トラモント

ユーレカ書房

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ふたり

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 この国には古くから〈三卿〉という独特の特権階級が存在する。いわば、国家による文化芸術への保護制度だ。詩作や作文に優れた詩卿、造形美術に秀でた画卿、音楽や舞台芸術に才を発揮する楽卿。才が認められれば王家の領地から〈みなし領地〉が与えられ、そこから得られる税収の一部が支給される。通常の貴族と同じような世襲は許されないが、一族の中にふたたび〈卿〉が生まれれば、財産を相続することができるのだ。

 フォーリ家はもっとも早い段階で詩卿を輩出した家のひとつだった。初代以降、代々優れた詩卿、ときには画卿や楽卿を生んできたために名門として財産を相続し続けているが、王家との関係の深さのわりに政治面での傑物は生まれたことがないという極端な家系だった。詩卿の妻を持ちながら自身は詩才に恵まれず、むしろ法曹や政治の才覚に優れていたために王都で重用されている現コラジ卿のような例は、フォーリ家にはなかった。

 文才に恵まれた詩卿は、かつて文官の業務の一部を兼任していたことから三卿の中でも格上の存在とされている。現在でも王宮に政治家として出入りしたり、国勢についての作品を手がける詩卿は少なくない。しかし、それはフォーリ家の人間にはまったく縁のない生き方であると言ってよかった。

 これまでこの城で営まれてきた生活のとおりに、エルドは詩卿としての創作の義務と権利を守って生きていた。世の中にはエルドのような人間とは真逆の、詩など一行も書けないが畑のことならなんでも知っている玄人とか、金銭の動きで世の中の流れを掴んでしまう知恵者とか、あらゆる病巣を体から取り除ける達人だとかがいる。

 三卿が備えている類の才能はこういった目に見える形の利益はもたらさない。自分はいったいどういう徳のためにこれほど何不自由のない暮らしを保証されているのか、と若い頃のエルドはずいぶん疑問だったものだ。だが、自分の考えを頭の中からもっとも美しい形で取り出すことで他者と分かち合い、ときには心を動かすことができると実感したときから、疑問は少しずつ誇りへと昇華されていった。……

 季節は秋へ移っていく途中でふと夏へ戻ったり、急に肌寒い方へ振り切れかけたりしながらも、実り豊かに深まりつつあった。エルドの部屋から見える中庭の楓が日ごとに〈燃えはじめる〉。生のままでは少しすっぱいリンゴや、熟しかけのイチジクが食卓に並びはじめる――秋のはじまりは、静かな詩想の気配に満ちている。特に、独特のもの寂しさや虚ろな雰囲気が特徴のエルドの詩とは相性がいい。

 エルドは秋のはじまりを喜ぶ九月の詩を作り、それを王都に届けなくてはならなかった。宮廷では、手紙を読むように回し読みされるかもしれない。勅選の詩集に取り上げられるかもしれない。あるいは、曲がついて歌になるかもしれない。先月、晩夏のホタルに寄せて作った詩は、作曲のための課題詩になった。旅回りの吟遊詩人たちを召し抱えるかどうかを決めるため、各人に曲をつけさせるのだ。

 あの曲はちょっと、あの詩の感じとは違うものだった。最終的に選ばれた旋律を聞いたエルドの感想はそんなところだった。本人しか知らないことだったが、これまでに彼が作った詩にはどれも彼がひそかに曲をつけていた。エルドはリュートが得意だった。曲をつけても違和感のない言葉を選ぶためにとはじめた手習いだったが、いまや本格的な趣味になりつつある。

 この日も、エルドは埃よけのためにかけてある布を外して愛用のリュートを持ち出した。すっきりと晴れて、暑くもないよい天気だった。一階から石段で中庭へ出て、あまり当てにならない鼻歌で調弦する。正しい音階が取れるとは限らなかったが、どうせ他には誰も聞きやしないという大らかな気楽さと、一度調律を変えてしまったら二度と弾けないかもしれないという儚さのために、エルドは不確かな調律でも自分の音楽をそれなりに愛していた。

 戸の鳴る音にまで七音のどれかを拾ってしまうような繊細な聴覚の楽卿が聞いたら卒倒するかもしれないが、ときどきは、弦と弦の合い間からドレミでは表せないような音が響くことがある。そういう再現の難しい音は大抵、赤と紫の間を百の色調に分けたときに二から九十九にある色のように、いい表しにくく、とても艶めかしい――とエルドは思っていた。

 ――やさし声もて歌える人よ、君の窓辺をリラがおおうよ。

 突然そう歌う声が遠く聞こえて、エルドは足を止めた。幻聴だろうか――天から降り注いでいるような、柔らかな甘い声。〈誰だろう〉ではなく、〈なんだろう〉と彼は思った。青い草を踏む爪先に、音を立てまいとして力が入る。耳を澄ましていなければ、たやすく途絶えてしまいそうだった。

 ――枝をたまえよ淡むらさきの、清き香まとう君の姿よ。

 よかった、続きが聞こえた。しかし〈彼女〉は先の詩を忘れてしまったらしく、気の抜けた、油断の気配に満ちた鼻歌が漂ってきた。そのちょっとした音の揺れにさえ熱心に聞き入っている人間がいることに、まだ気づいていないのだ。

 〈窓に入る灯のそのいろ柔く、縁取られたる君の姿よ〉。エルドは彼女の鼻歌に合わせて知らず知らず詩の続きを思い浮かべながら、木立ちの中を覗きこんだ。同時に、ほとんど無意識に動いた右手の指が、リュートの弦を一本ぽろんと弾いた。
 

 
 寝そべるということはしないまでも木の下で足を投げ出して、マルタにお小言を言われそうな態度で本を読んでいたものだから、サナは突然近くで聞こえた楽器の音に大いにびっくりした。黒っぽい格好をした紳士が、リュートを持ってこちらを覗きこんだのと目が合った――髪も黒いが、着ているものも黒い。死神みたいだわ、とサナは思った。だが、彼の両目だけは琥珀があしらわれたかのように淡い色をして、陽射しの中に輝いて見えた。

 〈死神〉は覗きこんだ先にサナがいるのに気がつくと、なぜかサナと同じくらいびっくりした様子で立ちすくんだ。しかし、一度鳴ったリュートは途切れることなく、一音一音をつなげて曲を続けた。首の上と下とで別人のようだ。上の空という感じでサナの方を見つめているのに、彼のリュートは実になめらかに鳴った。

 彼はサナが歌っていた曲の伴奏を繰り返して弾いている。続きを歌ってくれということらしい。本当に死神だとしたら逃げるべきだったのかもしれない――そうでなくとも、見知らぬ紳士とふたりで一体何をしているのかと思わなくもなかったが、サナは彼の演奏に乗ることにした。彼の方でもサナがいることは予想外だったようだし、まさか歌が終わった途端に非業の死を与えにきたとかいうわけではあるまい。

 窓に入る灯のそのいろ柔く……サナが思い出せなかったところを、彼は囁くように補ってくれた。尖っても、掠れても、割れてもいない。ただゆったりと波に似た抑揚のある、安らかな歌声だった。彼の声を聴きたくて、わざと口を噤んでみることもした。サナよりひと回り低い音域だったが、それでも男性には高いだろうという音まで、彼は欠くことなく発声してみせた。

 リュートの最後の一音が余韻を残して消えてしまうと、彼はこれ以上ないくらいバツの悪そうな顔をした。これから死を宣告することにためらいでも生まれたのだろうか? もし本当にそうだったらそれなりにおもしろいわ、とサナは思ったが、現実的に考えれば彼はフォーリ卿の友人の楽卿か何かで、友人の妻と――それも、朝方執事を通してしか言葉を交わさない妻と――秘めごとのような演奏会をしてしまったことが後ろめたいとか、多分実際の事情はそんなことだろう。現実というものは、大抵想像力によって思い描いたものより地味なものなのだ。

 「あの、ごきげんよう」

 黙り合ったままで立ち去ることができる段階はとうに過ぎていた。サナが話しかけた効果はてきめんだった。彼はぎくりとし、今初めて目の前の女性が人形ではないことに気がついたというような顔をした。唇の上の整った髭が、ぎくりと震える。

 「………あ、ああ、僕か。僕ですね」

 あなたは誰なのかとずばり尋ねるのが気の毒になるくらい彼はうろたえた。なぜだか、彼はサナを前にしてひどい緊張を強いられている様子だ。リュートを弾いていたときとは別人のようだったが、後先の心配より先に音楽に入り浸るとは、いかにも楽卿らしいとサナは好ましく思った。

 「ええと……せっかく訪ねてくださったのに、ごめんなさい。夫は、まだちょっと――お会いになれたかしら? 」
 「ああ、僕は……違うんです……」

 違う? この局面で違うと言われては、サナも困惑するしかない。だが彼の方でもうまく言葉が出ないらしく、赤くなったり青くなったりしている。一緒に歌まで歌ったくせに、今さら何をそんなに緊張することがあるのだろう。サナは努めて明るくほほえんでみせた。

 「そんなに固くならなくたっていいじゃない、死神さん」
 「し、死神……」

 彼はつっかえつっかえ復唱した。冗談を言われたことにも気づいていなそうだ。サナが何か言うたびにどぎまぎしているようで、語尾が少し震えた。

 ほら、とサナは彼が来るまで読んでいた本を開いて差し出した。〈死神と少女〉のページだ。

 「ずいぶん黒っぽい格好をなさってるから……それに、さっきまでここを読んでいたから、ついね」

 彼はサナの近くまで来て草の上に座り、本を見てなるほどという顔をした。そして、突然水を得た魚もかくやの饒舌ぶりで語りはじめた。

 「『枕辺の童話集』……ああ、この話か。懐かしい。僕も好きでしたよ。厳格な執行者でなければならない死神が、ひとりの少女の命を助けてしまう……何十年も干上がった湖の真ん中に縛りつけられるとは、規則を曲げた罰とはいえ、どんなに苦しいだろうと同情したものです」
 「でも、最後には生涯死神を探し続けた女性が彼の足もとで涙を流したら湖が蘇って、ふたりは天に昇っていくのよ――寂しいけど、いいお話だと思うわ」
 「そうですね。彼らの視点で見れば、十分報われたと言っていいでしょうね」

 彼は頷き、それから我が身を見下ろした。

 「確かに死神もかくやの無粋な格好ですが、僕は彼のように優しくない――第一、これでも人間なのです。一応ね」
 「まあ、それはごめんなさい。それじゃあ、この次の〈リュート幽霊〉でもないわけね」
 「僕には宝の在りかは知りませんね……残念ながら」

 彼は朗らかに表情を綻ばせた。彼もこの本が好きな子どもだったのだ。そして、今もそのときのことを忘れずにいるのだろう。

 自分と似た人と分かって、サナは嬉しかった。こんな人が夫だったら、どんなによかっただろう……。

 「あのね。リュートのお礼に魂をどうぞ、って差し上げてもいいのだけど、わたし夫がいるの。だから、先に彼に聞いてみたいわね」
 「…………何と聞きたいのかな? 」
 「わたしを止めてくださる? って」

 サナは他意なく、単に今死神に魂をやってしまうことになったら、夫はサナのことを少しくらい惜しんでくれるだろうかと考えてみただけだった。毎朝欠かさずに花を届け、サナに不自由させまいと病床で気を配ってくれる夫だ。涙に暮れるというほどではないにしろ、喪に服してはくれるかもしれない――などと考えていたせいで、目の前で青くなった男が行きずりの浮気や思い余った挙句の自殺を連想したことになど気づきもしなかった。

 彼はしばらく滑らかに動いていた舌をふたたびギクシャクと動かしながら言った。

 「……彼は、なんと答えると思いますか? 」

 サナは本のページをたわむれに指で弾きながら首を横に振った。

 「分からないわ……お会いしたこともないのよ。でも、毎朝お花をくださるから、死神に魂をあげるなんて言ったらさすがに止めてくれるんじゃないかしら」
 「フォーリ卿は、結婚式にも顔を見せなかったと聞きましたが……」

 サナはこのとき目を上げずにいたので、彼の一言は大変な努力の末にようやく口から出たものだとは分からなかった。ひと目でも見ていたら、その呼吸困難に陥った鯉のようなありさまで、彼が誰なのか見抜けたかもしれない。

 あの婚礼の晩のことは今さら思い出して傷つくというものでもなかったので、サナはあっさり頷き、何気なく言った。

 「ええ、そうよ。……彼、本当は結婚なんてしたくなかったんじゃないかしら? メリル伯母さまが勝手に話を進めたとは思えないけど……」
 

 
 当たらずとも遠からじ! サナがいかに鋭い洞察力を発揮しようとも、彼の心の悲鳴まで聞き取ることができないのは双方にとっての幸運だった。エルドは今後彼女との関係がどう動いていこうと、〈はっきり断らなかったせいで結婚まで話が進んでいた〉ということを彼女に勘付かせることだけは避けなければと思っていた。

 しかし、サナがあまりに淡々とそれに近いことを口にするものだから、君はどうなんだと考えずにはいられなかった。君は、どうして〈彼〉のところへ来た? 今は、どう思っている? 

 「君はその……帰りたいと思っているのかな? コラジ卿のところへ」

 分からないわ、というのがサナの答えだった。彼女が浮かべた笑顔は寂しげだった。

 「わたしね。突然縁談が来たものだから、意地を張って家を出てきてしまったの。お父さまが再婚して、跡取りがわたしじゃなくなったから、家にいてほしくないんじゃないか、って……」
 「……そうだったのか」
 「そんなことないって思いたかったけど、何が本当かなんて簡単には分からないでしょう? だから、結局………夫が顔を見せないことをみんなわたしに申し訳なさそうにするけど、先に失礼なことをしたのはわたしの方なの。だからきっと、罰が当たったのよ。どこにいたって、きっと……こんな、意地の悪い気持ちじゃ……」

 サナが涙ぐんだので、エルドは心底肝が冷えた。しかし、何とか慰めなければとあたふたしているうちに彼女はそっと涙を拭い、明るい笑顔を目元に浮かべた。

 「あなたは、このお城が好き? 」
 「――ああ、落ち着きますからね。……君にとっても、そうであってほしいと思います」
 「わたしも好きよ。歴史のある美しいお城だから、たまにびっくりするようなものが見られるし……このお城の書庫、本当にすばらしいの。それに、みんなとても親切にしてくれるわ。姿を見せない人さえも」
 「……優しい、ですか。君を放ったらかしにしている人が」

 サナはこれを聞いて首を振った。

 「放ったらかしなのは仕方ないわ。お熱が下がらないと――具合が悪いのは、彼のせいではないもの」

 面会謝絶なの、とサナはエルドが今の今まで忘れていた設定を突如突きつけた。彼は、

 「か……彼は、そんなに長患いなんですか。それは大変だ……」

 と息も絶えだえに言うのがせいぜいだった。

 エルドはサナの表情に注視したが、彼女は何かを察したというふうでもなく、ただ単にまだ見ぬ夫のことを案じている様子だった。

 「もしかしたら、何かお顔を見せられないわけがあるのかもしれないわ。確か、何かの本であったわね……とても美しい声を持っているのに、怖い顔のせいで地下に隠れ住むことしかできなかった人の話が」
 「……ああ、ありましたね」

 サナはしおれた溜め息をついた。

 「……わたし、ここにいていいのかしら? ……」
 「もちろん」

 エルドは自分の状況を忘れて、思わずそう応じた。

 「君がいいなら」

 サナはまじまじとこちらを見つめた。エルドは彼女と目を合わせることができず、指を結んだりほどいたりともてあそんでいるしかなかった。次にサナがどう出るか、分かる気がした。

 「……そういえば、まだお聞きしていなかったわ。お名前はなんとおっしゃるの? 」

 分かっていたのにもかかわらず、彼はその問いを真正面から受け止めた。もはや、目の前の女性を裏切り続けることはできなかった。

 「――エルド」

 自分で自分をけなしたいような、慰めたいような、少し祝福したいような気もしながら、エルドは名乗った。いまだかつて、名乗るのにこれほど緊張を強いられたことはなかった。

 「エルド・フォーリ……」

 ふたりが見つめ合ったまま何も言えずにいたのは、ほんの数秒のようにも、何分もの間であったようにも感じられた。黙っている間、サナもエルドも、自分たちの世界の外で何が起きているかを絶えず認識していた――雲が流れ、鳥が鳴く。

 風が彼らの間を吹き抜けていったが、ふたりを隔てるには透明すぎる力だった。あまりに透明だった。

 「……そう。そうなの」

 サナはやはりまじまじとエルドを見つめたが、それは先ほどまでとは明らかに違う感情を含んだまなざしだった。増えたものが何で減ったものが何なのかが詳細に分かったわけではなかったが、妙に重苦しい二役のずれからエルドが解放されたのは確かだった。

 サナはどこか呆けたような表情から、正真正銘の笑顔になった。

 「それじゃあ、もうお加減はいいのね」
 「ああ……」

 エルドは瞬きした。とても尊いことを言われたような気がしたのだ。目を細めたり見開いてみたりして、サナがこの世に実在する女性なのだと確かめてみもした。秋の詩情のせいだろうか――ふと彼女の背に、美しい羽根が見えたような気がした。

 透き通った青い蝶の羽根……ああ、この子は一体何ものだろう? 

 エルドは静かにほほえんでみた。

 「君が待っていてくれたおかげですよ」
 「それなら素敵ね」

 サナは秋の薄い陽射しの中で笑い声を立てた。エルドは初めて、サナが彼の想像よりずっと眩しい笑い方をするところを見た。もっと大人しく装った、口元に手を当てて品よく表情を隠してみせるような笑い方の女性なら、彼は何人も見てきた。だが、今日このときのサナの笑顔に勝る記憶はひとつもなかった。

 ――なんだ、簡単じゃないか。青い羽根のある、この子は妖精だ。

 もう一曲弾いてと、興味津々でサナがねだった。エルドはリュートを調弦しなおした。

 「何の曲がいいかな? 」
 「何か明るい――ええと、わたし、音楽はあまり詳しくなくて……」
 「そうか……それじゃあ、この辺りのお祭りでよく演奏される輪舞曲《ロンド》を弾いてみましょう。明るく華やかで、とても愛らしい曲でね」
 「歌詞はないの? 」
 「確か、リンゴが自分の将来を夢に見る……というような詞がついていたと。誰が作ったか分からない、本当に古い詞です。古くから女性たちが歌い継いできたと言われているから、マルタやニコラなら知っているかもしれませんね」

 エルドはことさら柔らかに弦をつまびいた。枝に実ったリンゴが赤く熟れて収穫され、パイやジャム、あるいは祭りの飾りに選ばれることを夢に見ている――行く先が違っても幸福に辿り着くリンゴになぞらえて、恋の喜びを歌った罪のない詞だ。もとは、農作業のときに歌われていたと聞く。

 娘たちはリンゴを収穫しながら、みずからを待ち受ける恋の運命や未来への希望を歌っていたのだろう。あちらにもこちらにもいい顔をしすぎたために虫や鳥につつかれ、最後には捨てられてしまう四番の〈不幸リンゴ〉にはなりたくないと思いながら。

 青い葉陰になっていた、姉さんリンゴが言いました。エルドは一度も歌ったことがなかったが、演奏していると頭の中で勝手に詞が再生された。

 あたしはいつか恋をして、優しい人の口づけひとつ、きっとほっぺにもらうのよ。

 そしたらきっと真っ赤になって、口もとろかす甘いあじ。

 おいしいジャムに、してもらいましょ。……

 〈優しい人の〉の区切りで、エルドはうっかり指をもつれさせた。その音の転びは思いがけず軽快な効果を音楽にもたらし、サナはそういう奏法があるのだと思ったのか、感心したようなまなざしをよこした。

 〈優しい人の口づけひとつ〉。歌わなくとも覚えてしまうくらい耳になじんだ詩句の意味が、このとき初めて理解できたような気がした。若い娘が夢見る初恋の甘やかさ――それはいい。それをそばで聞いているのがサナだというだけで、指先が狂ってしまったのだ。

 何を動揺しているのだ、とエルドは演奏に集中しようと頑張った。自分たちは夫婦なのだから、〈口づけ〉くらいでこんなに心を乱している場合ではない。関係を築きはじめるのが少し遅くなっただけで、これからの段階には〈口づけ〉以上も必ず含まれてくることだろうし、サナもそのくらいのことは分かっていて結婚を承諾したはずだ。

 だが目の前でエルドの演奏に耳を傾けているサナは、まっさらで純情な少女そのもののようにエルドには見えた。彼女が知らないうちに恋の曲を聞かせているということが罪に思えるほどに。二十五、六歳と聞いてはいたが、この際年齢など関係なかった。

 昨日までの状況と比べたら、今日は格段に進歩したといっていい。しかしこの先のことを考えて、エルドは少し途方に暮れるような気分を味わった。

 要するに、早くも欲が出てきたのだ。サナに愛される可能性があるかもしれないなどと、都合のいい夢を抱くのをあきらめなくてもよさそうだと気づいてしまったせいで。

 アントーニが聞いたら、何というだろう? 彼は口調こそ荒いが、上っ面だけの優しさはもたない正直な青年だ。顔は多分苦笑いで、容赦なくこう言うに違いない――馬鹿だなあ、あんた……と。

 ところが、じきに現実のアントーニがこの場に現われることになった。エルドを探しに来たジュリオとサナを探しに来たマルタが中庭で鉢合わせし――ジュリオの方が、訪ねてきたアントーニを連れていたのだ。意図せず夫婦が一緒にいる現場に出会ったアントーニは、馬鹿だなあ、とは言わなかった。

 「よかったな」

 あれこれ画策してみはしたものの、状況を打開することができずにいた使用人たちが、これは一体どういう風の吹き回しかと目配せを交わす。彼らが成しえたのは夫婦のリボンを毎日同じ色にするくらいで、それもまじないじみた淡い期待によるものだったのだ。

 アントーニはエルドの背を景気よく叩いた。

 「よかったな、エルド……」
 「いや、それが……」
 「いい、いい、みなまで言うな。どうせまだ何も解決してやしないってことは、傍から見てりゃよく分かる。あんたに悩むなっていうのは、太陽に冷やせっていうようなものだしな。……やあ、君がサナだろ。おれはアントーニ・メーディオ。アントンって呼んでくれると嬉しいな」
 「ごきげんよう、アントン……」

 サナは不思議そうな顔でエルドとアントーニを見比べた。あまり友人らしく見えないとでも思っているのだろう。

 「ふたりはお友だちなの? 」
 「そう」

 エルドは頷いた。

 「彼は画卿です。僕の友人ですよ」
 「ただひとりの、だろ」
 「それは困ったな」
 「こういうご友人でございます」

 ジュリオがサナに耳打ちしている。ええ、よく分かったわと、サナが笑った。

 「ほら見ろ、可愛いって言っただろ」

 サナの笑顔を見たアントーニが脇腹を小突いてくる。続けて、彼はエルドの身なりを見下ろして眉をひそめた。

 「あんた、またそんな死神みたいな格好してるのか……それでご婦人を口説こうなんざ、いい度胸だぜ」
 「会えると分かっていたら僕だってもう少しましな格好をしましたよ」
 「どうだかな……まあ、あんたたちがこうやってちゃんと顔を合わせたとなっちゃ、今日ばかりは邪魔できないな。おれはこれで退散するよ」
 「何か、僕に用があったのではないのですか? 」

 ぽかんと聞き返すと、アントーニは眉を寄せてエルドを罵った。

 「あほう、もうすぐ昼どきだろうが――せっかくサナと顔を合わせたのに、いつもどおりおれと食卓を囲む気か? 」
 「いや、しかし……ほとんど初対面の女性ですし……突然昼食になど誘うのは失礼にあたるのでは――」
 「……いや、あんたの嫁さんだろうが! 」

 マルタの方でも、サナを昼食に呼びにきたらしい。サナが今日の献立を聞いて歓声を上げる――鮭の蒸し焼きとキノコのスープ。クルミのパン。リンゴのタルト。実に秋らしい食卓になりそうだ。

 男たちが小声でああでもないこうでもないと囁き交わしているのを尻目に、サナは明るく言った。

 「みんな、早く行きましょう。冷めちゃったらニッカたちに悪いわ」

 エルドとアントーニは口を噤んだ――サナは、この場の全員を食卓に促しているのだ。ごく自然に、なんのためらいもなく。マルタとジュリオが頷いている。彼らは女主人の味方らしい。

 「おれも一緒でいいのかい? 」

 アントーニの質問に、サナはかえって不思議そうな顔をした。

 「どうして? フォーリ卿に……エルドに会いにいらしたんでしょう? 夫のお客さまを追い返すわけないじゃない」

 当然のようにそう言われ、エルドは言葉が出なかった。ついさっき顔を合わせたばかりの男を〈夫〉と呼び、その友人までもてなそうとする度量。城の女主人としてはごく当然の対応だが、今のエルドにはとても感動的な展開だった。

 アントーニは笑って頷いた。

 「……そりゃそうだ。あんたもそれでいいな、フォーリ卿」
 「妻の望みとあらば叶えないわけにはいきません」

 咄嗟に寛大な城主のふりをした――〈妻〉という言葉は、意外にすんなりと口をついて出た。〈詩卿〉と同じくらいに、晴れがましい誇りを伴った響きだった。
 

 
 翌朝、ジュリオが届けてくれる花はサナの目に触れずじまいだった。彼が来る前に、サナがエルドと会うことになったからだ。

 「九月の詩を書かなくてはならないんです」

 花が終わりかけたバラの木の間を歩きながら、エルドは言った。サナだけが、肩掛けをかけて隣を歩く。初めて夫と対面したことの感動は眠っても冷めず、マルタに起こされるよりも早く目が覚めた。起き上がり、ふと窓から外を見下ろしたとき、エルドが庭を歩いているのが見えたのだ。サナが立てた物音など聞こえるはずもないのに、不思議なことに彼はサナを振り向いた。そして、こっちへ降りておいで、と〈言った〉。手振りも、言葉もなかった。ただ、そう言われていると分かった。

 サナは尋ねた。

 「何を題にお書きになるの? 」

 エルドはサナを見てほほえんだ。

 「そうですね……いいところまで決めてはあるんですが。ただ、なにぶん研究不足でね」
 「研究不足? 」
 「そう。――君は信じますか? 」

 エルドは指先でバラの葉を撫でた。恋人の頬に触れるような手つきだった。

 「妖精、というものを」

 妖精? 夫が何を見てこの題を思いついたのか知る由もないサナは、突如投げかけられた問いかけに口元をほころばせた。彼女は、妖精が出てくる物語をごまんと読んできた――もしエルドが妖精を織り込んだ詩を書くのなら、ぜひ読んでみたい。

 「見えたらいいのにって考えることはあるわ。――あら、あなたの手元に! 」
 「おや、イトトンボですね。あれも〈小さな誰か〉の乗りものなのかもしれない」

 サナはエルドの横顔を見つめた。彼女は、彼の作る詩が好きだった。結婚前には怖い人だったらどうしようなどと考えたこともあったが、今となっては詩文から彼の姿が想像できなかったことの方が不思議な気さえした。

 起床して間もないエルドは緩く波打つ髪を簡単に結っただけで、長い前髪が顔の半分に影を作っている。そのまま眺めていると、淡い琥珀色の瞳がするりと動いてこちらを見た。唇が持ち上がり、ほほえみを作る。

 「ん? 」
 「あ……ええと、あなたって案外吊り目なのね」
 「意外かな? まあ……確かに、アントンあたりからはよく言われますよ。詩を作っていると別人のように見えるとね」
 「お話していると、とても朗らかそうに見えるわ」
 「ふふ。生温きほほえみの下に、何が隠れていると思う? 」

 エルドは笑いながら、尋ねているのだかただ呟いているのだかという声で言った。サナと言葉を交わしながらも、心はすでに深く詩作に向かっている――そんな雰囲気だった。

 彼はこうして、あの美しい詩を作るのだ。サナは面はゆいような気持ちを味わいながら言った。

 「〈親しみと悩みとが、隠れているのだと思う〉……なんて」
 「すばらしい。まさしく、秋にふさわしい表現ですね。なにしろ初秋の詩ですから、夏の気配を脱した雰囲気を――君がいうような、柔らかい感情を表現したいところではあります」
 「秋って、どうして少し寂しいような感じがするのかしら」
 「これから冬になる前の、最後の陽の名残り――そんな季節だからでしょうね。何かの〈終わり際〉というのは、寂しいものです。しかし一方で、九月や十月は一年で一番実り深い時期でもある。二律背反の愛すべき季節でもありますね」
 「あなたは、いつもこうやって詩を作るの? 」
 「いろいろですよ。机の前に座っているばかりではだめだし、外をうろつけばいいというものでもない。ひらめきは気まぐれなものだ。詩想さえ持ち合わせていれば、人間は――」

 エルドは城壁の切れ目から見下ろした。下は波が打ち寄せる海岸だ。ふたりがいるところから石段が続いており、直接海岸へ降りていかれるようになっている。

 「監獄の中ででもあの空を見出す。ああ――見てごらん。空に天使の梯子がかかっていますよ」
 「こんなところから海が見えるのね……」

 海は不思議な響きの波音を立てながら、荒れる気配もなく、ひたすら憂鬱そうな顔をしている。霧が立ち込める早朝では海はきらめきなく色褪せ、灰色に翳って見えるからかもしれない。天からの細い陽射しは、際立って輝いて見えた。

 波打ち際を若い女性がひとり、父親らしい紳士につき添われて寂しく歩いている。彼女は胸を病んでいるのではないか――サナはなぜかそう思った。

 「……サナ」

 とエルドが呼んだ。その顔があまりに心細げで、サナはほほえんだ。先ほどまで〈詩卿〉にふさわしい、落ち着き払った優雅な詩人そのものだったのに、妻の名ひとつに瞳を揺らす。なんてちぐはぐな印象の人かしらと、サナはおかしくなった。

 自分で呼んでおいて、エルドはサナに見つめられるとぱちぱち瞬きした。

 「君は、自分で詩を書いてみようとは思わないんですか」
 「わたし……」

 サナは目をしばたたいた。

 今度は、エルドがサナを見守る番だった。彼はどうやら、相手が慌てるほど落ち着いてくるたちらしい。

 「コラジ家は、優れた女性詩人を輩出してきた家柄です。君にだって十分素質がある――こうして言葉を交わしているだけでも、よく分かりますよ」
 「……わたし、自分で詩の勉強をしてきたの。お父さまが再婚するまでは、わたしが次の当主だと思っていたから……お母さまみたいに、詩卿になれるくらいにならなくちゃと思って」

 サナは頬を赤らめた。エルドのような素晴らしい詩人に、自分のような素人の詩作事情を説明するというのは思いがけず気恥ずかしかった。

 「でも、誰かに見せたこともないし……全部、家に置いてきちゃったし」

 エルドの言葉は優しかった。

 「詩でも絵画でもそうですが、サナ。資質のないものは、その分野に興味すら持たないものなんですよ。挑戦してみようという気概自体が、才能があるという証なのです」

 彼は〈愛してる〉と言うのとなんら変わりない声で言った。

 「僕は、君を詩人として育てたい……君が嫌でないなら」

 返事の代わりに、サナは少し先を歩く夫の手をふいに握った。エルドにいつまでも余裕しゃくしゃくの年上ぶりを発揮させておくのは癪だったのだ。

 彼の手は一瞬熱いものに触れたかのように強張ったが、そこから少しずつ時間をかけて、指が一本ずつサナの手を包んでいった。
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