては涙が混じるのが、近頃のばあやなのだった。千尋にはもう珍しい話ではなくなっていたが、ばあやは千尋の母の若い頃の話をはじめた。

 「小夜もそうだった……ふた親を亡くしているというのに明るい、優しい子で……」
 「そうだな。母上は、明るい方だ」

 千尋は持ってきた籠からばあやの喜びそうなものを並べた。

 「体の具合はどうだ、ばあや」
 「ばあやのことなど、お気に留めてくださらなくともよいのですよ。そのお気持ちだけで、ばあやは救われたような気持ちになるのでございます」
 「ひどい日照りのようだね」
 「ええ、ええ、それはもう。毎日こうして暑いばかりで、雨がちっとも降らないのですよ」

 ばあやは首をふりふり言ったが、ふいに千尋を見つめてにっこり笑った。

 「けれども、村のみんなで話しているのですよ。疾風さまと千尋さまがきっと雨をくださると」
 「そうか……」

 千尋が花の枝を手に取ったきり黙り込んだので、ばあやが病床からそっと千尋の目を覗いた。言葉なく人を案じるその仕草は、小夜を育てたひとりの母の名残りとしてばあやによくなじんでいた。

 「千尋さま」

 一言呼ぶだけで、ばあやは人に心のうちを話させるのがうまかった。

 「何と言っているんだ、みなは」

 ややあって、千尋はそう聞いた。なぜ千尋が神として力を使わないのか、村人たちは知らない。呪いのことが明らかになってからはなおさら、若さまありがとう、これからも末永く里をお守りください、などと手を合わせられるたびに、胸の底には苦いおりが重たく積もっていくようだった。

 「わたしに雨が呼べるかどうかなど、みなは知らないはずだ。わたしの力など、見たこともないだろう」
 「疾風さまのお子のあなたに、何の力もないなどと誰が思うでしょう? 」

 ばあやは笑い、誇らしさのためか、千尋が打ち明けるのを待っていてはくれなかった。
ばあやの目は、千尋をまったく疑っていなかった。

 千尋はばあやの目を見ていられず、自分の膝に目を落とした。なぜ誰もかれも、そんなふうにわたしを見るのだろう? 何か、清く尊いものを見るような目で?

 疾風に呪いのことを聞いてからひと月あまり、千尋はいまだ何も決めることができずにいた。そうしているうちに、ひどい日照りになってしまったのだ。竹やぶ御殿のあたりで辛うじて細い流れを保っている川は村に入ってまったく干上がって途絶え、水で満ちているはずの田は泥にひびが入りかけている。疾風と千尋は山奥を訪ねたが、源に引きこもっている水の神は一度顔を見せただけで、千尋を一瞥してまた棲みかに引っ込んでしまった、ということがあったばかりだった。

 「ばあや。……わたしは、どうしたらいい」
 「まあまあ」

 ばあやは声を上げて笑いはしなかったが口元にほほえみを浮かべて、ぐずる幼い子にするように千尋の手に手を重ねた。

 「どうなさったのですか。ばあやに何でもお話してごらんなさいな」
 「みなは知らない。わたしは、みなを助けることなんかできはしないんだ。……助けようとしたところで、もっとひどいことになってしまう。ばあやも知っているだろう。わたしが人の身を超えたことをやろうとすると、よくないことが起こると」

 千尋が話し終えると、ばあやは深く息をついて目を閉じた。病人を相手に、長く話をしすぎたのかもしれない。それも、まるで愉快でない話をしてしまった。

 千尋が音を立てずに立ち上がろうとすると、ばあやはふいにまた口を開いた。やはり疲れが出たのか、いくぶんゆっくりとした話し方ではあったけれど。

 「ばあやは、若さまを信じております」
 「ばあや、もう――」
 「その左のお目」

 少し休んだ方がいい、と言おうとした千尋を遮って、ばあやがはっとするほど明らかな声を出した。

 ばあやは枯れた枝のような両腕を伸ばし、両手で千尋の頬を包んだ。病のために潤いを欠いた、少し熱いくらいの手が求めたのは、千尋の左目だった。

 「このお目の色……千尋さま、御身にお持ちの力を、お忘れにならないで。ばあやの最後の、お願いでございます」

 ばあやはそれきり何も言わず、静かに眠りはじめた。千尋はその枕辺に花を置いて、来たときよりも気をつけてそっと小屋を出た。

 千尋が屋敷へ戻ると、疾風と小夜の他に、廊でくつろいでいた若者が手を上げて挨拶してきた。

 「よお。おかえり」
 「元太か」

 千尋は母に籠を預け、廊に座った。小夜が案じ顔で聞いた。

 「ばあや、どうしてた? 」
 「少し熱があるようです。わたしがいてかえって休めないといけないから、長居はしませんでしたが」
 「そう。今度何か口当たりのいいものを持っていってあげたいね。まったくこう暑いんじゃ……」

 小夜が厨へ行ってしまうのを見送りながら、元太が言った。

 「せっかく山を登ってきたのに、来てみたらおまえは村に行ったっていうから、待たせてもらってたんだ。疾風さまもいないし(疾風がこれを聞いて肩をすくめた)。おまえの母さん、相変わらずきれいだな。……前から思ってたけど、おまえ、そっくりだよな」
 「何を言いたいのか皆目見当もつかんな」

 元太は結い上げたぼさぼさの髪を揺らしながら、大口を開けて笑った。千尋に軽口を叩くのは村ではこの元太くらいのもので、昔なじみというだけでない気安さが、千尋にとっても心安い友人だった。

 だが、元太は冗談を言いに来たのではなかった。

 「頼みがあって来た。分かっているとは思うが……」
 「……日照りか」
 「そうだ。川も池も、干上がっちまった。雨が全然降らないんだ、このままじゃ、稲がだめになっちまう……みんな死んじまうかもしれないんだ。おれたちは、もうおまえに頼るしかないんだ。……頼む」

 元太は頭を下げた。千尋は硬い毛の巻いたつむじを見つめた。

 「なぜわたしに縋る。わたしはこの村に雨を降らせたことなどないぞ」

 目を上げた元太の顔に、疲れと焦りが色濃く表れた。

 「……できないのか? 」

 友の顔が絶望に覆われていくのを見ながら、千尋には答えることができなかった。是とも否とも。

 掴みかかられるのではないかと千尋は思ったが、元太は力なくうつむいただけだった。

 「……岩倉のばあさまが言ってたんだ。千尋は人間みたいな姿をしているが、疾風さまと同じくらい力のある神さまなんだって……だからおれたち、おまえなら助けてくれると……」

 泣く元気もないのだ。千尋はしばらく黙って元太の精悍な眉を眺めていたが、口でどんなにつれないことを言ってみても突き放しきれないことなど、はなから分かっていた。

 元太には見えていない父の方をそっと窺うと、疾風はただほほえんでいた。どちらでも、おまえの思うとおりにしてよい。

 「……分かった」
 「えっ」

 元太はまた顔を上げたが、今度は狐につままれたような間の抜けた顔だった。おまえが話を持ってきたんじゃないかと、千尋はおかしくなった。

 「神として務めを果たそう。その代わり、雨が降りやむまでは絶対に誰もこの山に近づけないでくれ。村の反対側にいてほしい」
 「近くにいたらまずいのか? 」
 「実は、わたしのこの姿は本当のものではなくてな」

 千尋は低い声を出した。

 「力を使うとなると、もともとの姿に戻らねばならない。……見たら祟るぞ」

 元太はなぜか、笑い出した。

 「おまえ、ちっとも怖くないな」
 「だが、頼んだぞ。決して近づかないでくれ」
 「分かったよ。みんなにも伝えとくな」

 元太は意気揚々と帰っていった。

どのみち、日照りにあえぐ村を見過ごすことはできなかった。これでよかったのだと、千尋はみずからに言い聞かせた。いずれは、決めなくてはならなかったのだ。神として望まれたのだから、神に戻ることに何の障りがあろう。

 疾風は、どことなく嬉しげに言った。

 「知恵のじいやにも来ていただこう。あの方もきっと、喜んでくださるよ」



 知恵のじいやは昔からたびたび竹やぶ御殿を訪ねてくる神で、千尋のことを可愛がってくれていた。どうやら疾風よりずっと古い神のようで、その目で見てきたもののすべてを知ることは、千尋にはできそうもなかった。

 「雨の降らせ方は覚えているかな? 」

 知恵のじいやは竹やぶ御殿の前の、村を見渡せる丘に父子とともに立って、千尋に優しく尋ねた。千尋が知る限り、この神が笑顔を絶やしたことはなかった。

 「神が力を使うとき、風の神はみずからが風となり、水の神はみずからが水となる。なればこそ豊葦原の神には憑代がいるのだよ。だが、そなたは常世の神じゃ。幸星を手放したとき、そなたもそれを思い出すかもしれんのう」
 「わたしは雲を吹き寄せるくらいはできるが、途中で吹き消してしまう」

 と疾風が言った。

 「おまえにしかできぬことだ」

 千尋は幸星を外し、父に預けた――途端に、目が回るような不思議な感覚に襲われ、千尋は自分が何をしているのか分からなくなった。立っているのか、座っているのか。見ているのかいないのか、聞こえているのかいないのか。体がほどけ、消えてしまうような――だが、果てしなく自由でもあるような――。

 「〈悠〉! 」

 疾風が大声で呼んだ。幼い頃、呼ばれていた名だ――幸星を外している間は、千尋という名を使うことはできないのだ。は我に返った。名をよすがに、みずからを保つ。

 そうだ。確かに、わたしはこうだった・・・・・

 空を見上げた。くっきりと並んだ山々は海原に連なる波の姿に似て、白く低い雲がたなびく。あの低い雲は、雨を持っていない。それでも悠は、雨を呼べることを知っていた。手のひらに満ちるものを感じ、悠はその力を、自分の方へ引き寄せた。

 光静かな天上から涼やかな風がまっすぐにくだり、悠の体を通り抜けた。その一瞬、悠は自分が確かに胸にあふれる風や水と同じように透きとおり、親しくまじわうのを感じた。心が遥か彼方を見はるかし、すべてのものが音も立てずに悠に滑り込んできた。そのとき、悠はなにものでもなく、なにものでもあった。おお、と疾風たちの声が上がった。天から呼ばれたきららかな力は誰の目にも鮮やかに現れ、きらめく光のただなかにある悠の姿は、確かに神のものだった。

 それまで雲ひとつなかった空がにわかに暗く閉ざされ、雨の到来を告げるぬるい風が自分を中心に吹き上がるのが悠には分かった。風が遠くから、村人たちの様子を伝える――元太が空を見上げて、手を叩いて喜んでいる。悠は村を吹き抜ける風そのものだった。

 間もなく龍に似た雲が天空に現れ、ひと粒が耐えかねてぽつりと落ちてきてからあとは、日照りなど嘘のような雨になった。細く初々しいはじめの雷が、放たれた矢のような鋭さで打ち落とされる。凄烈で明らかな矢色。

 だが――。

 ふいに胸の奥に何かがくすぶり、大きくどんと鼓動した。ひとつだけではなく、ふたつ、みっつ。内からあばらを突き破ってでもきそうな、度を越した痛みが呼吸を妨げる。

 呪いだ。意思とは関わりなく暴れまわるそれが何であるのか、ものも言えずに膝をつきながらも悠には分かった。これ・・呪い・・だった・・・

 悠の身の内に凄まじい力が炸裂したかと思うと、恐ろしい大風が辺りを襲った。苦しみを訴えるかのような鋭い力。咽び泣きに似た音。竹やぶが根元から揺すられ、吹き倒される。

 まただ。次第に何も分からなくなっていきながら、悠は思った。幼かったあの日、我知らず起こした風は、この痛みとともに悠の手を離れたのだ。世の苦痛すべてを受けているかのような苦しみ。悠には支配できない力が湧き上がる。そして、心に焼けつくような情が渦巻く。激しい情だ。怒りとも悲しみとも喜びともつかない、行き場もないその情が何であるのか、悠の心に答えはない。あのときもそうだった。
 
 ――ふと、静寂が訪れた。悠はどこか高みから、大地を見下ろしている。いや、そこにはまだ大地はなかった。何もなかった。遥か眼下に広がるその〈何か〉を、悠は誰かとともに見下ろしているのだ――。

 「耐えろ! 」

 父の声が割って入り、悠の静寂を遮った。ごうごうと耳元で風が鳴り、雨は途切れることなく、ますます強くなっていくようだった。悠は歯を食いしばった。だが、止めようとすればするほど呪いは暴れ、悠の力の支配を奪おうとした。悠はうずくまり、足元の草を握りしめて、何とか痛みに引きずられまいとした。疾風がみずからの風を盾に悠に近づき、首に幸星をかけた。途端、痛みが消え、風がやんだ。悠は疾風に抱えられたまま、動けなかった。

 山から村に向かって、泥水が吹き出すのが遠く見えた。薄青の龍が一匹、流れに呑みこまれている。水の神だ。龍は泥に汚れて傷ついた体で何とか草地へ這いあがり、こちらに向かって恐ろしい声で咆哮した。

 龍の声に、悠たちのすぐそばから応えるものがあった。風の音をかき消す低い唸りは木々をびりびりと震わせ、続けざまに大地がぐらぐらと揺れた。姿は見えない――あまりに大きすぎて、見ることはできないのだ。山の神が怒り、この恩知らずめ、と怒鳴り声を上げた。

 「災いを呼ぶ子ども! 忌まわしい神崩れめが! もはや我慢ならん! 」

 父の背後に、悠は山の神の巨大なあぎとを見た。竹やぶの屋敷もろとも、悠たちを呑みこもうと開かれたその口――。

 「鎮まれ」

 山の神に比べたらはるかに小さな影が、山の神と父子の間に立ちふさがった。知恵のじいやだ。太刀打ちできるわけがない……ところが、山の神は知恵のじいやに従った。今にもみなを襲おうとした土砂は、ぴたりと動きを止めた。大声を上げたわけでもないのに、知恵のじいやの穏やかな声は、不思議に凛と響いた。

 「なにゆえそのように荒ぶれるか、やまつみよ。土を守り、草木を育て、地に並ぶものなく大きなそなたが、なにゆえこのような小さきものを気に病まれるか」
 「それは小さくなどない」

 山の神は雨が混ざってどろどろになったみずからを辛そうに震わせた。

 「それは……その彦神は、恐ろしい。国津神でないのに、崩れた神ではないか。幸いならざるものだ。見よ、こうして、支配できもせぬ雨をいたずらに呼び、わたしを溶かしてしまった」
 「そなたたち国津神が、神崩れを恐れる気持ちは分かる」

 と知恵のじいやは言った。

 「だが恐れを抱くのは、もっとも望まぬ道へみずから踏み込んで行くのと同じじゃ。イザナギがどのようにして豊葦原を閉ざしたか、そなたたちもよく知っておろう。それにの、この彦神は崩れたわけではない。呪いを抱えているだけじゃ。よく見てみるがよい」

 山の神は沈黙した。どうやら、呪いと宿主を眺めているらしい間があった。雨はまだ降っていて、むき出しになった山の土を濡らし続けていた。

 「なぜそんなものを抱えることになったのだ」

 再び沈黙を破った山の神の声は、驚くほど思いやり深かった。

 「そなたとは相容れぬもののはずだ。さぞ苦しかろうに……」
 「この神は、ゆえあって豊葦原にもえにしがあってな」

 知恵のじいやが言うと、木立ちの奥から溜め息のような風が吹いてきた。

 「水の神が怒っている。あれは気性が荒い。気をつけられることだ」

 山の神は最後に言い残した。

 「千尋! 」

 屋敷から様子を窺っていた小夜が雨に構わずやって来て、疾風にぐったりもたれている千尋・・を覗きこんだ。

 千尋は痛みとともに現れた情を思い出していた。あの情は、千尋のものではない――本当に? 村には、泥水が流れ込んでいる。元太は? ばあやは? 村のみなは、どうなったのだ?

 「千尋、……どうしたの? 」

 小夜は千尋の頬に触れようとしたが、疾風がその手を掴んでとめた。

 「千尋」

 父の声を、千尋は聞いていなかった。心の中に沸き起こった焦りが自分の情であるかどうか、村が本当に危ういのかどうか、今の千尋に疑う力はなかった。

 村のみなを救わなければ。立ち上がり、憑かれたように駆けていく千尋を、誰も止めることができなかった。

 山から里までの道には沢が一本横たわっていて、特に深い淵の上に、藤づるの橋が長くかけ渡してある。千尋は橋を渡りかけたところでふと立ち止まった。

 青白い光がふたつ、ふらふらと揺れながら近づいてくる。目を凝らすと、それはどうやら人のようだった。鎧武者と、五衣いつつぎぬの女。武者には首がなく、女房の方は体の肉が破れて骨が見えていた。その後ろに、まだ無数の光が明滅しながら飛び交っているのが見える。見回せば、橋を覆いつくして同じ光がひしめき合っていた。死んだものの魂だ。

 近づいてきた男と女の魂は死に際のむごい姿をしてはいたが、こちらに害をなす力も、そのつもりもないように思えた。ああいうものは助けを求めているのだ、と疾風は常々千尋に教えていた。魂だけに剥かれた人の姿は淡く、弱々しかった。

 「千尋! 」

 疾風が追いついてきた。疾風は千尋に並んで、同じように青白く光る橋を見回した。

 「様子がおかしい――この辺りの霊ではない。数も多すぎる」
 「おなじ」

 死者たちの先頭にいた女房装束の女が、か細いが不思議に通る声で言った。千尋を指すために持ち上げられた腕から、赤黒い肉片がしたたり落ちた。

 「おなじ。おなじ」

 同じ、だと千尋は気づいた。死者たちが、みな千尋を見ていた。

 「おなじ……」

 女の方の唇がにこりと笑った。

 そのとき濁った川からくぐもった唸り声が聞こえ、千尋は川面から見返してくるものと目が合った。巨大な目だ。橋げたのはるか下に横たわる、淵を抱く川。その主の神だ。憎悪――まだ離れてはいたが、母が知恵のじいやを振り切ってこちらに駆けてくるのが見えた。

 来ないで、と叫ぼうとしたのか、そちらへ行こうとしたのか、自分でも分からないうちに母に向かって踏み出そうとした足を、千尋は何か力の強いものに取られた。厚い橋げたが割れてわずかにできた隙間から、血まみれの赤ん坊が手を伸ばして千尋の指貫さしぬきを掴んでいる。その子は大声で泣きながら、ぶくぶくと血の泡を吐いた。

 「神崩れが」

 千尋は川の神の声を聞いた。憎しみの塊のような、冷たい声だった。

 小夜は千尋の様子に気がつき、かえってこちらへ急ごうとした。千尋をつかまえている赤ん坊は、小夜の方に手を伸ばして盛んに泣き喚いた。ははよ。ははよ。

 雨はやまない。冷え切った体に、幸星が火傷しそうなくらいに熱かった。たまらず引き出してみると、千尋の手の中で甲高いかすかな音を立てた。ひびが入ったのだ。

 川から細長い影がしぶきを散らしながら躍り上った。父に腕を掴まれるのを感じた――龍の牙のぎらぎらとしたつらなり――。

 刃のような風が起こり、川の神もろとも藤づるの橋を吹き飛ばした。逃げて、のひと言が、父と母に間に合ったかどうか――。

 抉るように胸を侵す痛みとともに、もの言わぬ死者たちの情が千尋に打ち寄せてきた。怒り。悲しみ。恐れ。寂しさ。千尋の胸の呪いの痛みは、彼らの情をすべて知っていた。同じ、とはそういう意味だ。だが、千尋の呪いは――ああ、なぜわたしは、これほど強い情を抱えることになったのだろう。神としていた頃、今は封じられた記憶にある日々の中で、呪いを向けられるほどのことをわたしは誰かにしたのだろうか。

 ははよ、と求めた傷だらけの小さな体を、抱いたつもりだった。しかし、支えのない体を巻き込む強い力の流れの中でいつしかはぐれて、光の粒ひとつない暗闇を漂うのは千尋ひとりだった。


 ――死者たちの情に呼び覚まされた記憶が千尋の中を去来した。女の美しい亡骸を、千尋は咽び泣きながら見つめた。いつまでも見つめた。千尋にその顔は分からない。

 剣を握った手は血潮を浴びていた。火を宿したように温かい血だった。
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