妖精王

ユーレカ書房

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4、春迎えの祭り

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 王都は鮮やかな色と楽しげな音楽とおいしそうな香り、それに浮かれ騒ぐ人々ではちきれんばかりだった。卵を投げつけられたときとジェラルド自身は何も変わっていないというのに、彼を気にするものはほとんどいなかった――おかしな格好をした大道芸人やら劇団員やらがいたるところにいたし、道すがらすれ違う人々は晴れ着で着飾り、屋台で手に入れた祭り用の仮面を身に着けていた。どの仮面屋も、道行くものたちを華やかに呼び込んでいた――

 「魂を取られたくなきゃ、派手なのを選びな! 春祭りの通りにゃ、いろんなもんが歩いてるからね! 」
 「春迎えの祭りは、もともとバルドラの土地の力が強くなる期間を安全に過ごすためにはじまったそうよ」

 とエレニアが教えてくれた。

 「土地の魔力が強くなると、悪魔や悪霊が人間の世界にやってくるから――さらわれたりしないように仮面をつけて悪霊のふりをするんですって」

 エレニアの薬草屋も大盛況だった。マンネンロウを入れた春の香り袋はあっという間に売り切れ、料理用や薬湯用にそれぞれ包んだものも、半日経たずになくなった。

 占いの注文もかなり入った。ジェラルドが見ていると、エレニアは森で拾ってきた小石を小さな山に分けたり数を数えたりしながら、依頼人の展望を次々に読み解いていくのだった。

 「土占いっていうの」

 ふと客足が途切れたとき、エレニアが教えてくれた。

 「こういう石の粒なんかを、四つの山に取り分けるの――ひとつの山に石がいくつ入っているか、偶数か奇数かで、運勢を見るのよ」

 傍で聞いていると、身の上話も実にいろいろあるものだ――そして、身分が上になるほど顔や素性を隠してくるものだということもじきに分かった。

 「結婚の運勢を見てちょうだい」

 何人めかのお客は、優美な仮面で顔を隠していた。従者をひとり連れている。ジェラルドはこの従者の顔に見覚えがあったが、どこで見たのかまでは確かでなかった。

 「どなたか、心に決めた方がいらっしゃいますの? 」

 小石を山にしながらエレニアがお客に尋ねた。運勢をより具体的に鑑定するためというのと、依頼人の緊張をほぐすためのほんの雑談だ。

 仮面の貴婦人は、待ってましたと言わんばかりに勝手に身の上話をはじめた。

 「心に決めた方ですって? ええ、もちろんいたわ。わたくしのような立場ともなれば、生まれたときから決められた方がいたりするものなのよ――だけど、人生うまくいくことばかりじゃないものね。わたくしが結ばれるはずだった方は、……いえ、お名前をここで口にすることはできないのだけれど……」

 貴婦人は慎み深くそう言ったが、エレニアが興味を示していたら嬉々として口を滑らせていたに違いなかった。実際のエレニアはにこにこしながら話を聞いているだけだったので、貴婦人はつまらなそうに唇を尖らせた。

 「……とにかく、お名前を簡単に明かすのが失礼に当たるくらいの方だったのよ。わたくしはその方に嫁ぐために、小さな頃から誰よりも努力してきたわ。だけど、その方はわたくしを選ばなかったのよ。少し髪の色が珍しいだけの、腹黒い女に騙されておしまいになって! 」

 ここまで聞いて、ジェラルドは突然目の前の貴婦人が誰であるかが分かった。彼は何度かこの貴婦人に会ったことがあった――そうだ。バルドラの西に領地を持つ、マクディル伯の娘……グラーニャだ。エポナと婚約する前、未来の王妃候補の中に確か彼女もいた。従者の顔もそのとき以来だったのだ。

 グラーニャがジェラルドの正体を見抜けるとは思えなかったが、ジェラルドは居心地の悪さに思わず体をもぞもぞ動かした。グラーニャの言う〈心に決めた方〉がジェラルドのことだとすると、〈腹黒い女〉は十中八九エポナのことだろう。かつてのような愛情はとうに打ち砕かれているとはいえ、せめてこれ以上彼女の印象を悪くしたくなかった。

 しかし、グラーニャはジェラルドになど目もくれずに話し続けた。

 「わたくしの方が劣っているということは、絶対になかったわ――わたくしの方が身持ちが固いし、まして殿方にあんなひどい嘘をつくなんてね! それなのに、あの女が選ばれたのよ。目の前に誰がいるかで、まるで別人みたいな振る舞いができる女なの。あの方が一体何に惹かれたのかわたくしには分からないけれど、まああの女はどんな手を使っても結婚まで行かなきゃならなかったんだもの」

 嘘? 

 ジェラルドは先を聞かない方がいいような気がしたが、聞かなかったことにしようとするより早く、グラーニャの声が耳に飛び込んできた。

 「あの女、自分の従者の子どもを身ごもったのよ。だから、結婚を急いでいたの。まだ目立たない時期だからね――驚いた? でもね、こういうことは、どうしたって隠し通せないものよ……」
 「あなたはお相手の方のことが、まだお好きなの? 」

 エレニアが穏やかに尋ねる声で、ジェラルドは我に返った。もはや何から考えていいのか分からないほどの衝撃だったが、ひとたびすべてを痺れさせた驚愕が去ってしまうと、頭の中は意外にも冷静だった。事実は、ただ事実でしかなかった。

 ――なんだ。エポナは最初から、僕のことを好きだったわけではなかったのか。

 グラーニャはエレニアの問いに、甲高い笑い声を立てた。

 「好きだなんて! 結婚の相手に、そんなこと求めるもんじゃないわ。わたくしたちは、家のために相手を見つけるのだもの。まあもちろん、何の魅力もない方じゃなかったけどね。……でもね、いくらその方のことが好きだったとしても、もうどうにもならないの。だってその方、行方が分からないんですもの」

 ジェラルドはじっと耳を傾けた。エレニアが手を止めて聞いた。

 「まあ、行方が? 分からないって、なぜですの? 」
 「わたくしも詳しくは知らないわ。身分の高い方だから情報を伏せてるみたいなの。大騒ぎにはなってるみたいだけどね……とにかく、そういうわけだからもうその方をお相手に考えることはできないわけ。わたくしはあきらめればいいけど、性悪女は大変よ……散々根回ししてきたのに、肝心の相手が消えてしまったんじゃね! 産み月は待ってくれないのに、どうするつもりかしら。まあ、そんなことはどうでもいいわ。わたくしの運を見てちょうだいよ」
 「さっきの話に出てきた人、幸せになれるかな? あの……妊娠しちゃったっていう人」

 グラーニャとその従者が立ち去ったあと、ジェラルドはそっとエレニアに聞いた。グラーニャの結婚運は悪くなさそうだった――だが、エポナはどうだろう? 

 ジェラルドはこの期に及んでエポナを案じているらしい自分のお人よしぶりに驚いたが、それはもはや彼とは永遠に結ばれない女性のことだからなのだ。たとえ元の姿に戻って再会を果たしたとしても、こんな話を知ってしまった以上エポナに愛情を向けるのはどうしたって不可能だ。

 かといって、不思議なことに――ジェラルドは怒りや憎悪のようなものもまた、感じなかった。少し悲しいような気がしただけだった……エポナも、グラーニャも、みな自分を偽っているのだ。今のジェラルドには、それがひたすら憐れに思えた。

 エポナのことをエレニアに尋ねるのは何となく気が引けたが、彼女は頷いた。

 「本当は、頼まれてもいないのに人の未来を見るのはあまりいいことじゃないのよ。わたし、その方に会ったことがあるわけじゃないし……だけど、ルディが気になるなら少しだけ占ってみましょうか」

 エレニアが石を並べている間中、ジェラルドは彼女の表情を眺めていた。彼女の優しい眉がふいにしかめられたりしなければいいがと思いながら。

 エレニアは突然ぱっと顔を綻ばせた。

 「まあ、素晴らしいわ。よかったわね」
 「どうだった? 」
 「見て、これ。この形は、〈円満な結合〉という意味なの――恋愛や結婚には、強い吉兆。彼女、もともと結婚する予定だった方とは結ばれないけれど、最後には本当に好きな方と一緒になるんじゃないかしら……そして、無事に出産できるわ。こっちの形は、〈大きな幸運〉。全体的に見ても、誰かを不幸にする結末にはならないと思うわ」
 「みんなが、最初から自分の思ったとおりに生きられたらいいのにね」

 ジェラルドは胸を撫で下ろしながらもしんみりと言った。グラーニャの話が事実とすると、今頃エポナはかなりの苦境に立たされているはずだ――未婚の貴婦人が従者の子を孕むなどあってはならないことだから。

 だが、エポナの本心は……。

 「くだらない決まりも何もなくて、本当に自分の願いのとおりに生きられたら……そうしたら、少しはみんな幸せになれるんじゃないかな? 」
 「そうしたら、ルディも姿を変えなくてよかったかもしれないわね」

 エレニアが晴れやかな顔で立ち上がった。

 「自分に言い訳しなければならないことは、しない――そして、自分で選んだことには責任と自信を持つの。それだけのことよ。まず、自分で自分のことを好きになることだわ」
 「それって、どうしたらいいのかな? 」
 「そうね、小さなことでも、自分の望みは自分できちんと叶える――誰かに頼みごとをしたとして、その人がその頼みをきちんと聞いてくれたら、信頼できる人だと思わない? それと同じよ。……あら」

 エレニアは怪訝そうに顔を上げた。ジェラルドがつられて顔を上げると、すぐ近くの建物の陰からこちらをじっと窺っている人影があった。頭からすっぽりと布をかぶり、顔は仮面で覆われているので、人相はまったく分からない。だが、若い女性であることは確かだった。

 せっかくの春祭りなのだからもっと明るく装えばいいものを、頭から爪先まで深緑色で統一されているために、全体が影のように地味な女性だった。彼女のもとからだけ冬が立ち去っていないかのようだ。辛うじて祭りに参加していることが分かる顔の仮面も、今日手に入るものの中で一番飾りけのないものをわざわざ探してきたとしか思えない品だった。

 女性はジェラルドたちと目が合うとぎょっとした様子でおろおろと周囲を見回したが、やがておっかなびっくりといった様子でふたりに近づいてきた。鮮やかな色彩に見放されたかのような彼女の全身の中で、唯一頭の布からわずかにこぼれる髪だけが燃え立つように赤かった。

 「………あの、ここの占いがとっても――当たるって聞いて」

 女性は聞いている側が心配になるようなか細い声で言った。なにか間違ったことを言おうものなら、彼女をごく親しげに迎え入れたエレニアが掴みかかってくるのではないかと恐れているかのように。

 「その……どんなことでも、鑑定、していただけるのかしら」

 どんなことでも? 一体どんな深刻な相談を持ってきたのだろう、とジェラルドはついお客をまじまじと見てしまった。だが、エレニアは笑顔を崩さなかった。

 「あなたがどんな結果でも受け止められる覚悟があるなら、わたしはどんな質問にも答えるわ。それと、忘れないで――占いというのは、今に続く未来を予測するためのものなの。もし良くない結果が出ても、あなたが行動を変えれば別の未来が常にやってくるのよ」
 「それじゃあ、そのためにどうしたらいいかも教えてくださるの? 」
 「もちろん。そのためにわたしがいるんだもの」

 だから安心して。エレニアに促され、女性はごくりと喉を鳴らした。

 「………わたし……わたし、大変なことをしてしまったの。そのときは自分のしようとしていることは正しいんだって信じていたんだけど、そうじゃなかったの。……今は、とても後悔しているわ。とても……」
 「大変なこと……」

 あまりに抽象的な相談にさすがのエレニアも困った様子だったが、女性は詳しく説明をする前に泣き出してしまった。

 エレニアは優しく尋ねた。

 「あなたはよかれと思って何かをしたのに、そうじゃなかった――周りの方にはあまりありがたくないことだったということかしら? 」
 「ええ……わたし、あ、ある方たちを助けて差し上げたかったの。その方たちが、ある人のせいでとても迷惑していると思っていたから。……だから、その人がいなくなればいいと思って……せめて、その方たちの邪魔ができなくなればいいと思って……」
 「もしかして、誰か大勢の人と一緒に〈それ〉をしたの? 」

 想定外に飛び出てきた〈大変なこと〉にジェラルドはすっかり呆気に取られていたが、エレニアは石を冷静に並べて問いかけた。

 「〈大勢〉を表す形が出たわ。あなたひとりが思い詰めるようなことではないんじゃないかしら」
 「でも……! その人たちに声をかけたのは、わたしだから……計画を実行したら、喜んでくださると思っていたの。……でも今は、わたしが助けたかったどちらの方も、とても困っていらっしゃるわ。わたし、もうどうしたら償えるか分からないの! 」

 女性はいよいよひどく泣き出した。ジェラルドがハラハラしながら見守っていると、エレニアは深く息をつきながらも穏やかに言った。

 「〈拘束〉のしるし……あなたは今、自分自身が大きな過ちを犯してしまったことに捉われて身動きが取れなくなっている。あなたがあなた自身をがんじがらめにしているような雰囲気ね」
 「ええ……わたしが〈それ〉をしたことは、頼んだ人たち以外には誰も知らないから」
 「そう。それなら、自分がしてしまったことや後悔の気持ちを信頼できる方に打ち明けることをおすすめしたいわ」

 エレニアは脇に並べた石を示した。

 「これは、伏せた杯を上下にふたつ並べた形なの。杯を逆さにすると、中に入っていた水は全部こぼれていってしまうでしょう? 〈水〉は感情の表れよ……あなたが自分の気持ちを正直に〈こぼす〉ことが必要だわ。杯は空になってしまうから、あなたにとっては簡単なことではないでしょう。でも濁った水を杯に入れたままにしておいても、状況は決してよくならないわ」
 「正直に話したら、わたしはどうなるの……? 」

 女性の顔は仮面越しでも分かるほど青ざめ、頬の辺りに散らばった濃い色のそばかすが余計に目立って見えた。

 エレニアはまた小石を並べた――すると、ふいにその表情が明るくなった。

 「まあ、これはどういうことかしら……〈結びつき〉のしるしが出たわ」
 「それは、その……いい結果なのかい? 」

 ジェラルドは思わず横から口を挟んだ。

 「このしるし自体は吉凶混合なのよ」

 とエレニアは言い、また別のしるしを作った。その結果を見た彼女の表情は、決定的に和らいだ。

 「〈大きな幸運〉だわ。さっきの〈結びつき〉と合わせると、そうね……あなたのしたことが、結果的に誰かとの幸運な出会いにつながっている。関係した誰かにとって、あなたのしたことが〈運命の出会い〉のきっかけになっていたことが分かる……という可能性があるわ」
 「………どういうこと? 」

 理解を超えていたのか、女性は怪訝そうに呟いた。エレニアはさらに解説しようとしたが、女性は唇を噛んで頭を振った。

 「〈大きな幸運〉だなんて、とても信じられないわ……せっかく占っていただいたけど、やっぱりダメ。……ご、ごめんなさい……」

 切羽詰まったように占い料金を置いて、女性は足早に立ち去った。

 「自分の進む道の行く手に、希望はないと思い込んでいるのね。苦しい状況にいる人ほどそう。せめて、さっき言ったとおり誰かに打ち明けてくれるといいけど」

 エレニアは悲しげに言った。いつも多くの悩める人々を相手にしている〈宵空の乙女〉にとって、今日のようなことは珍しくないのだろうとジェラルドは思った。

 とはいえ、彼自身もエレニアの鑑定結果に得心がいったわけではなかった。

 「でもさ……あの人の話を聞く限り、もうダメだと思っても仕方ないような気がしたけどな。はっきりとは言っていなかったけど誰かを陥れるようなことをしてしまったみたいだったし、そのことをすごく後悔していた」
 「だけど、幸運が不運のフリをしてやってくるのはよくあることなのよ。さっきの人にとってというより、陥れられた方の人――その人にとって、彼女の与えた試練が幸運のきっかけになっていた……この並びなら、そういう解釈ができるわ」
 「じゃあ、さっきの彼女が心配していたような結果にはならないのかな」
 「〈大きな幸運〉のしるしは、本当に最高のときにしか出ないのよ。今日は二回も出たけど、そう簡単に見られるものじゃないの。……彼女が少しでも自分の未来を信じてくれることを祈るしかないわね」
 

 
 店をたたんだあと、エレニアは祭りを案内してくれた。彼女はどこに何がいくらで売られているか、どこに何が飾られていて、何を見物することができるのかをよく知っていた。

 一番大きな広場は催しものの会場として使われ、普段の倍も人出があるようだった。ジェラルドはなんとかエレニアのあとを追っていった。元の体格なら群衆から頭ひとつ抜けられただろうが、今の彼は人波に飲まれないようにするので精一杯だった。

 「どうして、こんなに、混んでるのかな? 」
 「天幕でなにかやってるんだわ」

 四方八方から押されて息も絶えだえのジェラルドの手を引きながら、エレニアは前方の様子を教えてくれた。

 「なにかしら? ……変わった格好の人が、大勢集まっているわ。サーカス……いえ、ちょっと違うみたい……」
 「ありゃあ〈一芸披露〉だよ、おふたりさん。今年からはじまったんだ」

 困っているふたりに、近くにいた人が教えてくれた。

 「大道芸でも、踊りでも、手品でも、何でもいい。天幕の中の舞台で、自慢の芸を披露するのさ」

 ふたりが押しやられるまま天幕のすぐ前までやってくると、中の熱気は段違いだった。ジェラルドは近くに転がっていた木箱の上に立った(そうしてようやく、エレニアよりも少し背が高くなった)。するとなんとか、ずっと前にある舞台の様子が見えた――胸に大きく刺青を掘りつけたたくましい男が燃え盛る松明を口に突っ込み、炎の息を吐き出す。どのように使うのか、細身の剣をたくさん持って出番を待っている男もいたし、お揃いのきらびやかな衣装に身を包んだ三人組もいた。縄を体に巻きつけた女もいた――よく見れば、それは縄ではなく蛇だった。

 ジェラルドとエレニアは、周囲の客たちに混ざって夢中になった。薄暗い空間に炎が輝き、楽隊の演奏が鼓動を急かす。人々の興奮がむせかえるほど充満し、少し怖いようでもあった。

 「おっと、これはこれは! 」

 かたわらで嬉しそうな声が上がり、ジェラルドはよろめいた。後ろから誰かに肩を掴まれたのだ。だぶだぶのおかしな衣装に、ちぐはぐの鈴つき帽子をかぶった道化が、ニヤニヤしながら舞台に向かって大声を上げた。

 「おおい、ファーガス! 次の演者が見つかったぞ! 」
 「――ルディ? 」

 訝しげにこちらを向いたエレニアの姿が、見る間に遠くなっていく……我が身に何が起こっているのか分からないままジェラルドは道化に引っ張られ、人ごみに押されて、あっという間に舞台の真ん中に押し出されてしまった。

 「なるほど、これはこれは」

 一芸披露を取り仕切るファーガスがいかにも親しげにジェラルドの肩を抱き、顔を覗いた。ジェラルドは、これほど悪意に満ちた笑顔を見たのは初めてだった。

 ファーガスは観衆に向かって声を張り上げた。

 「素晴らしい! みんな、この目を見ろ! 彼はまさに、異界からやってきた悪夢! 見ているだけで魂を食われそうだ! 」

 場所が悪かったせいで旅芸人か何かと思われたのかもしれないと、ジェラルドはひとまずこの仕打ちに耐えた。祝祭の浮ついた気配は、理性や良心を鈍らせてしまうのだろうか? 同じ悪意なら、物陰から卵を投げつけられる方がまだマシだった――まさか、容貌を理由に見世物にされる日が来ようとは!

 ファーガスに煽られた見物人たちは笑い、罵り、悲鳴を上げ、口々に突っ立っているジェラルドを囃し立てた。ひとりがふざけて食べかけのパイを投げたのをきっかけに、出店の売りものやその残骸、しまいに酒瓶が舞台に向かって飛んできた。

 避けそこなった小さな瓶が額に当たり、引っ込め悪霊め、というような声とともに大爆笑が起こったが、ジェラルドは聞いていなかった。舞台の上から、周囲の人々を何とか止めようと頑張るエレニアの姿が見えていた。彼女は宥め、懇願し、どうにかしてジェラルドをこの悪ふざけから救い出そうとしていたが、熱狂する群衆や始末の悪い酔漢が相手では逆効果どころか、かえってエレニアの身が危険だった。

 耳を塞ぎたくなるような下品な嘲笑(エレニアに意味が分からなければいいのだが! )がエレニアに浴びせられ、誰かが彼女の腕を掴んだ。ジェラルドはエレニアを助けに行きたかったが、彼が必死になればなるほど人々はおもしろがって舞台に押し寄せ、彼らを引き離そうとした。

 やめろ、などと声を張り上げても空しかった。ジェラルドはエレニアがタガの外れた連中の気まぐれなからかいに晒されるのを眺めているしかなかった――エレニアはいざとなればサウィンを縛り上げたような魔法が使えるはずだが、だからといってこんな場所であの力を使わせるわけにはいかない。彼女が本物の妖精だと気づかれたら……その先は、想像もしたくなかった。

 なんとかしなくては――ジェラルドは懸命に焦りを押しとどめて考えた。なんとかして、人々の注意をジェラルドの方にだけ向けさせなければ。そばへ行かずにエレニアを守るには、それしかない。

 何か手はないか。どんなことでもいい。どんなに屈辱的な目に遭わされても構わない。何か――。何か――!

 「〈エリーばあさん 岩の上
   幾年待った 波の果て〉……」

 ファーガスが呆気に取られてジェラルドを見つめた。考えがまとまらないまま、ほとんどヤケになったジェラルドの口から咄嗟に滑り出たのは、いつか側近たちと出かけた森で歌った〈エリーばあさんの歌〉だった。

 これには思いがけない成果があった。ファーガスばかりでなく、あれほど手のつけられないありさまだった観客たちもジェラルドの声が届くに従って次第に舞台に注目しはじめたのだ。一番が終わる頃には、天幕全体が水を打ったように静かになっていた。

 ジェラルドはいつの間にか歌に夢中になっていたが、あまりに会場が静まり返っているので二番が終わったところでふと我に返った。沈黙。

 数秒か、数分か、あるいは数十分かは、やけに長く感じられた。誰も口を開かなかった――とにかく、エレニアを助けることはできたようだった。

 エレニアは他の客と同じようにぽかんとジェラルドを見ていたが、次第にその頬に喜色が現れ、やがて花が開いたような笑顔がこぼれた。

 異様な沈黙を拍手で破り、エレニアは叫んだ。

 「ブラヴォー! 」

 この一言で、天幕の中は息を吹き返したようになった。手のつられない騒ぎであることに変わりはない――だが、最初のような嘲りや罵声はすべて、喝采と称賛に成り代わっていた。

 「みんな落ち着いてくれよ! 」

 ファーガスが場を静めようと笑いながら声を張り上げたが、なかなかうまくいかなかった。歓声はどんどん膨らみ、やがてひとつの大きな声のうねりとなって天幕を揺らした。

 アンコール! アンコール! アンコール!

 「こりゃあすごい。どうしようもないな」

 ファーガスは完全に諦め、ジェラルドに向かって正真正銘の親しみを込めた笑顔を向けた。

 「いやあ、恐れ入ったよ。悪ふざけで笑いものにしたりして悪かったね。このバルドラにこんな才能が眠っていたとは思わなかった。君さえよかったら、何かもう一曲、みんなに聞かせてやってくれないか? このままじゃ収まりがつきそうもない」
 「もう一曲? ……」

 ジェラルドはまごついた。歌を歌うことの楽しみなど、久しく忘れていた――これほどの称賛を受けたことも、かつてなかった。公の場で披露するような機会などなかったのだから、仕方がない。

 ファーガスはうろたえるジェラルドに助け舟を出そうとしたのか、エレニアを指して小声で言った。

 「たとえば、彼女に贈るつもりで」

 エレニアとまなざしを交わすのは簡単だった。ジェラルドはエレニアを見失わなかったし、エレニアもずっとジェラルドを見ていたからだ。もはや危険は去り、エレニアは他の客とともにジェラルドが次の一曲を歌い出すのを待っている様子だった。

 「それじゃ」

 ジェラルドは急に口がからからになるのを感じながら言った。

 天幕をいっぱいにしている目の前の観客が全員まったくの他人なら、今さらこんなに緊張はしなかっただろう。民衆の前へ姿を見せるなどということは、王子にとっては日常茶飯事だ。

 その中にたったひとり、エレニアがいるということ――エレニアに捧げるために歌えと言われたことが、ジェラルドの体を思いがけず強ばらせた。

 「それじゃ、〈麗月に捧ぐ賛歌〉にするよ」
 「へえ! またずいぶん高貴な……君は宮廷楽師か何かなのかい? 」

 ファーガスが目を丸くした。ジェラルドは苦笑いした……こういう場にふさわしい気楽な歌を、もうひとつかふたつユージーンに聞いておくべきだった。

 だが、エレニアに捧げるならばやはりこの歌で正解だという気もした。ファーガスはにやりと笑い、ジェラルドの背を励ますようにばしんと叩いた。

 「〈麗月に捧ぐ讃歌〉か……隅に置けないね」

 満場の拍手喝采に見送られて舞台を下り、泣き笑いのエレニアと抱き合ったとき、生まれてこのかた味わったことのないような強い喜びがジェラルドの胸を満たした。

 人前で堂々と歌ったことも、掛け値なしの称賛を浴びたことも、エレニアを守り抜いたことも。すべてが彼の喜びだったのだ。


 
 風景がまるで違ったものに見えた。城を出た日に死ぬほど惨めな思いをしたのが嘘のように、町は親しげに、明るい色合いを帯びてジェラルドとエレニアを迎えた。天幕での一件は想像以上に多くの人の目に触れており、彼らはジェラルドを〈個性的な容貌と天性の声を持つ歌い手〉として、ある程度の敬意を払うべき存在と認めたらしかった。

 「こんなことは初めてだ」

 意気揚々と通りを歩きながら、ジェラルドは道の反対側に向かって手を振り返した。

 「こんなに、気分がよかったことは……この姿になる前にだって、なかったかも」
 「本当に素敵だったもの」

 エレニアはにこにこと言った。目尻が涙の名残りで赤くなっている。彼女はジェラルドと引き離されている間に泣くほどの仕打ちを受けたのでも、ジェラルドと再会して安堵のあまり泣いたのでもなく、ただジェラルドの歌に心を動かされて泣いたのだった。

 「みんなあんなに乱暴だったのに、もうあなたに瓶を投げたりする人はいないわ。魔法みたいな時間だったわね。それに……」
 「それに? 」

 ジェラルドはエレニアにつられて立ち止まった。だがエレニアは笑って、なんでもないわ、と首を振った――。

 「そこ、ごめんよ」

 王都警備の兵士がやって来て、道端で突っ立っているジェラルドたちの後ろの壁に張り紙をした。何気なくその張り紙に目をやって、ジェラルドは思わず身を引いた。

 第二王子襲撃さる――そんな書き出しの下に描かれているのは、呪いがかかる前のジェラルドの似顔絵に間違いなかった。ご丁寧に、城を出た日に身に着けていた服装のことまで載せられている。

 ジェラルドは兵士に尋ねた。

 「これ、どうしたんだい? 何があったの? 」
 「ちょっと前に、城が襲われたんだよ。そんで、第二王子さまが行方不明になっちまったんだ」
 「まあ、大変」

 エレニアが心底心配そうに言った。兵士はふたりの反応に気をよくして詳しく教えてくれた。

 「陛下や第一殿下、貴族方は無事だったんだがね。第二王子のジェラルドさまが城から〈消えて〉しまわれた。で、戻ってもこられなきゃ、見たって話もない。城側じゃ秘密裏に行方を捜していたんだが、春祭りの間に王族方でご挨拶なさらなきゃならねえだろう。ジェラルド殿下だけお出ましにならないわけにはいかん。ジェラルドさまだけお姿が見えないとなったら、どんな噂が出るか分からねえしな。遅まきながら先手を打って皆々さまにお知らせして、ついでに情報を募ろうってわけさ。あんたたちも、何か知ってることがあれば教えてくれよ」
 「――死んじゃったんじゃない? 」

 内心複雑ではあったが、ジェラルドはそう水を向けてみた。兵士は身を震わせた。

 「あんた、めったなこと言うもんじゃねえよ――第一殿下がお聞きになったら……」
 「あ……ヴェルフリートさまが? 」

 うっかり〈兄上〉と口走りそうになったのをなんとかごまかして、ジェラルドは先を促した。ヴェルフリートが……あの冷徹な兄が、ジェラルドを案じているとでもいうのだろうか? 少なくとも、ジェラルドが最後に見たヴェルフリートが、ちょっとやそっとのことで弟の身を案じてくれるとは到底思えなかった――この忙しいのに余計な仕事を増やすなと、説教されるのならまだ分かるが。

 だが、兵士はまじめに続けた。

 「ヴェルフリートさまはいたく心配なさってな。なんせジェラルドさまは〈妖精王〉だし、即位の日が決まりそうだってときにこんなことになっちゃ……そうでなくたって、ジェラルド殿下は弟君だもの」
 「そうかな……」
 「そうとも。躍起になっておられるのさ。兄弟の順番を無視してるってんで、兄上の方を次期国王にすべきだって連中は、昔からいたからな。いよいよ即位ってときになってそんなやつらが第二殿下を狙ったんじゃないかって話だ。そんなことしたってヴェルフリートさまの覚えがよくなるわけでもあるまいに、恐ろしい連中だよ……なんでも、ジェラルド殿下の側近らがその手先だったっていうじゃねえか。ふたりいるんだが、どっちもとっ捕まってるってよ」
 「側近? 第二王子の? 」

 ジェラルドは耳を疑った。第二王子の側近を名乗れるものは、バルドラにたったふたりしかいない。

 暗殺者の手先? リヒャルトとユージーンが? 

 「そんな馬鹿な! 何かの間違いだろう」
 「ところがどっこい」

 兵士はジェラルドの勢いにつられて、さらに熱を入れて話し出した。

 「側近らは、共謀してご主人を襲ったんだと。狙いはジェラルド殿下ただおひとり――本当に暗殺ってやつさ。信用させておいて寝首をかこうって魂胆だったんだ。ただ、さっきからなんべんも言ってるとおり、ジェラルドさまは行方が分からねえ。イヤな言い方だが、〈お体〉が見つかったわけでもねえ。だから訳の分からねえ事件ってんで、みんな気味悪がってるのさ。……おっといけねえ。すまねえな、もう戻らなくちゃ」

 遠くから呼ばれ、兵士は頭を掻きながら行ってしまった。ジェラルドは支えなく立っていることができず、ふらふらと自分の似顔絵の隣にもたれかかった。

 「ルディ! 」

 エレニアが慌てて叫んだ。

 「どうしたの? 大丈夫? 」

 エレニアは、似顔絵の第二王子と目の前の〈ルディ〉が同じ青年だということを知らない。ジェラルドがなぜこんなに青ざめているのか、彼女には知る由もないのだ。

 最悪の絶望感だった。ない交ぜになった恐怖と混乱と焦りが、クーナやエレニアとの平穏な暮らしに慣れはじめていたジェラルドの心にどす黒く覆いかぶさってきた。

 リヒャルトもユージーンも、ひとまず命は無事らしい――だが、なんという儚い朗報だろう! 命がけでジェラルドの活路を開いたふたりに、よりによってジェラルドを亡きものにしようとした疑いがかけられることになるとは!

 誰も彼らを擁護できるものはいないのか?

 このふたりがジェラルドを手にかけようとするなどありえないと人々の疑心に立ち向かい、潔白を証明できるものは?

 ――いないのだ。なぜあのふたりがこんな窮地に追いやられたのかは分からないが、でなければこんなことにはなっていない。

 僕がどうにかしなくては。

 「僕は、城に行く。どうしても行かなきゃならない」

 ジェラルドはエレニアに向かって宣言したが、ともするとその声はか細く途切れそうになった。落ち着け、どのみち城に行くつもりだったんじゃないか、と自身に言い聞かせたが、今度は手が震えはじめた。

 無事に済むだろうか、という不安はほとんどなかった。彼の恐怖は、側近たちの境遇と運命の理不尽が、彼らの命を今にも奪おうとしているのではないかというところに由来していた。

 早く、一刻も早く、あのふたりを救い出さなければ……。

 「僕が行かなきゃ……助けなきゃ。このままじゃ……」

 エレニアが黙って背を抱いてくれた。大きくも強くもない、ひたすらに優しいだけの白い手は、不思議なほど温かかった。

 ジェラルド自身にすらうまくやり過ごせない混乱した感情の波や、彼以外にはわけが分からないであろう決意の吐露を問いただすことなくただ受け入れたエレニアの態度は、それだけでいくぶんジェラルドを落ち着かせた。

 「僕のせいなんだ」

 とジェラルドは口に出していた。

 「城に、――友人たちが捕まっている。ふたりとも、僕を助けようとしてそんなことになってしまったんだ。早く何とかしないと、手遅れになってしまう」
 「でも、まだ助けられるかもしれない。そういうことでもあるわね? 」

 エレニアは静かに言った。

 「まだ可能性があるから、焦っているんでしょう? 今あなたにとって大切なのは、まだ間に合ううちにさっきの話を聞いたことじゃないかしら。第二王子さまの話と、関係があるの? 」
 「――うん、そうなんだ」

 なぜこの人の言葉はこれほどすんなりと心を宥めるのだろうと思いながら、ジェラルドは笑った。同時に、目からは涙がこぼれた。自分でもわけが分からなかったが、不思議と嫌な気分ではなかった。

 「僕、前はこんなに泣いたりしなかったのになあ」
 「その姿のあなたって、自分に嘘がつけないんじゃない? 」

 ジェラルドを促し、一緒に歩きはじめながら、エレニアは言った。

 「それか、あなたが強くなったのよ」
 

 
 祝祭のバルドラ城は、例年に増して大変な賑わいだった。王城襲撃・第二王子失踪という衝撃的すぎる報は公の情報となって間もないにもかかわらず、すでに王都中の人々に知れ渡っているようだ。

 エレニアとともに人波をかきわけていく間に、自分や側近たちの名が何度もジェラルドの耳に届いた――ジェラルド殿下が、何者かに……――側近のリヒャルトさまとユージーンさまが……――それで、殿下は今どちらに? ――ヴェルフリート殿下が、必死になられて……

 「失礼、お嬢さん。もしや、〈宵空の乙女〉殿では? 」

 途中、兵士のひとりがエレニアを呼び止めた。この顔は知っている、とジェラルドは思った。よく城内で立ち番をしているのを見る――古参の、信頼の置ける兵士だ。

 兵士は上目遣いにエレニアを窺った。

 「内密にご協力いただきたいことがございまして……ご同行願えませんでしょうか」

 エレニアの評判を耳にした城内の誰かが使いをよこしたようだ。彼女の占い稼業の繁盛ぶりと珍客たちをほんの数時間前に目にしたばかりのジェラルドは、返事に迷っている様子のエレニアの背をそっと押した。

 「行っておいでよ、エレニア」
 「でも……」
 「大丈夫さ。あとで、城門のところで会おう」

 ジェラルドの方でも、ちょうどこのときよく見知った顔を遠くに見つけていた。エレニアを見送り、祝祭にふさわしくない険相を浮かべて人々をじっと見つめる兵士に近寄る――目が合った――隻眼の兵士は険しい顔を崩さず言った。

 「なにか? 」
 「ジェラルドさまの噂、あれは本当かい? 」

 兵士は何も答えず、ますます顔を険しくした。ジェラルドはこの兵士のそういう口の固さを信頼していたが、こんな状況ではその美徳は実に厄介だった。

 ジェラルドは、先に彼の素性を言い当てることにした。

 「君は、〈青片目のサウィン〉だろう。何年か前に、ジェラルド殿下に拾われたっていう」
 「……そういうあんたは? 」
 「僕は、今度ジェラルド殿下のご招待を受けることになっていたんだ。御前で歌わせていただくことになっていたんだよ」

 問い返された勢いではあったが、この出まかせはなかなか効果的だった。サウィンは沈黙を貫いてはいたものの、盗賊の頭目だった頃すでに彼の眉間深くに刻まれていた皺が、この一瞬わずかに緩んだのだ。

 一度〈第二王子に招かれる予定だった歌い手〉という設定を作ってしまえば、あとは実に簡単だった。

 「殿下のことは、お慕いしているよ。僕は見てのとおりのご面相だけど、あの方はそんなこと気にもなさらないからね。せっかくだから春祭りのご挨拶を見せてもらおうと思ったら、王都に入った途端この騒ぎだもの――他の連中じゃ、浮かれているばっかりで話にならない。僕は確かな話を知りたいんだ。……君は、忠義に厚くて殿下に信頼されていると聞いたよ」
 「そりゃあ、盗賊なんてもんから足を洗わせてもらった恩人だからな。おれだけじゃない。おれの子分だったやつらも、みんな城で雇ってもらってる。恩に報いねえわけにはいかねえ。おれは貴族やら王族やらには嫌気が差したはずなんだが、不思議だよ」

 サウィンは溜め息のような笑い声を立てた。

 「だがいくら忠義に厚くたって、いざというとき盾にもなれないんじゃ何の役にも立ちやしないさ。……あんたが聞いた噂ってのがどんなもんかは知らないが、殿下が行方不明ってのは本当だ」
 「でも、お城って君たちみたいな兵士や専属の騎士団が守ってるんだろ。僕が聞いたのは殿下が城の中で襲われたらしいっていう噂だったけど、そんなこと無理じゃないかな? 」
 「それが目下の謎なんだ――おれたちはあの晩も、全員できっちり立ち番をやってた。おれたちの誰がどこに立つかは、城の人間しか知らねえ。それなのに、立ち番をやってた連中は誰もおかしなやつを見てねえんだ……おれも含めてな」

 なるほど、それは変だとジェラルドも思った。バルドラ城では騎士と兵士を騎士団長が統括しており、立ち番の場所も彼女が主となって決めている。国王や王子の自室に至る経路は普段彼女の采配によってしっかり守られており、襲撃者の姿を誰も見ていないというのは不自然だった。

 そういえば、ジェラルドが逃げる間も警護のものと出会わなかった……もしかしたら襲撃者たちは立ち番がいない方へジェラルドを誘導し、あの人気のない中庭脇の廊下でとどめを刺すつもりだったのかもしれない。

 ジェラルドは考えをまとめながら問いを重ねた。

 「側近の人たちが殿下を襲ったとか、言われているらしいね」
 「ありえねえ」

 サウィンは最初より厳しい顔をしてすぐさま言った。

 「疑おうと思えば、誰でも疑えるような状況だ。だがよりによって、あのふたりがやり玉に挙げられるとはな。ふたりとも、気絶してる間に罪人にされてたんだからさぞ驚いたろうよ」
 「王子の側近になるような人たちが、簡単にやられるとも思えないけど……」
 「ほお」

 サウィンの片目が感心したように見開かれた。

 「まあな。騎士殿の方はバルドラでも屈指の剣士だし、学友殿はまつりごと一辺倒に見えるが、これがなかなか。殿下とまともに打ち合えるっていうんだから、そこらの兵士じゃ相手にならねえだろうな。ふたりで殿下を襲ったが、大勢でかかってどうにか縛り上げて、そのまま牢に入れられた……ってことらしい。誰が最初に捕まえたんだか知らねえが、おれが見たときにはもう、ふたりそろって荷物みたいに担がれてた。殿下に対して忠誠を誓っているように見せていただけだった。ハナから殿下を狙ってて、即位が正式に決まった頃合いを見計らって暗殺しようとした……そんなふうに言われてるな。なんでも、学友殿の方が殿下に剣を投げつけるところを見てたやつがいたんだと。現に、廊下の絵に刺さってた剣が見つかったしな」
 「……もしかして、拷問されてるとか? 」
 「いや、そんな様子はねえ。だがこの祭りの最後に、見せしめに処刑されるとかいう話も出てるらしい。普段より人が多いからな。王族に仇なすものの末路を見せつけるにはちょうどいいんだろう」
 「祭りの最後? 」

 ジェラルドは沈黙していた絶望が頭をもたげようとするのを感じた。

 「明日の……夜? いくらなんでも、早すぎる! 」
 「そうでもないさ……拷問されてないってことは、弁解の余地なしってことだろ。殿下が戻って弁護でもなさるんならまだ望みはあるがな……」

 あまりの息苦しさに狼狽しながら、ジェラルドはなんとか状況を覆せる糸口を探そうとした。今ここで、呪いを解く方の――ジェラルドの姿を元に戻すための――呪文を思い出せはすまいかとひとしきり胸の内を探ってもみたが、無駄だった。今まで何度も試しはしたが、そのすべてが失敗に終わったように。

 この城の連中は、揃いも揃って本気でリヒャルトとユージーンを疑っているのだろうか? ジェラルドを襲ったのは黒覆面だ。彼らの素性が公にできないようなもので、彼らの身代わりに側近たちの命を差し出そうと企んでいるものがいるのではないか? 

 嘘をついているのは誰だ? 誰までが嘘をついているのだ? いや、そもそも黒覆面たちがジェラルドを狙った目的はなんなのだろう? 一部に囁かれるように、第一王子を王位に就けようとするものたちのうちの過激派が本気になったのだろうか? ……

 「側近のふたりは、ヴェルフリート殿下を即位させたかったのかな」

 事実ではないことを敢えて口にしなくてはならない違和感にむかむかしながら、ジェラルドは言った。サウィンは頷いた。

 「ああ、そう考える連中はいるな。本当は誰が襲ったのにしろ、第一殿下が王位に就いてくれた方が都合がいいっていう連中の手先があのふたりで、尻尾切りするために処刑を急いでる、ってな……」

 ここで、サウィンは迷ったように言いよどんだ。だが結局は間を置かずに、しかし声を小さくして、言った。

 「……嘘か本当か知らんが、おれはもうひとつ別の話を聞いた」
 「別の? 」
 「〈妖精〉……ジェラルド殿下は妖精の世界に連れ去られた……って話だ」

 このときジェラルドは思わず、こいつは何を言っているんだという顔をサウィンに向けてしまったに違いなかった。サウィンはやや頬を赤らめた。

 「言っておくが、おれは話を聞いただけだからな。真に受けてるわけじゃねえ」
 「本当に妖精が殿下を連れていったとしたら」

 サウィンが話を切り上げてしまうのを恐れて、ジェラルドは慌てて言った。

 「だったら、あー……向こうで歓迎されている可能性もあるんじゃないかな。だってあの人は――」
 「〈妖精王〉だから、だろ? 」

 サウィンはむすっと答えた。

 「だが、妖精が〈妖精王〉を歓迎するとは限らない。そうだろ? おれは〈妖精王〉がそもそもどんな由来のあるもんなのかも知らないが、人間が勝手に言い出したのかもしれないだろ……妖精ってのは、意地が悪いかおっかねえかって相場が決まってんだから」

 ジェラルドはこの一言に衝撃を受けた。言われてみれば確かにその通りだ。〈妖精王〉が人間と妖精の手を結び合わせてバルドラを統合するという予言が万が一成就するとしても、妖精たちの方でもそれを承知しているかどうかまでは分からないではないか。

 「さっきも言ったように、殿下を襲ったやつらを見たものはいねえ。これは、あの晩の状況を考えりゃありえねえことなんだ。そのうえジェラルド殿下が見つからないもんで、いろんな噂が出過ぎた……しまいには、側近のふたりが人間になりすました妖精だったとか言い出すやつまで出てきやがった。もう何が本当なんだか、誰にも分からねえのさ」

 口に出しづらいのか、サウィンはもごもごと言った。

 「ジェラルド殿下が見つからないのも、側近らと通じている妖精が異界へ連れ去ったからだとかどうとか――だから、ヴェルフリート殿下は異界へ乗り込もうとしているとかなんとか……あんたには、こんな話は信じられんだろう。だが、おれは一度――」
 「妖精を見たことがある」

 ジェラルドが言うと、サウィンは目を丸くした。

 「ああ、そうだ……どう見たって、普通の娘だった。なのに、おれの剣を蔓に変えておれを縛り上げたんだ……嘘じゃないぜ」
 「妖精はいるよ」

 ジェラルドはサウィンの背を叩いてやった。

 「僕も知っている――妖精がいることも、ジェラルド殿下の側近たちは殿下を襲っていないこともね。ありがとう、サウィン。ずいぶんいろんなことが分かったよ」
 「ああ……」

 サウィンは目をぱちぱちさせてジェラルドを見つめた。

 「あんた、まさか……いや、まさかな。そんなわけねえ」

 ジェラルドはサウィンと別れ、エレニアと落ち合うために城門で彼女を待った。考えなければならないことが山ほどあった――差しあたり、明日の深夜(春迎えの祭りは二日目の深夜、日付が変わる直前まで続く習わしだ)までに、側近たちを救出する方法を見つけ出さなければならない。噂の域を出た確かな情報を掴めたことで、目隠しされたまま剣を振らされるような正体不明の漠然とした不安は格段に減っていた。この成果を、一刻も早くエレニアとクーナに話したかった。ふたりとも力を貸してくれるに違いなかった。

 だが第一にジェラルドの話を聞いてくれるはずだったエレニアは、いつまで経っても戻ってこなかった。
 

 
 エレニアは祭りの人ごみでジェラルドを見つけられなかったのだろう。暗くなる前にやむを得ずひとりで帰ったのでは、と半ば祈るような気持ちでジェラルドは帰路を急いだ。日が落ちるまで待ったが、エレニアには会えなかった――彼女が故意に約束を反故にするとは到底思えない。

 祭りは世を徹して行われるから人目はあるものの、会えないままでは心配だった。おかえりなさい、先に帰ってきてしまってごめんなさいね、と少し申し訳なさそうに言う彼女が出迎えてくれるなら、ジェラルドはもうそれでよかった。

 しかし、スープを用意しながらジェラルドを迎えたクーナは、あら、と眉を下げた。

 「エレニアは一緒じゃないの? 」
 「まだ帰ってきていない? 」
 「お待ちなさい」

 返事も聞かずに帰ってきた道を引き返そうとしたジェラルドを、クーナはやんわりと留めた。

 「あなたが、女性ひとりで夜道を歩かせるような性格でないことは分かっているわ。はぐれてしまったの? 」
 「城で一度別れたんだ。誰かの使いが来て、エレニアに用があるって……僕は僕で、人に話を聞いていた。城門で待ち合わせたんだけれど、あまり人が多いから先に帰ったのかと思って……まだ城にいるんだったらもう少し待っていればよかった」
 「まあまだそんなに遅い時間ではないし、お城の誰かが呼んだのなら帰りは送ってもらえるはずよ。宮仕えをしている人ならそのくらいの気づかいはするわ――とにかく、一度帰ってきたんだから何かお飲みなさい。あなたが知りたかったことは分かったの? 」

 クーナは牛乳で作った温かい飲みものを注いでくれた。ジェラルドは甘い湯気を眺めながらも、城で襲ってきた焦燥をふたたび感じてうつむいた。

 「リヒャルトとユージーンが捕まっているらしいんだ……僕を襲ったのがあいつらだって疑われて」

 クーナはこれを聞いて目を丸くした。

 「あらまあ、ひどい濡れ衣ね」
 「あと……僕が見つからないもんだから、妖精に連れ去られたんじゃないかっていう噂まであるらしい。僕が襲われた晩の立ち番が、黒覆面を誰も見てないっていうんだ。それで、ちょっとおかしな噂になってるらしくて。妖精は妖精王を歓迎してなくて、即位させないために僕を連れて行ったなんていうんだよ。その手先がリヒャルトたちだったんだってさ。それで兄上が、妖精が住んでいる方のバルドラへ探しに行こうとしてるとかなんとか……」

 ジェラルドは確かに説明しようのない状況に身を置いてはいるのだが、側近たちが妖精の手先だった……などという暴論にはさすがに乾いた笑いを禁じえなかった。

 しかも、あの頭から爪先まで現実性と論理性の塊のようなヴェルフリートが〈妖精誘拐説〉を真に受けて、ジェラルドを異界に探しに行こうとしているなど。人の噂というのはこうもいい加減なものなのか。

 しかし、これを聞いたクーナは眉の辺りを曇らせた。

 「ヴェルは――ヴェルフリートは、あなたが妖精に連れ去られたと思っているの? 」
 「いや、そういう噂があったってだけさ。もちろん本人から聞いたわけじゃないし……あの兄上が、妖精や魔法を信じているとは思えないよ。〈妖精王〉にはいい思い出がないだろうしさ」
 「なぜそう思うの? 」
 「だって、兄上は僕のこと……きっと好きじゃないんだろうから。僕がいなければ、次の国王は自分だったんだもの」

 ジェラルドは何ということもなくそう言った。だがクーナはこの言葉に衝撃を受けた様子で、ジェラルドがたじろぐほどひどく悲しげな顔をした。

 「かわいそうな子……」

 それはどうやらヴェルフリートに向けられた言葉のようだった。ジェラルドはクーナの真意を掴みかねた。

 「でも、それはあなたのせいじゃない……ヴェルは自分にもあなたにも少し厳しくしすぎてしまったのね」

 クーナは涙ぐみ、頭を振った。

 「ルディ。ヴェルはね、〈災厄〉を見たことがあるのよ。まだ小さいときに」
 「〈災厄〉って……昔バルドラを襲ったっていう、魚の……? 」
 「そう。――あなたが生まれて、間もない頃だった。あの子がメリルと……あなたたちのお母さんとお城の近くの森を歩いているときに、土の下に封じられていた〈災厄〉の一部が姿を現したの。完全に封印が解けたわけじゃなくて、〈災厄〉からすればちょっと身動きしたくらいだったんでしょう。……でも、そのせいで大地は削られ、ヴェルを守ろうとしたメリルは死んでしまった。あの子の目の前でね」
 「………」

 ジェラルドは言葉が出なかった。母が森で不幸な災害に巻き込まれて亡くなったというのは多くの口から聞かされてきたが、まさかそこに〈災厄〉が関わり、兄がそれを認識していようとは。

 「〈魚〉は目には見えない災厄だから、ヴェルはそれが何なのかまでは分からなかったと言っていたわ。だけど、舞い上がる砂埃が左右に大きく動く透明な尾びれみたいなもので掻き回されるのを見た、ってね。……あの子はそれ以来、〈災厄〉の話や〈予言〉を信じるようになったわ。……というより――」

 飲みもののカップを両手で包んで手を温めながら、クーナは続けた。

 「……ここから先は、あなたも信じられないかもしれないけど。ヴェルはね、バルドラが分断される前に起こった戦争で命を落としたことがあるのよ。〈災厄〉を見たときにそのときのことを思い出してしまって、それから魔力を持つものを恐れるようになったの」
 「え? えーっと……兄上は昔のバルドラに住んでた誰かの生まれ変わりってこと? 」
 「あなたたちがそうであるようにね。小さいあなたがわたしに会いに来てくれたのと同じように、あの子もよくここへ訪ねてきたわ――ほかに相談できる人がいなかったのね」

 初めて知ることの連続にジェラルドは混乱していた。だがもしそうだとすれば、城で聞いた噂は単なる噂ではなく――。

 「それじゃ、兄上は本当に――僕が妖精に連れて行かれたかもしれないって……? 」
 「ヴェルは、妖精は人間とは折り合いが悪いと思っているからね。〈妖精王〉のあなたが妖精にとってはおもしろくない存在で、即位を妨害するために連れていった……と考えていてもわたしは驚かないわ。……もしかしたら、エレニアを呼んだのはヴェルかもしれないわよ。エレニアは妖精だから、妖精界への道を開く力を持っているかもしれない――それか、妖精に対する交渉材料になるかもしれない、って。わたしに相談に来るつもりだったけど、その前にお城でエレニアを見つけたから呼んだ……という可能性はあるわね」
 「兄上は、エレニアが妖精だって知ってるの? 」
 「一度だけ、この家で顔を合わせたことがあるのよ。そのときにヴェルは気づいたはずだわ」

 ジェラルドは困惑した。兄が思っていたような人物ではなさそうだということは辛うじて理解はしたものの、それでも積年の冷ややかな関係が、自分のために必死になっている兄の姿を思い描くことを徹底して妨げた。

 だが、今はそんなことを考えている暇はなかった。

 「春迎えの祭りがお祝いされるのは、バルドラの土地の魔力が大きくなる数日間……普段は完全に分断されているふたつのバルドラが、一年で一番〈近く〉なる日なのよ。――そしてお祭りが近づいてきたある日、あなたはお城からいなくなった。ジェラルドがもうひとつのバルドラへさらわれた……とヴェルは思ったのかもしれないわ」

 クーナは手近な本を取って開いた。彼女がこうして書物を扱うとき、開かれたページには必ずそのとき受け取るべき言葉が書かれているのだ。

 クーナが開いたのは説話集だった。左側のページに、剣を振りかざして醜い〈なにか〉を追い立てる馬上の騎士が描かれている。

 「『王子は、自分の宝を化けものたちが盗んでいったと信じて疑いませんでした。剣を持って化けものたちの国へゆき、自分の宝を返すようにと大きな声で叫びました。』ヴェルは、この王子と似た状況にあるということね。あなたを連れ戻すために、妖精の世界へ立ち入ろうとしている。〈化けもの〉相手に〈剣〉を持っていくのだから、交渉だなんて最初から無理だと思っているんだわ――一応、目的を伝えて相手の出方を見るつもりはあるみたいだけどね」
 「僕はここにいるのに? 」
 「あの子に確かめるすべはないわ」

 知るのが怖いような気がしながらも、ジェラルドは聞いた。

 「その話、続きはあるの? 」

 クーナは本を差し出した。ジェラルドは続きから目を通した。
 
 『本当は、王子の宝を隠したのは化けものたちではありませんでした。しかし化けものたちは自分たちを疑って攻めてきた王子に怒り、王子もまた化けものたちを恐れるあまり、兵を引くことができませんでした。化けものたちが自分の国に攻め入ってくるのが怖かったのです。王子と化けものたちは激しく戦いました。
 大地が割れ、水は濁り、風は毒に染まり、空は雷をはらみました。戦いの末に王子の国も化けものの国も滅びてしまい、あとに残るものは何もなかったということです。』
 
 ジェラルドはぞっとして本を閉じた。自分の顔から血の気が引いているのが分かる。この物語が、本当にヴェルフリートやバルドラの運命を暗示しているとしたら――。

 「これはあくまでこのお話の結末よ。ヴェルのしようとしていることが、この通りになるとは限らないわ」

 とクーナは言ったが、あまり希望の持てる状況ではなかった。

 せめて、自分が妖精のような力を持っていたなら。自分が確かに〈運命の王子〉であると自他に証明できる要素があったなら――彼は非力なままなのに、伝説の災厄と滅亡の危機だけが実在のものとしてぬるりと眼前に浮かび上がってきたような気がした。

 ヴェルフリートがエレニアを自身のもとに呼んだのだとすれば、妖精界への侵攻はすでに実行段階にあるに違いない。もはや一刻の猶予もなかった。

 「バルドラの土地の魔力は、明日の夜に向けてだんだんと高まっていくわ」

 とクーナはジェラルドを宥めた。

 「ヴェルはそれを知っているはず――実際に行動に移すとしたら、明日でしょうね」

 ジェラルドは考えた。サウィンが側近たちの処刑があると言ったのも明日。ヴェルフリートがエレニアとともに妖精界への侵攻をする可能性があるのも明日――。

 には、予言の王子のような大それたことはできないかもしれない。だが、おれにだって願いはある。

 そうだ。簡単なことじゃないか。

 「……クーナ。力を貸してくれないか」
 「もちろん。考えを聞かせて」
 「まず、早いうちにリヒャルトとユージーンを牢から出す。それから、兄上のところへ行って――なんとか、思い留まってもらう。おれがジェラルドだと証明できれば一番いいんだが……」
 「もしすでに二世界の境界が開かれて、戦いになっていたら? 」
 「……止める。間に割って入ってでも、止めてみせる」

 具体案は何もなかった。決意だけが先走った、蛮勇もいいところの無策だ。だが、仮に両者の間に割り込んで喚くことしかできなかったとしても、その役目すら他の誰にもできないことのような気がした。

 おれがやるしかないのだ。

 「危険な方法でも構わない。なにか、やり遂げる方法がないだろうか」
 「いいものがあるわ」

 クーナはどこからか古びた金属の指輪を持ってきて、ジェラルドの左手の人差し指にはめた。瞳を模した紫色の宝石を両手が抱えている――精巧で、不思議な意匠だった。クーナのものだとしたらジェラルドには華奢過ぎるかと思われたが、最初からそうするために用意されていたかのように、指輪はジェラルドの指にぴたりとはまった。

 「これは〈万人の指輪〉よ」
 「〈万人の指輪〉? 」
 「真似した人の姿を借りることができるの。今のあなたのように完全に変身してしまうわけではなくて、あなたを見る人の目に魔法がかかるというものよ」

 ジェラルドは信じられない思いで魔法の指輪をなでた。もはや、心を動揺させるものはなかった。自分の望みを自分に対して明らかにして決意を固めることが、これほど心境を変化させるとは思いもしなかった――武装するものを何ひとつ帯びていないのに身の安全を確信しているような、不思議な安堵感があった。

 クーナは続けた。

 「これがあれば、どこへ出入りしても咎められることはないわ。あなたの演技次第ではあるけどね」
 「リヒャルトたちは、多分地下牢のどこかだ。兄上とエレニアには、どこで会えるかな? 兄上はどうやって……」
 「実はね。ふたつのバルドラで、一箇所だけ共有している場所がお城の中にあるのよ。すごく魔力の強い場所だから、こちらから向こうへ働きかけたいならそこを起点にすると思うわ。バルドラ城の中でもかなり丁重に扱われている場所だしね」

 そして、クーナはその場所について詳しく教えてくれた。ジェラルドは耳を傾けて明日の計画を改めて練りながらも、クーナに尋ねてみた。

 「――あなたは、こうなることも分かっていたのか? 」

 クーナはほほえみ、いつかのときのように答えた。

 「分かっていたわけじゃないわ……どんな人だって、未来を完全に見通すことなんてできはしないのよ。必ず起こると決まっていることがあるとすれば、それは――」
 「おれに必要なこと? 」
 「その通りよ。――さあ、まず何か召し上がれ。お腹が空いていると力が出ないわ」

 クーナは温めたスープをよそい、ジェラルドに差し出した。そうしながら続けた。

 「〈必要なこと〉といっても、全部が同じ顔をしているわけじゃないわ。幸運に思えることも、無意味に思えることも、もちろん困難に思えることも、ある。びっくりするような不運に思えることもあるでしょう。だけどね、あなたにとって敵と思えるような試練がやってきたら、それは本当の敵じゃないのよ」

 ジェラルドは思わずパンを切る手を止めた。城にいた頃はやりたくてもやらせてもらえなかったが、クーナの家にいるうちに、ジェラルドにはできることがずいぶん増えていた。

 「敵でないとしたら、味方? 」
 「敢えて言うなら〈使者〉かしら」

 ジェラルドが半信半疑に聞いたのが分かったのか、クーナは声を立てて笑った。ジェラルドはぽかんとした。

 「使者? 」
 「そう。幸運を先導する運命の使者、よ」
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