妖精王

ユーレカ書房

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9、解放

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 来るぞ、というジェラルドの合図とともに、陸地の端に集まった妖精たちは海面を目がけて次々と雷を撃ち落とした。白や紫の多彩な火花が激しく飛び散り、闇夜に巨大な――あまりに巨大な――異形の魚影が浮かび上がった。

 ソロル、止めろ! はるか海上からユージーンの叫びが遠く響き、細かな海水の飛沫を撒き散らしながら浮上しつつあった闇魚はぶるりと震えて一瞬動きを止めた。ソロルがユージーンの指揮で闇魚の尾びれに噛みついたのだ。

 ソロルと闇魚では、体の大きさも力も桁違いだ。だがそれでも、人間とは比べものにならないほど頑丈な海竜のあごの力を完全に無視することは、闇魚といえども難しいことだったらしい。ジェラルドたちの魔力に惹かれ、なけなしの陸地に向かってこようとしていた闇魚の淡く発光する頭が、ソロルの方へ大回りに振り向くのが陸地から見えていた。

 闇魚の頭上を飛ぶ十頭の竜たちの背から、アルテミシア率いる騎士と兵士が捕縛用の縄を投げ下ろす。海を漂ってきた縄をジェラルドが咄嗟に魔法で加工した特別製だ。闇魚の巨体と比較すると、頭上の竜は小蝿同然、投げ下ろされた縄は糸より頼りなく見えたが、縄は勝手に闇魚を捕らえようと幾重にも巻きつき、闇魚がどんなに暴れても切れることはなかった。

 煩わしさを感じる神経があるのか、闇魚は魔法の縄を引きちぎろうと全身をよじった。嵐のような風が巻き起こり、海面が大きく揺れたためにユージーンが悲鳴を上げる。上空の竜たちも引っ張られて振り回されたが、騎士たちは縄を手放すことはなかった(手放したくてもできなかったのかもしれないが)。

 「ユージーン! 十数えたらその場から離れろ! 」

 エレニアが前に出たので、ジェラルドは海上に警告を飛ばした。十、九、八………ユージーンが返事の代わりに叫び返してくる。ジェラルドがエレニアを見ると、彼女はにこりと頷いた。

 ユージーンが〈五〉と数えたあたりで海水が急激に引きはじめ、〈四〉のあたりでみなの立っている大地がぐらぐらと揺れだした。そして――。

 「………驚いたな。開闢に匹敵する魔法だ」

 グラードが恐れをなしたかのように感嘆する。エレニアの魔法が海の底から大地を揺り起こし、棘のように鋭い岩を隆起させて闇魚を串刺しにしたのだ。妖精たちの雷光によって浮かび上がった巨体が、四方八方から貫通してきた岩によって身動きもままならず宙空に留まる。不可視なので悶え苦しむ異形の姿を詳しく見ることは叶わなかったが、岩が刺さっているらしい部分からはどす黒い体液らしいものがぼたぼたと滴り落ちていた。

 とはいえ、完封していられる時間はわずかだ。ジェラルドには分かっていた。

 「五分だ! ……クーナ、行こう。兄上とグラードは、剣で団長たちに加勢してくれ」

 ジェラルドはクーナを伴い、グラードが新たに呼んだ竜の背に乗った。ヴェルフリートとグラードもそれぞれに剣を持って飛び立った。

 ジェラルドとクーナは闇魚の頭上に向かい、見当をつけて飛び降りた。これにはかなりの勇気が必要だった――確かにそこに〈いる〉と分かっていても、いや、実際にその頭上に降り立ってぐにゃりとした魚の肌の感触を確かに感じていてさえ。なにしろその足場は目には見えず、下に突き出た鋭い岩の棘ばかりが透けて鮮明に見えていたのだから。

 「照らしてくれ! 」

 合図を送ると、リヒャルトの雷がすぐ近くに撃ち落とされ、闇魚の中にそのまま吸収されていった。ジェラルドとクーナは慎重に闇魚の体を移動し、再度の雷が光ったときに剣先で〈その場所〉に見当をつけた。

 真ん中の目だけがきらきら光って見にくい。エレニアはそう言っていた。

 「……ここだ! 」

 ジェラルドはひと息に真下に剣を突き立て、自分の方へ引いた。一瞬だったが、見間違いようがなかった。ジェラルドが闇魚の目を切り開くと内部は透明な液体のようなもので満たされており、その中にただひとつ、〈真珠〉は浮かび上がるように光り輝いていた。クーナは傷が塞がる一瞬をついて手を入れ、〈真珠〉を掴み出した。

 闇魚が痛みに身をよじり、エレニアの創り出した岩の棘が崩れはじめる――ぬめる背から滑り落ちたふたりを、彼らが乗ってきた竜が受け止めた。

 「あった? 〈真珠〉はあったの? 」

 ユージーンがふたりに叫ぶ。クーナは手を開いて掴み出してきた〈真珠〉を掲げようとした――だが、彼女が快哉を叫ぶまでもなかった。魔力の源であった〈真珠〉を抜き取られた闇魚はついに不可視の存在ではなくなり、千年越しの対峙を見守っていたすべての人々の前にその姿を現したのだ。飛行能力や再生能力も同時に失われたらしく、その体は自重によってさらに深く岩の棘に貫かれていった。

 「おれたち、あんなのを相手にしてたんだ………」

 ユージーンが身震いした。誕生して以来方々で魔力を食い続け、肥大化し、変貌を遂げた闇魚の姿は、誕生させたクーナでさえ言葉を失うほど醜悪なものだった。邸宅の庭ほどはありそうな広い顔は魚類らしくのっぺりとしてぬらぬらと光り、その中心にぎょろぎょろと動く目玉がまとまっていた。下段に三つ、上段にふたつ。そのうちのひとつは、見事に潰れて血を流していた。

 ヴェルフリートとグラード、そして騎士たちが四方から剣で斬撃を加えると、膨れ上がった闇魚の体はいとも簡単に切り裂かれ、ばらばらの肉塊となり、海中深く沈んでいった。

 ジェラルドは先見で闇魚の最期を見届けた。切り裂かれた肉塊はそれ以上再生することなく時間をかけて少しずつ腐敗し、バルドラ近海の生物たちの糧となり――数ヶ月後には完全に海へ還る様子が彼には見えた。

 夜明けともにもたらされた予言の成就は実にあっけなく、神妙で、そして大仰な言葉に言い表すことはできないほど、ジェラルドたちの胸に迫る確かな事実だった。
 

 
 千年越しの悲願はこうして果たされたのだが、ふたつのバルドラが突如混ざり合ったことによる混乱は大きく、バルドラのものたちは休む間もなく暮らしを整えるために協力して働かねばならなかった。なにしろ彼らが生活を営んでいた場所は闇魚の復活に伴って跡形もなく崩れ去ってしまい、建物どころか土地も残っていなかったのだ。

 みなが忙しく立ち働いたためにマレビトかそうでないかという区別は忘れ去られ、ひとまず生活が落ち着く頃には、自分たちは全員で〈バルドラ人〉なのだ、という新たな認識がみなに根づくことになった。マレビトたちの魔法と人々の努力によって、新生バルドラは瞬く間に住みよい場所へと整えられていった。

 最初に削られた大地が整い、次に町の家々が用意され、最後にバルドラ城が再建された。城はもともとの姿とほとんど変わらず作り直されたが、ジェラルドは〈誓いの間〉があった場所に天体観測ができる塔をつけ足した。誰からも文句は出なかった――次期国王が何を得意としているか、バルドラのものたちはいまやひとり残らず知っていたからだ。

 ジェラルドはここに友人たちとともに集まり、アルトリウスが〈星見の丘〉でそうしていたように、星を見ながらさまざまな未来に思いを馳せた。もはや、かつて目にしたような恐ろしい未来はどこにも見えなかった。

 ある晩、いつものように星を見ながらみなと話し合っていたジェラルドのもとに、意外な人物がやってきた。

 「殿下……」

 フォーガルだった。ジェラルドの前にひざまずき、真摯に見上げてくるその表情はジェラルドがかつてこの厳しい歴史学者の顔の上には認めたことがないものだった。これまでで一番の敬意を払われているというのに、ジェラルドは思わずまごついた。

 フォーガルの老いた目には涙が光っていた。

 「ジェラルド殿下。このようなことを、なんと申し上げればよいのか…………しかし、私にはどうあってもお耳に入れなくてはならないことが―――」
 「嘘はよくないな、先生」

 ジェラルドがほほえむと、フォーガルはぎょっとした様子で身を引いた。

 「う、うそ……? 」
 「申し訳ないんだが、あなたが何を言おうとしているか先に見えてしまったんだ。そして、あなたがその嘘をついたあとに何が起こるのかも」
 「何が起こるというのです? 」
 「あなたが廊下に待たせている娘が駆け寄ってくる。あなたを止め、おれたちに真実を話すためだ」

 ジェラルドが扉の方を指差すと、ややあって青ざめた女の顔が覗いた。

 「あら、あなた……」

 最初に気づいたのはエレニアだった。彼女とジェラルドは、この娘に会ったことがあったのだ。

 春祭りのときに思い詰めた様子でエレニアの占いを受け、途中で帰ってしまったあの娘だった。そばかすだらけの顔に、燃えるような赤毛。暗い色の服。そして、オドオドした特徴的な動作は隠しようがなかった。

 「……ブリギット! おまえは待っていなさいと――」

 フォーガルは慌てたが、ブリギットは耐えかねたように彼のもとへ駆け寄ってきた。フォーガルは嘘をつかなかったが結果は同じだったな、とジェラルドは思った。

 「フォーガルの研究室で仕事をしている娘だな」

 ヴェルフリートが言うとブリギットはびくりと肩を揺らし、か細い声で言った。

 「ぶ、ブリギットと申します。あの……ジェラルド殿下に、申し上げなければならないことが……」
 「それは先ほど聞いた」

 カレニウスがイライラと遮った。彼はみなとともに戴冠式の流れを調整している最中で、日程が迫っていることもあって気が立っていたのだ。

 「みな忙しいのだ。要件は手短に済ませるがよい」
 「まあまあ……今日はずっと打ち合わせだったし、休憩がてらみんなで聞こう」
 「で? 君はジェラルドに何を言いにきたの? 」

 側近たちが取りなし、全員の視線がブリギットとフォーガルに集まった。ややあって、ブリギットは震える声で呟くように話しはじめた。

 「あの……じぇ、ジェラルド殿下が、誰かに襲われた事件――わ、わたしなんです。わたしが手引きしたんです……お城の中に、あの覆面の人たちを」
 「な……! 」

 座のものたちは一様に驚きの表情を見せたが、ジェラルドはようやく腑に落ちたような気持ちだった。

 「それじゃあ、君が春祭りの日にエレニアに相談していたのは……おれのことだったのか」
 「はい……父上と、ヴェルフリート殿下が……ジェラルド殿下を疎んじていらっしゃるのではないかと思って。父上を取り巻く人たちの話からも、わたしは勝手に、そんなことを思っていて……だけど、そうではなかった。殿下がいなくなられても、おふたりは喜んでくださらなかった。それどころか……それでようやく、間違ったことをしたのだと分かったのです」
 「リヒャルトとユージーンを罪人にしたのも君の計画だったのか? 」

 ジェラルドはごく穏やかに尋ねたが、ブリギットは彼が何か言うたびに青ざめていった。話している最中に突然倒れてもおかしくないような顔色だった。

 だが、よほど腹を括ってきたのだろう。心配そうなフォーガルをよそに、ブリギットはもはやいかに不都合な真実を前にしても沈黙することはなかった。

 「おっしゃるとおりです。ジェラルド殿下のお近くにはいつも側近のおふたりがいらっしゃった――殿下だけを標的にしても、このおふたりが必ず殿下を連れ戻される。だからおふたりが殿下を襲ったように見せかけて兵たちに捕えさせ、殿下にはお城から出ていただこうと思いました。殿下にお命があるかどうかは、どちらでも構わないと申しつけました。王位継承権がヴェルフリート殿下に渡るなら、それで構わなかったのです。……決行の日を決めあぐねていたのですが、あの日――廊下で殿下と側近のおふたりが言い合いになっていらしたので、これを逃す手はないと思いました」
 「わたしがいつ王位につきたいなどと言った? 」

 ヴェルフリートは心底不可解そうだったが、その目がふと弟を見つめた。

 「そういえば、おまえもわたしの方が王位にふさわしいなどと寝ぼけたことを言っていたな。なんだったのだ、あれは」
 「だから、そのままの意味だよ。国を率いていくなら兄上の方が向いていると思っていたし……生まれたときからおれの方が次の王に決まっていたから、兄上はおれのことが嫌いなんだと思っていたんだ。生まれ順も実力も兄上の方が上なのに理不尽だよな……と、そのときはそう思っていたんだよ。多分、ブリギットもそう思ったんじゃないか? フォーガル先生は〈第一王子派〉だったし」
 「当人らが千年も前に取り決めた覚悟を、周囲で支えるべきものらが惑わしよったのか。くだらぬ」

 カレニウスが小さくなっているフォーガルを鼻で笑った。彼は闇魚とそれを打ち破ったジェラルドたちの姿を間近に見てからというもの、それまでの考えを改めて〈妖精王〉をバルドラに必要なものと認め、新しい王国のために力を貸してくれるようになっていた。

 カレニウスが戴冠式の計画を取り仕切っているのも、今後の王政のあり方から考えて生粋のマレビトが王宮に必要という判断に至ったからで、差し当たってマレビトたちから信頼を得ていたカレニウスやグラードがジェラルドの相談役という立場に置かれることになった。

 だがそもそも同じ宮仕えの立場となったところで、歴史学者として妖精や魔法といった〈不確か〉なものをジェラルドたちの身辺から極力排除してきたフォーガルと、マレビトの筆頭であるカレニウスとでは意見が一致しないのは目に見えていた。カレニウスは冷たく言った。

 「賢女として千年王宮に仕えたクーナを追放し、あまつさえ〈妖精王〉のなんたるかを王子に正しく伝承しなかったのもそなたであるらしいな。〈妖精王〉当人が自己に課せられたさだめを早くに理解できるよう助けるのが本来の役割だったというのに……おのれの目に映る範疇で物事を測るだけの才覚しか持ちえぬくせに、権威ばかりに執着するから娘にまでおぞましい大罪を犯させることになるのだ……売国奴めが」
 「……父は、決して自分の権威のために王子さま方を扱ってきたのではありません! 」

 ブリギットが突然大声を出したので、ジェラルドたちは飛び上がった。

 「父は歴史を研究するものとして、また王家に仕えるものとして、バルドラの未来を懸命に考えていたのです。賢女さまを追放なさったのも、実在を証明できないものがいくつもの国を傾けてきたのを父が知っていたから……ヴェルフリート殿下の即位を支持していたのは、兄弟の順を無視して王位を継承することは国の乱れに繋がるからという考えをお持ちだったからなのです」
 「だが、そなたはそれを知らなかったのだろう」

 カレニウスはあくまで事実を突きつけた。

 「でなければ、手前勝手に自国の王子をつけ狙い、側近ともども窮地に追いやるなどといったことはできぬ。我が君が害されていたら、あの災厄を討ち果たすこともできなかった――そなたひとりのために、そなたの父が守ろうとした国さえ消えてなくなるかもしれなかったのだ」
 「我が子の不始末は親に責があるのです! 」

 フォーガルは決死の表情で言い募った。

 「娘がおふたりの殿下のお気持ちを誤って解していたのも、すべてわたくしが余計な戯言を娘の耳に入れていたがため……罰ならわたくしめに」
 「父は――フォーガル卿は、お屋敷の前に捨てられていたわたしを拾ってここまで育ててくれた立派な方です」

 ブリギットも譲らなかった。彼女はジェラルドを見つめ、真摯に言った。

 「どこの生まれとも知れないわたしをお屋敷に引き取り、本当の娘のようにあらゆる知識をじきじきに教えてくださったのです。おまえの聡明さは未来のバルドラの糧になるから、励むようにと。どんなことでもいい、この国の民のために知恵を使ってほしいと――そういう慈しみ深い方なのです。バルドラに欠いてはならない方です。この先もずっと……わたしなどよりも……」

 どうにも収拾がつきそうになかった。ジェラルドが友人たちを見回すと、カレニウスは不服そうな表情ながらもジェラルドの言を待って沈黙を貫き、ヴェルフリートは腕を組み、側近たちは揃って肩をすくめた。そして、エレニアはほほえんでいた。

 「おれも前は捨て子だったよ」

 ジェラルドが呟くと、フォーガル親子は弾かれたように顔を上げた。本当に血が繋がっていないのだろうか――彼らの仕草は寸分違わずそっくりだった。

 「アルトリウスだった頃だ。おれはバルドラの外から流れ着いて、予言者のひとりだった兄上に育てられた。そのときは本当の兄弟だったわけじゃないんだが、それでも兄上はおれを育ててくれた。だからブリギットがフォーガルのために何かしたかったという気持ちは、分かるんだ……おれにも」
 「殿下………」

 恐らく断罪ばかりを覚悟してきたのだろう。フォーガルは見るからにうろたえた。ジェラルドは構わず続けた。

 「それに、おれが千年前に今の状況を見たとき、王子に対して暗殺や追放の暗示は出ていなかった。もしブリギットのしたことがおれたちにとって何か脅威になるような出来事であれば、おれには千年前の時点でそれが見えていたはずなんだ。いくら未来は変わるといっても、星図のどれかに可能性くらいは反映されていたと思う」
 「確かに。千年かけてみんなで守らなければならない予言の結末が変わる可能性があるなら、それもきちんと示唆されていないと意味ないね」
 「満を持してもう一回生まれたのに暗殺されて終わったら、なんか笑えてくるよね逆に」

 側近たちが口を挟む。ヴェルフリートは片眉を上げた。

 「しかし、一時とはいえ王子が城を追われたのだ……まったく無意味な出来事とも思えんがな」
 「もちろん。……ブリギット。君が占いに来たとき、エレニアがなんと言ったか覚えているか? 」

 ブリギットはすぐに口を開いた。

 「わたしのしたことが、〈運命の出会い〉や〈大きな幸運〉に繋がっていると……」
 「そうだ――おれは城を出る前、自分が本当に玉座につくべきなのかずっと悩んでいた。千年前に自分が予言したことだなんて分かるはずがないし、兄上には嫌われていると思っていたし、マレビトや魔法のことは単なるおとぎ話だと思っていた。エレニアとも会えないままだったかもしれない。……おれが王子のままだったら叶わなかったことが、たくさんあったんだよ」

 理解が追いつかないのか、ブリギットは眉を寄せたまま沈黙した。

 「エレニアの占いは当たっていたんだ――君は〈妖精王〉の予言を成就させるために、大事なきっかけを作ってくれたんだよ。君がそう意図したわけではなくてもな」
 「………」

 親子は呆然とした様子でジェラルドを見つめた。ジェラルドはたたみかけた。

 「ふたりからすれば、おれが君主では心許ないだろう。これまでとはまったく違った国を作らなければならないから、確かにおれひとりでは限界がある……本気で国のことを考えてくれるものがひとりでも多く必要なんだ。ふたりも力を貸してもらえないだろうか。フォーガルの誠実さと、ブリギットの行動力。おれはどちらも得がたいものだと思う」
 「し、しかし……」
 「しかしもなにもあるものか。君主にこれ以上頭を下げさせる気が」

 カレニウスは持っていた日程表を親子に突きつけた。

 「……我らマレビトは、〈王国側〉の伝統など知らぬ。臣下として来たる戴冠式を良きものにと思うなら、歴史学者とやらの矜持を少しは見せてみるがいい」

 フォーガルとブリギットは、恐る恐るといったように日程表を受け取った。

 「……娘ともども必ずやお力になりましょう。これより先、どのような時代が訪れようとも」

 フォーガルは涙ぐみ、それだけ言うので精一杯といった様子だった。ブリギットの方は、言葉も出なかったようだ。親子はジェラルドたちに深く頭を下げ、揃ってその場を辞した。
 
 これよりひと月のち、ジェラルドはベアルクから王冠を引き継いでバルドラ国王として即位し、妃としてエレニアをかたわらに迎えた。直前までフォーガル父娘とカレニウスが意見を戦わせて式次第を突き詰めたおかげで、バルドラ王国の伝統とマレビトたちの魔法が華やかに調和した美しい戴冠式が実現した。

 国を挙げた祝祭には腹が目立ちはじめたエポナも従者とともに参列していた。よい子を産んでくれというジェラルドの言葉に対して従者は深々と頭を下げて応え、エポナはしたたかに、心から嬉しそうにほほえんで言った。

 「はい、殿下。バルドラの弥栄のためにも」

 一方、クーナはジェラルドとエレニアの即位を見届けて数日後に、再建された妹メリルの墓の前で静かに息を引き取っていた。闇魚討伐を成し遂げたことで時の呪いから解放されたその姿は円満に寿命をまっとうした老婆にふさわしいものであり、その表情は穏やかにほほえんでいるようにも見えた。

 バルドラはそれから長らく従来どおりの〈現れた国〉として栄えたが、時代の変遷とともに他国からの侵攻の危機に晒されるようになり、あるときを境に忽然と海上から姿を消した。

 バルドラを指して船を出した他国のものたちは、いつまで経っても現れない島影に、当初は航路を読み誤ったのかと考えた――だが、それ以後どれほど慎重に海図を探って航海しても、バルドラがあったはずの場所には海がどこまでも広がっているばかりだった。それでも、船乗りたちの間ではバルドラが存在したあたりの海域で大きな竜のようなものを見たとか、不思議な力を持ったものと邂逅したとかいった類の話が定期的に語られた。

 こうしていつしか伝承の中の存在となったバルドラは、そのほかの幻の大陸や島がそうであるように世の人々の好奇心や冒険心を大いに刺激したが、やはりその島影をわずかにでも捕らえられたものはなかった、という。

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